第76話:王都にて、書類の山、メリーちゃん王都に降臨
「なあ、なんでこの書類の山は増える一方なんだろうな」
窓外に広がる王都の空は、重く垂れ込めた鉛色の雲に支配されていた。
アステリア王城の深奥、本来ならば静謐が支配しているはずの執務室は、今や積み上げられた紙の束が放つ微かな埃の匂いと、終わりなき政務が醸し出す重苦しい熱気に満ちている。
アルベルト・アステリアは、天を衝くかのような書類の塔を見上げ、胸の奥に溜まった澱を吐き出すかのような溜息を零した。
使い込まれた机の表面に刻まれた無数の傷とインクの染みは、アステリアの政が積み重ねてきた執念を、そして今、ガーディスから戻ったばかりのアルベルトを待ち受けていた新たな戦場の険しさを、無言のままに物語っている。
冷え切った冬の足音が石畳を伝わって忍び込み、暖炉の火ですら追い払えぬ冷気が、アルベルトの指先を執拗に強張らせていた。
彼は手元の決裁印を置き、僅かに冷めた茶を啜って、乾いた喉に熱を流し込む。
「殿下がそうやってサボっているからでしょうな」
室内に響いたのは、枯れ木が擦れ合うような老練な、しかし隠しきれぬ慈愛を含んだ響きだった。
レイモンド伯爵は、手元の書類を繰る手を止めることなく、老眼鏡の奥の瞳に僅かな皮肉を滲ませる。
王城に戻ってからの数週間、アルベルトの隣で共にこの紙の海を泳ぎ続けてきた老貴族の言葉は、鋭い指摘というよりも、身内の怠惰を嗜めるような親密さを帯びていた。
「サボってないぞ。――ヴェリウス侯爵、この書類を……ダメか……」
アルベルトの視線の先、若きヴェリウス侯爵はデスクに身を投げ出し、意識の糸を切ったかのような深い眠りに沈んでいた。
国王不在という状況で歯車を回し続けるための代償か、整った横顔に落ちる深い影は、彼の献身が限界を超えていることを如実に示している。
執務室を支配する沈黙の中に、ヴェリウスの微かな寝息だけが、この場の異常な疲労を肯定するように溶け込んでいた。
「若いくせにだらしがない。少しはブラッドレイ子爵を見習え」
レイモンドの厳しい視線が、部屋の片隅で黙々と作業を続ける男へと向けられる。
バルカス・ブラッドレイは、一点の曇りもない最高級のスーツを優雅に纏い、まるで社交界の夜会で詩篇を綴っているかのような平然とした面持ちで、膨大な書類を捌き続けていた。
一ヶ月前、混乱を極める王都の行政を正常化させるために招集された彼は、その比類なき事務処理能力をもって、停滞していた王国の中枢に新たな風を吹き込んでいた。
ペンが紙の上を滑る規則正しい音だけが、バルカスの周囲にだけは秩序が存在することを証明している。
「こっちは終わったぞ、レイモンド伯」
バルカスが、最後の一枚に鮮やかな署名を添えてペンを置いた。
その動作には、数時間の重労働を感じさせぬほどの軽やかさが宿っている。
「休憩? 休憩ですか? お茶にしましょう」
室内に、弾けるような明るい声が響いた。
『海鳥』の娘が、湯気を立てる磁器のカップをトレイに載せ、軽やかな足取りで室内を舞う。
西側の意匠が施された制服が、重厚な執務室の空気を微かに和らげ、芳醇な茶の香りが埃っぽさを上書きしていった。
「私は書類の山に埋もれているアルベルト様を応援してます」
もう一人の『海鳥』の娘が、アルベルトのデスクの前で拳を握り、何処か芝居がかった熱を込めて宣言した。
その瞳に宿る純粋な応援の光とは裏腹に、彼女の手には新たな報告書の束が握られている。
「いやいやいや? 応援してないで手伝えよ」
アルベルトが投げやりに応じるが、娘は悪びれる様子もなく、小首を傾げて微笑んだ。
「はっはっは。我々は殿下の決裁が必要な書類にサインをする権限がないのでね」
バルカスが、愉しげに肩を竦めた。
その余裕に満ちた仕草は、アルベルトの焦燥を煽るには十分すぎるほどの優雅さを湛えている。
「くっ……」
「せめて急ぎの物とそうじゃない物の仕分けくらいは手伝うか」
「はぁーい」
バルカスの促しに、『海鳥』の娘たちが弾んだ返声を返し、目にも止まらぬ速さで書類を分類し始めた。
沈みゆく太陽が、窓から差し込む光を橙色から紫へと変え、執務室の影を長く伸ばしていく。
王都での一日は、そうして音もなく過ぎ去ろうとしていた。
業務時間の終了を告げる静かな鐘の音が遠くで響くと、アルベルトは椅子を鳴らして立ち上がり、凝り固まった首を鳴らした。
「ヴォルガンはいつ帰ってくるんだ?」
窓の外、ガーディス自治区がある北東の空を見つめ、アルベルトが問いかけた。
「五日後です」
『海鳥』の娘が、事務的な口調の中に隠しきれぬ敬意を滲ませて答える。
現国王ヴォルガンは、未だ自治区の最前線に留まり、自ら指揮を執り、民草と共に再生の苦しみを分かち合っている。
「そうか。ヴォルガンが帰ってくる前に書類の山は片付けておかないとな」
アルベルトは、随分と高さが減ったデスクの上を見つめ、決意を込めて呟いた。
ヴォルガンが戻ってきた時に、無駄な政務で彼の手を煩わせるわけにはいかない。
それが、それぞれの未来を見据える王兄としての、今の戦い方であった。
「メリー君はどうしている?」
バルカスが、不意に、しかし最も核心に触れる名前を口にした。
「王都の旧アイゼンハイド侯爵の家にいます。まだ引っ越し中だと思います」
『海鳥』の娘の答えに、アルベルトは僅かに目を細めた。
「ああ、アイゼンハイド侯爵が王都を離れて以降、ずっと空き家だったらしいな」
以前、軍務局長としてこの王都に君臨していた男の邸宅。
それが、セレスタイン公爵になるメリーにあてがわれた王都での住居となる。
「ついにメリー君も王都に降臨か。感慨深いな」
バルカスが、窓越しに広がる街並みを見下ろした。
西側からの歩みが始まって、すでに三年の月日が流れている。
当初は武力と経済による変革を想定していたその道程は、いつしか食糧という名の命の種を撒き、民の心を掴むことで、この保守的な王国の心臓部へと到達した。
国王ヴォルガンにその実力を認めさせ、敵対ではなく協力という形で中央に招かれたその軌跡は、まさに現実となった奇跡に他ならない。
「ああ、そうだな」
アルベルトも同意するように頷いた。
「メリーって、あの『メリーちゃん』だろう? セレスタインの娘の、西からの食糧の袋に描かれている」
それまで沈黙を守っていたレイモンドが、興味深げに口を挟んだ。
王国の民にとって、その名前はもはや実在の人物を超えた、一種の福音に近い響きを持っていた。
「そうだ。結局、あの時の『西側大穀倉地帯構想』が彼女を、我々をここまで連れて来たんだな」
バルカスの言葉には、誇りと共に、運命の不思議を噛み締めるような重みが宿っている。
「あの時の荒唐無稽とも思える話がここに繋がっていた。凄いよな。メリーはあの頃から何一つブレていないのも凄い」
アルベルトの脳裏に、港町レグスの広場で木箱の上に立ち、炊き出しの指揮を執っていた少女の姿が浮かぶ。
飢えをなくし、街道を繋ぎ、王国の食糧庫となる。
誰もが実現不可能と二の足を踏んだその構想が、飢饉から王国を救い、ついには中央へと架かる橋となったのだ。
「もうすぐだ。もうすぐメリー君のスタート地点に辿り着ける。ようやく見えた」
バルカスが、その身を震わせ、拳を固く握りしめた。
「ああ、長かったな。いや、短かったのか……」
アルベルトが遠い目をする。
「スタート地点? ゴールではなく?」
レイモンドが首を傾げた。
王国を救い、中央に返り咲いた。
国王の座を譲渡されることまで決まっているアルベルトに、これ以上の成果があるだろうか。
「メリーは俺に王国の再建をさせたいんだろう。俺が国王になるのはスタート地点でしかない。メリーは必ずそう言う」
アルベルトは、確信を持って断言した。
彼女の視座は、常に遥か遠くにある。
玉座に座ることなど、彼女にとっては過程に過ぎないのだ。
「王国の再建か。我々旧貴族が成しえなかった、いや、放棄していたものを、若者が拾う、か。我々はなんとも情けないな……」
レイモンドが、自嘲気味に息を吐いた。
長年、王国の腐敗を助長し続けてきた自らの過去が、若き世代の鮮烈な歩みの前に色褪せていくのを感じていた。
「ああ、メリーはそこに問題があると片付けないと気が済まない性質なんだろうな。セレスタインとガーディスの問題も片付けたしな」
「片付いたのか? 王国とガーディスの因縁が?」
レイモンドが、驚愕を露わにして身を乗り出した。
百年。
その歳月が積み上げた怨嗟と憎悪は、容易に消えるものではない。
「ああ、メリーが一刀両断した。俺もヴォルガンも、それを眺めているしかできなかった」
アルベルトは、苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「どうやって片付けたんだ? 百年もの恨みが解消できるとは思えんのだが……」
「お説教だ」
アルベルトは、ガーディスの乾いた風の中で、絶望に沈む住民たちに向かって刃のような言葉を浴びせていたメリーを思い出す。
「説教? そんなことで……?」
レイモンドは、呆気にとられたように口を半開きにした。
「ああ、微塵も優しくないメリーの説教が、ガーディスの住民に響いたようだ。あれは誰も真似できない」
力でもなく、金でもなく、魂を叩き切るような言葉。
彼女には、相手が王であろうと、虐げられた民であろうと、等しく「未来を見ろ」と叩きつける傲岸不遜さと、それを支える圧倒的な覚悟があった。
「一体どんな……」
『海鳥』の娘が、スッと背筋を伸ばして立ち上がった。
その瞳には鋭い光が宿り、レイモンドを真っ直ぐに指差すと、少女のそれとは思えぬ峻烈な響きでメリーの声音を模倣した。
「『あんたたちはただの借金持ちじゃないわ、借金王よ!』、と罵倒していました」
「ぶはははは! 似てる! 何でお前はそんなにメリーの声真似が上手いんだ」
アルベルトが、椅子を鳴らして爆笑した。
先ほどまでの疲労が、その一言で霧散していく。
「どうも。お粗末さまです」
娘は淑女のような完璧な仕草でお辞儀をし、何事もなかったかのように椅子に座り直した。
「……ありえない。百年続いた植民地の農奴たちにそんなことが言えるものなのか? いくらセレスタイン側の当事者とはいえ……」
レイモンドは、衝撃から立ち直れぬまま、愕然と呟き続けていた。
「メリー君らしいな。確かにそんなことが言えるのはメリー君だけだろう。自分にも過去の負債を返さなければならないと自覚がある彼女だからこそだな」
バルカスが、慈しむような眼差しで頷いた。
「過去の負債、か……。問題を解決できなかった王族の俺には特に刺さるな」
アルベルトの言葉が、夕闇に溶け込み、静かに執務室に沈殿していく。
過去の過ちを認め、その重荷を背負ったまま、なお未来を拓く。
その壮絶な覚悟が、今の王国には必要なのだと、彼は改めて己に言い聞かせた。
「『メリーちゃん』か。今の話で俄然興味が湧いた。明日、彼女の家を訪ねよう。会って話がしてみたい」
レイモンドが、失われていた好奇心を取り戻したかのような瞳で言った。
「書類が終わっていないんだが……」
アルベルトの弱々しい抵抗を、レイモンドは一蹴する。
「ヴェリウス侯爵に丸投げしよう。執務中に寝ていた罰だ」
「そんな……」
薄っすらと目を開けたヴェリウスが、絶望に満ちた声を漏らした。
──────
白く濁った吐息が、冬の到来を告げる凍てついた空気の中に溶けては消えていく。
王都を覆う鉛色の空からは、今にも雪の欠片が舞い落ちてきそうな気配が漂っていた。
石畳を踏みしめる軍靴の響きが、静まり返った貴族街の路地に規則正しく反響する。
アルベルトは、厚手の外套の襟を立て、隣を歩く老貴族の様子に視線を投げた。
レイモンド伯爵は、冷気に鼻の頭を赤くしながらも、その足取りには昨日までの疲労を感じさせぬ奇妙な活力が宿っている。
その後ろには、一点の曇りもない最高級のスーツを纏ったバルカス・ブラッドレイが、まるで春の庭園を散策するかのような優雅さで随行していた。
彼らの周囲を固めるのは、王国軍最強の矛と称される第一軍の精鋭たちだ。
隊長を筆頭に、数名の兵士たちが常に周囲を警戒し、王室の重要人物たちの歩みを守護している。
「ここだ」
アルベルトが足を止めた先には、高くそびえる石造りの門と、年月の重みを湛えた重厚な邸宅が鎮座していた。
かつて、主を失い沈黙を守り続けていたはずの場所。
アイゼンハイド侯爵が王都を離れて以来、主の帰還を待つ墓標のように静まり返っていた邸宅は、今、微かな生活の熱を帯び始めている。
「三年間、放置されていたわりには随分と綺麗じゃないか」
バルカスが、門扉の装飾に指を滑らせながら、感心したように声を漏らした。
鉄柵には錆一つ浮いておらず、隙間から見える植木も手入れが行き届いていることが伺える。
「定期的に業者が掃除や手入れをしていたらしい。主がいつ戻っても良いようにな」
アルベルトの答えに、レイモンドが白い髪を撫でつけながら、不思議そうに首を傾げた。
「門番の姿が見えんが……入っていいのか?」
「構わんさ。中には『彼』がいる」
アルベルトは躊躇いなく門を開け、広大な敷地内へと足を踏み入れた。
葉を落とし切った並木が続く小径を抜けると、重厚な玄関前には、影のように佇む一人の男の姿があった。
銀髪を完璧に整え、非の打ち所のない礼装を纏ったジャックが、静かに頭を垂れる。
「アルベルト様、レイモンド伯爵、ブラッドレイ子爵。ようこそおいでくださいました」
その声は、執務室の喧騒とは無縁の静謐さを湛えていた。
「突然訪問してすまなかったな、ジャック」
「いえ、『海鳥』より既に先触れを頂いております」
ジャックの淡々とした言葉に、アルベルトは苦笑を浮かべた。
「そうか。それで、メリーはどこだ?」
「メリー様はあちらに」
ジャックが示した先は、豪華な玄関ホールではなく、建物の影になった庭の隅であった。
そこには、地面に膝をつき、熱心に手を動かしている影がある。
「……あれが、あの『メリーちゃん』なのか?」
レイモンドが、眼鏡の位置を直しながら呆然と呟いた。
「メリー!」
アルベルトの声に、その影がピクリと反応し、ゆっくりと腰を上げた。
土を払う動作すら板に付いているその人物が、こちらを振り返る。
「あら、アル。王城を抜け出して大丈夫なの? レイモンド伯爵に怒られない?」
現れたのは、息を呑むほどに美しい、しかし奇妙な格好をした少女であった。
ピンクブロンドの髪は帽子の中に押し込まれ、体には土に汚れた厚手の作業服。
手には使い込まれた手袋、足元は頑丈な長靴の完全武装。
どこからどう見ても王国を揺るがす「奇跡の少女」ではなく、農家か庭師にしか見えなかった。
「そのレイモンド伯爵がメリーに会いたいと言うのでな。こちらがレイモンド伯爵だ」
アルベルトの紹介を受け、メリーは土のついた手袋を外し、手早く帽子を脱いだ。
中から零れ落ちた鮮やかな髪が、初冬の淡い陽光を反射して輝く。
「レイモンドだ。お初にお目にかかる。……そなたが、本当に『メリーちゃん』で相違ないのか?」
レイモンドの視線には、明らかな困惑と疑念が混じっていた。
王国に溢れる画集や人形の姿とはあまりにかけ離れた、土の匂いのする現実の少女。
「レイモンド伯爵。お初にお目にかかります。メリーと申します」
メリーは作業服姿のまま、完璧な貴族の礼を披露した。
その所作の美しさと、土汚れの長靴というギャップに、第一軍の兵士たちはそわそわと落ち着きをなくしている。
「セレスタイン公爵になるそうだな」
レイモンドの言葉に、メリーはあからさまな不快感を顔に出し、小さく舌打ちをした。
「はい。そのように申し付けられております。……ヴォルガンの策略によりね。ちっ!」
「はっはっは! 面白い娘だな。王国の至宝たる公爵位がそんなに嫌か?」
レイモンドが愉快そうに声を上げた。
「嫌よ! 私は港町レグスで、海と夕陽を見ながらのんびり暮らしたいのよ」
「まあ、そう言うな。もう数年の辛抱だ、メリー君。地盤を固めてしまえば、あとはアルベルト殿下とアンナマリー様に任せてしまえばいい」
バルカスが、慈しむような微笑みを湛えて割って入った。
「あら、バルカス。久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
「半年ぶりくらいか。私の知らない間に庭師にでも転身したのか」
バルカスがメリーの装備を指して苦笑する。
「ところで、私はこれから何て名乗ればいいのかしら? メリュジーヌ・セレスタイン? メリー・セレスタイン? さすがにギルガルドは違うと思うのだけれど」
メリーが何気なく発したその名を聞いた瞬間、レイモンドの体が目に見えて震え始めた。
「メリュジーヌ……ギルガルド……!? まさか、あの時の……なんという事だ。なんて……私は……」
老伯爵の顔から血の気が失せ、膝がガクガクと音を立てる。
十年ほど前、自らの手によってギルガルド家へ送り込んだ刺客。
その歯車が噛み合い、目の前の少女が、自らが葬り去ったはずの家の生き残りであることを、彼は悟った。
「知っているわ。ギルガルド家にあの女、ビオラを送り込んだのがあんたなんでしょう?」
メリーの口調は、怒りも、憎しみも、悲しみすらも含んでいなかった。
ただ、無機質で乾いた響き。
「今更な話ね。どうでもいいわ」
「そんな……、どうでもいいで済まされる話では……私は、君の人生を、君の家を……」
レイモンドは崩れ落ちるように地面に手を突き、喘ぐように言葉を絞り出した。
「どうでもいいのよ。『鉄屑の誓い』の連中とも話はついているわ。もう済んだ話なのよ」
メリーは、自らの汚れた長靴を見つめるように視線を落とし、ふっと息を吐いた。
「済んだ……話……」
「そうよ。どうでもいいわ。いつまでここで立ち話をするつもり? さっさと中に入りなさい」
メリーの促しに、ジャックが音もなく扉を開ける。
レイモンドはメリーの言葉の重さに逆らえなかった。
アルベルトやバルカスに支えられ、魂の抜けたような足取りでレイモンドが屋敷の中へと消えていく。
護衛の第一軍兵士たちは、その場の空気の重さと『メリーちゃん』に出会えた感動に圧倒され、玄関前で立ち尽くしていた。
「あんたたちは入らないの?」
メリーが、第一軍の隊長に声を掛けた。
「あ、あの……」
屈強な武人である隊長が、憧れの偶像を前に、初陣の少年のような狼狽を見せている。
「なに?」
「メリーちゃんにお会いできて光栄です! 我らもガーディス自治区に行きたかった。ですが、第一軍は王都を離れられず……」
隊長の声には、本物の熱情が籠もっていた。
「王都を守る仕事も大事よ。ヴォルガンも騎士団もいなかったんでしょう? 立派に役目を果たしたのよ、あなたたちは」
メリーが、ふっと柔らかい微笑を浮かべた。
その慈愛に満ちた表情は、まさに民草が夢に見た救世主そのものであった。
「っ! そう言っていただけて感激です!」
隊長は直立不動で叫び、その瞳に熱いものが込み上げるのを堪えていた。
「で? あんたたちは中に入らないの?」
「……護衛はジャック殿にお任せします! 我らは、メリーちゃんの作業を邪魔するわけにはまいりません!」
「?」
メリーが首を傾げる。
「我ら第一軍の精鋭、これよりメリーちゃんのやっていた草むしりを完遂いたします!」
「あ、あら、そう? じゃあ、お願いしようかしら……」
「はっ! お任せください!」
隊長が腰の剣を外して地面に置き、荒々しく袖を捲り上げた。
「「「お任せください!」」」
兵士たちが、まるで戦場に赴くかのような壮絶な咆哮を上げ、一斉に庭園の雑草へと飛びかかった。
王都最強の戦士たちが、一丸となって土を掘り起こし、枯れかけた雑草を根絶やしにする。
その異様な熱気と献身を前に、メリーは少しだけ申し訳なさそうに屋敷の中へと歩を進めた。
最終章、第4部 開幕です
第76話は、どうしても文字数的に1話に収まらず、2話構成になりました
ぜひ 76話と77話をセットで 読んでいただければ嬉しいです




