第十八話『犬飼雲雀の怪談』
母屋から離れへ、長い縁側を歩きながら夕焼けで赤く染まった境内へ目を向ける。子どもの頃はこの光景と時間が苦手であった。
燃えるような赤を背に、寺の階段から黒いものがひょっこり顔を出してきそうな気配。夕方と夜はできるだけ足元だけを見ながら足早に駆け抜けた思い出がある。そんな事を思い出しながら歩いていると鳥の鳴き声に混じり、遠くの方で子どもの声が聞こえた。
ふと、思い出す。
あの時も同じであったな、と。
◆ ◆ ◆
「裏山に俺たちの居場所を作ろうぜ」
ある日、学校から帰る前に友人の1人がそんな事を言い出した。秘密基地ではなく居場所と言うところに一味違うものを感じていた。その言葉に惹かれ、その友人と遊ぶ約束を交わした。
集合場所は学校の裏手にある小さな山だった。山といってもハイキングや登山をするようなものではなく本当に小さな、それこそ雑木林といっても良いくらいの場所。時期になると地元のお年寄りが山菜取りに入るくらいありふれた場所でしか無かった。
子どもでも迷うことは無い。何せ入ってからまっすぐ突き進むだけで別の道路に出ることが出来てしまう。そんな山でも子どもにとってはちょっとした冒険でもあった。
学校から家に戻り、カードや携帯ゲーム機を詰め込んだリュックサックを担いで家を飛び出る。横にくっついている小さなお守りが自分の持ち物であることを示す名札代わりであった。
約束を交わした友人が先に山の入り口の前で待っていた。全員が揃ったところで山へ入る。目指すはそれなりに広く、木の多い場所。途中で見つけたビニール袋や千切れたシートを持っていけば屋根代わりに出来るだろう。当時は場所や景観にこだわりはあれど、完成度や精度を求めることは無かった。雨や風を少しでもしのげる程度の屋根か子ども数人が入ることのできる狭い空間があれば満足であった。
自分達で作った休憩場所で流行りのゲームをする。飽きたらかくれんぼや鬼ごっこ。
良くも悪くも大雑把。だからこそ楽しい。
場所選びも楽しみの1つだ。定番の場所を避け、いつもと違う藪の中を進む。ちょっとした非日常感が探検しているような錯覚に陥る。
暫く歩いていると丁度よい場所を見つけた。
そこは一際広い空間。朽ちかけた鳥居と古い神社。そこにいた誰もが見たことの無いと話していた。
突然目の前に現れたものに対し言い知れぬ恐怖感はあったが、友人の手前、弱音を吐くことは出来なかった。1人、また1人と鳥居をくぐり、その先の社を目指す。最初に付いた友人の1人が社の扉を開ける。がたがた、ぎしぎしと音を立てながら硬い扉の向こう側を露わにする。
「‥‥‥なんもないわ」
その言葉の通り、社の中は畳張りの部屋でしかなった。4、5畳程度の広さであっただろうか。昔は祭壇が置かれていたと思われるところには畳の変色があり、埃の薄い部分があることが僅かに分かる程度。社の中身を他の場所に移してから相当時間が経っている事が推察された。
「眺めが良いからここにしようぜ」
「じゃあ、あれやろうぜ」
「おう、相手をしてやるよ」
「望むところだ、かかってこい」
友人たちは思い思いに社を陣取り、自宅から持ってきたゲームを始める。後は好き勝手にやるだけだと言わんばかりに遊びに没頭していた。
そんな中、1人の少年は神社の一角を見つめていた。
「なぁご」
猫だ。黒い猫が遠くの草むらからこちらを見ている。思わずその猫の近くへ行こうとしたがそれは出来なかった。
猫の尻尾が動いたと思った瞬間、見えた。
―――蜈蚣のように蠢く無数の手。
「ひっ‥‥‥!?」
がりがり、がりがり、と。地面と草を掻き毟る。
猫は背後の様子に気が付かない。いや気が付く必要がない。あれは撒き餌だ。
表の可愛さに興味を惹かれた人間がその裏へと引き込まれる。まるで蟻地獄のような空間。
少年の本能は1つの答えを出す。
あれに捕まったら終わり。
暑くもないのに冷たく不快な汗が流れる。
全身に鳥肌が立ち、その先の産毛が服の布をかりかりと擦る。痛みとも痒みともいえない感触だ。
だが目を離すことが出来ない。目を離した隙に足元を掴まれる。そんな嫌な予感がする。
「どうしたんだ?」
「っ!?」
左肩の重みと耳へ届いた声に驚き、身体が痙攣したかのように大きく跳ねた。
咄嗟に振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。早鐘を打つ心臓を宥めながら、安堵の息を吐く。ちらりと視線を向けた先に黒猫はおらず、
無数の手の気配も完全に消え去っていた。
「ふぅぅ‥‥‥びっくりしたぁ‥‥‥犬か熊でもいるのかと思ったんだよ」
「こんなところにいる訳ないだろう、早く行こうぜ」
横を通り過ぎながら社の方へ向かう彼に続き、社に陣取っていた友人達に合流する。今見たものを一刻も早く忘れたかったからだ。リュックサックからゲーム機を取り出し、セーブデータを起動させながら冒険の続きにのめり込む。友人達とああでもないこうでもないと言いながら攻略を進める事が好きだった。友人達に囲まれながら、レアアイテムを手に入れた時の高揚感はひとしおである。
暫くは社の中と外の境界線に座りながら、遊びに没頭した。社から見える神社の境内は赤く染まっている。燃えるような赤の中、黒い染みのようなものに気が付いた。
「‥‥‥ねえ、あれなんだろう?」
「良く見えないな。悪いけど場所を替わってくれないか?外に出るから中に入ってくれ」
「うん、分かった‥‥‥」
両肩の重みを感じながら社の中へ身体をずらす。
先程よりも赤い風景に溶け込む友人の背中を見つめつつ、恐る恐る黒い染みの正体を尋ねてみた。
「ねぇ‥‥‥何だった?」
「‥‥‥あれはまえになかまにしたやつだよ」
「え?」
「きみもぼくたちとおなじになろうよ」
瞬間、黒いものが両肩を無理矢理掴み、そのまま社の奥へと引きずり込もうとする。先程まで畳しか無かった場所にぽっかりと穴が空いている。
そこから骨と皮だけの手や赤黒く爛れた手、不自然な色をした赤ちゃんの手やしわくちゃな手が伸びていた。
「ひゅっ‥‥‥ぁ‥‥‥っ!?」
一瞬だけ見えた穴の奥。そこには生きているものに助けを求める無数の顔が蠢いていた。
―――引きずり込まれたらこの世には戻れない。
「何!?‥‥‥いやだっ‥‥‥やめろぉ!?」
「みんなまっているよ、さあおいで」
誰もいない社の畳に爪を立てながら必死に抵抗を試みるが、それは時間稼ぎにしかならない。
ずりずりと身体を引きずられるとともに現世と距離が離れる感覚に陥る。
「いやだ‥‥‥そこにはいきたくない‥‥‥」
死にたくないという気持ちとともに脳裏に両親の顔が思い浮かぶ。それは温かく幸せな場所。
だが、二度とそこに至ることは無いと悟る。
「お父さん‥‥‥お母さん‥‥‥‥‥‥」
少年の必死で儚い願いは、見境の無い悪意にかき消されてしまう。既に片足が穴の中に入ろうとしていたからだ。
ぐしゃぐしゃに歪む視界の中、最後に思い浮かぶのは父母と同じくらい愛情を与えてくれた人物。
「‥‥‥‥‥‥むじなさま‥‥‥たすけて‥‥‥」
「うむ、承知した」
「‥‥‥あ」
優しく力強い言葉とともに少年の手がしっかりと握りしめられる。それはあまりにも細くて柔らかな手。
しかしその温かさは、死を目前にした絶望的な状況すらひっくり返す、絶対的な安心感を与えるものであった。
「まったく‥‥‥こんなところに来てはならんと‥‥‥いや、呼ばれたのか‥‥‥なら仕方が無いのぉ‥‥‥」
溜息を付きながらも、決して見捨てる気は無いと言葉の端々からひしひしと感じる。
少しずつ晴れてきた視界の先には、産まれた頃からずっと傍にいてくれた神様が微笑んでいた。
「うぁ‥‥‥あぁぁ‥‥‥むじなさまぁ‥‥‥ごめんなさいぃ‥‥‥」
「うむ。悪いことをした時は素直に自分の非を認め、きちんとごめんなさいと謝意を示す‥‥‥相変わらず雲雀は良い子じゃの」
とんでも無いことをしてしまった雲雀を怒るどころか優しく諭す。彼が悪意や悪戯心を持って行ったことでは無いと分かっていた。
「さて‥‥‥今となっては生者を死者の輪に引きずり込むものと成り下がってはいるが、元はお主らも人の子‥‥‥‥‥‥成れの果てを見る限り、その人生は誠に憐れなものであったろうよ‥‥‥」
未だに生者を諦めきれていない死者の塊に向けて、憐憫に満ちた視線を送る。
しかし、それも長くは続かない。
「‥‥‥だがの。犬飼家の人間‥‥‥特に雲雀を狙った事は許せんのぉ‥‥‥きっちり落とし前を付けてから黄泉に送ってやるわいの」
越えてはならない一線を踏み越えてしまった狼藉者に対し、八寒地獄もかくやといった冷たい視線を向ける貉。
畳に這いつくばる雲雀の身体を抱き寄せながら、片手で印を結ぶ。
無数の手は貉ごと死者の輪に加えようとするが、身体に触れることすら出来ずに次々と崩れ去っていく。その悪意の残滓を気にも留めず、穴に向かって悠然と歩みを進める。そして穴の縁を握りしめた瞬間、鏡の割れる音とともに穴が消えた。
穴の中にいた無数の何かは断末魔すらあげることすら出来ずに、この世から完全に消失した。
その後はそれまで充満していた死の気配が嘘のように無くなり、夕暮れの中で静寂を取り戻す。
「‥‥‥はぁぁぁ」
「おや?‥‥‥大丈夫か雲雀?怪我はしとらんかの?」
「は、はい‥‥‥ありがとうございました貉さま」
助かったという安堵から全身の力が抜けてしまう。怪我をしたのかと心配した貉は彼の背中に手を回しなが身体を支える。見たところ怪我はなく、本人もきちんとお礼を言えるくらい元気であったため、小さく微笑みを向けながら一安心する。
「良い良い、もう済んだことよ。それに雲雀は巻き込まれただけだからの」
「巻き込まれた‥‥‥?」
「うむ。雲雀のような力のある人間は引きこまれやすいものじゃ‥‥‥特にこういった場所はこの世とは違うところに繋がりやすい‥‥‥ここは儂も紺の奴も管轄外の場所でな‥‥‥丁度、縄張りの隙間と言うかなんというか‥‥‥ま、今ので完全に祓ったから、もう安心じゃよ」
「‥‥‥あの人達は」
「あやつらはとっくの昔に死んでおるが‥‥‥それに気が付いていないのであろうな‥‥‥飢餓、火災、水害、病、水子‥‥‥理由は様々だが、そういったものが集まって出来た死者の塊じゃ‥‥‥」
「‥‥‥消えてしまったのですか」
「‥‥‥ふふ、安心せい。例えるなら拳骨を一発くれてやった上で黄泉平坂的な場所に吹っ飛ばしてやったわい。この世でもあの世でもない‥‥‥いずれかに至ることの出来る場所じゃ‥‥‥まあ、身体は無いから結局はあの世に行くんじゃがの。頭を冷やしてから輪廻の旅に向かうだろうさ」
「‥‥‥では、もう苦しむ事は無いんですね‥‥‥」
「苦しみは人それぞれじゃがの‥‥‥雲雀は優しいのぉ‥‥‥ふふっ‥‥‥」
貉がいなければ彼等と同じものになっていたのにも関わらず、恨み言の一つも零さずに彼等が苦しまずに済むようになったことを静かに受け止める。自分では助けることも仲間になることも出来ないが、せめてその行く末だけでも願いたかった。
喜びとも悲しみとも言えない色々な感情の混ざった表情を浮かべる雲雀を見て、貉は思わず彼を抱きしめる。
「むぷっ‥‥‥むひなはまぁ‥‥‥はずかしいですぅ‥‥‥」
「元はただの獣とはいえ、神たる儂の抱擁じゃ。どうだ、悪くはないだろう?‥‥‥ふふっ」
「むぅぅ‥‥‥」
頭の上から掛けられる優しい言葉と温かく柔らかい感触に恥ずかしさとむず痒さを覚えてしまうが嫌な気持ちでは無い。寧ろ、頬に当たる大きな弾力とどこか甘い香りで頭がぼんやりしてしまう。
今よりももっと小さい頃に母親に抱きしめられた思い出と重なる。
「‥‥‥‥‥‥貉さまは優しいですね」
「永い時を過ごしておるからの‥‥‥お主ら人間とは器が違うわい‥‥‥」
子どもの純粋無垢な言葉に対し、神として当然だという言葉で返す貉。
一見、高飛車ととられかねない態度とは裏腹に、慈愛に満ちたものであることを雲雀には分かっていた。
「よし、そろそろ帰るか‥‥‥美鞠に事情を説明して、友人の家に電話をして貰わんとな。今頃、突然消えたお主を探しているかもしれんからの」
「‥‥‥はい」
自宅に帰る途中、友人達の事を貉から教えてもらった。なんでも雲雀から裏山に遊びに行こうと誘われたとのことであった。友人たちは雲雀の案に乗り、一緒に裏山へ向かった所までは良いが、そこから姿を消してしまったらしい。心配した友人が自宅に帰り、親に雲雀がいなくなった事を伝えてくれたそうだ。
「では、学校から帰った時から‥‥‥」
「遊びに行こうと誘ってくれた友人の顔を覚えておるか?‥‥‥そういうことじゃ」
「‥‥‥‥‥‥知らない子を、友達だと思っていました」
話を聞いてようやく思い出した。
”子どもの形をした何かが遊びに行こうと誘っていた事を“
”古い神社を見つけた時に、我先にと鳥居をくぐる黒い何か“
”社の中から這い出るどろどろとした濁った肉の塊“
今思うと、声を掛けられた時点で半ば向こう側に引き込まれていたのかもしれないと。
「まあ、雲雀が神社に足を踏み入れた時から気が付いておったがのぉ。ほれ、お主に渡したお守りがあるじゃろ?あれで場所も分かっておったから直ぐに駆けつけることも出来たんじゃ」
貉はリュックサックに付けていた特製のお守りを指で弾く。こういった事に巻き込まれてもすぐに対応が出来るように貉が作成し、雲雀に持たせてくれたものであった。
「まあ、紺の奴もここへ向かおうとしておったから途中で一声掛けてきたんじゃよ‥‥‥まったく、心配性な奴じゃ‥‥‥」
“戦争でもする気かの?”と呟きながら苦笑する。
死者の塊を相手にするにはあまりにも過剰過ぎる戦力だ。
だが、その話を聞いて雲雀は何だか温かい気持ちになってしまう。
「‥‥‥心配させてしまいました」
「そうじゃ。だから紺にも顔を見せてから家に帰ろうか‥‥‥後は美鞠にも謝っておくんじゃぞ?ま、儂の方からも説明しておくからそこまで怒られんと思うがのぉ」
「ありがとうございます‥‥‥助けてもらったお返しは必ずします」
「そうじゃな。雲雀が大人になってから期待するとしようかのぉ‥‥‥期待しておるぞ?」
「はい‥‥‥必ず」
手を繋ぎながら紫がかった夕日の中を歩く。
それまでは怖いと思っていた風景がとても温かなものに感じる。
この日を境に、雲雀は夕闇の怖さと優しさを少しだけ知ることが出来たのであった。
◆ ◆ ◆
「つまり、貉様が俺をケモナーに目覚めさせたんですよ」
「‥‥‥‥‥‥昔は純粋で可愛かったんじゃがのぉ‥‥‥どうしてこうなりおった」
雲雀は夕方のお勤めを果たすために貉のいる離れの部屋を訪れていた。
部屋に入って早々、畳に寝っ転がりながら無料動画を閲覧している貉に言い放つ。
貉も雲雀の奇行には慣れたものである。かつて純粋無垢であったものに憐れみの視線を送った後、心底惜しむような言葉を漏らす。
”なんでこうなったんだろうなぁ“そんな寂寞とした感情を覚えていた貉に対し、更に言葉を重ねる。
「いつかの約束‥‥‥忘れていませんからね」
「何の話じゃ‥‥‥怖い‥‥‥」
夕日の中を歩く幼い自分と、強く優しく慈愛に満ちた貉の姿を思い出しながら小さく微笑む雲雀。
しかし残念ながら、貉からは意味深な笑みを浮かべる只の変な奴にしか見えていなかった。




