第十五話『犬飼貉の昔話』
猫宮家の台所。ぐつぐつと鍋の中身が煮える音を聞きながらまな板の上の食材を刻む。下ごしらえは貉が担当していた。一定のリズムを刻む刃先には等間隔で裁断された食材が仲良く並ぶ。見た目も美しく、煮ても焼いても火の通りに偏りが無いことは明らかだ。次の料理に使う材料を刻み終えた貉は、魚の焼き加減を香りで確かめ鈴音に声を掛ける。
「鈴音、魚はどうじゃ?そろそろ良いかと思うが」
「貉様のおっしゃる通り、焼き加減は丁度良いかと思います‥‥‥引き上げますね」
「うむ。その魚なら冷めても十分に美味いだろうし、レンジで温めればなおのこと良いだろうよ。後、その煮物もそろそろ食べごろだ。火を止めて味を染みさせると吉じゃ」
一瞥しただけで料理の仕上がりを把握する貉の手際に舌を巻く。それもそのはず。出来上がった料理の一品一品が鈴音の舌と脳裏に”絶対美味しいやつ“と直接訴えかけているからだ。
「承知しました‥‥‥ところで貉様‥‥‥私の義母になりませんか?いえ、なって下さいお義母さま」
「なんでお主らは‥‥‥まあ、鈴音にそう思われれて悪い気はしないが‥‥‥‥‥‥だが、子どもと言うよりも孫とかそれよりももっと若いものを見る感覚だがのぉ」
鈴音の戯言に対し、拒絶するともなく優しく受け止める貉。実際には無理な話だが、それでも鈴音はなんとなく満足感を感じてしまう。
「‥‥‥お優しいですね、貉様」
「いや、普通じゃろ?紺なんぞ鈴音にべったりだし」
「確かにそうですが‥‥‥幼い頃から知っているとは言え、貉様にしてみれば私はよその家のものであるのに‥‥‥」
「寂しいことを申すな。雲雀は当然だが、鈴音も儂の庇護を受ける資格はあるぞ」
”鈴音も雲雀と似たようなものじゃ“と語る貉の優しさに触れ、思わず胸の奥が温かくなる。
「‥‥‥後で抱っこして下さい。ママ‥‥‥」
「ママじゃないが!?」
いつもどおり新鮮な反応を見せてくれる貉に一種の安心感を覚えつつ、今の状況について気になっていた事を尋ねてみた。
「それにしても貉様は何故こうもお料理が上手なのでしょうか?」
「んあ?‥‥‥上手かどうかは人それぞれだと思うが‥‥‥下手とは言われたことはないのぉ‥‥‥まあ、必要にかられて続けていれば自ずとこうもなるのさ」
貉自身、料理の腕を気にしたことは無い。単純に自分が食べて美味いと思った味を求めるだけであった。それに歴代の犬飼家の人間から不味いという話は聞いたことは無い。それだけで十分であろうという認識である。
「何かきっかけがあったのですか?」
「単純な話じゃ。食事というものに慣れてしもうての。獣の身であった時と同じような食事はもう摂れんのう‥‥‥」
「貉様は雲雀くんのお寺が出来る前からあの土地に住んでいらっしゃる聞きましたが、それと何か関係が?」
「うむ。紺の奴から聞いていると思うが、儂とあやつが獣であった頃からの付き合いでの。神へと昇華された時期はさほど変わりは無いが、祀られることになったのは紺の方が早い」
雲雀には話していたことであったが鈴音には話していなかった。料理をしながら過去の記憶を辿り、言葉を紡ぐ。
「紺が荒れておった頃、儂は1人で気ままに各地を彷徨っておった。ただ見るだけの存在から神に近しいものとしての身体を持った存在になれたのじゃ。黙ってぼんやりとするよりも動いた方が楽しいと思うての‥‥‥それは正解じゃった。なにしろ見るもの全てが新鮮でのぉ」
紺と同様に獣としての生を終えた後、現し世を眺めるだけの存在となっていた。違うところは彼女よりも早く現し世に降り立つことが出来た事と、生まれ育った土地から離れることに抵抗が無かった事だ。正統な神とも悪霊とも言えない中途半端な存在であった貉は、己の興味に引かれるまま各地を転々とし始める。
「良いこともしたし悪いこともした。その度に人々が畏れを向ける。畏れとは信仰に近しいものでな。そういったものが集まるにつれ儂の力も肥大していった‥‥‥まあ、天狗になっておったんじゃな」
言葉通り人を助けることも害することもした。現在の貉からは考えられない所業であるが、只々善悪の区別は無く『楽しい』ことに従っただけである。次第に人々は天衣無縫かつ傍若無人に振る舞う貉を荒ぶる神として畏れるようになっていった。
「あやかしやそこらの神とやらにも喧嘩売る毎日‥‥‥神となってから負け知らずの儂が、最後の相手に選んだのは人間‥‥‥犬飼家の初代じゃ」
数多くの畏れを受けた貉は手当たり次第喧嘩を売りまくる。人を食らうあやかしや人々に畏れられる神も関係なく、倒したものは数知れず。それに比例して畏れも増す。好き勝手に出来る程度の力を付けていた貉の鼻っ柱を折ったのは旅の僧侶―――犬飼家の初代である。
「どこぞの旅の坊主が儂を懲らしめるために根城にしていた山にやってきた‥‥‥たかが人間1人、儂の相手にもならんと舐めておったが‥‥‥いやはや、まさか拳一つで立ち向かうとは思うまいて」
「儂も適当に山の連中を差し向けての。それで死んでくれれば楽であったが、目論見通りにはいかなかった。そのことごとくを跳ね除けて、とうとう儂の眼前まで辿り着きおった‥‥‥」
霊山と呼ばれる山を根城にしていた貉も、無手で向かってくる僧侶を見た時は流石に驚いた。適当に山のあやかしを差し向けて排除しようとしたが、そのことごとくを拳で調伏し、いよいよ貉の眼前に現れる。
「儂もここまでやる人間は初めてであったからのぉ‥‥‥久方振りに愉しくなってしもうた。人間に倣って正々堂々受けて立ってやった‥‥‥だが」
「吹っ飛ばしても、叩きつけても、血反吐を吐きながら何度でも立ち上がってくるんじゃ‥‥‥しまいには呪いも効かん‥‥‥いやあ、おっかなかったのぉ‥‥‥‥‥‥あれ、化け物じゃ」
腕の一振りであやかしを根こそぎ薙ぎ払い、神ですら木っ端微塵にする膂力をもってしても僧侶は諦めない。
何度でも立ち上がってくる僧侶を見た当時の貉の驚きようは恐怖に近いものであった。
だが僧侶の方も人間としての枠組みを少し逸脱している程度には肉体と精神を鍛えていたため、さもありなん。
「‥‥‥で、今ではこのざまよ。只の坊主に負けた儂はそのまま引きずられるように山を下ろされ、そのまま坊主の旅に付き合うことになった」
最後の手段、狸寝入りや死んだふりを駆使しても無駄であった。文句の言いようも無いほど完膚なきまでにズタボロにされた貉は泣きべそをかきながら僧侶に引きずられていった。
その後、僧侶の旅に無理矢理付き合わされる事になった貉は何度も逃げようと考えた。しかし僧侶に負けた事がトラウマになっており逃亡寸前にいつも失敗してしまっていた。
「逆らおうにも坊主に負けたことがトラウマになっておっての。情けない事に坊主の指示に従うしかなかった‥‥‥だが、悪いことばかりでは無かったんじゃ」
粗食を良しとする僧侶であるが、貉にはそれなりに美味しいものを勧めてくれていた。獣や人間よりも美味しいものがあると教えたかったのだろう。それが貉の考えを大きく変えることになる。
「旅の道中、坊主に食わせてもらった飯が美味くてな‥‥‥何故こんなものがあるのかと尋ねると、人間が作ったというではないか」
「それまで食事はしなくとも良かったし、気が向いたら適当にその辺のものを喰らっていた儂には衝撃的であった」
「どうしたらもっと喰うことが出来るのかと尋ねるとの”教えてやるから自分で作れ“という。儂も新しい暇つぶしを探そうかと思っておったから素直に言うことを聞くことにしたんじゃ」
「‥‥‥最初は何度も失敗したが、坊主は黙って食べてくれての。それも嬉しかったのぉ‥‥‥」
元は料理とは無縁の獣であったため、火の扱い1つにも苦労した。料理とは呼べないようなものも量産したことも数え切れない。だがその全てを無駄にせず、僧侶と貉は残さず食べた。
”不味くても食べ物として作ってくれたものだ、仏と生命とお主に感謝して食べることにする“と語る僧侶の姿は忘れることが出来ない。自分で作ったものを一緒に食べる喜びをここで学んでいたのである。
「性に合っていた事もあって、数年でようやく一通りは作れるようになった。その頃には坊主は故郷に戻っておったが‥‥‥偶然にも儂の故郷でもあった‥‥‥つまりこの土地じゃ」
「坊主は寺を持っておらんかったから、この土地の隅で小屋を建てて、そこで仏の教えとやらを守っておった。お役御免となった儂は、犬飼寺のある土地に腰を下ろし、ひっそりと生活していたのじゃ‥‥‥」
数年間の旅を終えて腰を落ち着けるために選んだ土地は偶然にも僧侶と貉が生まれ育った土地であった。つまり現在の犬飼寺のある地域。
偶然にしては出来すぎているが、恐らく最初から僧侶と貉は出会う運命にあったとしか考えることが出来ない。
その頃にはすっかり落ち着いていた貉は僧侶と別れ、それぞれの生活に戻っていった。それなりに良好な関係を築いていたが、お互いに出会いも別れも一緒と考えていたため、旅の最後としてはとてもさっぱりしたものであった。
また、他にも気になることがあった。
「その頃、猫宮神社で紺と再会したが‥‥‥あれは坊主との出会いと同じくらいびっくりしたのぉ‥‥‥」
数百年ぶりに帰ってきた故郷には懐かしい顔がいた。それも神社の神として祀りあげられている。
その時の驚きようは計り知れないものがあった。
「‥‥‥出会った直後はともかく、その後何十年かは大人しくしておったよ‥‥‥本当じゃよ?‥‥‥‥‥‥でな、そんな日々を過ごしていた中で昔なじみの坊主が逢いに来てのぉ‥‥‥”寄進が集まったからここに寺を建てる、お前はここの守り神にでもなれ“と勝手に言ってきおった」
「まあ、断っても良かったが、その頃の坊主はあまりにも弱々しくてなあ‥‥‥分かっていたこととはいえ、人間の儚さをあれほど感じたことは無かった」
”仏に仕えるものとしてお前を殺すことはしなかった、ならその借りを返せ“とすっかり衰えた老人の身で言い放つ僧侶の姿に一抹の寂しさも感じたが、その瞳には若かりし頃の光が確かに残っていた。
「無茶苦茶な言い分じゃ、と思ったが、他にやることも無し。ならば奴の子孫に面白いやつが出てこないかと期待した儂はその申し出を受けることにしたのじゃよ」
永い時を過ごすために暇つぶしでも確保しておこうかと思った事も事実ではあるが、僧侶の子孫の行く末を見守りたいという気持ちも存在していた。その理由については数百年後にようやく臆面もなく公言できるようになったが、それまでは少しだけ気恥ずかしさもあった。
「おっきくてりっぱなお堂でも建ててもらおうかと思ったが、金が無いとあっさりと却下しおった。結局、儂の根城は犬飼寺の鎮守社とあの掘っ立て小屋だけよ‥‥‥儂、ちょっと不憫じゃない?」
畏れを受ける神から崇め奉られる神になるのかと淡い期待を込めて新しい根城を要求したが、その要求はにべもなく却下されてしまった。
ちなみに犬飼家の人間による貉への態度はこの頃から雑になっていた。
「とまあ‥‥‥儂の昔話も交えて、料理を覚えた理由を話した訳だが‥‥‥何か感想はないかの?」
「‥‥‥やはり貉様は素敵な神様です‥‥‥心の底から、そう思います」
「へぁ?何故?」
昔話を話しただけなのに畏敬の念を集めてしまい少しだけ困惑する。そんな貉に理解してもらえるよう改めて理由を説明する。
「紺様もそうですが、一度の縁で何百年も子孫を見守り続けてくれているんです‥‥‥そのおかげで、ご先祖さま全員が未練も後悔もない、幸せな生涯を送る事が出来たと聞いていますから」
「それは良かったのぉ‥‥‥」
「だからこそ、貉様も紺様と一緒に私達を見守っていてくださいね?」
「当然。お主らが死ぬまで面倒を見るつもりじゃ」
軽い気持ちで口にした言葉に対し、自信満々に返答されてしまう。嘘偽りの無い真っ直ぐな瞳に射抜かれた鈴音は心を鷲掴みにされてしまったかのような感覚に陥る。
そして貉が本気でそう思っていると理解した瞬間、涙腺が僅かに緩む。
鈴音の目元から流れる一筋の涙を見て、貉は慌てた様子で声を掛ける。
「‥‥‥‥‥‥あれ、泣いてる?‥‥‥ちょっ!?泣かんでくれよぉ!?‥‥‥何か悪いこと言ったかのっ?」
「‥‥‥いえ、そんなことは決して‥‥‥ただ、貉様のお言葉が嬉しくてつい‥‥‥」
目の前の狼狽した表情を見て、初めて涙を流していることに気が付く。はっとしながら涙を拭い、そのまま貉を安心させようと口を開いた。それが功を奏し、貉は安堵した表情を浮かべていた。
「はぁぁ‥‥‥なら良いんじゃ‥‥‥てっきり鈴音を傷つけてしまったかと思ったわい‥‥‥それに鈴音を泣かせると紺が怖いからのぉ‥‥‥本気で‥‥‥」
「‥‥‥」
「こら、無言で抱きつくでない。危ないじゃろ‥‥‥」
「‥‥‥すみません、つい‥‥‥」
思わず貉の腰に抱きつく。いつも通りの抱き心地に安心感を覚えるとともに少しだけ歪んだ愛情を彼女の身体に押し付ける。それすらも拒絶すること無く受け止める包容力に鈴音はつい甘えてしまう。
「はぁ‥‥‥ほれ、そろそろそっちの茶碗蒸しも良い頃合いだろう。悪いが引き上げてくれんか?」
「‥‥‥このまま、貉様がやって下さい」
「‥‥‥はぁぁ‥‥‥子どもみたいじゃのぉ‥‥‥」
そのまま背中に回り、貉の腰にくっつきながら身体を前に押す。端から見たら変則的な『いもむしごろごろ』のような姿勢。
溜息を付きながらも、腰に鈴音をくっつけたまま茶碗蒸しを入れた蒸籠に向かう貉の優しさを感じながら、頬に伝わる温かさを堪能することにした。
「むじなさまだいすきー‥‥‥はぁ、はぁ‥‥‥」
「‥‥‥自分に素直過ぎんか?‥‥‥‥‥‥まあ、雲雀も似たようなものだしのぉ‥‥‥」
己の性癖を隠そうともしない鈴音に脱力しつつ、健全な行為の範疇であれば好きにさせておく貉の姿は、人々の畏敬を受けるに相応しい立派な神様そのものであった。




