第86話:人件費、真のシュッとしたイイ男、アルマリアちゃんを生贄にしましょう
「メリー様、レイモンド領の『海鳥部隊』、到着いたしました」
厚手のコートを脱いだその下に現れたのは、見慣れた商会の制服であった。
王都の石畳を白く染める冬の冷気が、窓の隙間から忍び寄る昼下がり。
セレスタイン公爵としての威光を静かに湛える王都の邸宅へ、レイモンド領に深く潜伏していた『海鳥』の娘たちが、気配もなくその姿を現した。
暖炉の中で薪が小さく爆ぜる音だけが、静謐な応接室に微かな温度と心地よいリズムを刻んでいる。
外界の喧騒を遮断したこの空間に、北の地からもたらされた新たな風が吹き抜けた。
「おつかれさま。レイモンド領の運営状況を教えてちょうだい」
立ち上る琥珀色の湯気に目を細め、メリーは静かに紅茶を口にした。
白磁のカップをソーサーに戻す所作一つにも、淑女としての気品が際立つ。
「は。レイモンド伯爵領、いえ、侯爵領でしたか、そこは以前から潜入済みの『海鳥』が政務を回しています。元々いた執事と連携し、滞りなくレイモンド領を運営しています」
報告を聞いたレイモンドは、しばらく黙っていた。
彼は、己の館に住み着いた娘たちの、図太くも頼もしい背中と、彼女たちがもたらす確かな安寧を思い浮かべたのであろう。
「そうか。ありがたい話だな。私もこのあと領地へ帰る。彼女たちに王都の土産でも買っていかんとな……」
白髭を愛おしげに撫で、レイモンドはしみじみとした感嘆を漏らした。
王都から離れた北の地で、自らの不在を埋めるべく奔走する『海鳥』たち。
「あなたたちもレイモンド領の運営に携わってるの?」
メリーは首を僅かに傾げ、目の前の娘たちに静かな視線を投げかけた。
「交代で執務に当たっています。私たちは、『鉄屑の誓い』を監視する任務を終えていますので」
「ああ、そう言えばあなたたち、あの八百屋の親父を張っていた娘たちよね? 『呪いの人形』の報告に来た、あの時の……」
デムハイトの喧騒の中で繰り広げられた、奇妙で徒労な報告の夜。
当時の脱力しそうな空気感を思い出し、口元には微かな笑みが浮かぶ。
「はい。八百屋の親父、マルコさんについて行って、ガーディス自治区の復興にも当たっていました」
「そうなのね。ガーディスに行ってた『海鳥』たちはどうしたの? みんな王国に帰ってきたの?」
メリーの問いかけに対し、娘は表情を一つ変えることなく、事務的に現状を伝えた。
「はい。さすがに別の国となったガーディスに、王国の諜報員が居るのはどうかと……」
王国から独立し、ガーディス商業国として成り立った国に、復興支援の人員はいつまでもいられない。
「それはそうね。で? あなたたち以外にも『鉄屑の誓い』に張り付いていた『海鳥』がいたでしょう? 彼女たちはどうなったの?」
『鉄屑の誓い』を監視していた『海鳥』は複数人いたはずだ。
「旧ガーディス領、現セレスタイン領に散っていた『海鳥』は、そのままセレスタイン領に残っています」
「もう、監視対象もいないでしょう? 何をやっているの? セレスタイン領の『海鳥』たちは」
彼女たちは、任務を終えた後にどこに行ったのか。
機密に覆われた彼女たちの存在は、西の組織のトップであったメリーにすら隠されていた。
「レイモンド領と同じですよ。デムハイト、ヘルムート、メルキオール領は領主がいませんからね。『海鳥』が代理で運営しています」
さらりと言い放たれた言葉に、メリーは手にしていた茶器を危うく落としそうになった。
少女たちの細い指先が、領主不在の領地運営をこなしているという事実。
「え!? それはもう、セレスタイン領が『海鳥』に占拠されているのと同義じゃ……」
「……うーん、ちょっと違いますね。確かに我々は『海鳥部隊』ですが、ブラッドレイ子爵とジャックさんの下部組織ではなくなりました。今はセレスタイン公爵、レイモンド侯爵の手駒です。お金もレイモンド侯爵家から出ていますしね」
「え!? 初耳なんだが……」
レイモンドが目を丸くし、己の支配下にあるはずの資産の動きに、当惑の色を隠せない。
老貴族の驚愕を余所に、娘は淡々と事実を積み重ねる。
「ブラッドレイ子爵が言ってましたよ。レイモンド侯爵配下の『海鳥』の給金は、レイモンド侯爵が支払う、と」
「ああ、言った。だが、給金を支払うべき『海鳥』は何人いるんだ? そんな金が私の知らん所で動いているのか……」
白髭を震わせ、レイモンドは自身の知らないところで動く巨大な金の流れに戦慄した。
「『海鳥』は各領に最低五人、給金は、それぞれの領での収益の中から出ているので、問題はありません。きちんと帳簿にも『人件費』として計上してあります。承認者は各領主の館の執事です」
レイモンドは呆れたように肩を落とし、感嘆の息を漏らした。
「うむ、しっかりしているではないか。やはり『海鳥』は、ただの暗部の娘ではなかったな」
「まだ、セレスタイン領への貴族の補充ができない状況だと聞いています。その間は我々『海鳥』にお任せください」
事務的に淡々と、しかし、自信をもって答える『海鳥』の娘。
「デムハイトは私もしばらく滞在していたからわかるわ。ヘルムートとメルキオールの館はどういう状況なの? 妻子がいたでしょう?」
主がいなくなっても、館には妻子がいたはずだ。
その妻子はどうしたのか。
「ヘルムート男爵の妻はヴェリウス出身でしたので、子息を連れてヴェリウスに帰りました。メルキオール子爵には妻はいましたが子はいません。妻のほうから離婚を切り出した立場であるため、館からは出て行きました」
「そう……。完全に『海鳥』と執事と侍女しかいない状態なわけね。よくそれで領の運営ができるわね」
「レイモンド侯爵の親族や子飼いの文官がいます。彼らに協力してもらっています。さすがと言うべきか、彼らは軒並み優秀ですね。アルベルト様がレイモンド侯爵を討っていたら……、と考えると空恐ろしいですね。セレスタイン領の復興どころではなくなっていました」
「ああ、アルベルト陛下が言っていた。私を討たなかったことも含めて、その偶然の積み重ねを運命というんだろうな、と。私には、陛下には先見の明があるとしか思えん……」
レイモンドは窓の外を見やり、現国王である、かつてのアルベルト王兄殿下の横顔を想起する。
「人材は財産よ。そして、彼は優先順位を間違わない。その正しさを形にできる事こそがアルの力、ひいてはアステリア王国の力よ」
メリーの言葉に、レイモンドは少し目を細めた。
「随分と手放しで褒めるんだな。メリーちゃんはそんなに陛下に心酔しているのか?」
老貴族の揶揄に対し、メリーは少しだけ背筋を伸ばし、誇らしげに胸を張った。
「ちょっと違うわね。彼は、私の唯一の、そして無二の教え子よ。そんな彼の成長は、私にとって唯一の自慢と言っても過言じゃないわ」
「陛下を教え子というか……。不敬、とは違うんだろうな。それが、メリーちゃんと陛下の西側辺境の復興当時からの関係性か……」
老貴族は、自身の常識では到底測りきれない二人の絆に、深い納得を覚えた。
「まあ、今はアルのことは置いておきましょう。レイモンド、領地のことは任せたわよ。現地で彼女たち『海鳥』と協力して、体制を整えてちょうだい」
「わかった。春になればメリーちゃんも領地へ来るだろう。その時までに、形が見えるようにしておく」
「レイモンド領の東の話をしようと思っていたけど、セレスタイン領全域の話になったわね。この際だわ、まとめてやってしまいましょう。できるわよね? 『海鳥』、レイモンド」
「できます」
「できる」
迷いのない返答を受け、メリーは満足げに頷いた。
「お願いするわ」
──────
琥珀色の紅茶から立ち上る湯気が、室内の静謐な空気の中で緩やかに揺れ、メリーの瞳に映る領地の再編図を淡く霞ませる。
彼女が手にしていたペンを置き、指先でこめかみを軽く押さえたその時、鋼のような規律を感じさせる足音が廊下に響き、扉が静かに開かれた。
室内に流れ込んだ冬の気配と共に、軍靴の音を鳴らして一人の男が歩み寄る。
「戻りました」
パトリックの声には、冬の寒さを感じさせない屈強な佇まいが滲んでいる。
メリーは顔を上げ、エメラルドグリーンの双眸を信頼の置ける部下へと向けた。
「おつかれさま。スラムの炊き出しの状況はどう?」
「まあ、普通の炊き出しの現場ですね。王国軍が介入するまでの間ですし、人手不足もたいして苦じゃありません」
「さすがは元軍人ね。手慣れたものってこと?」
メリーの微かな笑みを含んだ言葉に、パトリックは王都の兵たちが抱く異常なまでの熱狂を想起するように答えた。
「そうですね。非番の軍人にも手伝わせていますし、『メリーちゃん』印の食糧の袋の効果もありますね。『メリーちゃん』のためなら……という、歪んだ意欲が彼らの動力にもなっています」
その言葉に含まれた微かな皮肉を、メリーは深い溜息と共に受け止める。
「私も春には十九よ? いつまで『メリーちゃん』でいなければならないの?」
窓辺の冬の風が、まるで彼女の問いに答えるように、ひび割れた音を立てて過ぎ去っていく。
パトリックは主君が抱える孤独な戦いへの深い同情を孕み、静かに、しかし重く口を開いた。
「なかなか根が深い問題ですね。ジャック殿の優秀さの裏側、メリーちゃんの苦労は、誰にも理解できないでしょうね」
ジャックという名の影の従者が、その類稀なる知性と執念で築き上げた偶像の城。
それは、ここまでの歩みにおいて不可欠な武器であったが、同時にメリーという一人の少女の平穏を永遠に奪い去る呪縛でもあった。
「そうなのよ。ジャックもどこまでが計画で、どこまでが悪ノリだったかわからないのよね。誰の目にも留まる成果を上げた今となっては、彼を責めることもできないし……」
メリーの独白は、暖炉の火の粉と共に消えていく。
ジャックが仕掛けた「メリーちゃん」文化の浸透は、今や王国の隅々まで「ピンク色の福音」で塗り替えていた。
「結果だけ見ると全てが王国のためであった、ですよね。ミディア王太后の一件でみんなそれを知りましたし……」
パトリックの言葉に対し、メリーは唇を僅かに噛み締め、ジャックという男の底知れぬ手腕を改めて反芻する。
あの日、玉座の間を震撼させたピンク色の嵐。
一人の女性の怨嗟を幸福で塗り潰すという、狂気にも似た鮮やかな手口。
「何一つ私に許可を取っていない『メリーちゃん』グッズ、『蒼紫の薔薇』ブランド。被害者は私だけ。しかも物理的ではなく、精神的な被害だけ……。恐ろしい手腕よね、……あの男」
ジャックが求めたのは、単なる西側の勝利ではなく、人々の魂を根底から変質させるような、静かなる侵略であった。
「王国への経済的寄与、そして、メリーちゃんの『レグス商会』への利益供与。メリーちゃんの精神的被害以外、全てが完璧としか言いようがない……」
パトリックの客観的な現状分析に、メリーは苦い紅茶を飲み干した。
すぐさま、赤毛が無言で紅茶を淹れ直す。
「そうね。言いたいことはいっぱいあるけど、功績は無視できないわね。……で? 北のスラム、西のスラム、どちらも炊き出しはうまくいっている、でいいのよね?」
湯気が立ち上る紅茶を眺めながら、事業へと意識を向ける。
「はい、問題ありません。昼食時と夕食時に二回、炊き出しを行っています。ひとまず費用はセレスタイン公爵が出している形ですが、これはあとで王国に請求できます」
パトリックの正確な報告に、メリーは領地の帳簿を思い浮かべる。
現在の支出は、未来への投資。
王都の浄化という大義名分のもと、国庫を動かし、自領の再生人員を確保するという一石数鳥の計略。
「そう。協力してくれている非番の軍人たちには日当を出しなさいね。無料で人を使ってはダメよ。仕事には対価が発生する。ここを有耶無耶にしては、今後に憂いを残すことになるわ」
人を動かすには対価を。
無料で人を働かせてはいけないことを、彼女は誰よりも理解している。
「承知いたしました」
パトリックの返事をメリーは紅茶を飲みながら聞いていたが、ふと、思いついたことを提案してみた。
「話を戻すけど、『メリーちゃん』の代わりに、『アルマリアちゃん』を大々的に、それこそ王国のお墨付きで出せないかしら? あの子は可愛いし、子供でいられる、みんなに愛される期間も長いわ」
メリーの突拍子もない提案に、レイモンドは思わず深い溜息を漏らす。
事業の話、金銭の話を論じていたかと思えば、次の瞬間には自身の偶像としての地位を王女に押し付けようとする。
「そこに戻るのか。炊き出しの話じゃなかったのか?」
老貴族の呆れたような問いかけに対し、メリーはジト目をレイモンドへ向け、自身の深刻さを訴える。
「炊き出しは問題ないって話じゃない。問題は『メリーちゃん』よ」
その必死な言葉に、室内には微かな弛緩が流れた。
公爵としての威厳と、一人の乙女としての切実な叫び。
赤毛がメリーの背後に寄り添い、面白がるような声で語る。
「姐さんもなかなか辛抱強く我慢してたッスよね。 『お出かけメリーちゃん人形』の頃からッスか?」
赤毛の問いかけに、メリーは不快な記憶を反芻するように眉を寄せた。
「もっと前よ。あのピンクの寝間着、肌着、これらは私とバルカスが知り合った頃からある特級呪物よ。レグス商会の標準装備みたいになってるのも困ったものよね」
メリーの言葉には、自身の平穏を蝕み続ける「カワイイ」という暴力に対する、根深い拒絶が滲んでいた。
ジャックが設計したその「呪物」は、今や王都の淑女たちの間でも爆発的な流行を見せている。
「アルマリアちゃんを生贄にしようとしてるッスけど、そんなに上手くいくッスか? 姐さんに娘が生まれれば交代できるかもしれないッスけど、それまでは姐さんが『メリーちゃん』で居続けるしかないんじゃないッスかね?」
赤毛の無慈悲な指摘に、メリーは言葉を詰まらせる。
「そんなこと言っても、結婚の予定もないし、娘が生まれる保証もないし……」
メリーの弱気な言葉を、赤毛は逃さなかった。
彼女は主君の心の奥底に潜む、「理想」の影を引きずり出すべく、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「背が高くて足が長くて理知的なシュッとしたイイ男、だったッスよね。姐さんの理想の男性像」
その言葉が室内に響いた瞬間、レイモンドの眉がぴくりと動いた。
老貴族としての知的好奇心が、主への不敬を上回る。
「ほう。それは初耳だな。誰のことだろうな」
「それは姐さんの口からは出ていないッスね。その話が出た時、ジャックさんが決めポーズを取って、『……照れますな』とか言ったんで、みんなの頭の中では、姐さんの理想の男性像はジャックさんにすり替わってるッスよ」
レイモンドは怪訝そうに眉をひそめた。
「それもジャックの優秀さの表れよね。情報操作というか、印象操作というか……」
「そうッスね。あたしも、アイゼンハイド公爵のことかな? とか思ったッスけど、もうジャックさんの顔しか思い浮かばないッスね」
「ジャック……、どこまでが本気で、どこまでが冗談か誰にもわからない。食えない男、とでも言うのかしら……」
メリーは窓の外を眺め、完全にあきらめた様子の溜息を吐き出す。
「あらためて考えると、恐ろしい男ッスね。ジャックさんは……」
赤毛の言葉を肯定するように、メリーは静かに頷いた。
「まあ、でも、ジャックのことは好きよ。恋愛対象ではなく、家族? として。私にはお爺ちゃんがいなかったからね、お爺ちゃんっ子の素養があるのかしら」
「ああ、先代の『剣鬼』オルコット辺境伯とも仲良かったッスもんね、姐さんは」
「レイモンドも同じよ。なんなら帝国の元皇帝カイロスとも仲が良かったわ」
メリーの言葉に、レイモンドは誇らしげに髭を揺らす。
彼女が求めるのは、酸いも甘いも嚙み分けた、人生経験からくる懐の広さと暖かさなのかもしれない。
「そうか……私に足りないのは白髪と白髭か……」
パトリックの切実な呟きに、室内には微かな笑いが漏れた。
「で? 話を戻すが、メリーちゃんの理想の男性像、これは誰の事なんだ?」
「そこに戻すの? なんで私の理想の男性をここで語らないといけないのよ? 政略結婚の話でもないし、完全にプライベートな話じゃない」
メリーの抵抗を、レイモンドは慈愛に満ちた笑みで受け流す。
「まあな。しかし、メリーちゃんの将来を見守るお爺ちゃんとしては、気になるじゃないか」
「私もメリーちゃんの親のような年齢ですからね、気になります」
「あたしは姐さんの二つ年上ッスからね、妹を見守る姉の気持ち? ッスかね」
彼らの言葉に、メリーは呆れたように肩を竦めた。
「ずいぶん好き勝手な設定ね。それっぽいことを言えば私が口を割るとでも思ってるのかしら?」
「そうは言わないッスけど、気になるじゃないッスか。姐さんはこの歳になっても浮かれた話の一つもないッスからね」
「それどころじゃなかった、と言うのが正直なところかしらね」
確かに、レグスに到着した十歳の頃から今まで、メリーにそんな余裕がなかったのは事実だ。
「わからなくもないッスね。でも、姐さんが生涯を共にできる、してもいいと思える男性って、ベルンさんくらいしかいなくないッスか?」
「ほう、西の大商人ベルン殿か」
「彼はもう西の大商人じゃないわ。ガーディス商業国を支える柱になっている男よ」
今や手の届かない存在になった、かつての盟友。
「ベルンさんも大出世ッスよね。ヴォルガン陛下の懐刀ッスもんね。ヴォルガン陛下を殴ったときはどうなるかとヒヤヒヤしたッスけど……」
「それは初耳だな。メリーちゃんはそんな男気のあるやつが好きなのか?」
「あれは男気……まあ、男気なのかしら。彼は私がどうこうできる存在じゃないわ。好ましいとは思うけど、結婚対象、恋愛対象かと言うとちょっと違うわね」
「ああ……、可哀想ッス……ベルンさん」
赤毛の軽口に重ねるように、メリーの口から衝撃的な言葉が飛び出した。
「バルカス・ブラッドレイ。彼しかいないでしょう? なんでそこに思い至らないのよ? あんたたちは」
その瞬間、執務室の空気が凍りついた。
レイモンドが目を見開き、パトリックは手にしていた書類を落としそうになり、赤毛は盲点を突かれたように一瞬硬直した。
「なんだと!?」
「ブラッドレイ子爵!?」
「ああ、その線があったッスか! 背が高くて足が長くて理知的なシュッとしたイイ男。まんまブラッドレイ子爵ッスね」
「彼は私の進む道、私の覚悟を受け止め、生涯をかけてそれを見届けると言ってくれたわ。実際、彼は私の理想を形にするため、本来ならばあり得ない働きをしたわ。あの頭脳を惜しげもなく使い、その手を血で染め続けて……」
「ああー、確かにそうッスね。ブラッドレイ子爵のあの働きは、姐さんへの献身だったッスか……」
「あれだけのことを私のために、私のためだけにやってくれたのよ。私が彼に返せるものなんて、私自身しかないわ」
部屋の空気さえ凍らせるような、メリーの静かな告白。
「ブラッドレイ子爵もそのつもりッスかね? あの人、周りに美女の幹部を侍らしていたわりに、その幹部たちは別の男に嫁入りしたし……」
「彼が私を求めるかはわからないわ。でも、私が結婚するとなったら、彼しかいないでしょうね。彼が別の人と結婚するようなら、私は一生独身かもしれないわ」
メリーの言葉を受け、レイモンドは以前、王城の執務室でバルカスが口にした、不敵で傲岸なあの言葉を思い出した。
――「メリー君を頂きたい」
あの時は戯言と聞き流したが、今、目の前の少女が口にした覚悟と重ね合わせた時、それは呪いにも似た、決して壊れぬ契約としての重みを帯びて老貴族の胸に響いた。
「なんにせよ、私がセレスタイン公爵としての仕事を終え、レグスに帰ってからの話よ。今ここですべき話じゃないわ」
メリーは立ち上がり、窓の外の冬空を見上げる。
本格的な冬が始まる前のわずかなひと時、未来を見据える彼女の瞳が、何を捉えているのかは誰にもわからない。
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