第十話『犬飼貉のご奉仕』
紺が神社へ帰ってからすぐ後、入れ替わるように雲雀が貉のもとへやってきた。額を流れる汗と荒い呼吸から全力疾走で戻ってきた事が窺える。
「ふぅ‥‥‥お待たせ致しました‥‥‥頼まれていたものです」
「うむ、ご苦労じゃった。ほれ、これで汗を拭くが良い」
息を整えた雲雀は大事に抱えていたものを手渡す。酒の一升瓶だ。ラベルには『狸酒』の文字と瓢箪を抱えた狸の絵が書かれている。町外れにある酒造で醸される普通酒だ。高価なものでは無いが薫り高く、芯のある味が愉しめる一品。下戸の酒好きである貉がちびちび飲むには丁度良いものであった。
貉から受け取った手拭いで汗を拭き首に引っ掛けた後、周囲を見渡す。
「ありがとうございます‥‥‥ところで紺様は?」
「今しがた帰ったばかりじゃ。惜しかったのぉ」
一升瓶を部屋に置いて戻ってきた貉は、今の雲雀にとって最も残酷な事実を告げる。
一瞬身体を硬直させた後、そのまま膝から崩れ落ちる。手足が汚れる事も厭わずそのまま地面を拳で叩いていた。
「くそっ‥‥‥俺は、いつも‥‥‥遅いっ!」
「せっかく拭いたのに汚してどうする‥‥‥まったく‥‥‥」
「いや、まだ俺には残っているものがあるっ!」
「うわぁっ!?びっくりした」
雲雀の身体を起こそうと近づいたところ、何の前触れもなく顔があげられる。思わずびっくりして後退った一瞬、メイド服の一端が僅かに持ち上がる。
「む?」
「‥‥‥見えっ‥‥‥ないっ‥‥‥!」
「はぁぁぁ‥‥‥‥‥‥阿呆じゃの‥‥‥」
先程よりも地面にひれ伏し、そのまま言いようのない残念な気持ちを抱えながら地面に拳をめり込ませる。
不可抗力と分かってはいるが雲雀のあんまりな反応を見て、只々深い溜息をつくことしか出来なかった。
◆ ◆ ◆
「さっぱりしました」
「わざわざ身体を洗ってきたのか‥‥‥」
「ええ、貉様に申し訳が立ちませんから」
「‥‥‥にしては先程は随分と無様を晒していた気がするが」
「不可抗力です」
「儂の台詞じゃぞ?‥‥‥まあ、下着の1枚や2枚見られても構わんが」
「ならもう少し良いものを着けてくださいよ‥‥‥」
雲雀は知っている。貉は基本的にはさらしと褌だが、洋服を着る際はきちんとした下着を着用している‥‥‥だが色はベージュ。年配者向けの色気もへったくれも無いものであると。
「年寄りに何を期待しとるんじゃ、お主」
「期待していなければそんな格好はさせませんよ」
「そうじゃった‥‥‥」
“こいつ、油断も隙もありゃしないの“と若干引いた目で見ながら呟く。しかし雲雀の方はその程度で折れるほどやわな育ち方はしていない。直ぐに本来の目的に立ち戻り、貉への要求を貫き通す。
「では早速膝枕を」
「それは構わんが、どうせなら縁側でどうだ?‥‥‥外の空気は気持ちいいぞ」
「是非」
「なら決まりじゃな。よっこらしょ‥‥‥よいしょ‥‥‥」
「‥‥‥ふりふりのメイド服を着ているのに‥‥‥何だか落ち着くなぁ‥‥‥」
メイド服に似合わない掛け声だと思いつつも、いつもの安心感を感じてしまう。“これだよ、これ”と言いたくなるが、言葉をぐっと堪える。今は茶々を入れず単純に膝枕を堪能したい。そんな雲雀の心境を知ってか知らずか、貉は残念なものを見るような目をしながら膝をぽんぽんと叩く。
「年寄りに期待するなと言うておろうが‥‥‥ほれ、こっちへ来い」
「‥‥‥失礼します‥‥‥おぉ‥‥‥おっ、おっ‥‥‥おほぉ‥‥‥!!」
「気持ち悪いからお口を閉じてくれんかの?」
「ふぅ‥‥‥ふぅっ‥‥‥ふぅぅっ‥‥‥!!」
「‥‥‥すまん、儂が悪かった。好きなようにしてくれ‥‥‥」
膝に頭を乗せた瞬間、興奮のあまり気持ちの悪い声を上げる雲雀。貉は正直な気持ちで口を閉じろと言うが、それはそれで気持ちの悪い鼻息が漏れ出てくる。“あ、駄目じゃこいつ”と瞬時に悟った貉はそれ以上何かを強制することを止めた。
「す、すみません‥‥‥あまりにも嬉しくて、つい‥‥‥」
「まあ、喜んでもらえて何よりじゃが‥‥‥ふぅ‥‥‥」
「‥‥‥ぁぁ‥‥‥癒やされるぅ‥‥‥俺が‥‥‥きえ‥‥‥‥‥‥る‥‥‥」
「何で浄化されておるんじゃ‥‥‥戻ってこーい」
なんとなく雲雀の頭を撫でてあげると、か細い声で馬鹿な事を呟き始める。心なしか雲雀の身体がほのかに光り、さらさらと風にさらわれる気がしてきた‥‥‥無論、気のせいだが。
「‥‥‥‥‥‥ぅ」
「‥‥‥ぬ?」
「‥‥‥すぅ‥‥‥すぅ‥‥‥」
「あ、寝よった」
それほど時間はかかっていないが膝の上から穏やかな寝息が聞こえ始める。疲れていたのか安心したのか‥‥‥それは分からないが、静かに眠る雲雀の横顔を見ていると子どもの頃の姿と重なる気がした。
「‥‥‥いつまで経っても愛い奴よ‥‥‥ふふっ‥‥‥」
思わず笑みが溢れてしまう。最近になってから阿呆な言動や行動が目立つようになっていたが、根っこの部分は変わらない。いつまでたっても素直な良い子。
「変わらないものも確かにあるんじゃのぉ‥‥‥」
こんな気持ちになれるのであれば時々甘えさせてやろうと密かに決める貉であった。




