第90話:お披露目、あなたがどうしたいかよ、肉を強奪する横暴な公爵
「あ、来たッスよ、アルベルト様たち」
赤毛が二階の窓から身を乗り出し、通りの先を指差す。
窓枠を白く閉ざしていた冬の凍てつく冷気は、いつの間にかどこかへ連れ去られていた。
王都の空には、春の訪れを告げる柔らかな光が溢れ始めている。
石畳を覆っていた硬い氷はことごとく解け、乾き始めた路面を、芽吹く大地の温かみを含んだ風が優しく吹き抜けていった。
通りを埋め尽くす民草の装いも、重苦しい冬の毛皮から、色鮮やかで軽やかな薄手の衣服へと様変わりしている。
人々の頭上を、陽光が黄金のように降り注ぎ、街全体を祝福するかのように照らし出していた。
開け放たれた窓の傍らに静かに佇むメリーは、その溢れんばかりの喧騒と、人波の波打つ様を静かに見つめていた。
十九回目の春の光が、その桃色の髪を優しく縁取っている。
「春になってすぐにお披露目をするあたり、アルの行動力は素晴らしいわね」
微かに唇の端を和らげ、メリーは通りの先へとエメラルドグリーンの瞳を向けた。
天蓋を取り払った豪奢な馬車が、集まった群衆から沸き起こる大歓声の渦をかき分けるようにして、ゆっくりとこちらへ進んでくる。
「そうッスね。姐さんも通りに出て手を振らなくていいんスか?」
「あの列にいたら埋もれるじゃない。アルも私に気付かないわよ」
メリーは首を小さく横に振り、古い漆喰の壁に囲まれた窓枠に、白く細い指先をそっと添えた。
彼女の言葉が示す通り、眼下の通りはまさに立錐の余地もないほどの人波で埋め尽くされていた。
新王の姿を、そして新たな時代の始まりを一目見ようと、民たちは押し合いへし合いしながら、熱狂的な歓声を空へと解き放っている。
やがて、最新型の美しい意匠を凝らした馬車の車輪が、乾いた石畳を鳴らし、規則正しい蹄の音を響かせながら、この館の前へと差し掛かった。
メリーと赤毛は、開け放たれた窓から上身を少し乗り出すようにして、ゆっくりと進む馬車に向けて、大きく手を振った。
民衆の歓呼に手を振って応えていたアルベルトが、ふと何かを感じ取ったように顔を上げ、こちらの二階の窓へとまっすぐに視線を留めた。
その隣に座る王妃アンナマリーも、そしてその小さな胸元で一生懸命に手を動かす王女アルマリアも、こちらに気付いたように、手を振ってくる。
「あ、アルベルト様たち、こっちに気付いたッスね」
赤毛が弾んだ声を上げ、さらに激しく手を振った。
「それはそうでしょう。ここの家の前を通って気付かないわけがないわ」
メリーは眩しそうに目を細め、ゆっくりと去りゆく馬車の背を見つめながら、静かに応じた。
「アルマリアちゃん、あんなに一生懸命手を振って……」
赤毛が、遠ざかる小さな王女の愛らしい姿を追いかけながら、手を振り続ける。
「可愛いわね、アルマリアちゃん」
メリーの声音も、自然と柔らかく、春の風のように和んでいた。
「あ、ジャックさんも手を振ってるッス」
馬車の側面にぴたりと付き添い、鋭い視線を周囲に走らせていた銀髪の従者が、すれ違いざま、誰にも悟られぬほどの極めて小さな動作で、こちらに向けてそっと手を振るのを、赤毛の目ざとい視線が見逃さなかった。
「ジャックは護衛の仕事に集中しなさい!」
至極まっとうなメリーの叱咤。
民たちの熱狂はさらなる大声となって王都の空に沸き上がり、幾重もの地鳴りのように響き渡った。
ゆっくりと進む馬車が館の前を通り過ぎ、歓声の波が次の街区へと移っていくにつれて、熱狂も次第に静まり返っていく。
二人は、アルベルトたちの乗った馬車が、波打つ人波の彼方へと消え、完全に見えなくなるまで、その背を窓辺から静かに見送っていた。
「これでお披露目も済んで、名実ともに国王ッスね、アルベルト様」
赤毛が窓枠に頬杖をつき、静けさを取り戻し始めた通りを見下ろしながらぽつりと呟いた。
「そうね。美男美女に贈るような黄色い歓声が混じっていたのが気になるけど、それも人気の一つよね。いいことだわ」
メリーは小さく息を吐き出し、微風に乱れた桃色の髪を、その白く細い指先でそっと耳の後ろへと払った。
「姐さん、何か寂しそうじゃないッスか? 思うところでもあるッスか?」
赤毛が不意に顔を覗き込み、怪訝そうにその細い眉をひそめた。
「そう? アルが国王として国民に受け入れられている。いいことじゃない」
メリーは窓の外から視線を外さず、ただ淡い微笑をその唇に湛えたまま、静かに答えた。
「それはそうッスけど……」
赤毛はそれ以上の追究を諦めるように、小さく息を吐いて肩の力を抜いた。
メリーは再び、遥か先、馬車が消えていった王都の街路へとその静かな視線を戻した。
すでに通りのどこを見渡しても馬車の姿はなく、それぞれの家路へと散り散りに去っていく人々の背が残されているだけだった。
それでも、彼女はしばらくその場所から動こうとはしなかった。
──────
お披露目の熱狂が遠い余韻となって王都に溶けた、数日後の夜。
セレスタイン公爵邸の執務室の窓を叩く夜風は、冬のそれとは異なり、どこか湿り気を帯びた春の闇を運んできている。
机の上には、幾束かの書類と、すでに革紐で頑丈に縛られた旅用のカバンが置かれていた。
春が訪れたなら自らセレスタイン領へと足を運ぶ。
そうレイモンド侯爵に書き送った約束の時が、目前に迫っている。
現地での復興と差配のすべてを彼に任せきりにしている以上、その目で状況を確かめ、公爵としての役目を果たすべきであった。
メリーは机の上の紙片を片付け、傍らの長椅子で大きなカバンを点検していた赤毛へと声をかける。
「赤毛、準備は終わってる?」
声をかけられた赤毛は、カバンの留め金を確認しながら顔を上げる。
「大体終わってるッスよ」
「『ガーディス商業国建国記念式典』の招待状は? アレを忘れると面倒なことになるわよ」
メリーは、執務机の引き出しから目を離さずに問う。
ガーディス商業国で開かれる式典と会議。
その門を潜るための極めて上質な紙で仕立てられた重厚な案内状は、この旅の最も重要な所持品の一つだった。
「忘れてないッスよ。というか、姐さんなら招待状無くても入れそうッスけどね」
赤毛はくすくすと笑い、鞄の中に仕舞われた招待状を見せる。
「そういうわけにもいかないでしょう。門の前で『ヴォルガンを呼びなさい!』ってやるわけ?」
「あー、それはちょっと如何なもんかと……」
門衛たちと新王の名を盾に押し問答をする光景を想像したのか、赤毛は苦笑いを浮かべて首をすくめた。
「忘れてないならいいわ。馬車の準備とか済ませておきなさい」
メリーの指示に、赤毛は背筋を伸ばす。
「明日の早朝出発ッスよね。『海鳥』は何人連れて行くッスか?」
「あんたも含め三人、うち一人は御者よ」
「えー? またあたしが御者ッスか?」
「交代すればいいじゃない。あんたが一人でやる必要はないでしょ」
「そうッスよね。では『海鳥』の用意をするッス。あ、それ以外の準備は全部終わってるッスよ。あとは馬車に積むだけッス」
赤毛はそう元気よく言い残すと、足早に部屋を出て行った。
扉が静かに閉まり、残された部屋には、メリーとパトリックの二人だけが佇んでいる。
パトリックは部屋の隅で、何かを躊躇うように視線を落としたまま立っていた。
メリーはその様子を静かに見つめ、声をかける。
「あんたは準備済んでるの?」
パトリックは肩を僅かに震わせ、視線をメリーへと戻した。
「それなんですが……」
パトリックの声音は低く、その言葉にはいつになく歯切れの悪さが滲んでいる。
「ん? どうしたの? 何かあった?」
メリーは眉を小さく寄せ、彼の表情を覗き込むように問う。
「何かあったわけではないんですが……。メリーちゃん、私は王都に残ろうと思います」
パトリックは真っ直ぐにメリーを見つめ、決意を秘めた目でそう告げた。
「そう。……でも、スラムの復興は、もう王国軍に任せて大丈夫なんでしょう?」
メリーは静かに言葉を返す。
「そうですが……」
パトリックは視線を少しだけ揺らし、しかし言葉を濁した。
「情が移った? 中途半端で投げ出すのは嫌?」
メリーは彼の内を見透かすように、静かに、しかし優しく問いかけた。
「まぁ、そのどっちでもありますね。住民の移送は完全に終了していない、区画整理も始まったばかり、中途半端ではありますね」
メリーは彼の心情を穏やかに紐解くように語りかける。
「わかるわ。でも、セレスタイン領の復興が私たちの主目的。王都のスラムの復興はその手段。だけど、気持ちは別よね。割り切れないんでしょう?」
「……はい、その通りです。中途半端に投げ出したくありません」
パトリックは力強く頷いた。
その視線は揺らぐことなく、ただ真っ直ぐにメリーを捉え返していた。
「いいわよ。スラムの復興もセレスタイン公爵としての仕事よ。あなたはセレスタイン家の人間として、携わり続けてもいいわ」
メリーの快諾に、パトリックの目が見開かれた。
「いいんですか? メリーちゃんの言うように、セレスタイン領の復興が主目的。セレスタイン領に移住した住民たちのことも気になります。ですが……」
パトリックは喜びと、領地への申し訳なさの間で言葉を詰まらせる。
「そうね。あとは、あなたがどうしたいか、よ」
メリーは彼に最後の選択を委ねるように、静かに言葉を置いた。
「……私は王都に残ります。セレスタイン領のことはメリーちゃんとレイモンド侯爵にお任せします」
パトリックは迷いを振り払った、澄んだ目でそう言い切った。
「いいわよ。あなたが王都に残る理由としては悪くないわ。いいえ、悪くないどころか、とてもいいわ。スラムの住民に寄り添ってあげてちょうだい」
「はい!」
パトリックは深く頭を下げ、その表情には晴れやかな決意が満ちていた。
こうして、パトリックはセレスタイン領へ同行しないこととなった。
──────
朝靄がまだ白く立ち込める、早朝の王都セレスタイン公爵邸前。
玄関横の車寄せには、再興した公爵家の象徴たる「黄金の鷲」の紋章を刻んだ、漆黒の重厚な馬車が静かに控えていた。
御者台には赤毛が腰掛け、車内には旅外套を身に纏ったメリーと、二人の『海鳥』の娘が乗り込んでいる。
「出発するッスよー!」
御者台から弾んだ声が響き、手綱が振るわれる。
まだ静まり返っている王都の石畳を、馬車はゆっくりと動き出した。
メリーは最新のクッションの柔らかな座り心地に身を預け、車窓を流れる薄暗い街並みを静かに眺める。
「メリー様はもうモコモコじゃないんですね」
対面に座る『海鳥』の娘が、メリーのすっきりとした旅外套に目を留め、微かに笑った。
「もうそんな季節じゃないでしょう。いつまでもモコモコのままいられないわ」
メリーは肩を小さくすくめ、窓から差し込む柔らかな春の朝光に視線を向ける。
「そんなこと言っといて、実はパンツが毛糸のモコモコだったりするんじゃないですか?」
もう一人の娘が、からかうように悪戯っぽく身を乗り出してきた。
「なんで知ってるのよ!?」
メリーは跳ねるように背筋を伸ばし、両手で慌てて膝の上を押さえる。
「それ、十九歳の淑女としてどうなんですか?」
「セレスタイン公爵様としてもどうなんですか?」
「うるさいわね! 見えなければバレないじゃない!」
メリーは頬を赤く染め、ぷいとそっぽを向いて窓枠に肘を突いた。
「「うわぁ……」」
娘たちは呆れたように顔を見合わせ、声を揃えて溜息を漏らす。
馬車は王都の北に向かって、静かに進路を取っていた。
大通りの立ち並ぶ石造りの建物の影に遮られ、ここからは王都の北に広がるスラムの様子を窺うことはできない。
それでもメリーは、そちらの方角をじっと見つめていた。
やがて馬車は堅固な北門をくぐり抜け、王都の外へと出た。
車窓を遮っていた石造りの壁が途切れ、視界が一気に開ける。
街道の両脇には、冬の終わりの荒涼とした気配から脱し、微かに萌黄色を帯び始めた広大な平野がどこまでも続いていた。
うららかな陽光が、冬を耐え抜いた若い麦の青葉に乱反射し、波のように煌めいている。
王都の煤けた空気とは異なる、生命の息吹に満ちた北の風が、軽快に走る馬車の車輪の音とともに車内へと流れ込んできた。
「ところで、メリー様って十九歳になったじゃないですか?」
窓から吹き込む春風に髪を揺らしながら、一人の娘がぽつりと問いを投げかけた。
「なに? あんた私の発育にケチでもつけるつもり?」
メリーは即座にジト目を向ける。
「そうじゃないですよ。なんで未成年のメリー様が、後見人もなしに公爵様になれたのかな? って」
「そういえばそうね。どういうこと?」
メリー本人も、たった今それに気づいた。
「アルベルト様が後見人なんじゃないんですか?」
「いえ、アルとヴォルガンと書類を交わした際に、後見人の話はなかったわ」
メリーはかつての調印の場を思い返すように斜め上を見る。
「えぇー!? それ、何か法の抜け穴とか使ったんですか?」
「人聞きが悪いわね。そんなことしてないわよ!」
メリーは不満げに眉をひそめて抗議した。
そうこうしているうちに、馬車は王都近郊の活気ある都市へと入っていった。
近郊都市の街並みは、街道沿いに朝早くから多くの露店が店を連ねて活気に満ちている。
軒先には春を祝う色とりどりの花飾りが揺れ、荷馬車や旅人たちが行き交う石畳の上には、焼けた肉の匂いや、脂の滴る音、蒸し上がったばかりの丸芋の温かな匂いが混じり合って漂っていた。
メリーは窓から顔を出し、御者台の赤毛を呼ぶ。
「なんスか? もう酔ったッスか?」
赤毛は振り返り、悪戯っぽく尋ね返す。
「酔わないわよ! せっかくだし、この街で何か食べ物とか買っていかない?」
「いいッスね。もちろん姐さんのお金ッスよね?」
「いいわよ。そのくらい出すわよ」
メリーが財布を出すと、車内の『海鳥』たちの目が一瞬で輝いた。
「ご馳走になります、メリー様」
「お肉!」
『海鳥』の娘が、拳を握りしめて力強く声を上げる。
「あんた、馬車で移動するだけなのに、肉が必要なワケ?」
メリーは呆れたように眉根を寄せた。
「いついかなる時でも、お肉は正義! 肉一択!」
「こんな朝から……。健啖家ね……」
メリーは額を手で押さえながら呟いた。
やがて香ばしい匂いを漂わせる串焼き肉や、鶏モモの一本焼きが車内へと運び込まれ、馬車は再び北へと進み出す。
閉め切られた馬車の中は、瞬く間に濃厚な肉の匂いで満たされていった。
「ちょっと! その肉、一本よこしなさい!」
メリーは辛抱たまらなくなったように、娘の手元にある肉を指差した。
「なんです? 朝からそんなに肉ばっか食わないわよ、って言ってたじゃないですか。ニオイでたまんなくなりました?」
「そりゃそうでしょ。そんなニオイを撒き散らされたら、誰だって食べたくなるわよ」
「ダメですよ。メリー様の分はありません!」
『海鳥』の娘は、肉の入った袋を守るように抱える。
「よこしなさい!」
「横暴だ―!」
車内の騒がしいやり取りを乗せたまま、馬車はセレスタイン領に向かって走り続ける。
窓の外では、春のうららかな陽光が街道を穏やかに照らしていた。
「あの……、いつになったら御者を交代してくれるッスか?」
一人寂しげに手綱を握り続ける赤毛の呟きは、馬車の走る音にかき消され、春の風に乗って虚しく消えていった。
最近、ニチアサ投稿のパターンが増えてきた
でも不定期更新です
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