第80話:式典、メリュジーヌ・セレスタイン公爵、王国軍第一軍隊長はメリーに傅く
「寒い中、よく集まってくれた。では始めよう」
石造りの床を這い、冬の鋭い冷気が貴族たちの裾を濡らしていた。
王城の静謐な玉座の間には、肺を刺すような冷え切った沈黙が淀んでいる。
各地から参集した者たちが吐き出す息は、かすかな白濁となって冷えた空気に溶け、消えた。
玉座に深く身を沈めた国王ヴォルガンの傍らには、老文官レイモンドが不変の忠義を象った彫像の如く佇んでいる。
そこに、ガメル宰相の姿はなかった。
ヴォルガンが、重い正装の触れ合う音を響かせて立ち上がる。
その双眸が列を成す貴族たちの顔を一人ずつ静かに射抜き、凍てついた空気の中へ王の言葉が落ちる。
空気が、痛いほど静かだった。
「まず、ガーディス自治区の復興だが、だいたい形になった。この冬を越すことは可能だ。食糧も足りている」
王は再び広間を見渡し、静かに言葉を継ぐ。
その瞳には覇気と共に、かの地を這いずり回った者だけが持つ、峻烈な覚悟の色が混じっていた。
かつての停滞を振り払うかのようなその声は、高い天井に反響し、参列した貴族たちの背筋を正させる。
誰一人として私語を挟む者はなく、ただ王の吐息が微かに白く揺れる様を、注視し続けていた。
「ガーディスの復興に協力してくれたみなには感謝しかない。本当に助かった。礼を言う」
玉座の前で、王は静かに頭を下げた。
王冠を戴く頭が、臣下たちの前で深く沈み込む。
誰かの喉が、ごくりと鳴った。
玉座の間を支配していた張り詰めた静寂が、驚愕と動揺によって一瞬だけ震えた。
高位の貴族も、王宮の重鎮たちも、ただその光景を石像のように見つめることしかできない。
頭を下げたままの王の沈黙は、広間の冷気よりも重く、深く、そこに集った者たちの魂を打った。
やがてヴォルガンがゆっくりと顔を上げると、その眼差しは一段と鋭さを増していた。
「そして、王国とガーディスの百年の因縁に決着をつけた。ガーディスは過去に捉われることなく、未来を見ることができるようになった。これはメリーちゃん、君のおかげだ。感謝する」
王の視線が、一人の少女を射抜いた。
ヴォルガンは再び、その場で深く頭を下げ、真摯な謝意を示す。
指名された少女――メリーは、周囲の視線が自分へと集まる中、静かに目を伏せた。
彼女は騒がず、奢らず、ただ流麗な動作で礼を返す。
その所作には、長きにわたる苦難を潜り抜けてきた者だけが纏う、静謐な重みが宿っていた。
王の謝辞は止まらない。
「王国の転覆を目論むガーディスの組織と、その手先となって動いていた王国貴族の討伐も済んだ。これもメリーちゃんの功績だ。また、軍事力として貢献したアルベルトの功績でもある。よくやってくれた」
その言葉を受け、列の中にいたアルベルトが静かに目を伏せ、深々と礼を捧げる。
かつての王都を震撼させた刃の鋭さは鞘に収まり、今はただ王族としての静かな光を放っていた。
ヴォルガンの声が、儀式の終わりと新たな時代の始まりを告げる。
「これにより、ガーディス侯爵領……旧セレスタイン領だな、ここの奪還と不逞貴族の粛清は済んだ。なので、セレスタイン公爵家を再興させる。メリーちゃん、前へ」
漆黒の高級なドレスを纏ったメリーが、王の呼びかけに応じて一歩を踏み出す。
しなやかな布地が、石の床を滑る微かな音だけが響いた。
ピンクブロンドの髪が、差し込む冬の陽光を浴びて淡く輝き、エメラルドグリーンの瞳が玉座を見据える。
その小柄な身体からは想像もつかないほどの威厳が、彼女の歩みと共に周囲へ波及していく。
整列した貴族たちの間から、堪えきれないようなざわめきが漏れ出した。
「あれが『メリーちゃん』か……」
「美しい女性だな、あれが食糧の袋のメリーちゃんか……」
「ああ、雰囲気あるな」
中央の官僚、ヴェリウス領の貴族たちが、憧憬と驚愕の入り混じった溜息を漏らす。
彼らが日々の暮らしの中で目にしてきた、愛らしい偶像としての「メリーちゃん」ではない。
そこに立っているのは、王国の命運を握り、公爵という重責をその細い肩に背負おうとする、一人の気高き淑女であった。
メリーはヴォルガンの前で足を止めると、一寸の乱れもない完璧な貴族の礼を披露する。
その洗練された動作は、失われた公爵家の気位が、今この瞬間に蘇ったことを何よりも雄弁に物語っていた。
「メリーちゃん、君をセレスタイン公爵に叙爵する」
「謹んでお受けいたします」
低く、しかし凛と響く彼女の声が、玉座の間を貫いた。
その響きに、ヴォルガンは満足げに目を細める。
「正式な書類は後で交わそう。用意はできている。あとはサインするだけだ。この式典の後に執務室に来てくれ」
「承知いたしました」
簡潔なやり取り。
だが、それが持つ意味はあまりにも重い。
ヴォルガンは再び広間を見渡し、一段と声を張り上げた。
「知っている者も多いとは思うが、彼女が『メリーちゃん』だ。今後、正式にメリュジーヌ・セレスタイン公爵として、セレスタイン領を統治する」
メリーはゆっくりと向きを変え、広間に並ぶ貴族たちをその峻烈な眼差しで掃射した。
彼女の髪がさらりと揺れ、その下にある真実を白日の下に晒す。
「メリュジーヌ・セレスタインよ。なぜ私が公爵に? と疑問に思う人もいるかもしれない。覚えておいて。この髪とこの瞳、これがセレスタインの正当な血統の証よ」
彼女の宣言は、誰の追随も許さない絶対的な確信に満ちていた。
その美しさと、一瞥で人を黙らせる冷厳なまでの気品。
周囲の男たちは、彼女が放つ圧倒的な存在感にあてられ、そわそわと落ち着きを失っていく。
厳かな儀式の場であるはずの玉座の間に、異様な熱気が混じり始めた。
ヴォルガンはその気配を察し、呆れたように眉を寄せる。
「なんだ? 何か言いたげだな、ヴェリウス侯爵。言いたいことがあるなら言ってみろ」
列から一歩、若き貴族が進み出た。
ヴェリウス侯爵である。
彼は厳粛な表情を浮かべ、王の前で深々と頭を下げた。
「は。では、不躾ながら、言わせていただきます……」
一拍の静寂。
広間が、一瞬だけ凍りついた。
ヴェリウスはカッと目を見開き、腹の底から湧き上がるような大声を張り上げた。
「メリーちゃん、公爵叙爵おめでとう!」
その咆哮を合図に、堰を切ったように歓声が爆発した。
「メリーちゃん、おめでとう!」
「メリーちゃん万歳!」
「ついに中央にメリーちゃん降臨か!」
「オレはこの日のために中央の役人をやっていたんだな……」
先ほどまでの静謐な緊張感はどこへ消えたのか。
玉座の間を埋め尽くしたのは、王国の救世主であり、彼らの偶像である「メリーちゃん」への、熱狂的な、あまりにも熱狂的な祝福の嵐であった。
官僚も、軍人も、名門の貴族たちも、理性のタガが外れたかのように拳を突き上げ、叫んでいる。
ヴォルガンは額を押さえて溜息をつき、メリーはそれ以上に、心底呆れ果てた表情で広間を眺めていた。
あまりの騒ぎに、メリーは小さく咳払いをし、冷え切った空気の中に再び「公爵」としての声を落とした。
「……んんっ。ありがとう、ヴェリウス侯爵、みんな。私は王都での執務になるわ。これからも顔を合わせることもあるでしょう。よろしくお願いするわ」
彼女が浮かべた微かな、だが完璧に計算された微笑。
それがもたらした衝撃は、叫び声を凌駕する地鳴りとなって響いた。
「うおおおおおお! メリーちゃんがほほ笑んでくれたぞ!」
「メリーちゃん! こっちを向いてくれ!」
「メリーちゃん! オレの息子と結婚してくれ!」
「どさくさに紛れて何言ってんだお前!」
狂乱の極致にあるヴェリウス領の貴族たちに対し、西側から参集した貴族たちは静かにその光景を見守っていた。
彼らにとって、この熱狂は既知の光景であり、同時に、救世主が歩むべき当然の道でもあった。
彼らの視線には、騒乱とは無縁の、深い慈愛と信頼が込められている。
メリーは収まらない歓声を遮るように、眉を吊り上げて一喝した。
「ちょっと! 私は公爵になったのよ。もう、『メリーちゃん』はやめなさい!」
その怒号すらも、狂信者たちにとっては至上の褒美に過ぎなかった。
「メリーちゃんが怒ったぞ!」
「怒った顔も素敵だ!」
「もっと叱ってくれ!」
メリーは天を仰いだ。
石造りの天井はどこまでも高く、冷たい。
この男たちの暴走を止める術を、彼女は持っていなかった。
ヴォルガンは苦笑を浮かべ、広間を鎮めるべく、再び王の威厳を纏って口を開いた。
「わかったわかった。一旦落ち着け。セレスタイン公爵家を再興するにあたり、レイモンド伯を侯爵に陞爵させる。メリーちゃんを支えてやってくれ、レイモンド」
王の言葉と共に、玉座の横に控えていたレイモンドがしずしずと歩み出る。
彼はメリーと並んで膝をつき、白髪の頭を垂れた。
「は。この老骨、力の限りセレスタイン公爵を支えることを誓います」
レイモンドの言葉には、欺瞞も、かつての迷いもなかった。
あるのは、己の余生を全て捧げて、この少女が描く未来を守り抜くという、鋼のような決意だけである。
「うむ。よろしく頼む。お前も後で執務室に来い。書類にサインしてもらう」
「は。承知いたしました」
レイモンドが立ち上がり、公爵としてのメリーの隣に並ぶ。
その光景は、古き良き王国の伝統と、新しい時代のうねりが融合した、象徴的な一幕であった。
ヴォルガンの眼差しが、再びヴェリウス侯爵へと向けられる。
「聞いての通り、レイモンドはメリーちゃんを支える侯爵になる。だが、セレスタイン領には貴族がいない。レイモンド一人ではあの広大な領地は回せん。なので、ヴェリウス領から何人か回せと言ってあったな。どうなった? ヴェリウス侯爵」
ヴェリウスは熱狂の余韻を振り払い、真剣な面持ちで居住まいを正した。
「は。話はしてあります。まだ、選定は済んでいません」
その返答に、ヴォルガンは鋭い一瞥をくれた。
王国の基盤の再構築、その要となる公爵領の再編に、一刻の猶予も許されないことは、その場にいる全員が理解していた。
「そうか。急げよ」
王の短い、しかし拒絶を許さぬ命が、冷え切った玉座の間に落ちた。
──────
熱狂の余韻が、冷え切った石造りの壁に染み込んでいく。
祝祭の如き歓声が止んだ後の玉座の間には、再び鋭い冷気が静かに満ち始めていた。
貴族たちの昂揚した吐息が白く濁り、高い天井へと消えていく。
その静寂を、硬質な金属音が切り裂いた。
「陛下! よろしいでしょうか?」
列の中から一歩前へと踏み出し、見事な挙手を披露したのは、王国軍第一軍の隊長であった。
重厚な板金鎧が触れ合う音を響かせ、彼は衆人環視の中で堂々と王への発言を求める。
ヴォルガンは玉座に深く背を預けたまま、その精悍な武人の顔を静かに見据えた。
「なんだ? 第一軍隊長」
王の問いに対し、第一軍隊長は迷いのない足取りでメリーの傍らまで進み、その場で深く膝を折った。
冷たい床に当てられた膝の音が、広間に重く反響する。
「私はヴェリウス領のオルレアン伯爵家の長男です。家は弟が継いでいるため、私は当主ではありません。そして、伯爵家の人間として、貴族教育を受けております。私がメリーちゃんを支える貴族として立候補します」
その大胆な志願に、玉座の間に再び戦慄が走った。
王国軍第一軍。
王国の矛であり、第一軍の動向には隣国の帝国も注視しているほどの精鋭中の精鋭。
それを束ねる隊長が、その地位を投げ打って一人の少女に傅いたのだ。
ヴォルガンは一瞬、呆気に取られたように口を開き、次いで苦虫を噛み潰したような顔で身を乗り出した。
「ぶっ! ……何を言っているんだお前は。第一軍はどうするんだ?」
「引退します。後進の育成は問題ありません。このパトリック・オルレアン、今後の人生をメリーちゃんに捧げます」
断言するパトリックの瞳には、狂気にも似た、一点の曇りもない忠誠の火が灯っていた。
メリーは隣で跪く大男を、心底困ったような、それでいて呆れ果てた眼差しで見下ろす。
「……気持ちはありがたいけど、隊長……」
「パトリックとお呼びください!」
間髪入れぬ返答に、メリーはわずかに眉を寄せ、溜息を吐き出した。
「わかったわ。パトリック、あなた、それでいいの? 私は数年で公爵の座を譲って、レグスに帰るわよ。支えてくれたあなたを置いて……」
それは、権力を手にしたばかりの公爵としてはあまりにも硬質な、だが誠実な宣告であった。
しかし、パトリックはその言葉を待っていたと言わんばかりに、破顔して応じる。
「問題ありません! その時は、私も引退してレグスへ移住します!」
「いや、問題大ありじゃない。それでいいの?」
メリーの困惑を余所に、ヴォルガンが諦めたように首を振った。
「ああ、メリーちゃん、彼は以前こう言っていた。『国軍に属していなければレグスに移り住みたい』と。困ったことに、そこに問題はないんだ……」
王の言葉を肯定するように、パトリックはメリーの前に深く頭を垂れた。
その姿には、王国を守る軍人としての矜持ではなく、一人の淑女を守護する騎士としての執念が宿っている。
「はい、その通りでございます。メリーちゃんとレイモンド伯の元、必ずお力になると約束いたします」
メリーは横に立つレイモンドに視線を投げた。
老侯爵は、白髭を撫でながら穏やかな笑みを浮かべている。
「……だそうよ? どう? レイモンド」
「良いのではないでしょうか。王都に居を構えるメリーちゃんと、セレスタイン領にいる私の間を取り持っていただきましょう」
老文官の言葉には、一分の迷いもなかった。
「わかったわ。パトリック、早速あなたにやってもらいたい仕事があるわ。退役手続きが済んだら私の家に来なさい」
「は。早速退役の手続きをいたします」
パトリックが立ち上がると同時に、その後方で待機していた軍人たちの中から、堰を切ったような怒号が上がった。
「ちょっと待て!」
「隊長だけずるいぞ!」
「オレも貴族の次男だ! オレにもその資格はあるはずだ!」
第一軍の精鋭、そして近衛兵たちまでもが、規律をかなぐり捨てて身を乗り出す。
静謐であるべき玉座の間は、一瞬にして、憧れの偶像の傍らという特等席を奪い合う、醜くも熱狂的な騒乱の渦へと叩き落とされた。
パトリックは背後の部下たちを振り返り、不敵な笑みを浮かべて鼻で笑った。
「ふっふっふ。おせーよ、お前たち。わかるか? オレとお前たちの決定的な差が」
玉座の間が一瞬だけ静まった。
パトリックはゆっくりと口角を上げた。
「――覚悟の差だ!」
「くっ……」
「隊長……」
「オレは諦めないぞ!」
悔しさに顔を歪める男たちを尻目に、パトリックは意気揚々と胸を張る。
王国軍第一軍隊長パトリック。
彼がメリーの懐刀として採用された瞬間であった。
ヴォルガンはその光景を眺め、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「王国軍第一軍の隊長を引き抜く、か。やりすぎじゃないか? メリーちゃん」
「陛下、軍務局長と将軍、『黒鉄』の副官と百人隊長を引き抜いたメリーちゃんにとっては今更では?」
パトリックの言葉に、ヴォルガンは自身の失言を悟ったように天を仰いだ。
「……そうだった。第一軍の精鋭を引き抜くのは程々にしておけよ。何人か連れて行きたい気持ちがあるのは仕方がないが……」
「は」
パトリックの短い返辞と共に、騒乱はひとまずの落ち着きを見せた。
ヴォルガンは居住まいを正し、冷え切った空気を切り裂くように声を張り上げる。
「メリーちゃんを公爵にする話はこれでいいな? 次の話に移ろう」
「お待ちください」
制止の声を上げたのは、ヴェリウス侯爵であった。
彼は厳粛な表情を浮かべ一歩進み出ると、玉座を見据えて真っ直ぐに立ち塞がった。
「なんだ? ヴェリウス」
「ガーディスに手を貸す不逞貴族の話が済んでおりません。その話をせずに、レイモンド伯、いえ、レイモンド侯爵を認めてしまって、禍根を残しませんか?」
その問いは、玉座の間の温度をさらに数度下げた。
かつて王都を裏切り、亡霊たちの後ろ盾となったレイモンド。
その罪は本来、死を以て償われるべきものである。
貴族たちの間に、沈黙と疑念の影が広がっていく。
ヴォルガンは瞳の奥に鋭い光を宿し、あえて突き放すように問い返した。
「お前はどう考えているんだ?」
ヴェリウスは答えず、レイモンドに向き直った。
「レイモンド侯爵、その上着の下の徽章を見せてください」
促されたレイモンドは、静かな動作で上着のボタンを外し、それを脱ぎ捨てた。
厚い冬着の下、左胸に付けられていたのは、鈍く、だが力強い輝きを放つ黄金の徽章であった。
ヴェリウスもまた、同様に己の胸にある徽章を晒し、レイモンドの横に並び立つ。
二つの黄金が、冬の薄い陽光を反射して広間に鮮烈な光を撒き散らした。
「私はこの半年間、陛下不在の王城の政務をレイモンド伯の元、回してきました。私はレイモンド伯がセレスタイン領を支える侯爵になることに異論はございません。あえて言うのであれば、レイモンド伯には王城に残ってもらいたかった」
ヴェリウスの声は、偽りのない称賛と、レイモンドを送り出す寂しさに満ちていた。
ヴォルガンが、深く頷く。
「そうだな。レイモンドは不逞貴族だった。だが、そのレイモンドが王城の政務を回し続けてきたのも事実。それは国王の権限を移譲するその徽章が物語っている」
王の宣言に、広間は深い静寂に包まれた。
それは単なる地位の保証ではない。
命を賭して王国の空白を守り抜いた者だけが許される、最高の栄誉であった。
ヴェリウスは列を成す貴族たちへと向き直り、その咆哮のような声を響かせる。
「はい、この徽章に賭けて、レイモンド伯の陞爵に賛成いたします。みんなはどうだ?」
問いかけに対する反応は、ヴェリウスの予想を遥かに超える斜め上の方向から返ってきた。
「ズルいと思います! 私もメリーちゃんの傍にいたい!」
「そうだ! レイモンド伯ばっかりズルいぞ!」
「オレがヴェリウス領の貴族の当主じゃなかったら、セレスタイン領に行きたかった!」
不逞貴族への糾弾など、そこには欠片も存在しなかった。
ただ、公爵となったメリーの傍に仕える権利を得たレイモンドへの、凄まじい嫉妬と羨望が広間を埋め尽くしていく。
変な方向に話が逸れていくのを、ヴェリウスは呆れた顔で見ていた。
「私の杞憂だったようですね。問題はなさそうです」
がっくりと項垂れるヴェリウスに対し、ヴォルガンは皮肉な笑みを浮かべた。
「いや、せっかくだ。不逞貴族の話をしよう。お前は後で執務室に来てくれ。その徽章の返還と、褒賞の話をしよう」
「は」
ヴェリウスが元の位置へ下がるのを、ヴォルガンは鋭い視線で見送った。
「ガーディスに手を貸していた不逞貴族は、レイモンド、メルキオール、ヘルムートだ。ここにいないデムハイトは被害者だ。彼は引退した」
貴族たちの間に、今度こそ真剣なざわざわとした動揺が広がる。
「ヘルムートはアルベルトが討った。メルキオールは王国貴族を辞め、ガーディスで大工として頑張っている。レイモンドは知っての通りだ」
列の中から、一人の貴族がおずおずと問いを投げた。
「その不逞貴族の代表だったレイモンド伯をどうしてメリーちゃんが……?」
その問いに、メリーはゆっくりと視線を上げた。
エメラルドグリーンの瞳が、問うた者を射抜く。
彼女は一歩前へ出ると、氷のように透き通った、だが確かな熱を帯びた声で広間に告げた。
「王国に不満がある人はいくらでもいるわ。でも、実際に立ち上がって行動に移せる気概のある人は少ない。そういう意味で、レイモンドは王国を憂う貴族の一人であると言えるわ。私はそういう人を好む。私自身も王国に反旗を翻した人間だからね」
玉座の間が、今度こそ完全に凍りついた。
救世主。王国の未来。偶像。
そう崇められてきた少女の口から放たれた、あまりにも峻烈で、重い告白。
貴族たちは、自身の耳を疑うように顔を見合わせた。
「メリーちゃんが王国に反旗を……?」
「そんな馬鹿な、メリーちゃんは王国の救世主だろ?」
「どういうことだ? 説明してくれ、メリーちゃん!」
ざわめきが、恐怖に似た熱を帯びて広まっていく。
ヴォルガンは玉座の上で不敵な笑みを浮かべ、混乱する臣下たちを見下ろした。
「まあ、説明は必要だろうな。中央の役人とヴェリウス領の貴族たちは知らないんだ。王国が敵だらけだったことを」
冬の冷気が、再び玉座の間を満たしていった。
「そうね。アルとヴォルガンの間で解決したからって、それを説明しないのはダメよね。わかったわ、全てを話しましょう」
ざわめきは波紋のように広がり、やがて重苦しい沈黙へと収束していった。
窓から差し込む冬の陽光は、もはや祝祭の輝きではなく、暴かれるべき真実を照らす鋭い光へと変わっていた。
ヴォルガンは玉座に深く沈み、この場にいる者たちの動揺を静かに見据える。
アステリア王国という巨大な器に、隠し通せぬ真実が今、音もなく注がれようとしていた。
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