第84話:スラム街、黄金の鷲、何だこのモコモコな生き物は
「パトリック、視察に行くわよ。用意しなさい」
窓枠を白く縁取る氷の結晶が、冬の鈍色の光を浴びて冷たく煌めいている。
式典の熱狂が去り、王都を包む大気は肌を刺すような峻烈な寒気に支配されていた。
セレスタイン公爵邸の執務室。
暖炉で爆ぜる薪の乾いた音が、静寂の中に微かな律動を刻んでいる。
三日前の式典が嘘のように、王都の喧騒は厚い雲の下へと沈み込んでいた。
ソファに深く腰を下ろしたパトリックは、手元で揺れる茶の湯気を見つめ、困惑を隠さぬ声を上げた。
「視察って、どこの視察です? ここからセレスタイン領の視察に行くんですか?」
退役の手続きを終え、今はメリーの傍らに侍る身となった男は、温かな茶を一口含み、その喉を潤した。
その対面では、老練なる理知を湛えたレイモンド侯爵が、静かにやり取りを注視している。
傍らには、影のように音もなく控える『海鳥』の赤毛。
常にそこにいたジャックの姿はもうない。
アルベルトの側近として、国王の傍に侍っているからだ。
「王都に決まってるじゃない。この寒い中、セレスタイン領まで移動したくないわよ」
白磁の如き指先が、卓上の地図をなぞった。
それは精緻に描かれた王都の全景図。
「王都? 王都の視察が、セレスタイン領の復興にどう繋がるんですか?」
パトリックは茶器を卓へ戻し、身を乗り出した。
復興すべき領地は遥か北。
この足元の都を眺めることが、どうして荒廃したセレスタイン領の再建に繋がるのか。
「そうね。前提をすっ飛ばして話をするのは私の悪い癖ね。パトリック、セレスタイン領の復興に必要なものは何?」
メリーはペンを置き、椅子に深く背を預けた。
パトリックは顎に手を当て、少し考える。
「金、物資、人員、ですかね?」
短く、迷いのない答え。
メリーは満足げに唇の端を吊り上げた。
窓の外では、寒風が唸りを上げ、公爵邸の堅牢な壁を叩いている。
その音すらも、彼女の掌の上で行われる対話のスパイスに過ぎない。
「その通りね。お金は国に出させるわ。物資はそのお金で買う。問題は人員よ」
メリーの言葉には、無駄がない代わりに遠慮がない。
それを当然の如く聞き流すレイモンドは、楽しげに目を細めている。
まだ話の入り口であるというのに、パトリックは話について来れていないかのように戸惑う。
そのパトリックを置き去りにするように、レイモンドが会話を拾った。
「ああ、人員が必要なのはわかる。それと王都の視察に何の関係があるのか、だ。まさか、王都から人を攫ってセレスタイン領に連れて行くわけでもあるまいし」
レイモンドが冗談めかして口角を上げた。
「あら、わかってるじゃない、レイモンド。王都から人を攫うわ。そのための下見をすると言っているのよ」
レイモンドの笑みが消え、代わりに剥き出しの好奇心がその瞳に灯る。
パトリックは、自分が聞き間違えたのではないかという、根源的な疑念に囚われていた。
「……人を攫うのは如何なもんかと思うぞ。セレスタイン領も人口が少ないわけじゃない。この農閑期なら、手が空いている人員もいる」
レイモンドが現実的な反論を投じる。
領地経営の専門家としての、至極妥当な指摘。
だが、メリーの視座は、既にその遥か先を捉えていた。
「春になって、農民の手が空かなくなったらどうするの? 復興事業が止まるわよ。必要なのは、復興に専念できる人員よ」
メリーは指先で机を叩き、静かな律動を刻んだ。
その一打ごとに、古い論理が粉砕されていく。
復興とは、一時の熱狂ではなく、永続的な構築。
「それはわかる。が、復興が済んだ後、攫った人間をどうするんだ? 用無しは王都に帰れとでも言うのか?」
レイモンドが遠慮なく踏み込む。
「レイモンド、あなたも前提をすっ飛ばして話をする癖があるようね。――パトリック、ここまでの話は理解できてる?」
メリーは問いの矛先をパトリックへと戻した。
「えっと、セレスタイン公爵が自ら人攫いをする。攫った人間はセレスタイン領でこき使う。用が済んだら捨てる。レイモンド侯爵の話を纏めるとこうなるかと……」
メリーは、心底呆れたように大きなため息を吐き出した。
「どんだけ悪人なのよ、『セレスタイン公爵』は……」
彼女は片手で顔を覆い、芝居がかった動作で首を振った。
会話の断片を繋ぎ合わせれば、確かにそれは最悪の悪行そのもの。
「すまんすまん。ちゃんと説明しよう。王都で仕事にあぶれた人間を拾い、セレスタイン領へ連れて行き、住居と仕事を用意する。こうだな? メリーちゃん」
レイモンドが取りなすように口を開いた。
「攫う」という暴力的表現の裏側にある、救済という名の再配置。
パトリックの表情に、ようやく理解の光が差し始める。
「大体その通りね。でも、仕事にあぶれた、じゃないわ。そもそも仕事に就けない、就いていない、スラム街の人間を狙うわよ」
メリーの言葉が、再び室内の温度を奪った。
「なんだと!? スラム街の……?」
パトリックが絶句した。
だが、レイモンドの瞳は、歓喜に震えていた。
「ほう、そこに目をつけるか。さすがだな、メリーちゃん」
老侯爵は感嘆の声を漏らし、深く頷いた。
スラムという負の遺産を削り取り、領地の活力へと変換する。
「一石二鳥どころか、三鳥、四鳥くらいありそうないい話でしょ?」
メリーはニヤリと、悪そうな笑みを浮かべた。
執務室を満たす空気は、もはや温かな茶の香気ではなく、計略の匂いへと変質していた。
「ああ、名案だな。それで? いつ出発する? 夕飯時に炊き出しをしてスラム街の住民の懐に入り込むか?」
レイモンドは既に実行段階へと思考を移している。
「そうしたいけど、まだ炊き出しに必要な食材と資材の準備ができていないわ。それらをどこで仕入れるかも視察の一環になるわね」
メリーの視線は、再び地図へと戻った。
視察という言葉の重みが、先程までとは全く異なる意味を帯びてパトリックにのしかかる。
「すみません、メリーちゃん。自分はまだ、一石三鳥、四鳥のところで理解が止まっています」
パトリックが、縋るような視線を主へ向けた。
メリーは甘やかすでもなく、そして突き放すことなく説明する。
「パトリック、私たちと仕事をしていくのであれば、これには慣れなさい。先に言ったはずよ、お金は国に出させる、と。王都のスラム街の復興をするのであれば、国にお金を要求できるでしょ?」
領地の復興資金ではなく、王都の浄化費用。
名目を変えるだけで、国庫の扉は容易く開く。
「そうだ。スラム街を綺麗にする。仕事にあぶれた住民はセレスタイン領で保護する。金はアルベルト陛下に出させる。そして、王都のスラム街が無くなれば、それは陛下の手柄になり、我らの貢献であったともなる」
レイモンドが朗々と、その全貌を解き明かした。
これこそが、メリーが描く「悪だくみ」の正体。
「なるほど、そういう意味での一石三鳥、四鳥か。……レイモンド侯爵とメリーちゃんが話をしていると、悪だくみに見えてしょうがない。なぜでしょうね?」
パトリックは深い溜息と共に、冷めきった茶を飲み干した。
「レイモンドは悪人よ。まんま、見ての通りよ」
メリーは優雅に茶器を手に取った。
「ふむ。微塵も否定できんな」
レイモンドもまた、己の業を認めるように静かに笑った。
その調和の取れた光景は、側から見れば、高潔な貴族たちの美しい昼下がりにしか見えない。
「姐さんもマフィアのボスなんで、全方位どこから見ても悪人ッスけどね」
赤毛の娘が、感情の消えた声でぼそりと呟いた。
「まあ、暗部のあんたらを侍らしている時点で、そこは否定できないわね」
メリーは赤毛にチラリと視線をやり、再び茶を一口。
その所作には、一切の迷いも、後ろめたさも存在しない。
正義を成すために、悪を纏う。
それが、彼女の選んだセレスタイン領を一気苛烈に復興する手段。
「え? ……ええ?」
レイモンドとメリー、そして赤毛。
その中心で、パトリック一人だけが、理解の及ばぬ嵐に翻弄されていた。
「慣れなさい」
──────
「姐さん、馬車の準備ができたッス。行きますよー」
石造りの回廊に、冬の乾いた空気を震わせて赤毛の弾んだ声が響き渡った。
重厚な玄関の扉が左右に静かに開け放たれ、一行が真冬の冷気が支配する外郭へと歩みを進める。
凍てついた石畳の上に鎮座していたのは、刺すような陽光を深淵のような暗色で吸い込み、鈍い光沢を放つ漆黒の重厚な馬車であった。
その側面には、セレスタイン公爵家の象徴たる黄金の紋章が刻み込まれている。
大きく羽を広げ、天空を統べる鷲の意匠。
「おお! 素晴らしい。過去に滅んだセレスタインの紋章が蘇った。こうして目の当たりにすると、実感が湧くな」
老侯爵レイモンドが、愛おしむようにその荘厳な細工を指先でなぞり、感慨の滲む溜息を白く凍らせる。
傍らに立つパトリックもまた、その威容に圧倒されながらも、ふとした疑問を主君の背中に投げかけた。
「あれ? 薔薇を背負ったメリーちゃんのあのマークではないんですね?」
「自分のイラストを自領の紋章にする人なんているわけないでしょう!」
冷気を切り裂くような鋭い一喝と共に、本日の主役が玄関口からその姿を現した。
しかし、その人物を一目見た瞬間、レイモンドもパトリックも、そして御者台に手をかけていた赤毛までもが、言葉を失って硬直した。
そこにいたのは、王国の頂点に立つ公爵としての威厳を纏った淑女ではなかった。
極寒の王都の洗礼を全身で拒絶するかのように、幾重にも重なった毛皮の奥へと埋没した、異様な球体のシルエットであった。
首周りと袖口には、視界を物理的に遮らんばかりの白いファーが過剰な密度で敷き詰められている。
マフラーは顔の下半分までを覆い、分厚い手袋は指の繊細な動きを完全に封じるほどに丸い。
さらに、頭頂部で揺れる大きな飾りまでもが毛羽立ち、視覚的な情報は「モコモコ」という一点に集約されていた。
(何だこのモコモコな生き物は……)
(モコモコのメリーちゃんカワイイな)
(姐さん、そのモコモコは大人の女性とは程遠いッスよ)
沈黙の中に、声なき困惑と生温かい称賛が複雑に混ざり合う。
一行の視線が一点に集中していることに気づいたのか、防寒具の隙間からエメラルドグリーンの瞳が不審げに瞬いた。
「なに? 何かあったの?」
「いや、何もない。セレスタインの紋章を見て、感慨に耽っていただけだ」
レイモンドはシレっと目を逸らし、馬車に刻まれた紋章を見る。
パトリックは、不機嫌そうなメリーの瞳に疑問を呈す。
「なんか、メリーちゃん機嫌悪いですね」
「寒いのよ。しょうがないでしょう。行きましょう。赤毛、頼んだわよ」
メリーは不機嫌さを隠そうともせず、丸い手袋を嵌めた手で自身の頬をさすりながら、漆黒の馬車へと足を進める。
「えー? この寒空の下、あたしだけ外ッスか?」
赤毛は軽口を叩きながらも、慣れた手つきで御者台へと登り、手綱を握る。
パトリックは馬車の中から、毛皮の塊と化したメリーの手を慎重に掴み、車内へと引き上げた。
その後を追うように、二名の『海鳥』が音もなく影のように滑り込み、重厚な扉が閉じられた。
蹄鉄が石畳を打つ規則正しい咆哮が響き出し、公爵の紋章を掲げた漆黒の馬車は、王都の光り輝く表舞台を背に、西側の外壁近くに沈殿する陰影――スラム街へと向かって走り始めた。
──────
「思ったよりひどい状況ね。ヴォルガンは何をやっていたのよ」
馬車をスラム街の外縁に待機させ、自らの足でその地へと踏み入ったメリーが、吐息を白く染めて呟いた。
足元は凍りついた生活排水が溢れ、逃げ場のない絶望のような冷気が地面から這い上がってきている。
背後には剣を帯びたパトリックが油断なく控え、さらにその周囲を、風景に溶け込んだ『海鳥』たちが不可視の盾となって固めている。
メリーの視線の先には、屋根が腐り落ち、穴が空いたままの家屋が並んでいた。
そして、それら残骸のような建物の軒下には、薄汚れた布を幾重にも纏い、震えながら蹲る住民たち。
家がある者はまだ幸運と言えた。
路地裏の隅では、凍土の上に直接身を横たえ、虚空を見つめるだけの者たちも少なくない。
この極寒の夜を幾たび越えられるかなど、考えるまでもない残酷な現実がそこにはあった。
「パトリック、こんなスラム街が王都にいくつあるの?」
「西側と北側に一箇所ずつあります。状況はわかりませんね。一度見に行かないと……」
パトリックの声には、かつての軍人としての義憤と、救いようのない現状への痛ましさが混じっていた。
「そう……。その両方を私たちだけで復興するのは無理ね」
メリーは冷気に白く染まる視線を巡らせる。
その隣で、レイモンドが統治者の視座で状況を噛み砕いた。
「西側のスラム街の復興はアイゼンハイド公爵にやらせよう。ここのスラム街から出て行く住民はアイゼンハイド領で保護してもらおう」
「そうね。西はアイゼンハイドが、北はセレスタインが面倒を見る。理にかなっているわ」
「だが、受け皿がなければ話にならん。アイゼンハイド公爵が了承するか……。スラム街を綺麗にするだけでは復興とは呼べんからな」
レイモンドの指摘は、この凄惨な光景の根本にある病理を射抜いていた。
「セレスタイン領はメリーちゃんとレイモンド侯爵が決めるので問題ないですが、アイゼンハイド公爵は首を縦に振るのですか?」
「最悪、アルに王命を出させるしかないかもしれないわね。西側出身の私としては、彼らには積極的に協力してほしい気持ちもあるけど……」
「それも交渉次第、だな。人道支援という名目だけでは、金も領主も動かんとは言わんが、腰は重いだろうな」
レイモンドの現実的な指摘。
「それなのよね……。私に言わせると、こんなにたくさんの労働力を確保しない選択肢はないのだけれど……。ノルトヴァルトなんかずっと人手不足でしょう? あんなに広大な土地があるのに、もったいない」
スラム住民を施しの対象としてではなく、価値を生み出す労働力として捉え直す。
「まあ、ひとまずその方針で行こう。そうとなれば、北のスラム街に移動すべきだな」
「そうね……」
メリーはもう一度だけ、凍える手足で蹲る住民たちを振り返り、重い足取りで馬車へと引き返した。
──────
移動した北のスラム街も、状況は西側と酷似していた。
腐敗した空気、絶望に沈んだ瞳、そして冬の静寂を切り裂く乾いた咳の音。
石造りの建物の壁は崩れ、廃墟となった住居が連なっている。
周囲をざっとひと舐めし、レイモンドが呟く。
「なるほど。こちらも同じか。やることも同じだな」
「短期の計画、長期の計画の両方が必要よ」
「……というと?」
パトリックの問いに、メリーは荒廃した景色の中に未来の線を引くように答えた。
「この冬を越すための支援と、ここのスラム街を造り変える区画整理の計画ね」
「国に金を出させるんだ。行政の建物を作る必要もあるだろう」
金を出す側の意向も汲むべきだという現実的なレイモンドの指摘。
「そうね。……とはいえ、役に立たない行政の箱モノを造ってもしょうがないわ。病院、学校、孤児院かしらね」
「兵士や警備員の詰所、ゴミ処理場、公民館、公園、運動場なども考えられますね」
パトリックが熱を帯びて提案を重ねる。
その言葉を聞いたメリーは、防寒具に埋まった顔を僅かに綻ばせ、満足げに頷いた。
「いいこと言うわね、パトリック。あなたに期待しているのはそういうとこよ。私やレイモンドのような政治的観点だけでなく、そういう地に足のついた意見を言ってもらいたいわ」
「はっ!」
パトリックの背筋が伸び、凍てつく空気の中に微かな活気が生まれた。
権威を示すための巨大な石像や豪華な庁舎などは、今のこの場所には不要であった。
求められているのは、病んだ体を癒やすための医療施設であり、子供たちが飢えを忘れて学ぶための教育施設であり、そして、人が人としての尊厳を保ちながら生活し、未来に絶望せずに生きていくことができる空間である。
「今日のところは帰りましょう。レイモンドはアイゼンハイド公爵に連絡を取って。パトリックは炊き出しの手配よ。赤毛はレイモンド領の『海鳥』を呼んでちょうだい」
「承知」
「帰りに市場に寄っていきましょう」
「承知ッス」
一行は再び馬車へと引き揚げていく。
蹄鉄の音が、冬の重苦しい静寂を打ち消しながら王都の中心部へと向かう。
セレスタイン領の復興のために、まず王都の負の遺産であるスラム街を再生させる。
回り道に見えるこのやり方が、果たして正しいのか否か。
それはまだ、メリーの瞳にも明確な答えとしては映っていなかった。
この冬が明ける頃、この地にどのような芽吹きが訪れるのか。
少女は毛皮の奥で静かに目を閉じ、来るべき戦いの図面を頭の中で描き続けていた。
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