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第79話:譲位、公爵領の再編、アステリア王国最後の不確定要素

「みなも知っていると思うが、セレスタイン公爵家を再興させる。公爵はメリーちゃんだ」


 国王ヴォルガンの峻烈なる声音が、初冬の静寂に沈殿する執務室の空気を裂いた。

 その言葉は、集った面々にとって、既に共有された既定の事実であった。

 しかし、いざ王の口から正式な意志として放たれた瞬間、それは単なる計画を超え、王国の歴史という重厚な大河を激しく逆流させるほどの質量を帯びて響く。


「メリーちゃんはセレスタインの血を引く正統な後継者だ。アルベルトの妻もそうだな」


 ヴォルガンは窓外から差し込む鋭い陽光を背負い、逆光の中でその眼光を一層研ぎ澄ませた。

 視線の先には、固い絆で結ばれた兄アルベルトの姿がある。

 王族としての誇りを誰よりも理解し、同時にその血がもたらす呪縛の恐ろしさを知る二人にとって、この宣言は救済であると同時に、新たなる責任の始まりでもあった。


「そうだ。アンナマリーとメリーの出自はセレスタインだ」


 アルベルトの低い、しかし揺るぎなき肯定が執務室の壁に静かに染み込んでいく。

 先の大戦で滅んだ公爵家の灯火が、今、ようやくその正しき継承者の手によって、再び王国を照らそうとしている。


「なので、一時的ではあるが、メリーちゃんをセレスタイン公爵にし、ひと段落ついたところで、アルベルトの娘、アルマリアちゃんに引き継がせる。いいな?」


 ヴォルガンの提案は、王国の永続性を担保するための研ぎ澄まされた合理的配慮に満ちていた。

 メリーという苛烈な手段の投入により、セレスタイン領を一気に変革し、その遺産を次世代が継ぐ。


「いいぞ。俺とアンナマリーが後見人になる」


 アルベルトの即答には、一片の迷いも含まれていなかった。

 自らの愛娘が背負うことになる、公爵家という巨大な天秤。

 それを支えるために、自らもまたその生涯を賭す。

 父親としての、そして王族としての静かなる覚悟が、その双眸の奥で琥珀色の光を放っていた。


「一時的、ですか。私はメリーちゃんを支えるつもりですが、彼女の引退と同時に私も引退して良いのですかな?」


 老貴族レイモンドの問いかけは、どこか安堵を含んだ、しかし深い孤独を湛えた響きを伴っていた。

 自らの両手は、かつての裏切りと策謀によって、拭い去れぬ血と泥に汚れている。

 死に場所を探していた老文官にとって、未来の子供たちへ道を譲るという幕引きは、この上ない救済に感じられたのであろう。


「ああ、メリーを支える侯爵になるんだったな。後継者がいるのであればそれも可能だ。いるんだよな?」


 アルベルトの問いが、レイモンドの肺腑を鋭く突く。

 かつての大戦。

 その荒波の中で、多くの若き才能が散り、多くの家系が途絶えた。

 しかし、レイモンドという男が守り続けてきたものは、単なる屋敷や財産ではなかった。


「います。レイモンド家には優秀な人間が多い。私の直系は先の大戦で死んだが、伊達に伯爵家を守り続けてはいない。そこは大丈夫だ」


 レイモンドの返答には、伯爵家の長としての揺るぎなき誇りが宿っていた。

 たとえ主幹が折れようとも、地下に張り巡らされた根は、次なる芽吹きの時をじっと待ち続けている。

 その執念こそが、王国を影から支え続けてきた貴族社会の、恐ろしくも強靭な生命力の正体であった。


「そうか。レイモンドが侯爵になり、メリーちゃんを支えるか。よく決断したな。お前が行く先を決めていないのであれば、ガーディスへ連れて行こうと考えていた」


 ヴォルガンの言葉は、最大の賛辞であった。

 有能な者を自らの傍に置き、その才を骨の髄まで絞り尽くすのが王の流儀である。

 それを曲げて、最重要拠点の復興を託す。

 ヴォルガンは、レイモンドという男の中に、自分と同じ「償い」という名の灯火を見たのかもしれない。


「はい。メリーちゃんに言われました。『不逞貴族の誹りを受けながら、私を支える侯爵になれ』、と」


 レイモンドがその名を口にする際、わずかにその目元が和らいだ。

 傲岸不遜な少女が放った、あまりにも非情で、あまりにも慈悲深い「罰」。

 それは、過去の罪に喘ぐ老人にとって、この世に踏み留まるための唯一の理由、唯一の「許し」として機能していた。

 泥を啜ってでも生き、未来の誰かのためにその智慧を捧げる。

 少女の設計図は、老貴族の魂を再び騎士へと回帰させていた。


「それも責任の取り方の一つだ。お前がその道を選んだのであれば、何も問題はなかろう。今回の王城の政務を回した功績と合わせて、お前を侯爵にする。式典でメリーちゃんを公爵に叙爵する際に、お前も陞爵させよう。いいな? アルベルト」


 ヴォルガンの宣言は、新たな時代の秩序を物理的な形として刻み込むための、神聖なる儀式としての重みを伴っていた。

 権威という名の光が、影に潜んでいた者たちを、正当なる統治者として再び舞台の上へと引き上げていく。


「いいぞ。俺もその話を一緒に聞いていた。問題ない」


 アルベルトの同意は、王家の二つの意思が完全に一致したことを示していた。

 もはや何者も、この決定を覆すことはできない。


「は。ありがとうございます」


 レイモンドは深く、その老いた頭を垂れた。

 その動作は、もはや恐怖や盲従によるものではなく、自らの魂を捧げるべき主君を見出した、一人の家臣としての清冽なる忠義の形であった。

 卓上の茶が、わずかに揺れて波紋を描く。


「セレスタイン領には貴族が足りない。そこはどうするんだ?」


 アルベルトの懸念は、統治の現実という名の巨大な壁であった。

 公爵という頂点と、侯爵という支えがあろうとも、領内の政務を回し、民の声を汲み取る末端の「目」がなければ、再興は絵空事に終わる。


「レイモンド家から分家を作るのが一番だが、足りない分はヴェリウスから補充させよう」


 ヴォルガンの視線が、静かに控えていたヴェリウスへと向けられた。

 アステリア王家ことヴェリウス領で、統治を学んだ貴族の次男や三男は多い。

 彼らをセレスタインへ派遣させることを視野に入れるのは当然の差配であった。


「伯爵家は当家から分家を出しましょう。それ以上は親族経営になるので好ましくないですな」


 レイモンドの助言は、長年の行政経験に裏打ちされた客観性に基づいていた。

 一族の独占は、腐敗と衰退の始まりである。

 異なる血を混ぜ、互いに競わせることでしか、強靭な組織は生まれない。


「……だそうだ。ヴェリウス、何人か見繕っておけ」


「承知いたしました」


 ヴェリウスの短い、しかし淀みのない返答。

 その声には、自らの手塩にかけた部下を送り出す、一抹の寂しさと、王国の未来への誇らしい期待が混じり合っていた。

 窓外から冷たい冬の風が吹きつけていたが、室内の熱気がそれを遮っていた。


     ―――――


 『海鳥』の娘が熱い茶を淹れ直し、一息ついた。

 ヴォルガンはカップに手を伸ばし、微かに立ち上る湯気を吸い込んだ。

 張り詰めた空気が、束の間だけ緩む。

 しかし、それは次なる嵐、さらに巨大な再編への序奏に過ぎなかった。


「次は、アイゼンハイドの件だ。アイゼンハイドを公爵にするにあたり、彼を支える侯爵を誰にする?」


 ヴォルガンの問いが、西側全域を統べる巨大な権力構造の、最後のピースを求めていた。

 西の公爵。

 それは、王国の命脈である食糧供給を司る、文字通りの「生命線」である。

 その肩を支えるのは、並大抵の才覚では務まらない。


「ダルトンだろう」

「ダルトン子爵しかいないな」


 アルベルトとバルカスの声。

 二人の意見は完全に一致した。

 武を重んじ、義を貫き、愚直なまでに誠実な男。

 その名は信頼という言葉の具現化であった。


「やはり、ノルトヴァルト侯爵では距離的に遠すぎるか。彼は彼で重要な役割を担っているしな。よし、ダルトンにするか」


 最果ての地を拓くマクシミリアンは、その地に根を張るべき「大樹」である。

 対してダルトンは、アイゼンハイドという巨大な「盾」を支える不変の役割が期待されていた。


「『猛将』ダルトンか。彼は政治的な立場を好まないがゆえに、西の辺境の子爵という地位に甘んじていたんじゃないのか?」


 レイモンドの問いには、わずかな疑念が含まれていた。

 巨大な政治的権力を与えることを、はたして彼が受け入れるだろうか。

 しかし、その疑念を、西を愛する者たちの笑顔が即座に打ち砕く。


「アイゼンハイドとダルトンの信頼関係は固い。アイゼンハイドが支えてくれと言えば、ダルトンも断らないだろう」


 アルベルトが断定する。

 当時、敵地であるにもかかわらず、常にダルトン邸へ足を運び続けていたアイゼンハイド侯爵。

 温和な空気を纏っていた彼の行動からは、ダルトンへの信頼と気遣いが滲み出ていた。


「そうだな。アイゼンハイド侯爵不在の間、アイゼンハイド領を支えたのはダルトン子爵だ。彼しかいないだろう」


 バルカスの補足は、事実という揺るぎなき証拠を突きつけていた。

 名誉ではなく実務で。

 地位ではなく行動で。

 ダルトンという男は、既にその地位に相応しい実績を、大地に刻み込み続けていたのである。


「『猛将』ダルトンですか。話に聞いたことがあります。『剣鬼』とともに戦場を駆け抜けた王国騎士団の男ですよね」


 ヴェリウスが、どこか遠い時代を思い起こすような、畏敬の念を込めて呟いた。

 その場の空気が、歴史の断片を掘り起こすような、古色蒼然とした重みを帯びていく。


「そうだ。過去の内乱を『剣鬼』とともに鎮圧し、騎士爵となったのがまだ十代の頃。先の大戦では王国騎士団の団長として『剣鬼』を含めた王国軍を統率し、引退後は先代のアイゼンハイド侯爵に子爵として領地を割譲されたあのダルトンだ」


 レイモンドの澱みのない解説は、ダルトンという男が、アステリア王国という国体そのものの「体幹」であったことを浮き彫りにしていた。

 権力の美酒を拒み、ただ武人としての矜持のみを糧に生きてきた巨星。

 その存在は、腐敗した王都の貴族たちにとって、眩しすぎるほどに純粋な、古き良き時代の象徴でもあった。


「だからダルトンは『剣鬼』を呼び捨てにしていたのか。そういう関係だったんだな、彼らは」


 アルベルトが、どこか納得したように深く頷いた。

 上下の隔てなく、ただ一人の男として認め合う。

 そんな単純で、しかし何よりも困難な信頼の形が、そこには存在していた。


「ダルトンに跡取りはいるのか?」


 ヴォルガンの、王としての残酷な問い。

 家門の永続性の確保。

 個人の功績がいかに偉大であろうとも、その後に続く血が途絶えていれば、その家は砂上の楼閣に過ぎない。


「いない。先の大戦で妻子を亡くしている」


 レイモンドの低い声が、執務室の空気を急速に凍てつかせた。

 多くの命を救った「猛将」が、自らの最も大切な者たちを守れなかったという、あまりにも凄惨な、しかしこの国では珍しくもない悲劇。

 執務室を揺らす冬の風が、弔鐘の如く鳴り響く。


「ふうむ……。ここも跡取り問題か。どこまで行ってもこの問題は尽きないな」


 ヴォルガンが吐き出した溜息は、王国の未来を覆う巨大な雲のようであった。

 戦後の不安定な情勢とは言え、跡取りがいない貴族が多すぎる問題がそこかしこに存在する。


「養子をとるなり、アイゼンハイドの子息を送り込むなり、やり様はある。今はそれを考えても仕方がない」


 バルカスの合理主義が、澱んだ空気を切り裂いた。

 過去の悲劇に足を取られることは、統治者には許されない。

 どのような歪な形であろうとも、システムを維持し、国を回し続けること。

 その非情なまでの意志が、バルカスという男を形作っていた。


「そうだな。この話はここまでにしよう。……次だ」


 ヴォルガンが、決然と話題を切り捨てた。

 感情を殺し、次の駒を進める。


「王位の継承の話か」


 アルベルトが、自らの首元に刃を突きつけられたかのような、峻烈な気迫を込めて問いかけた。

 それは、もはや避けることのできない、王国の終焉と始まりを告げる合図。


「そうだ。三日後の式典でお前に王位を継ぐ。私は式典の後、すぐにガーディスに立つ。お前は準備をしておけ」


 自らが築き上げ、血を流して守ってきた玉座を迷いなく譲る。

 その背中には、権力への執着を微塵も感じさせない、ただ未来の平和のみを願う、一人の巡礼者のような清廉さが宿っていた。


「準備と言われてもな……」


 アルベルトは、自分が国王になることを目的にここまで走り続けてきた。

 準備などと言われずとも、すでにその魂は玉座にある。


「妻子を王城に迎え入れる準備だ。まさか何もやっていないのか?」


 ヴォルガンの呆れたような声音が、アルベルトの思考の死角を突いた。


「……っ!」


 アルベルトは絶句した。

 王国の未来。経済の再興。外交の均衡。

 巨大な盤面ばかりを見つめ、そこに生きるはずの、最も親愛なる者たちの「生活」を失念していた。

 その滑稽なまでの動揺は、彼が未だ、統治者としての無機質な理性よりも、一人の男としての熱い情動に支配されていることを物語っていた。


「お前……」


 ヴォルガンの蔑むような視線が、アルベルトを射抜く。

 どこか懐かしい、兄弟としての呆れ顔。


 その沈黙を破ったのは、影のように控えていた『海鳥』の少女であった。


「大丈夫ですよ。王妃様とご子息の受け入れの準備は済んでおります。辺境伯にも、式典に来る際はアンナマリー様とそのご子息を同行させるよう伝えてあります」


 執務室の隅で、彼女は当然の義務を果たしたと言わんばかりの、涼しげな表情で立っていた。

 アルベルトの盲点を、その「影」たちが完璧に埋めていたのである。


「アルベルト、お前よりよっぽど優秀じゃないか、『海鳥』は。大丈夫か? お前」


 ヴォルガンの容赦ない追撃が、アルベルトの誇りを微塵に砕いた。

 王という名の偶像を、実務を司る影が支える。

 その不均衡で、しかし強固な組織の在り方を、ヴォルガンは称賛と警告を込めて指弾した。


「……くっ!」


 アルベルトは唸るしかなかった。

 自らの不甲斐なさと、それを見事に補完してみせた部下たちの優秀さ。

 その圧倒的な格差を認めざるを得ない屈辱が、彼の頬を赤く染めた。


「今後、『海鳥』はどうするんだ?」


 ヴォルガンの視線が、再び影の少女たちへと向けられた。

 王国各地に根を張り、情報を支配する、西側の「目」。

 その去就は、今後の王都の安定を左右する極めて重要な要素であった。


「アルベルト殿下に、というか、ジャック君について王都に残る者が大半だ。彼女たちはジャック君に任せる。『海鳥』は王都に残る彼女たちを指す言葉になる」


 バルカスの明快な指針は、組織の合理的な分割を示していた。

 権力の中心地を監視し、王位の交代に伴う混乱を未然に防ぐ。

 『海鳥』という名の影が、新王の翼となって、王都の空を覆うことになる。


「残りはレグスに連れて帰る、か」


「ええ。メリー君に数名、それ以外はレグス商会の特殊警備員としての仕事をさせる」


 バルカスの言葉通り、西側の組織は、再び経済という名の母体へと回帰していく。

 戦うための力から、豊かさを守るための力へ。

 それは、西側が目指してきた、本来の平和の在り方への回帰でもあった。


「待ってくれ。私の屋敷に潜入している彼女たちはそのままにしておいて欲しい。彼女たちの能力が必要だ」


 レイモンドの、切実なまでの引き止め。

 監視と暗殺の役割を担った『海鳥』が、今や彼にとって、行政を円滑に動かすための手放せぬ「知恵」となっていた。

 老貴族のその言葉こそ、彼女たちが成し遂げた「潜入」の最も華々しい成果であった。


「いいでしょう。彼女たちの意見を聞いてみます。給金はレイモンド伯が支払う、で良いのですね」


 一切の妥協を許さぬ実利的な確認。

 忠誠や義理だけでなく、確固たる契約によって支えられる関係。


「ああ、それでいい。給金はできる限り彼女たちの希望に沿うようにしよう」


 レイモンドの寛大な、しかしどこか必死な譲歩。

 地位ある者が、影の少女たちの機嫌を伺うという、かつての王国ではあり得なかった奇妙な光景。


「彼女たちは飯を食って茶を飲んで寝てるだけ、じゃなかったのか?」


 アルベルトの、どこか茶化すような、しかし温かい問いかけ。


「言わんでくれ。彼女たちの優秀さは身に染みてわかっている。この先を考えると、どうしても手放せんのだ」


 レイモンドの苦笑混じりの返答。

 自身の能力に自惚れず、他者の卓越した才能を素直に受け入れる。

 老伯爵が辿り着いたその境地は、再生する王国にとって、何物にも代えがたい「徳」となっていた。


「あの……、『海鳥』って何ですか? 彼女たち? 何かの隠語ですか?」


 ヴェリウスの、当惑に満ちた問いが、静寂を破った。

 中央の権力の中枢に身を置きながら、自らの足元を蠢く影の正体を知らぬという、致命的な「純粋」。

 その場の空気が、わずかに冷ややかに、そして慈悲深く震えた。


「ああ、『海鳥部隊』という、西の反逆組織の諜報・暗殺・殲滅部隊の名前だ。彼女たちがそうだ」


 ヴォルガンの淡々とした、しかし有無を言わさぬ事実の提示。

 その指先が、壁際に立つ、可憐で無機質な少女たちを指し示す。

 その瞬間、ヴェリウスの全身を、形容しがたい悪寒が駆け抜けた。


「はい。我々がその『海鳥部隊』です。私は暗殺部隊『鴎』の班長、こちらが殲滅部隊『鶚』の班長です。この王城にも十名以上の『海鳥』が潜入しています」


 『鴎』の班長の、鈴を転がすような、しかし温度の一切感じられない自己紹介。

 微笑みを絶やさぬその表情の裏に、どれほどの骸が積み上げられているのか。

 『鶚』の班長が、事務的に、しかし完璧な礼節を以て、ぺこりと頭を下げた。

 その平伏の動作一つにすら、獲物の急所を瞬時に貫く、極限まで研ぎ澄まされた死の予感が宿っていた。


「西の反逆組織? そんな物騒な連中の諜報員を王城に入れて大丈夫なんですか?」


 ヴェリウスの悲鳴に近い抗議。

 それは、秩序を重んじる行政官としての、正当な、しかしあまりにも脆弱な拒絶であった。


「アルベルトの組織だ。問題あるまい」


 ヴォルガンの返答は、論理を超えた、絶対的な「信頼」に基づいていた。

 すでに『海鳥』の優秀さと実用性を知っているヴォルガンにとって、それは恐怖の対象などではない。


「アルベルト殿下の? え?」


 ヴェリウスの視線が、アルベルトへと向けられた。


「情報に疎いな、ヴェリウス侯爵。ヴェリウス領は我々の標的ではなかったとはいえ、国内の反乱を知らないのはマズいだろう。情報は戦力だよ。軽視するのは良くない」


 バルカスの、教えを説くかのような、しかし峻烈な非難。

 戦わずして勝つために。

 奪われる前に奪うために。

 情報を制せぬ者は、いかに高潔であろうとも、盤上の塵に過ぎない。


「そう言ってやるな。ヴェリウスはこれからの人間だ。足りないものはこれから学んでいけばいい」


 ヴォルガンの、どこか慈悲深くも厳しい評価。

 自らの限界を知り、絶望を越えて成長する者だけが、次の時代を生き残ることができる。

 王の言葉は、ヴェリウスへの期待であると同時に、変わらぬ者への引導でもあった。


「そうだな。もう、西も反乱もないんだ。今後、王国の歴史として学べばいいだけの事だろう」


 アルベルトの、過去を切り捨て、未来を抱擁するような大らかな響き。

 凄惨な闘争も、命懸けの潜入も。

 すべては、平和という名の巨大な基盤を築くための、一時的な資材に過ぎなかった。


「ああ、その通りだ。……で、西は解体するのか?」


 ヴォルガンの、核心を突く問い。

 一つの巨大な力が消滅する時、そこには必ず、制御不能な混沌が生まれる。

 西側という巨大なうねりを、いかにして王国の秩序の中へと吸収させるのか。


「西側連合という軍事組織は解体し、辺境伯領は元の役割に戻る。西側大穀倉地帯構想を含む西側経済圏はアイゼンハイド公爵に移譲する。私とベルン君の役割は終わりだ」


 バルカスの、あまりにも淡々とした、あまりにも見事な幕引きの宣言。

 権力の絶頂にありながら、それを執着なく手放す。

 その決断の裏には、西側で培われた「自立」という名の、何物にも縛られぬ魂の自由があった。


「そうか。お前には西の総帥として活躍した褒賞を取らせたい。希望はあるか? ブラッドレイ子爵」


 ヴォルガンの、王としての、そして信頼の証としての深い謝意。

 王国を救い、王位を支えた男への、最大級の労い。


「メリー君を頂きたい」


 バルカスの、刹那の躊躇もない、あまりにも唐突で、あまりにも個人的な欲望の吐露。

 執務室の空気が、一瞬にして爆ぜた。


 ヴォルガンとアルベルトは、同時に目を見開き、信じがたいものを見るかのようにバルカスを凝視した。

 政治的な利権でも、広大な領土でもなく。

 ただ一人の、あまりにも扱いにくい少女を求める。

 その狂気とも呼べる執着が、一分の隙もない美丈夫の唇から放たれた。


「……それは、私の権限では不可能だ。彼女が役割を終えてレグスに戻ったら、自力で口説け」


 ヴォルガンの、困惑と苦笑が混じり合った、しかし真摯なまでの拒絶。

 王の力をもってしても、あの少女の魂を鎖で繋ぐことはできない。

 それは、力による支配の限界を、王自身が認めた瞬間でもあった。


「子爵は人生の全てをメリーに賭けて実行してきた実績がある。それを口にする資格は十分にある。だが、国王になる俺にもそれをメリーに命じる資格はない。すまない」


 アルベルトの、深く重い、沈痛なまでの謝罪。

 彼女がもたらした光。

 彼女が背負わせた業。

 そのすべてを共有する者として、彼女を「道具」として扱うことは、自らの魂を汚すことに他ならなかった。


「いえ、言ってみただけです。元より、政治的要因でメリー君を手に入れることができるとは思っていない」


 バルカスの、どこか吹っ切れたような、清々しいまでの微笑。

 拒絶されることを分かっていて、なお口にする。

 それは、自らの戦いの意味を、自らの心に刻み込むための、密やかな儀式であったのかもしれない。

 

「すまないな。他に希望はないか? 伯爵になりたいとか……」


 ヴォルガンの、不器用なまでの埋め合わせの提案。

 目に見える名誉を与え、その功績を王国の記録に残さんとする。


「私は辺境の独立貴族のままがいい。アイゼンハイド公爵の傘下に入ることは構わないが、それ以上の縛りは受けたくない」


 バルカスの、不変の自尊心。

 地位によって縛られることを拒み、ただ自らの意思でのみ、そこに在りたいと願う。


「そうか。力になれなくてすまないな」


 ヴォルガンの寂しげな、しかし尊重に満ちた頷き。

 理解し合いながらも、それぞれに独立した生き方。

 それが、異なる正義を抱く者たちの、切なくも美しい関係の終着点であった。


「いえ、褒賞というのであれば船が欲しい。あのメリー・ローズ号はもう引退させねばならん」


 海という名のブラッドレイ領の基盤。

 そして、西側の沿岸を繋ぐ西側大穀倉地帯の命脈。

 少女の名を冠した船が、王国の未来を運ぶ。


「ヴェリウス、お前のところの造船所で造れないか? 大型のガレオン船だ」


 ヴォルガンの即座の決断。

 王国の長い歴史の中、無二の造船所を誇るヴェリウスの港。

 王国の資金とヴェリウスの技術による、未だ見ぬ巨艦が産声を上げる。


「可能です。詳細は別途詰めましょう」


 ヴェリウスの誇りを滲ませた返答。

 破壊の時代が終わり、創造の時代が始まる。

 その確かな予感が、執務室の重苦しさを、爽やかな希望へと塗り替えていく。


「だそうだ。これで手打ちとしてくれ」


「は。ありがとうございます」


 バルカスの、一礼。

 それは、長きにわたる闘争の終結と、新たなる平和な日々の始まりを告げる、静かなる契約の完了であった。

 窓外の雲が切れ、初冬の陽光が眩しく室内に注ぎ込む。


「今日のところはこれでいいな? 式典に向けて、各自準備をしておいてくれ」


 ヴォルガンが、毅然とした動作で立ち上がった。

 その背中には、一つの大きな仕事を終えた者だけが持つ、清々しいまでの疲労と充実が漂っていた。


「まだだ。大事なことを話していない。ミディア叔母さん、王太后のことだ」


 アルベルトの、氷のように冷たく、刃のように鋭い一言。

 その瞬間、執務室を包んでいた柔らかな光は、一転して不吉な影へと飲み込まれた。


 ミディア王太后。


 彼女の魂が、果たしてこの平和な幕引きを許すのか。

 彼女の憎悪が、次なる新時代への、凄惨な生贄を求めることはないのか。

 王太后という名の、アステリア王国最後の巨大な不確定要素。


 ヴォルガンは、再びソファに座り直し、窓外の灰色の空を見上げた。

 その瞳には、もはや安らぎの欠片もなく、ただ暗く澱んだ、過去の因縁という深淵が映し出されていた。

 三日後の式典。

 その輝かしい舞台の裏側で、最後の不穏な胎動が、静かに始まろうとしていた。


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