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第77話:贖罪、変われる強さ、変わらぬ強さ

「ガーディスとの百年にわたる因縁に終止符を打ったと聞いた」


 初冬の低い陽光が、応接室の窓から差し込み、微かな埃の舞いを白く照らし出していた。

 旧アイゼンハイド侯爵家の旧邸。

 主を失っていた時間の長さを物語るかのような冷ややかな静寂は、今や『海鳥』たちが注いだ熱い茶の香りと、数人の重要人物たちが醸し出す濃密な気配によって上書きされている。


 影のように窓辺に立つジャックと『海鳥』の赤毛。

 彼らの佇まいが、応接室の空気を物理的に下げているようにすら感じる。


 磨き上げられた長卓の向こう側、レイモンド伯爵は震える指先で磁器のカップを弄び、目の前に座る少女へと視線を投げた。

 その瞳に宿るのは、純粋な畏怖か、あるいは自らの積み重ねてきた『業』への絶望か。

 メリーに「どうでもいい」と切って捨てられた己の罪科が、レイモンドを苛む。

 その罪悪感は消えていないが、本来の目的であった「ガーディスの問題」を片付けたという話を聞かないわけにはいかない。


「結果的にそうなっただけよ。私はそれを解決する方法を思いつかなくて、問題を抱えたまま進むしかないと思っていたわ」


 メリーは、背筋を伸ばし、淡々と、しかし一点の曇りもない透明な響きで応じた。

 彼女の指先は、作業服から着替えたばかりのドレスの感触を確かめるように、膝の上で微かに動いている。

 先ほどまで庭で土にまみれていた者と同一人物であるとは信じがたいほど、その所作は洗練され、同時に周囲を圧するほどの鋭利な知性を放っていた。


「ああ、そう言っていたな」


 アルベルトが、深く椅子に身を預けながら頷いた。

 彼の視線は、窓の外に広がる王都の空を見つめているようでいて、その実、メリーが歩んできた苛烈なる路のすべてを肯定するかのような温もりを帯びている。


「だが、片付いた。どうやったのか知らんが、殿下曰く、説教をした、と」


 レイモンドの声は、微かに掠れていた。

 一国を揺るがすほどの憎悪の連鎖が、一人の少女の「言葉」によって断ち切られたという事実に、古き秩序を重んじてきた彼の理性が悲鳴を上げている。


「本当に片付いたのかはわからないわ。彼らの心の中までは見えないからね」


 メリーは、窓辺に立つジャックの方へ視線を流した。

 銀髪の従者は、影のように壁際に控え、主の言葉を一言一句漏らさぬよう沈黙を守っている。

 赤毛の娘が、音もなく新たな茶を注ぎ足し、その芳醇な香りが再び重苦しい空気を僅かに和らげた。


「片付いたんだと思うぞ。彼らの復興に懸ける熱意は本物だ。メリーに言われた通り、未来を生きる気になったんだろう」


 アルベルトの言葉には、確かな実感が宿っていた。

 自らもまた、彼らと一緒に復興作業に従事し、絶望の淵にいた者たちの瞳に再び灯火が宿る瞬間を、その目で見てきたからだ。


「未来を……生きる……」


 レイモンドがその言葉を、自らの唇で確かめるように繰り返した。

 先の大戦から二十年近く、他者の未来を奪い続けてきた老貴族にとって、それはあまりに眩しく、同時に残酷な断罪の響きを持っていた。


「そんなことも言ったかしらね。あそこではたくさんの人が死んだわ。子供もたくさん死んだ。なのに、彼らはセレスタインがどうこうって言ってて……」


 メリーの瞳が、僅かに細められた。

 その奥底に潜むのは、悲しみを超えたところにある、烈火の如き憤り。


「許せなかったんだな、子供の命よりも過去の因縁を大事に抱える彼らが……」


 レイモンドの問いに、メリーは応えず、ただ虚空を見つめた。

 彼女の脳裏には、自らの出自に唾を吐きかけた住民たちの、痩せこけた顔と濁った瞳が浮かんでいるのだろう。


「そうね。カッとなって声を荒げてしまったわ。恥ずかしい……」


 メリーは頬を僅かに朱に染め、視線を落とした。

 その瞬間だけは、王国の命運を左右する「奇跡の少女」ではなく、自らの至らなさを恥じる一人の乙女の顔が覗いた。


「なんて言ったんだ?」


 バルカス・ブラッドレイが、好奇心を隠さぬ瞳で問いかけた。

 最高級のスーツに身を包んだ彼は、まるで極上の演劇の開幕を待つ観客のように、優雅に脚を組み替える。


「……経緯を見ていた私が、説明させていただきます」


 静寂を破ったのは、またも声真似が得意な『海鳥』の娘だった。

 彼女は手にしたトレイを脇に抱えると、突如として背筋を正し、顎を僅かに引き、その立ち姿を一変させた。


 室内に響いたのは、メリー本人のものと聞き紛うほどの、峻烈で力強い声音だった。


 負債、未来、そして責任と義務。


 それらを一刀両断に叩きつけた少女の熱量が、『海鳥』の娘の演技を通じて、ありありと応接室に再現される。


「なんでそんなに私の声真似が上手いのよ。あんた『鶚』の班長でしょう? 殲滅部隊にその特技は必要なの?」


 メリーが、呆れ果てたように声を上げた。


「『ダメ……ダメよ、アル。貴方にはアンナマリーさんという妻が……』、というのはいかがでしょう」


 『海鳥』の娘は、さらに声を艶やかに潜ませ、溜息混じりの、それでいて熱を帯びた、これまたメリーに瓜二つの声音を漏らした。

 それは、禁断の情愛に身を焦がす淑女そのものの響きであった。


「アルベルト殿下! メリー君とそんなことを!」


 バルカスがアルベルトを指差し、立ち上がった。


「誤解だ! やめろ『海鳥』! 王家の存亡にかかわる大事件になるぞ!」


 アルベルトが、狼狽を露わにして叫んだ。

 その額には、先ほどまでの威厳はどこへやら、冷や汗が滲んでいる。


「そうです。いざとなればアステリア王家を滅亡させることが出来たり出来なかったりするかもです。この特技にはこういう使い道もあります」


 『海鳥』の娘は、無表情のまま、しかし確かな悪意と愉悦を含んだ瞳で言い放った。


「やめなさい! 無駄に私の敵が増えるだけじゃない」


 メリーが、頭を抱えて唸る。


「えー? 国王たるもの、側室の五人や十人いてもいいじゃないですか。私はそのつもりでアルベルト様の側近になりますよ」


 娘は、事もなげに、まるで明日の献立を語るような気安さでとんでもない野望を口にした。


「『えー?』じゃない。何を言っているんだお前は」


 アルベルトの力ない反論が、夕闇が忍び寄る応接室に虚しく響いた。


     ──────


 窓の外から忍び寄る夕闇が、応接室の輪郭を少しずつ曖昧に塗りつぶしていく。

 室内の温度は『海鳥』たちが絶え間なく運ぶ薪によって保たれていたが、そこで交わされる言葉の鋭さは、凍てつく外気よりも峻烈にレイモンド伯爵の胸を刺していた。

 アルベルトの言葉を反芻するように、レイモンドは一度深く目を閉じ、吐き出された熱い吐息が白く濁るのを眺めた。


「殿下の側室の話はもういい。それでガーディス自治区の住民たちは生きる目標を見つけたんだな。……なるほど負債か。私にも刺さるな、その話は」


 レイモンドの声は、自重に耐えかねて沈む石のように重かった。

 長年、王国の転覆を目論み暗躍してきた老貴族にとって、メリーが説いた「次世代への負債」という概念は、鏡に映した自らの醜悪な業を直視させられるに等しい。

 その言葉の矛先は、かつて彼が踏みにじってきた無数の名もなき民たちの叫びを代弁しているようにも聞こえた。


「私にも刺さる。メリー君と出会うまでは、自領を放置するほどの腐敗貴族だったからな」


 傍らで、バルカス・ブラッドレイが静かに、しかし一点の揺らぎもない声音で同調した。

 彼は最高級のスーツのカフスを指先で整え、完璧に磨き上げられた革靴のつま先を微かに動かす。

 その姿はどこまでも優雅で、王国を背負って立つ新時代の指導者としての輝きに満ちているが、その瞳の奥には、かつての自堕落な日々に対する氷のような嫌悪が、今もなお消えずに沈殿している。

 ブラッドレイ領で彼が晒していた堕落を知る者には、今の彼が背負う責任の重みが、そのまま彼自身の贖いであると理解できた。


「過去はどうでもいいのよ。バルカスはその過去を清算して余りあるほどの働きをしてきたわ。あんたはどうなの?」


 メリーは、磁器のカップをテーブルへと戻し、そのエメラルドグリーンの瞳で真っ直ぐにレイモンドを射抜いた。

 その視線には、一欠片の憐憫も、非難も混じっていない。

 ただ、観測可能な事実のみを積み上げ、答えを要求する冷厳なまでの知性があるだけだった。


「私は、王国に仇成す不逞貴族だった。過去はどうでもいいと言われてもその事実は消えん。王国から出て行き、ガーディス自治区の復興に残りの人生を使う。これしかないと考えておる」


 それが、彼が見つけ出した唯一の、そして最期の出口だった。

 レイモンドは、震える両手を膝の上で固く握りしめた。

 その言葉は、自らへの死刑宣告にも似た、しかし清々しいまでの決意に満ちていた。


「え? 待って。私の領地であるセレスタイン公爵領に貴族がいなくなるわ。家もない、貴族が一人もいない公爵ってどうなのよ?」


 メリーは、その境遇に置かれる自身を想像し、狼狽した。

 王都の北部に広大な領地を持つセレスタイン公爵領。

 先の大戦で焼け落ちたままの公爵家、そして領地を任せる貴族は一人もいない。


「デムハイトはどうした? メルキオールとガメル宰相もいるだろう」


 レイモンドが、不審そうに問い返した。

 彼らもまた、王国の旧秩序を支えていた重鎮たちだ。

 彼らが健在であるならば、メリーの公爵領に貴族がいなくなるなどという事態は起こり得ないはずであった。


「デムハイト伯爵は再起不能です。平民として西側で暮らしたいと言っている」


 バルカスが、事務的な報告を淡々と述べた。

 彼が読んだ報告書には、家族を失い、ガーディスの亡霊に家を乗っ取られそうになった、ただ一人の人間として静かな終焉を望んだ男の、諦念に満ちた決断が記されていた。


「メルキオール子爵は妻に離婚を申し入れられてな、これをあっさりと受け入れた。彼はガーディスから帰らない。今は大工の見習いとして建築に精を出している」


 アルベルトが、彼の過去を振り切った生き様に敬意を込めて語った。

 高貴なる身分を捨て、泥にまみれて材木を運ぶメルキオールの姿は、今のアルベルトにとって、どの王国貴族よりも眩しく映っているのかもしれない。


「ガメルはヴォルガンから離れないわ。領地も爵位も返還すると言っているし」


 メリーは、どうでもよさそうに手を振った。

 ガメル宰相は、仕える王が別の国の王になろうとも、傍を離れるつもりはないのだろう。

 己の主を決め切ったガメルという男の、忠誠の現れであるとも言えた。


「そうか……。ガメル宰相はともかく、デムハイトとメルキオールの人生を狂わせたのは私だ。なおさら王国に居るわけにはいかん」


 レイモンドは、自らの額を掌で覆い、深く、深く項垂れた。

 彼が推し進めたもの、そのすべてが砂の城のように崩れ去り、後に残ったのは、自らの選択が招いた他者への負債だけだった。

 夜気が応接室の床を這うように広がり、老いた足首を冷たく締め付けていく。


「え……ちょっと……」


 メリーの困惑したような声が、室内の重苦しい沈黙を破った。

 彼女は、レイモンドの絶望を理解していないわけではない。


「これも責任と義務だ。負債の清算だ。復興中のガーディスの行政を私が回す。私にできるのはこれだけだ」


 レイモンドは顔を上げ、潤んだ瞳でメリーを見つめた。

 その瞳に宿るのは、赦しを請う者の卑屈さではなく、自らの業を背負って地獄へ向かう者の峻烈な覚悟であった。

 王国貴族として数十年培ってきた行政の知見を、すべてガーディス自治区の復興へと捧げる。

 それは彼にしかできない、最も効率的で、最も過酷な返済方法だった。


「ヴォルガンとカイロス、ベルンとサフィアンがいる中で、あんたの出番はあるの?」


 メリーが、無造作にその名を並べ立てた。

 その言葉の響きに、レイモンドは全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。


「カイロス!? まさかエルフィリア皇帝か? サフィアンと言えば帝国の第二皇子……。え? 西の大商人ベルン?」


 レイモンドの声が上ずり、眼鏡が微かにズレる。

 彼が耳にしたのは、大陸の勢力図を根底から塗り替えるような、あまりにも重厚で、あまりにもあり得ない顔ぶれだった。

 敵国であったはずの帝国の元皇帝と元皇子が、そして王国の物流を牛耳る伝説の商人が一つの地に集結しているという事実は、もはや国家という概念すら超えた「何か」が動き始めていることを物語っていた。


「そうよ。『鉄屑の誓い』のリーダーだったマルコスティーノ・ガーディス王子もいるわ。そして、ヴォルガンがガーディスの王になれば、当然ミディア王太后とガメルもついていくでしょうね」


 メリーは、まるで明日の献立を語るような気安さで、王家の血統を巡る禁断の事実を付け加えた。

 アステリア王国、エルフィリア帝国、そしてガーディス自治区の王族・皇族の名が連なる。


「何がどうなったらそんな巨星だらけになるんだ」


 レイモンドは、椅子の背もたれに崩れるように身を預けた。

 彼が「余生を捧げる」と決意したガーディスは、もはや単なる被災地などではなかった。

 そこは、大陸の頂点に立つ者たちが集い、新たな秩序を産み落とそうとする、世界の中心点へと変貌していたのだ。


「そうね。そして私の公爵領には貴族が一人もいない。不公平すぎない? これが全部ヴォルガンの策略だったら、泣くわよ? 私」


 メリーは、本気で憤っている様子で机を軽く叩いた。

 その仕草に伴って、ピンクブロンドの髪が揺れ、エメラルドの瞳が激しく火花を散らす。


「むぅ……ううむ……。確かにそうだな。しかし私は……」


 レイモンドは絶句した。

 自分のような旧時代の汚物とも呼ぶべき不逞貴族が、その燦然たる顔ぶれの中に混ざって何ができるというのか。

 それは負債の返済どころか、偉大な王たちの庇護を受けているだけではないのか。


「王国に仇成す不逞貴族? そんなの関係ないわ。私もアルも、ヴォルガンを討って玉座を奪おうとしていたわ。そんな私たちが公爵と国王よ。あんたは反逆者として、不逞貴族としての誹りを受けながら、私を支える侯爵になりなさい」


 メリーは、不敵な、それでいてどこか清々しい微笑を浮かべて言い放った。

 その言葉は、レイモンドが抱えていた過去の重みを、一瞬にして未来へと繋がる「力」へと反転させた。

 罪を消すのではなく、罪を背負ったまま、その牙を新たな領土の繁栄のために振るえ。

 彼女が求めているのは、清廉な賢者ではなく、泥にまみれ、酸いも甘いも噛み分けた老いた修羅の智慧だったのだ。


「……く。くくくっ。わはははは! 不逞貴族の私が侯爵か。それも面白いな」


 レイモンドの喉から、乾いた笑いが溢れ出した。

 それは絶望の果てに見つけた、一筋の狂おしいほどの希望。

 そして、自身が果たすべき責任と義務の道。

 不逞貴族として裁かれずに生きながらえた自身の考える贖罪など、この少女が描く壮大な構想の前では塵芥に等しい。


「悪い話じゃないでしょう? 今、一番不安定で面白いのがセレスタイン領よ。私たちが好き勝手に造り変えてしまいましょう」


 メリーは熱のこもった瞳でレイモンドを見据える。

 彼女の視線には、過去のわだかまりを超えた、澄んだ重みのある信頼がまっすぐに注がれていた。


 先の大戦で滅んだセレスタインが、再び王国の柱として動き出す。

 その重くも確かな第一歩が、今まさに踏み出されようとしていた。


 王都の尖塔を赤く染める夕日は、現国王が王城へと帰還するまでの残り僅かな四日間という猶予を、静かに、しかし断固として刻んでいた。

 国王の帰還。

 それは即ち、王国のこれからを決定づける抜本改革の始まりである。


 揺るぎない団結をもって、盤石の地位を築いた西のアイゼンハイド領。

 メリーの手によって、新たな姿へと変わり始めた北のセレスタイン領。

 変わらぬ強さを維持する南のアステリア王家ことヴェリウス領。

 そして、全く違う形に変化し、王国から独立するガーディス自治区。


 玉座の譲位、新たな公爵の誕生、そして自治区の独立。

 建国以来の歴史を塗り替える激動を前に、アステリア王国はその形を変え、新たな時代へと踏み出すための胎動が、深い夜の闇の中で確かに息づいていた。


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