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第83話:水薙鳥、ピンク色の緊張感、ミディア・ガーディス王太后

「ごふっ!」


 たった今まで、兄との不壊の絆に、そして王国を未来へと繋ぐ崇高な使命感に震え、熱い涙を流していたヴォルガンの喉から、あられもない破裂音が漏れ出た。

 それは、重厚な歴史の転換点に相応しい静謐と、感動に満ちていた玉座の間の空気を一瞬にして俗世の困惑へと引きずり戻す、無作法極まりない炸裂音であった。


 噴き出された呼気は、厳かなる儀式が紡ぎ上げてきた神聖な熱量を、一切の容赦なく霧散させていく。

 誰もが、その無粋な音の根源を見極めようと、玉座の間を外界から隔てていた巨大な扉の先へと、吸い寄せられるように視線を釘付けにした。


 重厚な石造りの扉が、抗いがたい力によって押し開かれる。

 冷え切った廊下の空気が、熱気の籠もる広間へと流れ込み、冬の朝靄のような白い筋を床に描いた。

 そこに現れたのは、三十年の長きにわたる怨嗟をその身に宿し、王国の終焉を願う最後にして最大の不確定要素――王太后ミディアであった。

 かつて人質として連れてこられ、自身の人生を王国の存続という名目のために磨り潰されてきた彼女の乱入により、この場所を支配していた峻烈な規律は、跡形もなく崩壊する。

 官僚たちの背筋に走っていた心地よい緊張感は、ミディアが纏う色彩によって、瞬く間に困惑の色へと塗り替えられていった。


 ミディアが纏っていたのは、血飛沫の色でも、漆黒の喪服でも、あるいは王族としての品位を誇示する重厚な絹でもない。

 今や王国中を、そして王都の淑女たちの心をも熱狂的に汚染し尽くしている、あの『メリーちゃん』ブランドの最上の、そしてミディア専用に拵えられたドレスであった。

 淡いピンクの生地は、冬の微かな陽光を吸い込んで優しく発光している。

 その上に、毒々しくも可憐な蒼紫の薔薇が、まるで意志を持つ生き物のように妖しく這い回り、複雑な紋様を描き出していた。

 悪趣味とカワイイが、あまりにも危うい、そして薄氷の如き均衡で共存しているその配色は、本来ならば滑稽極まりない、嘲笑の対象となるはずのものである。

 だが、眼前に優雅に佇むミディアからは、人知を超えた、理解不能なまでの圧倒的な威厳が立ち昇っていた。

 空間そのものが、その理不尽なまでの存在感に圧倒され、この装いこそが『蒼紫の薔薇』という美学の到達点であると、無理やり納得させられているかのような錯覚。

 ミディアの一歩一歩が床を叩くたび、広間を満たしていた王国の威信は、ピンク色の奔流に呑み込まれ、その色を変えていく。


 専属の衛兵と侍女の列を左右に割り、音もなく進み出るミディア。

 一挙手一投足に対し、アルベルトもヴォルガンも、参列した貴族も官僚も、近衛兵ですらも、微動だにできず、その姿を凝視するほかなかった。

 彼女の歩みに合わせ、ドレスの裾がさわさわと、まるで古い呪文を唱えるかのような乾いた音を立てて波打つ。

 王城という、法と血脈が支配する空間に、異物が迷い込んだかのような不協和。


 その静寂を裂き、ただ一人、ミディアの元へと迷いなく進み出る者がいた。


 ――ジャックであった。


 『梟』として王家の深淵を司り、今は西側の意思を体現するその銀髪の従者は、流麗な所作でミディアの眼前まで進み出た。

 彼は周囲の困惑など眼中にないかのように、無駄のない動きで片膝をつき、最上の礼を示した。

 ジャックの背筋は一点の曇りもなく伸び、その態度は、目の前の女性が真にこの空間の支配者であることを公に宣言するかのようであった。


「お久しぶりでございます。ミディア様」


 ジャックの低い、だがよく通る声が、凍りついた空気を震わせる。


「お久しぶりね、ジャック。このドレス、ありがとうね」


 ミディアは満足げに目を細めると、ドレスの裾を指先で優雅につまんで横へと広げてみせた。

 彼女の唇に浮かんだのは、少女のように無垢で、それでいて全てを見透かしたような魔的な微笑みである。

 ジャックは、その微笑みを受け、一片の揺らぎもない完璧な主従の距離感を保ったまま、深々と頭を垂れる。

 彼の表情には、この異様な装飾を完成させた者としての、静かな誇りが宿っていた。


「は。大変お似合いでございます。着こなしも完璧、さすがミディア様でございます」


 一点の迷いもないジャックの賞賛に対し、ミディアは喉の奥で楽しげな音を鳴らした。


「あら、お上手ね。……それで、メリーちゃんはどこ?」


 ミディアの瞳が、参列者を舐める。

 ジャックは迷うことなく、その鋭い視線の先をメリーへと向けて、手で促す。


「メリー様はあちらでございます」


 促された先、公爵としての威厳をかなぐり捨て、今にもその場から逃げ出そうと腰を引かせ、マクシミリアンの巨躯の背後に隠れようと必死になっているメリーの姿があった。

 彼女の瞳は恐怖に大きく見開かれ、その小さな身体は、これから訪れる運命を察知して小刻みに震えている。

 その瞬間、ミディアの瞳に、執着と愛着が混ざり合った狂熱的な光が宿った。


「メリーちゃん!」


 ジャックの横を、重厚なドレスを纏っているとは思えぬ疾風のごとき速さで通り抜け、ミディアがメリーへと突き進む。

 その挙動には、先程までの優雅な威厳など微塵も残っておらず、ただひたすらに愛玩物を求める、純粋で暴力的な情熱だけが溢れ出していた。


「ギャーッ!」


 淑女の皮を完全に剥ぎ取った、身も蓋もない絶叫を上げ、メリーは玉座の間を脱兎のごとく駆け出した。

 公爵叙爵の栄誉も、王国の未来を背負う覚悟も、迫り来るピンク色の恐怖の前では塵に等しい。

 重く長い裾を引きずり、高いヒールを鳴らして、バタバタと無作法な音を立てながら、メリーは出口を求めて全力で逃走する。


「メリーちゃーん!」


 その後ろを、同じくドレスの裾を乱しながら、満面の笑みと恐るべき執念で追いかける王太后。


「ヴォルガン! 笑ってないで助けなさい!」


 背後に迫るミディアの手から逃れるべく、メリーは必死の形相でヴォルガンに助けを求め、そのまま玉座の間から転がるように、公爵家の尊厳と共に走り去っていった。

 扉の向こうに消えていく絶叫と足音。

 残されたのは、開け放たれた扉から入り込む冬の冷気と、あまりにも急激な事態の転換に言葉を失った人々の、戸惑いに満ちた静寂のみであった。


 ヴォルガンは隣に立つアルベルトと視線を交わし、理解を拒むようにゆっくりと首を傾げる。

 先程までの、兄弟の絆に涙を流していた厳かな空気は、今や遠い過去の出来事のように霧散していた。

 アルベルトもまた、新王としての威厳を保つことすら忘れ、ただ無言で深く、深く肩を竦めてみせた。

 その場には、嵐の去った後のような、そして形容しがたい、どこまでも不条理なピンク色の沈黙が、重く横たわっていた。


     ──────


 嵐が去った後の、どこか現実離れしたピンク色の沈黙が、重厚なる玉座の間を支配していた。

 天窓から差し込む冬の光は、石床に長い影を落とし、微かな埃の粒子を、まるで神殿の砂時計の砂のように静かに照らし出している。

 新王アルベルトの威厳も、旧王ヴォルガンの落涙も、王太后ミディアとメリーが演じた狂騒の渦に呑み込まれ、霧散して久しい。

 王城の衛兵たちは、自身の槍を握る手の強さを忘れ、ただ開かれたままの扉を凝視し、そこに残された色彩の残滓を追っていた。


 その凍りついた静寂を切り裂き、硬質な靴音が石床を叩いた。

 ミディアが引き連れてきた専属の侍女四名が、示し合わせたかのように音もなく進み出る。

 彼女たちは、微動だにせず佇む銀髪の従者、ジャックの前に至ると、寸分の狂いもなく一列に整列した。

 その所作には、単なる使用人の枠を超えた、研ぎ澄まされた刃のような鋭さと、一分の隙もない規律が宿っている。

 背筋は定規を当てたかのように真っ直ぐに伸び、無機質なまでに整った表情からは、一切の感情の揺らぎを読み取ることは叶わない。

 先頭に立つ侍女が、感情を削ぎ落とした双眸でジャックを真っ直ぐに見据えた。


「『水薙鳥ミズナギドリ部隊』、任務を完遂いたしました」


 その一言が、玉座の間を再び不穏な波紋で揺らす。

 ジャックの眼差しには、主としての厳格さと、それ以上に深い、静謐なる肯定が湛えられている。


「ごくろう」


 短く投げかけられた言葉には、長きにわたる潜伏工作の終焉を労う、確かな信頼が込められていた。

 その光景を、『海鳥部隊』の元締めであるバルカスが、眉を潜め、射抜くような眼差しで凝視している。

 彼の整った眉間には、深い困惑の皺が刻まれ、その知性を誇る瞳には、予期せぬ盤面の出現に対する戦慄が宿っていた。


「任務? 『水薙鳥』? 彼女たちは『海鳥』か?」


 バルカスの問いには、自らの支配下にあるはずの組織の中に、感知し得ない空白が存在していたことへの困惑が滲んでいた。

 ジャックは表情一つ変えず、当然の義務を果たすかのように答える。


「はい。『海鳥部隊』の中でも秘中の秘、極秘部隊でございます」


「極秘……? 私も知らなかったぞ、その存在は」


 バルカスは自嘲気味に息を吐き、玉座の前に立つアルベルトと視線を交わした。

 アルベルトはその視線を受け、無言で首を振る。

 自らの右腕として、影として、最も信頼を置いていた男が、主君である自分ですら把握していない独自の軍脈を築いていたという事実。

 ジャックは淡々と、その深淵を明かしていく。


「ええ、身内にすら秘密であるからこその極秘部隊です。聞いておられたと思いますが、彼女たちは任務を完遂いたしました。『水薙鳥』は、今この場をもって解散いたします」


 その宣言は、王城の空気を再び緊張の極みへと引き戻した。

 バルカスは、自身の情報網を疑わざるを得ない屈辱と、それを上回るジャックの執念に圧倒されている。


「……まさか、『海鳥部隊』に女の子しかいない理由はこれか? ジャック君は、最初からこれを目的に……?」


 バルカスの脳裏に、数年前からのジャックの執拗なまでのこだわりが、一つの線として繋がっていく。

 暗殺、諜報、工作。

 そのあらゆる局面において、なぜ女性である必要があるのかという疑念。

 その答えは、王宮という名の巨大な監獄の、最も深い場所に隠されていた。

 王宮内のミディアの専用区画、男子禁制の聖域。

 そこへ侵入し、長期にわたって情報を収集し、あるいは精神的な工作を施すためには、屈強な男ではなく、誰の目にも無害に映る「可憐な侍女」である必要があったのだ。


「言ったでしょう。『水薙鳥』は解散です。今更そんな話をする意味はございません」


 ジャックは追及を柳に風と受け流すが、その静かな言葉こそが、何よりも重い肯定であった。

 彼は、長年『水薙鳥部隊』を、ミディア王太后の専属侍女として王宮に潜入させていた。

 そのために、女性ばかりの『海鳥部隊』を構成し、その中から選抜された優秀な『海鳥』を『水薙鳥部隊』として再編していたのである。


「三年前くらいだったか? ランツェベルク領でそんな話をしたな。ミディア王太后に手は出せるのか? と。出せるが時期尚早と言っていたな。あの時からか?」


 バルカスの脳裏に浮かぶのは、ランツェベルク領の地下牢での張り詰めた空気の中での会話。

 当時のジャックは、既にこの玉座の間での決着を見据えていたのだ。


「その通りでございます」


 ジャックはこともなげに言い放つ。

 その徹底した合理性と、それ以上に巨大な、主君への執着に近い忠義。

 彼は静かに袖を直し、自身の感情を鋼の檻に閉じ込めたまま、淡々とその場を支配し続けた。


「ちょっと待て!」


 声を上げたのはヴォルガンであった。

 新王に王冠を譲り、今は一人の男として立つ彼の顔には、隠しようのない戦慄が張り付いている。

 突然の割り込みに、場にいた者たちの視線が彼へと集中した。


「その、『水薙鳥部隊』だったか……? 彼女たちは母上の傍にいて、何をやっていたんだ?」


 国王であったヴォルガンですら、実の息子でありながら、母の私室には一歩も立ち入ることが許されなかった。

 王城の中にありながら、そこはアステリア王国の法すら届かない、怨嗟と断絶に塗り潰された異界。

 三十年の長きにわたる、王家への憎しみが煮詰められた密室。

 そこに潜入し、長年にわたって息を潜めていたという事実。

 男子禁制の聖域に潜入するためだけに、これほどまでの年月をかけて女性ばかりの諜報員を育て上げたというジャックの手腕と構想に、ヴォルガンは本能的な恐怖を覚えた。

 その極秘部隊が、自身の母親であるミディア王太后に侍り、一体なにを行っていたのか。


 ジャックは無言のまま、水薙鳥部隊の少女たちへと顎で促した。

 整列していた侍女たちの、仮面のようだった無機質な表情が、その瞬間に崩れた。


「えー? お茶をしたり、おしゃべりしたり?」

「お部屋のお掃除、お食事を作ったり、お風呂のお世話?」

「『メリーちゃん』グッズの買い付けをしたり、お揃いの『メリーちゃん』パジャマを着たり?」

「お揃いの『メリーちゃん』エプロンをつけて一緒にお菓子を作ったり?」


 少女たちは、口々に、そして年相応の無邪気な調子で言葉を繋いだ。

 それは、死線を潜り抜けてきた極秘部隊の最終報告とは到底思えぬ、あまりにも平穏で、俗世の幸福に満ちた日常の断片であった。

 先程までの鋭利な気配はどこへやら、彼女たちの顔には、愛する主への献身を楽しんでいた、一人の娘としての豊かな色彩が戻っている。

 その光景は、玉座の間という厳粛な空間において、形容しがたい不条理な弛緩をもたらした。

 各々が好き勝手にしゃべる様子は、極秘部隊のそれではなく、談笑を楽しむ少女たちのそれであった。


「それは、母上の世話係じゃないのか? それが王宮に潜入した『水薙鳥部隊』とやらの任務なのか?」


 ヴォルガンは口を半開きにし、全く理解できないと言った顔で彼女たちの笑顔を見つめる。

 ジャックが持てる知見と全リソースを注ぎ込み、育て上げ、投入した最高戦力の目的が、あまりにも個人的で家庭的な次元に留まっていたことの不条理。

 だが、水薙鳥の一人が、その瞳に静かな、だが確固たる誇りの光を宿してヴォルガンを直視した。


「もちろんです。ミディア様に心穏やかに過ごしていただく。これこそが『水薙鳥部隊』の最大の任務でした。その日常に『メリーちゃん』というスパイスを混ぜ込むのも含めて」


「これは、『水薙鳥部隊』解散後も変わりません。我らは、ミディア様についてガーディスへ行きます。『水薙鳥部隊』ではなく、本物の専属侍女として」


 少女の宣言には、もはや任務という名の義務ではなく、自らの意志で選んだ忠誠が宿っていた。

 王国の敵としてではなく、一人の女性としてミディアを救い出し、その心の闇をピンク色の幻想で、カワイイという名の暴力で塗り替えてきた誇り。

 彼女たちの主は、もはやジャックでもバルカスでもなく、あの王太后その人であった。

 少女たちの眼差しには、過酷な訓練を経て得た強さではなく、共に笑い、共にお菓子を焼いた時間だけが紡ぎ出せる、確かな絆の色が混じっている。


「……あ、ああ。……その、なんだ、……よろしく頼む」


 ヴォルガンは、もはや返す言葉を失っていた。

 いろいろと削り取られ、心の中にあった王としての構えが音を立てて崩れていく。

 母を蝕んでいたのは、自分たちの手には負えない、王国の歴史が積み上げてきた深い呪い。

 それを、ジャックは「メリーちゃん」という、あまりにも異質で暴力的な美学で、根底から強引に上書きしてしまったのだ。

 この数年、母の復讐の情熱が薄れていくのを、彼は単なる老いか、あるいは諦念だと思っていた。

 だがその実態は、緻密に計算された「幸福な汚染」による無害化であった。

 王宮の片隅で、ひっそりと、だが確実に進行していた愛の侵略。


「まさか、『蒼紫の薔薇』ブランド、数々の『メリーちゃん』グッズ、西の食糧の『メリーちゃん』イラスト、あれらも全部……?」


 バルカスが、その凄絶な構想の全貌を悟り、呻くように声を絞り出した。

 王国全土を巻き込み、莫大な影響力を振りまいてきた狂騒。

 人々の価値観を塗り替え、古い権威をピンク色の偶像で汚染し続けてきた「メリーちゃん」。

 その巨大な激流の終着点の一つが、この玉座の間で、三十年の怨嗟を抱えた王太后を一人の無害な老婦人として微笑ませることであったという事実。


「いえ、それらの目的は様々でした。ですが、ここに集約させたのも事実。ベルン殿の商人魂を利用させていただきました」


 ジャックはこともなげに言い放つ。

 ミディア王太后をメリーに心酔させ、心穏やかな貴婦人として変貌させ、王国の敵ではなくす。

 それは、長い年月をかけ、王都をも『メリーちゃん』で蝕んできたジャックの成果であった。

 西の供給力、経済力、そして人々の欲望すらも、彼はたった一人の女性の心を解きほぐすための盤面として利用したのである。


「もういいでしょう、この話は。もう『水薙鳥部隊』はいないのです」


 ジャックが短く告げると、水薙鳥の四名は深く一礼し、音もなくミディアの専属衛兵の背後へと下がった。

 玉座の間には、嵐の去った後のような、形容しがたいピンク色の静寂が戻ってきた。


     *****


 しばらくの後、玉座の間の巨大な扉が再び開かれた。

 現れたのは、少女のような足取りでメリーの手を引くミディア王太后であった。

 メリーはといえば、先程までの全力逃走の影響か、あるいは王太后の熱狂に魂のすべてを吸い尽くされたのか、口から魂が抜けたような虚脱した表情で、引き摺られるように隣を歩いている。

 アステリア王国の救世主として崇められ、新王を誕生させた立役者であるはずの少女の姿は、今や王太后の玩具同然であった。

 彼女の美しいエメラルドグリーンの瞳は焦点が合わず、その小さな肩は力なく項垂れている。


 ミディアは西側の参列者の中に、当然のようにメリーを伴って並んだ。

 彼女が纏う蒼紫の薔薇のドレスは、今やこの空間の異物ではなく、新たな時代を象徴する、異質ながらも確かな光を放っている。


「アルくん、お久しぶりね」


 ミディアが、アルベルトに向かってにっこりと笑いかける。

 その微笑みには、彼女の瞳にあった、他者の心を抉るような鋭利な憎悪は霧散し、代わりに、どこか遠くの幸福を見つめるような、微かな陶酔が宿っている。


「お久しぶりです、ミディア叔母さん」


 アルベルトは静かに、そして最大限の敬意を込めて言葉を返した。

 実に十年ぶり、もしかするとそれ以上かもしれない再会であった。

 父の傍らで、死んだ魚のような瞳を向けていた、王国の犠牲者そのものであった第二夫人の姿は、もうどこにもない。

 二人の間には、王家の呪縛を乗り越えた者同士の、静謐な空気が流れていた。

 アルベルトもまた、彼女が抱えてきた闇の深さを知る一人であり、その救済を静かに受け入れていた。


「アルくん、またヴォルガンを虐めてるの? あなたも国王になったんでしょう? ヴォルガンを虐めるのはそろそろやめてあげなさい」


 その指摘はあまりにも的外れで、それでいて家族としての情愛に満ちており、場の緊張を決定的に粉砕した。

 重厚な石壁が、彼女の声の柔らかさを反射し、空間を温かな色に塗り替えていく。


「虐められていない! いつまでも兄に虐められて泣いている私ではない!」


 ヴォルガンが、慌てたように、そしてどこか子供に戻ったような口調で反論する。

 王国の重鎮たちが、新王の誕生を祝う儀式の中で、このような世俗的な兄弟喧嘩を微笑ましく見守る。

 それは、古い王国の秩序では考えられない、新しい時代の幕開けを告げる象徴的な光景であった。


「あら、そうなの? だって、泣いてるじゃない、ヴォルガン」


 ミディアはクスクスと楽しげに笑い、息子の反応を愛おしむように見つめる。


「……違う! これはそういうのではない!」


 ヴォルガンは目を擦り、必死に国王としての、あるいは一人の男としての威厳を取り戻そうとする。

 だが、母の、自分を案じるような、それでいてからかうような慈愛に満ちた眼差しを前にしては、いかなる権威も無力であった。

 かつて彼を苦しめていた、母の期待という名の重圧は消え、代わりにそこにあるのは、単なる親子の情愛であった。

 それが、これまでの張り詰めた心を、雪解けのように優しく溶かしていく。


「まあ、いいわ。私は荷造りも済ませたわ。出発は明朝よね。……アルくん、ヴォルガン、ありがとう。何十年かぶりに故郷へ帰れるわ。……本当にありがとう」


 ミディアはゆっくりと目を伏せ、深く、心の底からの感謝を述べた。

 そこにいるのは、王国に恨みを持つ王太后ではなかった。

 ガーディスの姫として、ヴォルガンの母親として、ただ一人の心優しい貴婦人であった。

 彼女を縛り続けていた、数代にわたる人質としての屈辱的な協定も、彼女が背負わされてきた王家の闇も、今は遠い過去の霧の中に消えようとしている。


 ――王国最後の不確定要素。


 それは、アルベルトやヴォルガンが、王家の凄惨な歴史という鏡に映し出し、勝手に造り上げた幻想に過ぎなかった。


 玉座の間を満たしていたピンク色の沈黙は、今や、新しい国家が歩み出すための、祝福の息吹へと変わっていた。

 ヴォルガンは母の背中を見つめ、アルベルトは新王としての決意を改めて瞳に宿す。

 アステリア王国の重苦しい歴史の一頁が、今、確かな解放の音を立てて捲られたのである。


 扉の向こうに広がる冬の空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。

 冷たい風が、広場に集まった民草の歓声を、遠く、だが力強く玉座の間へと運んできた。

 それは、新たな王の誕生と、古い呪いからの解放を祝う、再生の歌のようであった。


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