第89話:三つ編み、女の幸せ、お尻に優しい馬車
「姐さん、アルベルト様一家が来たッス」
板張りの床を急ぎ足で叩く乾いた音が、静まり返った執務室の空気を震わせた。
年の瀬を目前に控えた、冬の鋭くも静かな午前。
窓枠の隙間から這い入る冷気は暖炉の火がもたらす熱気と混ざり合い、室内に奇妙な温度の境界を描いている。
机の上にうずたかく積まれた書類の束、その白く乾いた紙の面を、薄く平坦な陽光が斜めに照らし出していた。
羽織った冬物の衣服の袖を小さく擦れ合わせ、メリーは手元の書類に視線を落としたままである。
息を弾ませた赤毛の娘が、開け放たれた扉の向こうから半身を滑り込ませていた。
「は? 連絡役をよこすって話だったじゃない。何でアルが直接来てるのよ?」
視線を書類から動かさぬまま、メリーの指先が紙の端を静かに押さえる。
「先触れは貰ってるッスよ」
「聞いてないわよ!」
「ああ、そういえば言った覚えがないッスね」
娘の肩がわずかに上下する。
「あんた……。まぁいいわ。応接室に通してちょうだい」
「ッス」
赤毛の娘の姿が廊下の奥へと消え、後に残された執務室には、暖炉の中で爆ぜる薪の音が小さく響くのみとなった。
メリーは羽織の襟元を軽く整え、椅子の背から体を離すと、机の上の書類の角を揃えて立ち上がった。
高い天井と、足音を静かに吸収する厚手の絨毯が敷かれた石造りの廊下を渡る。
ひんやりとした空気が漂う廊下から、よく暖められた応接室の扉を開けた瞬間、鼻腔をくすぐる煎じられた茶葉の香りと、暖炉の熱気が一気に広がった。
室内にはすでに挨拶を済ませた主客の姿があり、いつものように勝手知ったる様子で、アルベルトが伴ってきた『海鳥』の娘たちが静かに茶を淹れ、注ぎ分けている。
王たるアルベルトが腰を下ろしたその傍らには、穏やかな面持ちのアンナマリー、その腕に抱かれた幼いデイヴィッド、淡い桃色の髪を揺らすアルマリアの姿があった。
「メリーちゃん!」
弾むような小さな靴音とともに、アルマリアがメリーの元へと真っ直ぐに駆け寄り、その冬物のスカートの裾を小さな手でぎゅっと掴んでしがみついてきた。
「アルマリアちゃん、元気してた? 風邪とかひいてない?」
メリーは身をかがめて、愛らしい王女の頭を優しくなでる。
「うん!」
元気な声を上げたアルマリアは、当たり前のような自然さで、腰を下ろしたメリーの膝の上へと収まり、ちょこんと座った。
アンナマリーは胸に抱いた乳児を腕の中で静かにあやしており、包まれた毛布の隙間から、デイヴィッドが「あうあう」と無邪気な声を漏らしている。
メリーは膝の上の幼子の柔らかな髪に指を這わせながら、正面の席に座る男へと視線を向けた。
「で? 今日はどうしたの? アル」
「ああ、今日は休みなんだ。とは言え、この寒さだろ? どこかに出かける気にもなれなくてな。近場のここに来た」
アルベルトは温かい茶器を両手で包み込むように持ち、湯気の向こうから穏やかな視線をメリーへと送る。
「そんな理由で……」
呆れたようなため息が、室内の温かい空気にわずかに溶けていく。
「一応、スラムの状況とかも聞いておこうとは思ってるぞ」
「一応って……」
メリーの溜息と同時に、その横で控えていたパトリックが、姿勢を正して一歩前へと進み出た。
「メリーちゃん、スラムの状況は私から説明いたします」
パトリックの落ち着いた重厚な声が室内に響く。
「ええ、お願いするわ」
メリーは頷き、自身の膝の上で大人しくしているアルマリアの、淡い桃色の髪を細指で静かに丁寧に編み始め、その柔らかな感触を手元に感じながら耳を傾けた。
パトリックは、冬を越すための支援体制や、北側のスラム街における区画整理、炊き出しの進捗を淀みなく話し始める。
さらに、現場に投入された王国騎士団や王国軍第三軍の規律ある働き、そしてセレスタイン領への円滑な住民移送の経過を、客観的な事実のみを揃えて説明していった。
アルベルトは随時質問を投げ、パトリックがそれに答える。
その淀みのないやり取りと報告の的確さは、すでにスラムの差配をパトリックに一任して何も問題がないことを静かに証明していた。
「状況はわかった。俺も顔を出そう。金を出している人間として、現地を視察しないのは投げっぱなし過ぎるからな」
茶器をテーブルに置いたアルベルトが、力強い視線をパトリックに向ける。
「是非そうしてください。軍人たちも喜びます」
パトリックは胸を張り、王の決定を歓迎する所作を示した。
「ああ、このあと、昼飯時の炊き出しに顔を出そう」
「このあと? それはまた急ですね」
不意の提案に、パトリックの眉がわずかに動く。
「さっきも言ったように、今日は休みなんだ。一日中ここで茶を飲んで過ごしていても退屈だろう」
「そうかもしれませんが、王妃様たちはどうするんです?」
パトリックが視線を向けた先では、アンナマリーが静かに微笑んでいる。
「ここで留守番させる。『海鳥』たちに任せておけば大丈夫だろう」
アルベルトが信頼を込めた眼差しでアンナマリーを見つめる。
「ええ、大丈夫よ」
アンナマリーは穏やかに首を縦に振り、周囲に控える『海鳥』の娘たちも音もなく一礼してそれに同意を示した。
「まだ昼までは時間がある。他の話をしよう」
「他の話って?」
メリーの指先が、アルマリアの髪を編み終え、その美しい三つ編みの端を優しく整える。
「これだ」
アルベルトは上質な冬衣の懐に手を差し入れ、一通の文書を取り出してテーブルの上に置いた。
それは特別に誂えられた極めて厚手の上質な紙で造られており、国家の機密文書のような重厚さをその表面に漂わせている。
「……何? また何か問題でも起きたの?」
その物々しい質感の文書を見つめ、メリーの瞳がわずかに細められる。
「問題……ではないな。だが、メリーにも関係ある話だ」
アルベルトが大きな手でその書面を広げ、暖炉の火に照らされた紙の表面に、かすかな影が落ちる。
「これはな、ヴォルガンからの案内状だ」
「ヴォルガンから!?」
驚きを含んだ声が、応接室の静謐な空気を震わせた。
──────
アルベルトが机の上に置いた文書を見つめながら、メリーは静かに息を吐いた。
その言葉の響きに含まれる重みを量るように、視線が厚い紙の書面に落ちる。
「来年の春に、『三国会議』が開催される。場所はガーディス商業国だ」
アルベルトの声は低く、落ち着いた響きを伴って応接室に流れた。
暖炉の火が時折小さく爆ぜ、室内の暖かな空気を静かに震わせている。
「『三国会議』……王国と帝国とガーディス商業国ね?」
メリーは首を傾げ、先ほどまで触れていたアルマリアの髪から細指を離した。
エメラルドグリーンの瞳が、アルベルトの顔を真っ直ぐに見据える。
「そうだ。第一回目の会場として、ガーディス商業国が選ばれた。そこで、建国記念の式典が同時に行われる」
「王国と帝国の王がガーディスに足を運び、祝い、認められるその『三国会議』こそが、ガーディス商業国の一歩目ってことね。気が利いてるじゃない」
メリーの口元に、微かな納得の笑みが浮かぶ。
その明確な指摘に、アルベルトもまた満足そうに深く首を縦に振った。
「そうだな。演出としては文句なしだ。ただ、今じゃなく、来年の春に実施される理由が『寒いから』ってのがイマイチだな」
アルベルトは苦笑交じりに応え、両手で包み込んだ茶器に視線を落とした。
窓の外に広がる冬の灰色の空からは、乾いた冷気だけが公爵邸の強固な壁を叩いている。
「それは最重要よ。裸族のアルには大した寒さじゃないかもしれないけど、一般人は命がけよ」
メリーはジト目を向け、自身の指先を小さく擦れ合わせた。
「大袈裟だろう。まぁ、寒い中で式典ってのはキツイよな。住民も参加するとなれば尚更だ」
アルベルトは肩をすくめ、応接室の天井を仰いだ。
「そうよ。民を苦しめる式典とか、あり得ないでしょ」
メリーはきっぱりと言い放ち、自身の膝の上で満足そうにしているアルマリアの体を優しく支えた。
「ああ、俺も、アンナマリーたちのお披露目とか、まだやってないしな。この寒さの中、王都でパレードとかあり得ないし……」
アルベルトは穏やかに微笑み、傍らで赤子を抱くアンナマリーへと温かな眼差しを向けた。
アンナマリーもまた、その言葉に静かな肯定の笑みを返す。
「話を戻すわよ。私にも関係がある話って、私も招待されてるの? 公爵として呼ばれているのなら、アイゼンハイドも?」
メリーは表情を引き締め、再びアルベルトへと視線を戻した。
「メリーだけだ。基本的には、国王とその側近、護衛しか参加できない」
「私だけ?」
不審そうにメリーの眉が上がる。
「そうだ。ガーディスに隣接するセレスタイン領の公爵であり、復興当時の総司令官であり、ヴォルガンをガーディスの王にした立役者でもあるメリーが呼ばれるのは当然だろう」
「ヴォルガンをガーディスの王にしたのは私じゃないわ。それをやったのはベルンとアルでしょ?」
メリーは肩をすくめ、その実績を当然のように否定した。
「ああ、その認識か……。いいけどな。それだけじゃない、三国の連携で進める事業の話もある。例の『国境大穀倉地帯構想』だ。メリーとサフィアン殿がいないと話が進まないだろう」
アルベルトは静かに微笑み、茶器を置いて身を乗り出した。
その言葉に含まれる構想の規模は、これからの大陸の姿を大きく変えるものである。
「その名前はどうなの? まんま『西側大穀倉地帯構想』と同じじゃない。帝国に作られたら『東側』になるわけ?」
呆れたようなメリーの問いかけに、アルベルトはわずかに目元を和らげた。
「名前はわかりやすさ優先だ」
アルベルトの短い返答に、メリーは小さくため息を漏らす。
「わかったわ。参加すればいいんでしょ、その式典に」
降伏を示すように肩を落としたメリーに、アルベルトは悪戯っぽい笑みを向けた。
「嫌なら嫌と言ってくれ。王命で強制参加させるから」
その理不尽な言葉に、メリーは即座に表情を険しくした。
「意味ないじゃない!」
「そういうもんだ。諦めろ」
アルベルトの軽妙なやり取りが室内に暖かな空気をもたらした、その瞬間だった。
それまで、アンナマリーの腕の中で静かにしていたデイヴィッドが、不意に高い泣き声を上げ始めた。
小さな泣き声が、よく暖められた室内に響き渡る。
「あらあら。おしめ? お腹すいた?」
アンナマリーは優しい手つきで乳児を抱き直し、あやし始めた。
その小さなお尻に優しく触れ、様子を確かめる。
「おしめじゃないわね。お腹すいたのね。『海鳥』、授乳をしたいのだけど、どこを使えばいい?」
アンナマリーが穏やかな視線を赤毛の娘へと向けた。
「食堂が空いてるッス。男どもは一階に来ちゃだめッスよ」
赤毛の娘の、その断固とした宣告に、パトリックが苦笑交じりに応じる。
「男どもって、男は私と陛下しかいないじゃないですか」
そのやり取りを背に、アンナマリーは抱いた赤子とともに、メリーと赤毛の娘を伴って応接室を後にした。
******
公爵邸の一階にある、広々とした食堂。
暖炉にかけられた大きな鉄釜が微かな湯気を上げ、室内に穏やかな温もりをもたらしている。
アンナマリーは椅子に深く腰掛け、胸元を少し緩めてデイヴィッドを抱いた。
幼い唇が温かな乳を求め、一生懸命に吸い始める。
その様子を、メリーと赤毛の娘が少し離れた場所から静かに見守っていた。
「あれ? アンナマリー様って、そんなにおっぱい大きかったッスか?」
赤毛の娘は、その豊かな胸元を覗き込んだ。
「子供ができてから大きくなったみたいね。自分でも驚いてるわ」
「なんっ……だと……!?」
メリーの口から零れ出たのは、呆然とした、そしてどこか衝撃に打ちのめされたような呻きだった。
エメラルドグリーンの瞳が、アンナマリーの豊かな胸元に吸い寄せられたまま動かない。
「姐さん、おっぱい大きくするために、子供を作ろうとか考えてるッスか?」
赤毛の娘が、メリーのあからさまな動揺を面白がるように軽口をたたく。
「……だって、私も……」
メリーは小さく呟き、視線を落とした。
アンナマリーと自分の胸の大きさを交互に見比べ、細い指先で自身の胸元を虚しく押さえる。
赤毛の娘は、メリーの葛藤から視線を外し、アンナマリーの胸元で小さく口を動かす乳児へと微笑みかけた。
「かわいいッスね、デイヴィッド君。こんなに一生懸命おっぱい飲んで」
「そうね」
メリーは小さく頷き、デイヴィッドの様子を静かに目を細めて見つめた。
その穏やかな光景を前にして、胸の奥で、以前に義姉が口にしていた言葉を思い起こしていた。
(いつか姉さまが言ってたわね。これも、女の幸せの一つ、か……)
メリーは声に出さず、ただ、幼子の顔を静かに見つめ続けていた。
──────
「出発します!」
パトリックの引き締まった声が、外から響いた。
重厚な木輪が、整備された石畳を静かに滑り出す。
車体の側面に刻まれているのは、再興されたセレスタインの紋章であった。
御者台にはパトリックが座り、巧みに手綱を捌いている。
上質な座席がしつらえられた車内には、メリーとアルベルト、そして近衛兵が二名、静かに腰を下ろしていた。
窓の外では、馬の背に跨がった近衛兵が二騎、車体に寄り添うようにして並走している。
「いい馬車だな。さすが王都の最新型だ」
アルベルトは座り心地を確かめるように、背もたれに体を預けた。
「そうね。乗り慣れたレグス商会のあの馬車は、ちょっとお尻が痛いからね。この馬車を支給してもらって一番喜んでるのは私のお尻よ」
「それは良かった。金を出した甲斐がある」
「ええ、助かってるわ。春になって、セレスタイン領に行く際も、この馬車なら安心だわ」
少女の視線は、滑らかに流れていく王都の街並みへと向けられる。
石造りの家々が後方へと去り、やがて景色は徐々に色を失い、荒廃した気配を帯びていった。
馬車の動きが緩やかに止まる。
王都の北側にの荒廃した街――スラムへと一行は到着した。
扉が開かれ、パトリックが差し伸べた手を借りて、メリーが、そしてアルベルトが地上へと降り立つ。
迎えたのは、現地の警備と指揮を任されている王国騎士団長であった。
「メリーちゃん、足を運んでくださってありがとうございま……す!? へ、陛下!?」
深く頭を下げていた騎士団長が、顔を上げた瞬間に声を裏返らせ、その両目を限界まで見開いた。
「驚きすぎだろう。近衛兵がいる時点で気付けよ」
アルベルトは苦笑いを浮かべ、軽く手を振った。
「はっ!」
騎士団長は慌てて姿勢を正し、胸元に拳を当てて最敬礼を捧げる。
「ここの視察をするのは初めてだ。色々説明してくれ、騎士団長」
「は、こちらへ」
騎士団長が緊張に満ちた面持ちで、温かな湯気を上げる炊き出し現場の天幕へと、王を先導していった。
「私はその辺を見て回るわ」
メリーはアルベルトの背を見送り、小さく言葉を投げかけた。
隣に並ぶパトリックに視線で合図を送り、二人は王の護衛から少し離れて、静かに歩みを進める。
少し前まで崩落した廃墟と悪臭が満ちていたスラムは、今や見違えるほど綺麗に片付けられていた。
危険な建物は取り壊され、整然とした幕舎が並び、身を寄せ合っていた住民たちの姿は、驚くほど少なくなっている。
「住民が減ったわね。みんな、セレスタイン領へ移ったの?」
メリーは周囲の空き地を見渡しながら、静かに問いかけた。
「そうですね。全員が全員そうではないですが、ここから立ち退いた住民は、大体セレスタイン領へ行きました」
パトリックは歩調を合わせ、穏やかな声で応じる。
「大体?」
メリーの眉がわずかに動いた。
「西へ移った住民もいます。アイゼンハイド公爵が受け入れをやっているので」
その丁寧な説明に、メリーは小さく頷く。
「やっぱり、北のセレスタイン領は寒くて人気無いのかしら?」
「元々、西側出身の住民は西に行くんでしょうね。人気のせいではないと思いますよ」
パトリックはメリーの心を和らげるように、柔らかな笑みを浮かべた。
「そう……」
納得したようにメリーの表情が和らいだ、その時だった。
遠くから、弾むような小さな足音が響いてくる。
「メリーちゃん!」
駆け寄ってきたのは、スラムの住民である小さな女の子だった。
防寒のための厚手の衣服に身を包み、赤くなった頬を綻ばせている。
「あら、そのモコモコの上着、カワイイわね」
メリーは屈み込み、少女と同じ目線で微笑みかけた。
「うん! メリーちゃん、モコモコの上着、ありがとう!」
先日、メリーたちが配ったモコモコのコート。
女の子は、そのモコモコを嬉しそうに撫で、元気よく感謝を口にする。
「その手袋も帽子も暖かそうね。よく似合ってるわよ」
メリーの手が、女の子の愛らしい帽子の端に優しく触れた。
「メリーちゃんの帽子と手袋も暖かそう!」
無邪気に笑う女の子と、他愛のない言葉を交わす。
その穏やかな時間の片隅で、数人の住民が困惑した表情を浮かべ、パトリックに近づいていくのが見えた。
「パトリックさん、実はあそこの建物なんだが……。どうしても取り壊しに納得がいかないと、強硬に反対している一家がいるんだ」
住民の一人が、縋るような視線をパトリックに向ける。
「そうか。住み慣れた家であれば、受け入れがたい気持ちも理解できる。だが、ここはすべて区画整理の対象だ。私が説得しよう。案内してくれ」
パトリックは手際よく、かつ力強い声で応じた。
その様子は、いつの間にか彼が住民たちから信頼を寄せられ、真っ先に相談を持ちかけられる存在になっていることを示していた。
「メリーちゃん、私は住民と話をしてきます。メリーちゃんは陛下と合流してください」
パトリックは姿勢を正し、メリーへと向き直った。
「ええ、あなた一人で大丈夫? 私も行った方がいい?」
「大丈夫です、任せてください!」
パトリックは確信に満ちた笑顔を残し、案内役の住民とともに、すぐさま小走りで現場へと向かっていった。
その頼もしい背中を、メリーは静かに見送る。
やがてその姿が見えなくなると、彼女は小さく息を吐き、アルベルトのいる天幕へと足を向けた。
天幕の入り口を潜ると、中では温かなお茶の香りが漂っていた。
中央の長机の上には、区画整理を描いた何枚もの大きな図面が広げられている。
アルベルトと騎士団長は、その紙面を覗き込むようにして、眉間に深い皺を寄せていた。
「やはり、立ち退きの問題は出ますね。強引に推し進めるわけにもいきませんし、時間はかかるでしょうね」
騎士団長が、困難を示すように図面の一角を指差す。
「それは最初からわかってた話だ。その分の余裕をもって計画をしているはずだぞ」
アルベルトは腕を組み、重厚な声を響かせた。
騎士団長が別の図面を引き寄せる。
指先がいくつかの区画を辿り、そこに記された数字や文字を一つずつ確認していく。
アルベルトもそれを覗き込み、ときおり短い言葉を返す。
紙をめくる音と低い話し声が、天幕の中に途切れず続いていた。
メリーはその様子を眺めながら、隅に置かれた椅子へと静かに腰を下ろした。
手渡された茶からは、白い湯気が細く立ち上っている。
胸の奥に、名付けようのない、ほんのわずかな寂しさが生じるのを感じながら、メリーは手渡された温かいお茶にゆっくりと唇をつけた。
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