第88話:土産、新たな二人の伯爵、最初の苦労は金で解決しろ
「レイモンド侯爵様、お待ちしておりました」
北の連峰が白銀の外套を纏い、威厳に満ちた沈黙を保ったまま領地を見下ろしている。
王都の華やぎとは切り離された、硬質な冷気が肺腑を刺す中、レイモンドは北風を連れて回廊を抜けた。
レイモンドは使い慣れた自身の館の匂いを吸い込んだ。
目の前には、主の帰還を待っていた『海鳥』の娘たちが、以前と変わらぬ淀みのない微笑を浮かべて立っている。
「うむ。私がいない間、領の運営をしてくれていたらしいな。感謝する。これは感謝と詫びを込めた王都の土産だ。受け取ってくれ」
差し出された大量の土産袋には、王都でしか手に入らぬ菓子や高価な茶葉、そして厳冬を凌ぐための上質な生地が詰め込まれていた。
「お前たちの趣味はわからん。気に入ったものがあれば使ってくれ」
老侯爵から無骨な感謝の言葉が述べられる。
「ありがとうございます。早速、この茶葉でお茶を淹れます。侯爵様は執務室へ」
柔らかな裾の翻る音が静寂を揺らし、娘は軽やかな足取りで厨房の方へと消えていく。
レイモンドは重い足を運び、主を欠いていた執務室へと足を踏み入れた。
窓から差し込む冬の陽光が、微かな塵を踊らせて室内を静かに照らしている。
主不在の間、ここは『海鳥』が使用しており、磨き上げられた机が執務室としての規律を物語っていた。
「まず、報告からしますか? 先に指示等があればそちらを優先してくれてもいいです」
『海鳥』の娘が、手際よく机の上を片付けながら問いかける。
「いや、まずは茶を淹れてくれ。お茶請けはさっきの土産でも使え。菓子は私の分は不要だ」
椅子に深く腰を下ろし、レイモンドは凝り固まった肩の力を抜いた。
やがて、湯気を立てる茶と、彩り豊かな王都の菓子が卓に並べられる。
見栄えを重視して選んだその菓子を前に、『海鳥』たちの瞳が輝いた。
甘い香りが執務室に満ち、張り詰めていた空気が僅かに弛緩する。
「さて、領の運営の報告の前に……私の親族たちはどこまで話を理解しておる?」
レイモンドの問いに、茶を供していた娘の手が止まる。
「それはマチマチですね。侯爵様になられたことは報告していますが、不逞貴族だったこと、アルベルト様に討たれずに生きながらえたこと、ヴォルガン元陛下にその能力を買われ、半年以上、王城の政務を回し続けていたこと……知っている人とそうじゃない人がいます」
「そうか……。メンドクサイな。いちいち説明したくない」
眉間に深い皺を寄せ、老侯爵は溜息を吐き出した。
「そうですね。侯爵様になられたこと、王命で王城の政務を回し続けていたことだけを説明しますか」
「いや、全部黙っておこう。知らん奴は知らんままでいい」
「うわぁ……。何と言うか、いっそ潔いですね」
『海鳥』が呆れるように言う。
「本当にメンドクサイんだ。なんだか、身内に武勇伝を自慢するようで気恥ずかしいではないか」
レイモンドはソファの背もたれに沈み込むように身を預けた。
「そうかもしれませんね。……で、この後どうなされますか? 領の運営に携わった面々をお呼びしますか?」
「そうだな、呼んでくれ。他領に応援に行っている者は呼ばんでいい。あとで改めて話をしよう」
「は。呼んできます。半刻後に集まるように言伝します」
一人の娘が音もなく部屋を後にした。
残された一人の『海鳥』は、レイモンドの正面にあるソファへと腰を下ろす。
その背筋を伸ばした座り方は、潜入時に見せていた、どこか抜けたところのある侍女のそれではない。
主の不在を守り抜き、広大な領地を差配してきた統治者の顔であった。
「よし、まずは相談だ。ここの東に伯爵領を造る。伯爵になるのは当家直轄の誰かだ。伯爵家のすべきことは、伯爵領を造る、東の荒れ地の復興、農場の造成、経営だ。誰が適任だと思う? 忌憚なき意見を聞かせてくれ」
「それを私に相談しますか。侯爵様不在の間、誰よりも責任をもって領の運営をした人物は誰だ? と聞かれていますか?」
「そうだ。私が不在の間、私の目に留まることなく、それでも活躍した人間こそが信用に値する。誰だ?」
「……ロベルト様ですかね。彼しか思い当たりません」
思った以上の即答に、レイモンドは眉を跳ね上げた。
「ロベルトか。彼は今、三十歳くらいか? 悪くないかもしれんな」
「そうですね。実務の手腕、計画性、決断力、人柄。これらを考慮すると、彼一択かと」
確信に満ちた娘の言葉に、レイモンドは短く頷いた。
「うむ。もう一つ、デムハイト領を任せられる人物は誰だと思う? あそこはアイゼンハイド領と隣接しているため、アイゼンハイドとの交流という重要な役割がある」
「……難しいですね。ですが、あえて言うなら、ニコロ氏ですかね?」
「ニコロ? 彼は領都の商会員だったか。なるほどな……」
手入れされた髭を撫で、レイモンドは納得の吐息を漏らした。
「侯爵様が何をやろうとしているのか理解しているつもりです。その方向性で間違いないかと思います」
「ああ、ひとまずそれでいこう。ヘルムート領とレイモンド領は、ヴェリウスから補充されるだろう貴族に任せよう」
「承知しました。新領主への引き継ぎは、我ら『海鳥』がやります。侯爵様は東の伯爵領の件に注力してください」
「うむ、よろしく頼む。すまんな、何もかもおんぶに抱っこ状態で……。君たちが優秀で助かった」
自嘲気味に笑う老侯爵を、娘は悪戯っぽく見つめた。
「おや? いつ気付いたんです? 我らが優秀なエージェントだって」
「あの時の、正装と執務服の時だな。飯を食って茶を飲んで寝ているだけの娘ではなかった。これからも頼りにさせてくれ」
レイモンドは苦笑いしながら答えた。
「いいですよ。でも、いつまでも我らがいるとは思わないでください。何人かはここに残るかもしれませんが、メリー様がレグスに帰るのであれば、我らも一緒に帰ると思ってください」
「わかっておる。……実を言うとだな、メリーちゃんが引退してレグスに帰るとき、私もレグスに移住しようと考えておる。年寄りには、暖かい地域での生活のほうが良い」
「いいですね。レグスからノルトヴァルトの温泉まで船ですぐ。オススメですよ」
この寒い冬の時期に、温泉の話は効く。
レイモンドは、まだ見ぬノルトヴァルトの温泉に想いを馳せた。
「いいな。長年の事務仕事で凝り固まった肩と腰に効きそうだ」
少し冷えた茶を最後の一滴まで飲み干し、レイモンドは空になったカップを卓に置いた。
──────
執務室の窓を打つ冬の風が、凍てつく硝子を震わせ、微かな悲鳴のような音を立てている。
一刻の時が流れ、室内の空気は澱み、暖炉の爆ぜる音だけが静寂を際立たせていた。
部屋の中央に置かれた重厚なソファには、領主であるレイモンドが深く腰を下ろし、その正面には『海鳥』の娘たちが、茶を嗜むような余裕を湛えて並んでいる。
それを取り囲むように壁際に立つのは、召集された親族や子飼いの文官たちであった。
座ることを許された外部の娘たちと、主の前で直立不動を強いられる身内。
視覚的に提示された明白な序列の差は、集まった男たちの矜持を静かに削り、部屋に奇妙な緊張を強いていた。
「大叔父様、現在参集できる面々、揃いました」
沈黙を切り裂くように声を上げたのは、一歩前に進み出たロベルトであった。
数多の視線が突き刺さる中、彼は僅かに顎を引き、凛とした佇まいを崩さない。
「うむ。急な話だったからな。他領に行っている者は仕方ない」
低く、重みを伴った声がレイモンドの喉から漏れた。
老侯爵は手元の書類から視線を上げず、ただ言葉だけを投げかける。
「は。まずは大叔父様、侯爵陞爵おめでとうございます」
ロベルトが恭しく頭を垂れると、背後の文官たちもそれに倣うように背を丸めた。
だが、レイモンドの表情に喜びの色はない。
「ああ、ありがとう。陞爵に伴い、ここは侯爵領になった。そこでロベルト、お前はここの東に伯爵領を造り、伯爵になれ」
執務室の空気が、一瞬にして凍りついた。
予期せぬ叙爵の宣言に、ロベルトの整った眉が驚愕に跳ね上がる。
「は? 私が伯爵に?」
「そうだ。陛下には話を通してある。また、セレスタイン公爵であるメリーちゃんの命令でもある」
レイモンドは、淡々と事実のみを告げる。
公爵の名が出た瞬間、ロベルトの瞳に宿っていた困惑が、覚悟の色へと塗り替えられていく。
「セレスタイン公爵の……。承知いたしました。あの荒れ地の領主になる、つまり、開拓しろということですね? どのような領にするかは考案済みですか? 私が考えてよいのですか?」
食い入るように問う若者の熱を、レイモンドは穏やかな視線で受け止めた。
「そこはメリーちゃんが図面を描いた。後で詰めよう。今はまず伯爵家の名前を決めろ」
即答を求める主君に対し、ロベルトは深く呼吸を整え、己の家名を口にした。
「はい。リーベル伯爵家で良いかと。そのまま私の姓ですが……」
「うむ。それでいい。この話の後でお前は残れ。その、リーベル伯爵家の役割を伝える」
「は。承知しました」
ロベルトは静かに後退する。
レイモンドの視線は次なる標的へと向けられた。
「次だ。ニコロ」
「はい」
名を呼ばれたニコロは、指先に力を込め、前へと進み出た。
商会という戦場で培われた鋭い眼差しが、老侯爵の瞳と正面からぶつかり合う。
「お前は、デムハイト領の領主になれ。そのままデムハイト伯爵を名乗るも良し、お前のオリーズ姓を名乗るも良し、だ」
放たれた言葉の意味を咀嚼するように、ニコロの口端が僅かに戦慄いた。
「私が領主に、ですか? 商会を辞めろとおっしゃいます?」
「そうだ。不満か?」
問うレイモンドの声は静かだが、拒絶を許さぬ圧を孕んでいる。
ニコロは目を閉じ、デムハイト領の情勢を瞬時に脳内で展開した。
「あ、いえ。しかし、デムハイト領というと、アイゼンハイド領、ヴォルフスブルク領、ギルガルド領と隣接している地。私の役割は、アイゼンハイド公爵との折衝役ですか……」
自らの役割を正確に言い当てた男に対し、レイモンドの口元に微かな笑みが浮かぶ。
「よくわかってるじゃないか。お前が任命される理由はそういうとこだ。商会で上を目指していたお前の夢を潰すことになるが、それでもこの話を受けてほしい」
レイモンドの手が膝の上の布を撫でた。
ニコロは深く膝を突き、その決意を言葉に乗せる。
「……承知いたしました。その重責、謹んでお受けいたします」
「急な話ですまないな。お前の意向を聞かず、勝手に決めてしまったが、それだけ重要な拠点なんだ。外部から補充される貴族には任せられん。よろしく頼む」
老人の瞳に宿る、一筋の温かさをニコロは見逃さなかった。
「は。承知いたしました。商会には事情を話し、退職いたします」
レイモンドは満足げに背もたれに身を預け、室内の者たちをゆっくりと見渡した。
「よし、緊急で決めたかったことは以上だ。他に何かあるか?」
「大叔父様、セレスタイン公爵に挨拶ができていません。公爵様はいつセレスタイン領に来られるのでしょうか」
ロベルトの問いに、レイモンドは再び硝子窓の向こうに広がる寒空へと視線を投げた。
「ああ、彼女は極度の寒がりだ。おそらく、春になるまで来ないのではなかろうかと踏んでおる。春にメリーちゃんが来た時に、何も進んでいないという状況は許されない。胸を張って挨拶できるよう、やれることをやっておけ」
その言葉は、集まった者たち全員への訓示となって響いた。
「承知いたしました」
ロベルトの声が重厚な壁に反響する。
「各員、ロベルトと二コロを支えてくれ。以上だ」
レイモンドの合図と共に、緊張から解き放たれた文官たちが退室を開始する。
重厚な扉が開閉するたび、廊下の冷気が執務室へ流れ込んだ。
やがて部屋に残されたのは、深い沈黙を纏うロベルトと、ソファに静かに鎮座するレイモンド、そして優雅にソファに座る『海鳥』の娘たちだけであった。
──────
室内に残ったのは、暖炉の火が時折爆ぜる音と、硝子窓を叩く冷たい風の音だけであった。
扉の閉まる音が静寂を深めた後、ロベルトは自身の立ち位置を確認するように室内を見渡した。
ソファには未だレイモンドが深く身を預け、その前方には『海鳥』と呼ばれた二人の娘が座っている。
「大叔父様、私はどこに座れば良いので?」
ロベルトの問いに、レイモンドは自身の傍らの空いた席を示した。
「私の横に座れ。――『海鳥』、メリーちゃんの描いた図面を出してくれ」
老侯爵の指示に応じ、一人の娘が音もなく立ち上がった。
彼女は執務机の上に置かれていた数束の紙を手に取ると、それらを卓の上に広げた。
「ロベルト、まずはこの図面を見てくれ。わからないことがあったら随時聞いてくれ。――『海鳥』、茶を淹れなおしてくれ」
「は!」
「承知」
短い応諾を最後に、娘たちは手際よく茶器を片付け、執務室から出て行った。
その間、ロベルトは卓上に広げられた図面に釘付けになっていた。
地図の上に引かれた無数の線、別紙に記された伯爵領の領都と周辺都市の区画図、そして定規で引かれたかのような街道と広大な農地の設計図。
彼の視線は紙の上を這うように動き、微かな震えがその指先に宿る。
戻ってきた娘たちが新たに淹れた茶の香りが執務室に満ちる中、レイモンドは湯気を立てるカップを手に取った。
「……大叔父様、これは……常軌を逸している。これを全部公爵様が?」
掠れた声で呟くロベルトに対し、レイモンドは静かに茶を一口飲み、カップを下ろした。
「そうだ。わかりにくいか?」
「いえ、そうではありません。現地の視察もせずに、地図上だけでここまでの物が……」
驚愕の色を隠せぬ若者の横顔を、レイモンドは静かな眼差しで見つめた。
「元々、何もない荒れ地だからな。必要なものを並べただけ、と彼女は言っておった」
「いや、これは……ありえない……」
言葉を失い、再び図面へと没頭するロベルト。
その視線が河川の分岐点や細かな勾配の記述で止まるのを見て、レイモンドは言葉を継いだ。
「彼女は天才だな。河川の治水、下水、用水路まで全部描いておる。地図上の高低差だけでここまで描けるものなのか……と思うよ」
「ええ、驚きました。私はこれを造るだけ、ですね」
少しだけ肩の力を抜いたロベルトに対し、レイモンドは僅かに目を細めた。
「そうでもない」
「と言うと?」
問い返すロベルトの顔に、再び緊張が走る。
「図面通りに造るだけでは足りん。後戻りできなくなる前に一度振り返れ、と彼女は言っておった。そのために、後戻りできなくなる地点を工程管理に組み込め、と」
レイモンドの言葉に、ロベルトはソファの背もたれに深く背を預けた。
彼は天井を仰ぎ、長く重い息を吐き出すと、茶を一口啜った。
「図面だけでなく、工程管理にまで精通しているのか……恐ろしいですね、我らが公爵様は……」
「それだけではない。そこの工事には王国軍第一軍が投入される」
「は!? 第一軍が?」
弾かれたように飛び起き、ロベルトは身を乗り出した。
戦うための剣ではなく、開拓のための鍬を握る軍の姿が想像を絶したのか、彼の表情には困惑が色濃く滲む。
「そうだ。お前が指揮を執れ。いいな?」
「……ちょっと待ってください。大叔父様、最初だけでも力を貸してもらえませんか? 途中で、必ず私が一人でやれるようになりますので……」
懇願するように見つめるロベルトの視線を、レイモンドは真っ向から受け止めた。
「いいぞ。安請け合いしないあたり、やはりお前はわかっておるな。春までに形にしようじゃないか。そこまでは私も現場で手伝おう」
「ありがとうございます。頼りにしています」
ロベルトが安堵の吐息を漏らしたその時、傍らで沈黙を守っていた『海鳥』の娘が、凛とした声を響かせた。
「では、レイモンド領の運営は、これまで通り我ら『海鳥』が引き受けます。手が空いた『海鳥』は現場に回します。よろしいですね?」
提案を受けたレイモンドは、迷うことなく頷いた。
「ああ、足元が崩れては復興事業どころではないからな。頼りにしている」
「はい、承りました」
娘たちの返答を聞き届け、レイモンドは再び重い口調で現実を突きつけた。
「ここ、レイモンド領には、王都からの労働力が送られてくる手はずになっている。彼らの面倒も見なければならん。やることは山積みだな」
「……まだあるのか。春までに形に? それ以前に、着手できるかが怪しく感じてきました」
項垂れるロベルトの肩を、レイモンドの言葉が叩く。
「動き始めさえすれば、あとは自然と流れていくものだ。最初の苦労は金で解決しろ。そもそも金は王国から出る」
「うわぁ……」
いっそ潔いレイモンドの言葉に、ロベルトは再び天井を見上げた。
レイモンドは窓の外を見る。
今はまだ、何もない荒れ地。
だが、そこには街道が敷かれ、水路が巡り、農地が広がり、一つの伯爵領が築かれる。
その設計図は、すでに完成していた。
この何もない荒れ地は、やがて王国北方最大の穀倉地帯へと姿を変える。
その最初の一歩が、今、踏み出された。
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