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第82話:ツルツル、回り道、我々は今日から未来を創るための戦いに臨む

「さて、アステリア国王として、最後の仕事をせねばならん」


 冬の朝の冷気が、玉座の間の高い天井から降り注いでいた。

 極彩色のステンドグラスを透過した光が、冷え切った石床に歪な文様を描き出している。

 一段高い場所で、アステリア国王ヴォルガンは、その身を包む濃紺色の外套を微かに翻した。

 その声は、広大な広間の隅々にまで、染み渡るような重みをもって響き渡る。

 玉座の前で跪く者たちの間に、形容しがたい緊張が走った。

 直前に行われた王位継承の宣言は、すでに参列者たちの理性を麻痺させるに十分な衝撃を与えていた。

 しかし、ヴォルガンの言葉は、それがまだ「終わり」ではないことを示唆している。


 近衛兵たちの頬を、熱いものが伝い落ちる。

 第一軍の精鋭たちは、自らの盾と剣を握りしめ、敬愛する王の退位という現実を、喉の奥で噛み砕こうとしていた。

 ヴェリウス領から馳せ参じた貴族たちは、王国の支柱が失われることへの本能的な恐怖に、肩を震わせている。

 一方で、広間の片隅に陣取る西の貴族たちは、対照的な静寂を保っていた。

 バルカス・ブラッドレイは、一点の曇りもない革靴の先を見つめ、エーベルハルト・フォン・アイゼンハイドは、眼鏡の奥の鋭い瞳で、主君の最後の一挙手一投足を、歴史の証人として刻み込もうとしている。

 彼らだけは、この先に続く「未来」の形を知っていた。


「ガーディスの復興の話を最初にしたな。その復興の最後の仕上げとして、ガーディス自治区をアステリア王国から独立させる」


 落雷のような一言であった。

 静寂を、物理的な質量を伴ったざわめきが塗り潰していく。

 王国の版図を自らの手で切り離し、他国として認める。

 それは、アステリアが百年の歳月をかけて積み上げてきた、支配という名の歴史を根底から否定する行いであった。


「ガーディス自治区は、新生ガーディス商業国として独立する。これにより、百年近く王国の植民地だったガーディスは、再び一つの国家として歩むことになる」


 ヴォルガンの視線は、泥濘と死臭の中から立ち上がった、あの地を見据えているかのようであった。

 奪うことで保たれてきた主権を、与えることで完成させる。

 それは、ヴォルガンという国王にしか成し得ぬ、凄絶なまでの抜本改革であった。


「私は未来を見ることのできなかった王だと言った。だが、ガーディス復興の半年間、現地でメリーちゃんの背中を見続け、アルベルトたち西の連中に混ざり、未来を創るというのはこういうことなのだと学んだ。私はもう、未来を見ることができない王ではない」


 ヴォルガンの眼差しが、群衆の中に立つ一人の少女を捉えた。

 ピンクブロンドの髪を気高く結い上げ、エメラルドグリーンの瞳に揺るぎない意志を宿したその姿。

 隣に立つアイゼンハイドや、直立不動の巨躯のノルトヴァルトの姿。

 彼らが泥に塗れて切り拓いてきた「今日」の積み重ねこそが、ヴォルガンの閉ざされていた視界を抉り開いたのだ。


「私は、胸を張って王国を出て行き、ガーディスの王となる。アルベルトに王位を継承するのはこのためだ」


 ヴォルガンが、自らの頭上に載る王冠へ手をかけた。

 黄金の輝きが、冬の光を弾いて鈍く揺れる。

 アステリア王国の重圧そのものであったその冠を、彼は微塵の躊躇いもなく、ゆっくりと、しかし確実に外した。

 それは、アステリア王国の国王が、その座を譲る決定的な瞬間であった。

 諸侯たちは息を呑み、近衛兵たちはあまりの喪失感に、槍を握る拳を白く染めた。

 広間には、空気が凝固したかのような、重苦しい沈黙が降り積もる。

 その静寂の中で、ヴォルガンは一歩、アルベルトへと歩み寄った。


「アルベルト、お前のその未来を創る力で、アステリア王国を導いてくれ」


 その手にある王冠が、アルベルト・アステリアの頭上へと静かに降ろされた。

 王家の血脈という重厚な連なりが、剥き出しの力によって奪われるのではなく、確かな意志によって継承された証。

 アルベルトは、その重みを全身で受け止め、翡翠の瞳を射抜くようにヴォルガンを見返した。


「約束しよう。アステリア王国を必ず善き国にすると誓う」


 短く、しかし地を這うような力強さを湛えた、新王の初声であった。

 そこには、数多の民を導いてきた者にしか宿らぬ、絶対的な覚悟が宿っている。


「玉座へ」


 ヴォルガンが、空位となった玉座を指し示した。


「ああ」


 アルベルトの足音が、静謐な広間に硬く響く。

 彼は迷うことなく石段を昇り、アステリアの象徴たる玉座へとその身を沈めた。

 深く、そして威厳をもって。

 背筋を伸ばし、一方の足を組み、ひじ掛けに無造作ながらも重厚に寄りかかる。

 ここに、新たなアステリア国王が誕生した。

 その姿は、朝日を背負う峻烈な山脈のように、参列者たちの視線を釘付けにする。

 退位したヴォルガンは、一段下からその新王の姿を凝視した。

 その瞳には、かつての憎悪も、支配への執着もない。

 そこにあるのは、共に地獄を覗き込み、なおも光を求めて足掻き続けた兄への、複雑で、それでいて温かな情愛であった。

 だが、その感慨は、ヴォルガンの喉の奥から漏れ出た異質な響きによって、唐突に打ち砕かれる。


「……ぶふっ。……アルベルト、お前、こんなに王冠と玉座が似合わないとは思わなかったぞ」


 ヴォルガンが、堪えきれないといった様子で吹き出した。

 その言葉には、新王への敬意を欠片も感じさせない、呆れと嘲弄が混じり合っている。


「なんだと!?」


 アルベルトの眉間に、鋭い皺が刻まれた。


 自らの姿を確認することのできないアルベルトは、反応を確かめるように銀髪の従者へと視線を向けた。

 しかし、ジャックは主君の期待に応えることなく、ただ静かに目を伏せた。

 口を開けば致命的な不敬を口にしかねない、という拒絶の沈黙。


 アルベルトは、次にメリーへと目を走らせた。

 思ったことをそのまま口にする、あの毒舌な少女であれば、何らかの真実を告げるはずだ。

 メリーは一瞬、目を丸くして新王を見つめたが、直後に、不自然に視線を窓の外の冬空へと逸らした。

 頬が微かに引き攣っているのを、アルベルトは見逃さなかった。


 最後に、彼は誠実の塊であるアイゼンハイドへと縋るような視線を向けた。

 公爵となったばかりのその男は、アルベルトと視線が合う直前、軽く咳払いをし、一点の汚れもない石床を凝視した。


「……くっ!」


 アルベルトの喉から、押し殺したような唸りが漏れる。


「お前に足りないものは髭なのかもな……。お前も三十半ばだ。いつまでもツルツルの顔をしていないで、髭でも生やせばどうだ? 先王、……父上は立派な髭を蓄えていただろう」


 ヴォルガンが、新王の顎を見て愉快そうに笑う。

 かつての玉座の主が口にした、あまりにも世俗的で、それでいて家族的な助言。


「……髭か? 俺に足りないものは髭なのか?」


 アルベルトは、自らの滑らかな顎に手をやり、真剣に困惑の表情を浮かべた。

 先ほどまでの、血を吐くような緊張感と、一国の終焉を予感させる絶望に満ちていた空気は霧散し、広間には、冬の陽だまりのような柔らかな空気が漂い始めていた。


「まあ、髭はしょうがない。アルベルト、新王としての挨拶を済ませろ」


 ヴォルガンは、満足げに頷くと、自ら一段降りて参列者の中に混じった。

 そこにはもう、アステリア王国の玉座を背負う「王」の姿はなく、ただ新生ガーディスの未来を双肩に担う王の背中があった。


 アルベルトは、深く、長く、一度だけ息を吐いた。

 そして、ゆっくりと玉座から立ち上がる。

 その瞬間、広間の空気は再び、研ぎ澄まされた刃のように鋭く冷え切った。

 アルベルトの紺碧の瞳から、温和な気配が消える。

 彼は参集した者たち一人ひとりを、射抜くような鋭い眼差しで見渡した。


「アルベルト・アステリアだ」


 低く、決して大きくはないが、広間の石壁に反響し、脳髄にまで届くような透徹した声であった。


「十年の時を経て、ようやく玉座に就いた。だが、これを回り道だとは思わない。俺はこの十年、西でいろんなことを学んだ。これは、国王になるために必要なことだった」


 アルベルトは一度、言葉を区切った。

 その脳裏には、レグスの泥濘、荒れ果てた街道、そして共に歩んできた者たちの背中が、奔流となって駆け巡っているのだろう。

 その静寂は、参列者たちの胸を締め付けるような、重苦しい情感を伴っていた。


「アステリア王国国王として、みなに安寧を約束することはできない。なぜなら、未来を切り拓く道には、必ず犠牲がつきまとうからだ」


 祝賀の空気が、一瞬で凍りついた。

 諸侯たちは顔を見合わせ、広間には不安と驚愕のざわめきが波紋のように広がっていく。

 新王の口から語られるべき、耳当たりの良い平穏の誓いは、そこには存在しなかった。


「俺たちは、戦後二十年、復興を果たせぬままここまで来てしまった。これは過去の、そして未来への負債だ。我々の代で、この負債は清算せねばならない。そのための責任と義務があることを、みなには自覚してほしい」


 その言葉は、玉座の間を埋め尽くす貴族たちへの、峻烈なまでの宣告であった。

 アルベルトの背中には、彼が背負ってきた数多の命の重みが、目に見えるほどの質量をもって宿っていた。

 ざわめきは、いつしか沈黙へと塗り替えられる。

 それは、触れれば切れるような、新王の凄絶な覚悟に圧倒された結果であった。


「帝国は、カイロス皇帝陛下の代で戦後復興を済ませた。我々王国はどうだ? まだ、ヴォルガンが造ってくれた王国の基盤しかない。だが、この基盤は未来に向けて、非常に重要な意味を持つ。我々は、この基盤の上で、次世代への希望を創り続けねばならない。我々は今日から、未来を創るための戦いに臨む。俺からの国王就任の挨拶は以上だ」


 アルベルトの声が止む。

 静寂は、もはや恐怖ではなく、畏怖へと変わっていた。

 アステリア王国の古い壁が崩れ去り、その瓦礫の上に、新たな時代が産声を上げる。

 冬の陽光は、いまや王冠を戴く新たな支配者の頭上で、荘厳なる黄金の輪を描き出していた。


     ──────


 新王アルベルトの宣戦布告とも取れる峻烈な挨拶が終わり、広大な広間には、耳の奥が痛くなるほどの静寂が横たわっていた。

 祝賀の熱狂は霧散し、参列した諸侯たちは、自分たちの足元に口を開けた深淵を覗き込むような、底冷えのする緊張に縛られている。

 玉座の前に立つアルベルトは、その沈黙を切り裂くように、重厚な声を響かせた。


「近衛隊長、アレを持て」


 アルベルトは紺碧の瞳を向け、参列者の中に立つ一人の男を見据えた。

 静かな、だが拒絶を許さぬ絶対的な響きを伴った指示であった。

 近衛隊長の短い返答が、静止した空気を微かに震わせる。


「は!」


 最前列に控えていた近衛隊長が、一礼して背後の控室へと下がる。

 石床を打つ鎧の擦れる音だけが、高い天井に虚しく反響した。


 やがて戻ってきた隊長の手には、長尺の物が恭しく捧げられていた。

 それは、贅を尽くした厚手の布地で厳重に包まれており、その中身を窺い知ることはできない。

 アルベルトは一段高い玉座の前から、ゆっくりと石段を降りた。

 隊長からその包みを受け取ると、彼は迷いのない手つきで、何重にも巻かれた布を解き放った。


 冬の光を浴びて、それは眩いばかりの輝きを放った。

 黄金の精緻な装飾が施された、白い鞘。

 一点の汚れもない純白の柄。

 アルベルト・アステリアが長年その腰に佩き続け、数多の修羅場を共に潜り抜けてきた、あの装飾剣であった。


「ヴォルガン、前へ」


 その呼びかけに応じ、退位したばかりの王が、悠然たる歩みで石段の前へと進み出た。

 王冠を脱ぎ捨て、新生ガーディス商業国の王としての覚悟を背負った男の背中には、支配者としての覇気とは異なる、剥き出しの強靭さが宿っている。

 対峙する二人の間には、血を分けた兄弟であり、玉座を奪い合った宿敵であり、そして新たな時代を創る同志であるという、複雑に絡み合った絆の熱が満ちていた。


「ヴォルガン、この剣が何かわかるか?」


 アルベルトが、その白い剣を水平に差し出した。

 ヴォルガンは黄金の装飾に彩られた鞘を凝視し、不思議そうに首を傾げた。


「お前がずっと使い続けていた剣だろう。磨きに出したのか? やたら綺麗になっているが……」


 ヴォルガンの声には、戸惑いが混じっていた。

 その男にとって、その剣は「兄が持つべき象徴」として馴染み深いものではあったが、それ以上の意味を見出してはいなかった。


「そうだ。鞘に柄、刀身に至るまで、完璧に磨き上げた。これをお前に譲る。ガーディスの王になる、アステリア王国を出て行くお前への餞別だ」


 アルベルトの言葉が、広間に集った者たちの意識を激しく揺さぶった。

 アルベルトの魂とも呼ぶべき宝剣を、去り行く者へと託す。

 それは、単なる武具の譲渡ではない。

 アステリア王国の正統なる継承者が、新国家の王へと贈る、絶対的な信頼の証左であった。


「……っ!」


 ヴォルガンの喉が、小さく鳴った。

 差し出された剣を、彼は吸い寄せられるように受け取った。

 アルベルトは無造作にその手を離し、傍らに立つヴォルガンへと、さらに言葉を重ねた。

 その声は、広間の隅々にまで染み渡るような、歴史の重みを湛えている。


「俺は王国騎士団最強の剣士だ。その俺が持つ剣は、俺の、王国の魂と言っても過言じゃない。だが、この剣は、元々お前の物だったんだ」


 アルベルトの一言に、ヴォルガンの瞳が大きく見開かれた。

 黄金の鞘を握る指先が、微かに震える。


「……どういうことだ?」


「この剣はな、お前が国王になった時に、先代の『剣鬼』オルコット辺境伯が、お前への進献の品として打たせた物だ」


 広間に、どよめきが走った。

 先代オルコット辺境伯。

 アステリア王国の守護神であり、武の頂点に君臨したあの老雄が、自ら一振りの剣を鍛え、新たな王に捧げようとしていた。

 その事実は、ヴォルガンが簒奪者としてではなく、真に王国の支柱たちから認められていたかもしれないという、失われた可能性の断片であった。


「……オルコット辺境伯が……」


 ヴォルガンの呟きは、掠れた吐息のように消えた。

 手の中にある剣の重みが、先ほどまでとは全く異なる意味を帯びて、彼の掌に食い込む。


「そして、輸送の際に盗賊に奪われた。その後に、盗賊を狩ったメリーがこれを入手し、俺に持たせたものだ」


 アルベルトは、傍らに立つメリーへと視線を投げた。

 ピンクブロンドの髪を揺らし、凛とした佇まいでその光景を見守る少女。

 運命は、あまりにも残酷で、そしてあまりにも美しい円環を描いていた。

 奪われたはずの王の証が、一人の少女に拾われ、王位を追われた王子の手に渡り、そして今、本来の主のもとへと還ってきたのだ。


「そんな経緯が……」


「運命じみたものを感じるか?」


 アルベルトの問いに、ヴォルガンは深く、重く、頷いた。


「ああ、それは運命を感じるさ。これが巡り巡って私の手にある。それも、メリーちゃんとアルベルトの手を介して、だ」


 ヴォルガンの視界が、微かに滲んだ。

 十年前、自らが踏みにじったはずの絆が、形を変えて、今こうして自分を支える柱となっている。

 しかし、アルベルトの眼差しは、感傷に浸ることを許さぬ厳しさを湛えていた。


「わかる。だが、この剣を持つということは、そんな生易しいことじゃない。この剣にメリーが付けた縛りだ。『死んで奪われることを禁ずる』。お前へも、この縛りを付ける」


 その瞬間、広間の空気は再び、剥き出しの刃を突きつけられたような緊迫感に支配された。

 「死んで奪われることを禁ずる」。

 それは、生への執着を強いる言葉ではない。

 自らが背負った民の命を、希望を、未来を、決して途中で放り出すことを許さぬという、残酷なまでの王の呪縛であった。


「……いつか言っていたな、道半ばで倒れることは許されない、と」


 ヴォルガンが、低い声で応じた。


「そうだ。メリーの縛りだけじゃない。『剣鬼』からその剣を持つことを認められ、辺境伯領の命運すら背負った俺の宿命だ」


 アルベルトの背中には、この十年、彼が歩んできた修羅の道の重みが宿っている。

 名もなき民の飢えを救い、荒野を切り拓き、血を流して守り抜いてきた、あの凄絶な日々。

 そのすべてが、この一振りの剣に凝縮されていた。


「私にもそれを背負わせるんだな? ガーディス自治区の支援に駆けつけた面々、私についてくれたベルン、そして、私を送り出してくれるお前……」


 ヴォルガンの声が、熱を帯びて震える。

 彼は、自らの肩にかかる目に見えぬ鎖の感触を、確かに感じていた。

 それは、アステリア王国という巨大な器を去り、新たな地へと足を踏み出す彼に与えられた、唯一にして最大の加護であった。


「そうだ。お前は一人じゃない。お前に力を貸してくれる、お前に賭けてくれる人たちのために、お前は道半ばで倒れることは許されない。もちろん、俺もその一人だ」


 アルベルトの手が、ヴォルガンの肩を強く叩いた。

 それは、兄弟としての情愛を超えた、王としての、そして戦友としての魂の連帯であった。


「……アルベルト」


 ヴォルガンは剣を抱えたまま、深々と頭を下げた。

 その肩が、微かに震え始める。

 床に落ちた滴が、冬の光を弾いて小さく跳ねた。

 ヴォルガンの目から、隠すことのできない涙が零れ落ちる。


 玉座の間は、再び静寂に包まれた。

 しかし、それは先ほどまでの凍てつく沈黙ではなく、祈りにも似た、重厚で静謐な空気であった。

 誰もが、一人の王がその役割を果たし、新たな使命へと解き放たれる瞬間を、息を潜めて見守っていた。

 アルベルトは、涙を流し続けるヴォルガンから静かに目を離し、メリーへと向き直った。


「メリー、これでいいんだよな? お前と約束した『死んで奪われることを禁ずる』。これが俺なりの答えだ」


 その問いかけに、メリーはエメラルドグリーンの瞳を潤ませながら、優しく微笑んだ。


「いいわ。私が想像していた答えとは違うけど、それを遥かに上回る完璧な答えよ」


 メリーの頬を、一筋の光が伝った。

 彼女たちの出会いから八年。

 泥を啜り、闇を這い、互いの背中を預け合って辿り着いた、この到達点。

 復讐でもなく、支配でもなく、ただ「未来」を繋ぐために捧げられた誓約。


 アルベルトとメリーの肩から、長年彼らを縛り付けていた、玉座へ至るための奪う戦いという名の重圧が、音もなく滑り落ちていった。

 二人は、ようやく「今日」という名の安息を、束の間だけ手にしたのだ。

 それは、真の意味での王国再建という「創る戦い」が始まる直前の、刹那の静寂であった。


 ヴォルガンは、未だに手にした剣を抱きしめ、涙を零し続けている。

 その姿は、あまりにも人間的で、あまりにも尊かった。

 アルベルトが、再び言葉を紡ごうと、口を開きかけたその時……。


 玉座の間の入り口の扉が、突然開かれた。


 現れたのは、専属の衛兵たちに厳重に守られた、一人の老婦人であった。

 その存在そのものが、祝祭の場に底なしの緊張を走らせる。

 誰もが、その存在を忘れようとしていた。

 あるいは、その深淵に触れることを恐れ、目を逸らし続けていた。


 ミディア王太后。


 アステリア王国、最後の不確定要素。

 三十年の歳月をかけて醸成された昏い憎悪の塊が、ついにその姿を現した。

 彼女が王宮の専用区画から姿を現したのは、一体いつ以来のことか。

 新王誕生の歓喜と、魂の和解に満ちていた玉座の間は、一瞬にして、逃げ場のない惨劇の予感へと塗り替えられた。


 アステリア王国の、本当の「清算」は、まだ終わってはいなかった。


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