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第78話:収穫、王の帰還、国の地力を底上げする唯一の方法

「王城を任せきりにしてすまなかったな。何か問題はあったか?」


 初冬の鋭い冷気をその身に纏い、王城の堅牢なる石床を震わせたのは、峻烈な意思を宿した重厚な声音であった。

 玉座の間を背にしたヴォルガンの歩みは、一つ一つが王国の歴史を刻み直すかのような重みを湛えている。

 その双肩にはアステリア王国の抜本改革という、目に見えぬ、しかし抗いがたき星々の如き重圧が静かに沈殿していた。

 出迎えた面々の吐息は白く霧散し、張り詰めた静寂の中に、ただ主君の帰還という巨大な「動」の余韻だけが波紋のように広がっていく。


「は。特に問題はございません」


 老練なる行政の長、レイモンド伯爵が深く頭を垂れた。

 その言葉には一切の淀みも、自己を飾り立てる虚飾も含まれていない。

 その背後に控えるのは、ヴェリウス侯爵、アルベルト、そして一点の曇りもない装いを崩さぬブラッドレイ子爵である。

 彼らが沈黙を以て示すのは、王不在の王都を死守し続けた自負と、帰還した主君を迎える揺るぎなき臣礼の形であった。


「そうか。これからのことを話したい。一刻後に執務室に行く。報告をまとめておいてくれ」


 言い残し、ヴォルガンは峻烈な気配を伴って王城の深奥へと姿を消した。

 彼が通り過ぎた廊下には、戦場を渡り歩いてきた者特有の、研ぎ澄まされた鉄と雪の匂いが微かに残されている。

 残された者たちは、その背中が放つ圧倒的な孤独と責任の質量を、改めて己の肺腑に刻み込んだ。


 一刻ののち、主不在であった執務室には、既に『海鳥』の手による茶の香りが漂い、束の間の安らぎを演出していた。

 しかし、近衛兵を二名連れ、入浴を経て入室したヴォルガンの存在によって、室内の温度は再び急激な低下を見せたかの如く凍てついた。

 窓外に広がる、冬の予兆を孕んだ鉛色の空を一瞥してから、ヴォルガンはデスクを囲む面々を静かに射抜いた。

 その瞳に宿る鋭敏な光は、休息を経てより一層研ぎ澄まされ、王としての威厳を不変のものとしている。


「さて、まずは礼を言っておかなければな。レイモンド、ヴェリウス、此度は本当に助かった。感謝する」


 ヴォルガンはソファに深く腰を下ろす前、その場に集った忠臣たちに対し、明確な誠実さを込めて深く頭を下げた。

 それは権力による支配を超えた、一人の男としての魂の重なりを感じさせる動作であった。

 その場の空気が、王の吐露した謝意によってわずかに震える。


「陛下。我々は自分にできることをやったまで。頭を下げるのはやめてください」


 レイモンドが声を震わせ、必死に言葉を紡いだ。

 その瞳には、国王不在の半年間、己の全てを以て王国を維持せんとした老貴族の、報われた瞬間の安堵が滲んでいる。

 自らの功績を誇るのではなく、ただ王の帰還という事実に救いを見出す。


「それでも、だ。そして、救援に駆けつけたのか? ブラッドレイ。感謝する」


 ヴォルガンの視線が、完璧に磨き上げられた革靴を鳴らして立つバルカスへと向けられた。

 西側の盟主の一翼を担う男は、その賛辞を、まるで心地よい春風でも浴びるかのように優雅に受け止める。

 その仕草の一つ一つが、計算し尽くされた美学に裏打ちされている。


「書類仕事は私の最も得意とするところ。礼を言われるほどの事じゃありません」


 バルカスの唇に浮かぶ不敵な笑みは、彼が王都の混乱を盤上の遊戯の如く捌き切った事実を静かに物語っていた。

 その流麗な言葉の裏には、膨大な情報の奔流を御し、王国の命脈を繋ぎ止めた圧倒的な知性の冴えが宿っている。


「俺には何かないのか?」


 不意に、ソファの向かい側に座るアルベルトが、どこか茶目っ気を孕んだ低い声で問いかけた。

 その双眸には、戦友であり兄弟でもあるヴォルガンへの、隠しきれぬ信頼と親愛が滲んでいる。

 王城という格式張った空間において、唯一、血の通った温もりを運ぶ響きであった。


「王兄として当たり前のことをやっていただけだろう。褒めてほしいのか? よしよし、よくやったぞアルベルト」


 ヴォルガンの口元が、わずかに皮肉な、しかし慈しみを含んだ曲線を描いた。

 その声音には、厳しい政務の合間に許された、肉親への密やかな安らぎが混じり合っている。

 幼き頃の葛藤を乗り越え、今や同じ地平を見つめる二人の間に、言葉を超えた確信が流れた。


「ぐっ……」


 アルベルトは苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、その応酬を愉しむかのように背もたれに身を預けた。

 かつての憎悪や断絶は、共に地獄を渡り歩く中で、不変の絆へと昇華されている。

 執務室のデスクに座る面々に対し、ヴォルガンとアルベルトはソファに向かい合わせで座り、静謐な議論の場が整えられた。


「陛下、この徽章をお返しいたします」


 レイモンドとヴェリウスが恭しく、王の全権を象徴する徽章を卓上へと差し出した。

 その黄金の塊には、王不在の期間に下された無数の非情なる決断と、それに伴う血と汗の重みが刻まれている。

 それは単なる権力の象徴ではなく、王国を支え続けた重責そのものであった。


「いや、三日後の式典まで持っていろ。私は式典の準備で忙しい。その間も政務を回してもらいたい」


 ヴォルガンはそれを制し、再びレイモンドへ王国の舵取りを託した。

 それは単なる業務の委任ではなく、これまでの功績に対する絶対的な信頼の証、あるいは王からの最大の賞賛であった。

 レイモンドはしばし絶句し、その掌に残る徽章の冷たさと熱さを同時に感じ取った。


「承知」


 レイモンドの短い返答には、その信頼を裏切らぬという、老文官としての不退転の覚悟が込められていた。


「承知いたしました」


 ヴェリウスもまた、徽章の重みを感じつつ、恭しく一礼をし、懐に徽章を仕舞った。


 執務室の窓からは、初冬の薄光が白く差し込み、宙を舞う微かな塵を厳かに照らし出している。


「さて、何から話そうかな……」


 ヴォルガンが茶を一口啜り、熱い陶器の感触を確かめるように掌を閉じた。

 その一口が、ガーディス自治区とアステリア王国の狭間にあった彼の精神を、ようやく王国の主として繋ぎ止めたようであった。


「今年の農作物の収穫と備蓄の状況でしょう」


 バルカスが澱みなく先を促し、手元の書類を整理した。

 その卓上には、既に各地の現状を記した報告書が、寸分の狂いもなく整然と並べられている。


「そうだな。西側はどうなっている?」


 王の問いかけに対し、バルカスは淀みのない流麗な所作で書類を一枚手に取った。

 その紙の擦れる音が、沈黙の支配する室内に鋭く響く。


「西は昨年の大雨と冷夏の影響をほとんど受けていません。放出した備蓄は元通りとは言えませんが、半分くらいは戻りつつあります」


 その報告を聞き、ヴォルガンの眉間がわずかに動いた。

 西側という大地が持つ底知れぬ生命力が、数字となって突きつけられる。


「ノルトヴァルトの収穫量はすさまじいな」


 ヴォルガンの言葉には、荒野を沃土に変えた開拓者たちへの畏敬が混じっている。


「ええ。今の備蓄量だけで、王国の一年分くらいは賄えるかと」


 バルカスの言葉には、西側の圧倒的な供給能力への確固たる自信が溢れていた。

 かつては忘れ去られた最果ての地が、今や王国の命脈を左右する巨大な心臓へと変貌を遂げている。


「アイゼンハイド領はどうだ?」


「ギルガルド、 ダルトン、 ヴォルフスブルクの山岳部は例年通りですね。アイゼンハイド侯爵家の周辺の平地は例年の六割といったところでしょうか」


 バルカスの報告を聴きながら、ヴォルガンは静かに頷いた。

 六割という数字は、楽観視できるものではないが、絶望を脱した証左でもある。


「六割か。思ったより多いな。中央はどうだ?」


「王都の周辺、中央寄りは例年の半分ですね。ヴェリウス領の南側はほぼ例年通りです」


 ヴェリウスが落ち着いた、どこか疲労を孕んだ声音で補足した。

 王都近郊の疲弊は深刻であるが、南部の安定が全体の均衡を保つ最後の砦となっていた。


「セレスタイン領も六割程度ですね。ノルトヴァルトに倣えば例年通り、それ以上も見込めるでしょう」


 レイモンドの言葉には、確かな手応えが滲んでいた。

 大雨によって軒並み根腐れを起こした畑が、再び豊穣の息吹を取り戻そうとしている。

 ノルトヴァルトに倣い、北部の寒冷地を黒麦の畑にすることにより、更なる豊穣を目指せる。


「黒麦か。さすがに一年も食い続ければ慣れるもんだな、あの味にも」


 ヴォルガンが、どこか懐かしむような、柔らかな響きを伴って呟いた。

 飢饉の際に、ノルトヴァルト領で大量に収穫された黒麦が王国全土にバラ撒かれるようになって約一年、今や王国の民の命を支える盾となっている。


「いろんな調理方法がバラ撒かれましたからね。通常の麦は贅沢品、黒麦は主食という地位を得たと言っても過言じゃありません」


 ヴェリウスの言葉通り、王国の食卓は劇的な変容を遂げていた。

 通常の麦の不作によって台頭した黒麦。

 その癖のある味と香りに当初こそは敬遠されつつあったが、それを補って余りある調理法の数々が人々の意識を変え、受け入れられるようになった。

 それは、文化という名の静かなる革命であった。


「王国の主食まで変えてしまうか。恐ろしいな、西は」


 ヴォルガンの瞳に、畏怖と、それを凌駕する称賛の光が宿る。

 それは単なる経済の動向を超えた、民草の生き方そのものを定義し直す、巨大な意志の顕現であった。


「ガーディスの国境外側の穀倉地帯も上手くいったようだな」


 アルベルトの言葉に、ヴォルガンは満足げな笑みを浮かべた。


「ああ、思った以上に収穫できたな。冬の間は休ませるしかないが、春になればまた再稼働する」


 ガーディスの国境沿いにあった荒れ地が、今やガーディスとアステリア王国の未来を紡ぐ揺り籠へと姿を変えている。


「領土と税の問題はどうするんだ? 別の国になってしまえば、さすがに王国の土地でガーディスが畑を運営するわけにはいかないだろう」


 アルベルトの懸念は、統治者として至極正当なものであった。

 感情や理想だけでは、国家間の秩序は維持できない。


「そこは、メリーちゃんとサフィアン殿が取り決めをした。国境から一定範囲の土地を貸し出す。その代わりに料金を納めろという事だな」


 ヴォルガンの口から出た名に、執務室の張り詰めた空気がわずかに和らぐ。

 しかし、その少女が提示した策は、合理性と、未来を見据えた鋭利な洞察に満ちていた。


「なるほど。しかし、それでは農奴と変わらないのではないか?」


 アルベルトの問いに対し、ヴォルガンは静かに首を横に振った。


「自分の畑で作ったものは好きに売れる。それだけでも違うだろう。農地の運営の支援もする。種苗や肥料、農耕具を安く売ったり、倉庫を貸し出したり、販路を提供し、買い取りもする」


 それは単なる施しではなく、自立を促すための精緻な揺り籠のような制度であった。

 ただ与えて生かすのではなく、自らの手で未来を掴み取らせるための、過酷ながらも慈悲深い設計図。


「よく考えてありますね。これも全部『メリーちゃん』が?」


 ヴェリウスの感嘆の声に、ヴォルガンは深く頷いた。


「サフィアン殿とベルンの協力もあるが、骨組みはメリーちゃんの考えだな。農奴だったガーディスの住民に、自分たちの未来を考えさせるためらしい」


 ヴォルガンの言葉は、執務室の静寂の中に、重みを伴って響いた。

 それは一時の救済ではなく、百年の安寧を見据えた巨大な石を、歴史の激流へと投じる行為に他ならない。


「そんな投げっぱなしでいいのか? こう言っちゃなんだが、農奴に一から人生設計をさせるんだろ? 大丈夫か?」


 アルベルトの危惧を、ヴォルガンの透徹した眼差しが静かに射抜く。


「時間はかかるが大丈夫だ。彼らに必要なものは教育だ。次の世代には学力をつけさせる。そのための教育機関も設立予定だ」


「レグスでも学校や孤児院を作ったが、それと同じか」


「そうだ。学校で教育を受ける。芽が出た者は自分で商売をしたり、行政の中枢に食い込む。それが競争原理を生むとメリーちゃんは言っていた」


 ヴォルガンの声音は、未来への揺るぎなき確信に震えていた。

 生まれや血筋という壁を、個人の才覚と努力が超えていく世界。

 それは、既存の貴族社会という強固な殻を、その存在理由から破壊せんとする、静かなる革命の産声でもあった。


「競争原理か。それが大陸中に広まれば、国力の増強にもなる。次の世代、その次の世代には、貴族よりも力を持った平民が行政を動かすこともあり得るな」


 バルカスが、その可能性を、むしろ愉しむかのように唇を歪めた。

 彼のような傑物にとって、停滞した秩序よりも、混沌とした競争の方が遥かに魅力的な舞台に映るのだろう。


「そうだ。それこそが国の地力を底上げする唯一の方法だとサフィアン殿が言っていた。そのために今の時代を生きる人間が踏み台になるのが責任と義務だとも言っていた」


 ヴォルガンの言葉には、自らもまたその踏み台の一つにならんとする、静かなる決意が宿っていた。

 自らの治世が、未来の誰かのための礎となる。

 その崇高な自己犠牲の精神こそが、彼を真の王たらしめていた。


「メリー君の考えと同じだな。帝国にもいるじゃないか、叡智と呼べる人間が。ベルン君に教えを乞うていただけの若造ではなかったか」


 バルカスが感心したように肩を竦めた。

 かつての敵国に、自分たちと同じ高みを見つめる者がいるという事実は、彼にとって最高の刺激であった。


「そうだな。彼の持論は、『この先の百年、強靭な経済基盤なしに帝国は成り立たない。また、帝国だけが繫栄しても大陸の未来は先細りしかない』だったからな」


 アルベルトが語るサフィアンの理想は、もはや一つの国家という枠組みを軽々と超えていた。

 大陸全土が手を取り合い、または競い合い、共栄の道を歩む。

 その途方もない夢の欠片が、今、この小さな執務室で、確かな形を成そうとしている。


「素晴らしい考えだな。そのためには、今の世代が足元を固める必要がある。これは必ずやり遂げなければならないことだ」


 バルカスの言葉に、その場にいた全員が、沈黙をもって深い同意を示した。

 窓外で吠える冬の風が王城の堅牢な壁を叩く音が、どこか遠い時代の足音のように聞こえる。


「そうだ。なので、今回の飢饉から脱することが最優先だったが、ひとまずこの問題は片付きそうだな」


 ヴォルガンが、窓の向こうに広がる灰色の空を仰ぎ見た。

 その表情には、重責からの一時的な解放と、次なる戦いへの闘志が混在している。


「ああ、今回の飢饉を経験した者はみな、飢饉はいつ来てもおかしくないことを知り、備えることの大切さを学んだ。もう大丈夫だろう」


 アルベルトの声には、幾多の死線を乗り越えてきた者だけが持つ、不屈の輝きがあった。

 二人の兄弟は、今、同じ空を見上げ、異なるようでいて同じ明日を夢見ていた。


「よし。では、計画を次の段階へ進める」


 ヴォルガンが毅然とした動作で立ち上がった。

 その背中には、新生ガーディス商業国を背負い、未知なる荒野を切り拓く王としての、揺るぎなき意志が満ち溢れている。

 新たな時代の歯車が、今、重厚な音を立てて回り始めた。


今回も、第78話と第79話の同時投稿です。

普通に文字数が溢れました。

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