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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第75話:心の傷、借金王、木箱の上の少女再び

「ベルン。あなた、ちゃんと眠れてる?」


 天幕の隙間から漏れ出す朝の光が、埃の舞う卓上に虚ろな紋様を描き出している。

 現地入りしてから一月、この地に堆積していた死臭と泥は、再起を誓う者たちの執念によって剥ぎ取られた。

 大通りを埋め尽くしていた無慈悲な泥濘は、徹底された清掃によって石畳へと姿を変え、天幕の群れからは復興を告げる煮炊きの煙が細く立ち昇っている。

 鉱山跡から流れ出す不浄の奔流も、排水設備の復旧により街中に溜まることがなくなり、雨が降るたびに街を呑み込んでいた絶望は、かつての悪夢として語られるに過ぎない。


 しかし、そこに一つだけ異物があった。

 メリーのエメラルドグリーンの瞳が捉えた男は、再生の熱気とは無縁の深い影をその背に纏っている。


「そこそこ寝ています。ですが……どうしてもあの日の夢を見て起きてしまいますね」


 ベルンは開かれた台帳から視線を外すことなく、ただ淡々と、枯れた声を絞り出した。

 ペンを握りしめるその指先は、記憶にこびりついた戦慄をなぞるかのように微かな震えを刻み続けている。

 ガメルと共に泥の深淵を這い、無数の遺体を拾い上げたあの日の記憶は、物理的な泥が消え去った後も魂の深淵に澱のように沈殿し続けていた。

 メリーは唇を噛み、目の前の男が抱える救いようのない絶望の残滓を見つめた。


「顔色が悪いわよ。物資と人員の管理は他の人に任せて休みなさい」


 その声音には、いつもの傲慢な響きは影を潜め、代わりに一抹の危うさが混じっている。

 ベルンの顔は土色に変色し、頬は削げ、その瞳からは生を謳歌する光が完全に失われていた。


「はい。でも、体を動かしている方が気分が楽なんですよね」


 ベルンは弱々しく微笑を浮かべるが、その視線は虚空を泳ぎ、焦点が定まることはない。

 思考を止め、ただ事務的な作業に没頭することだけが、彼が己の崩壊を食い止めるための唯一の防壁であった。


「それはわかるけど……」


 メリーは言葉を飲み込み、差し出した手を空中で止める。

 安易な言葉は、今の彼にとっては魂を切り裂く刃にしかならないことを、彼女の慧眼は正確に射貫いていた。


「動けるようになった住民から聞き取り調査をするらしいです。ヴォルガン陛下を呼んできます」


 ベルンは機械的な動きで席を立ち、天幕の出口へと向かう。

 その足取りは頼りなく、陽光に透ける背中は今にも霧のように消えてしまいそうなほどに脆い。

 メリーは、彼が去った後の揺れる布地をただ無言で凝視し続けていた。


「危険だな。行くところまで行くと、彼は自ら命を絶つようにしか見えん」


 背後の闇から、元皇帝カイロスの声が響く。

 その声音には長き歳月を軍事に捧げた者特有の重みがあり、死の境界線に立つ者の本質を見抜いていた。


「そうなのよ。どうにかできない? マクシミリアン」


 メリーは天幕の隅に控えていた巨漢の侯爵へ、助けを求めるように視線を向けた。

 マクシミリアンは太い腕を胸の前で組み、深い溜息を吐き出す。


「そう言われてもな……。お前が優しくしてやるとかできないのか?」


「安易な同情や慰めは、今以上の後悔に浸る免罪符を与えるだけよ。それだけはやってはいけないわ」


 メリーの断固とした拒絶に、マクシミリアンは手強い壁にぶつかったかのように眉根を寄せる。


「うーむ。難しいな……」


「軍人でも、戦争を経験すればそうなることも多い。ましてや彼は軍人ではない。どうすべきか……」


 カイロスの呟きが、重苦しい空気を一層濃くする。

 数多の戦場を観測してきた皇帝にとっても、彼の魂を救済する方法は未知の領域であった。


     ******


 ほどなくして、作戦本部の天幕には一人の男が連行されてきた。

 ガーディス自治区の生き残りである男は、王たちの放つ威圧感に縮こまり、泥に汚れた衣服を震わせている。

 卓を囲むのは、ヴォルガン、アルベルト、マルコ、そして憔悴しきったベルン。


「ガーディス自治区が西からの救援物資を拒否したのはなぜだ?」


 ヴォルガンの低く響く声が、天幕の空気を一瞬にして凍りつかせる。

 住民の男は、怯えを剥き出しにしながらも呪詛のような言葉を吐き出した。


「王族からの通達だ。セレスタインの施しを受けるくらいなら死ね、と」


「馬鹿な! お前たちはそれを飲んだのか?」


 ヴォルガンの怒号が、天幕の布を震わせる。

 信じがたい愚行を前に、王としての理性が激しく火花を散らした。


「仕方ないだろう! 王族には逆らえん。逆らえば餓死するより先に処刑だ!」


 男の言葉には、抗う術を持たぬ弱者の諦念が剥き出しの傷跡のように刻まれている。

 死の影に怯え、生を否定されるという、王族による支配の歪みがそこには凝縮されていた。


「くそっ! 何をやっていたんだ、ここの王族は!」


 ヴォルガンが卓を叩き、激昂を露わにする。

 その傍らで、ベルンの瞳が僅かに揺れ、唇が戦慄きを刻んだ。


「それって、西からの食糧にメリーさんのイラストが入っているから拒否されたってことですよね……」


 ベルンの発した言葉は、自らの心臓を刺し抜くような鋭利な響きを伴っていた。

 己が良かれと思って描いた偶像が、この地の民にとっては死の宣告となったという事実に彼の精神は悲鳴を上げる。


「ダメよ、ベルン!」


 メリーが鋭く割って入り、ベルンの言葉を遮る。

 彼の自責の念が、底なしの沼へと彼を沈めようとしているのを彼女は敏感に察知していた。


「ですが、僕が食糧の袋にあのイラストを入れなかったら……」


 ベルンの声は、もはや消え入りそうなほどに細い。

 救おうとした手が、実際には死を招いたという皮肉が彼の魂を確実に砕きにかかっていた。


「それは結果論ですらない極論だ。食糧の袋にセレスタインの娘が描かれているのであれば、中身は食って、袋はズタズタに裂いてしまえば良かったんだ。しかし王族にはそれじゃ済まされないほどの恨みがあったんだろう」


 住民の男の乾いた言葉が、追い打ちをかけるように響く。

 底の見えない王族の恨みは、合理的な判断すらも焼き尽くし、ただ破滅へと領民を導いた。


「兄上たちはそこまで……。これはもう、兄上たちの手による人災じゃないか……」


 マルコが顔を覆い、呻くように声を漏らす。

 自身の血族が犯したあまりに重い罪に、王族としての矜持が音を立てて崩れ落ちていく。


「ああ、ここを出たマルコスティーノ殿下にはわからんでしょう。こんな閉ざされた領地、そして植民地という状況。こんな環境では恨みは募るばかりで薄まることはない」


 男の視線は、かつての王子を冷ややかに射貫く。

 外部の風が届かぬ不遇の地で、負の感情だけが純粋培養され続けてきた歳月。

 その重さを、メリーは静かに見つめていた。


「わからない話じゃないわね。結局、過去の清算をしないことには先に進めないという事なのよ」


 血塗られた過去を直視し、その膿を出し切らぬ限り、どのような復興案も砂上の楼閣に過ぎない。


「でも、僕は……」


「ベルン。責任の所在を問うのであれば、そんなものは明確よ。当時のアステリア王家とセレスタイン公爵家の責任以外の何物でもないわ」


 メリーの叱咤が、ベルンの逃げ道を断つ。

 個人の善意や落ち度など、この巨大な歴史のうねりの中では塵芥に等しいことを、彼女はあえて残酷なまでに突きつけた。


「そうだな……」


 ヴォルガンが、己の血に刻まれた業を認めるように深く頷く。


「その清算をするのが俺たちの役目か……」


 アルベルトの言葉には、未来を背負う者としての重い覚悟が宿っていた。

 二人の王が、避けられぬ運命をその肩に載せた瞬間、天幕の空気が微かに鳴動した。


「そうよ。そして、セレスタインの娘である私の役目でもあるわ」


 メリーは一人、毅然と立ち上がり、王たちを、そしてベルンを見据えた。


「ベルン、これは王国の問題だ。君が手を出すべきではない」


「そうだ。ベルン殿は頑張った。そして、まだ仕事は終わっていない。過去を悔いている暇はない」


 王たちが順に、ベルンの背負った荷を降ろさせようと声をかける。

 だが、ベルンはただ拳を握り締め、膝の上に落ちる自身の影を凝視していた。


「……頑張った、頑張りましたかね? 僕。確かに、僕たちはいくつもの命を泥の中から掬い上げました。でも、救えなかった命もある……」


 その呟きは、血を吐くような嗚咽に近い。


「ベルン! 弁えなさい! あなたがここで後悔していても問題は片付かないわ。先に進もうとしている人間の足を引っ張るのはやめなさい!」


 メリーの罵倒に近い叫びが、ベルンの意識を強引に引き戻す。

 それは慈悲なき刃であり、同時に、彼を後悔の深淵から繋ぎ止める唯一の鎖でもあった。


「……っ、……はい。すみません……。ですが……」


「今、住民の生の声を聴いたでしょう? 彼は、いくつものヒントを私たちに与えてくれたわ。あなたはそこから何も拾い上げなかったの?」


 メリーの鋭い眼差しが、ベルンの思考の再起動を促す。


「……植民地支配とそれを恨むガーディスの王族、閉塞感……。それは解決できる。それはわかります」


 ベルンは喘ぐように答えを絞り出す。

 機能不全に陥っていた彼の頭脳が、メリーの暴力的な叱咤によって、ようやく火を灯した。


「そうよね。それに思い至らないあなたじゃないわ。未来の解決策は私たちが目指しているものと合致する。問題は『今』ね」


「ああ、彼らがセレスタインの、いや、メリーちゃんの主導する復興を快く思わない、受け入れないかもしれんという事か」


 ヴォルガンが、メリーの指し示す先にある棘を読み解く。

 救い手そのものが憎悪の対象であるという、この復興事業における最大の、そして救いようのない矛盾。


「そうよ。セレスタインに恨みを持つガーディスの王族はもういない。商業国として成り立てば人の出入りは増え、外部との交流が増えれば閉塞感もなくなる。でも……」


「復興すべき土地の住民が復興の足枷になる……か」


 アルベルトの言葉が、天幕に重く落ちる。

 物資や技術、資金だけでは解決し得ない、民衆の心に根付く負の遺産。


「そうね。住民の意識を根底から覆す一手なんて存在しない。問題は問題として抱えたまま進むしかないと私は思っているわ」


 メリーは言い放ち、その瞳に決然たる光を宿した。


「ううむ……。難しいな……」


 ヴォルガンが唸り、沈黙が天幕を支配する。

 王たちはそれぞれの思考の迷宮へと踏み込んでいく。

 重苦しい沈黙が、天幕の空気をゆっくりと押し潰していった。


「出口が見えない状況で頭を抱えていても仕方がないわ。――マクシミリアン、畑の開拓状況を見に行くわよ」


「わかった」


 メリーは淀みない動きで踵を返し、天幕の出口へと歩き出す。

 マクシミリアンもその背を追い、作戦会議は唐突な終わりを迎えた。

 残された面々も、停滞する空気の中、新たな打開策を見出せぬまま、ぞろぞろと外へと這い出していく。


「メリーちゃんは優しくないな」


 ヴォルガンが、苦笑を漏らしながら呟く。


「あれがメリーの通常運転なんだろ?」


 マルコが同意し、重い足取りで歩を進める。


「そうだ。メリーの目には未来しか映っていないかのようだ」


 アルベルトは遠く、彼女の背が向かう地平を見つめた。

 その背中は、誰よりも過酷な現実を、誰よりも早く置き去りにして突き進んでいた。


     ──────


 ガーディス自治区の西門へと続く大通りは、降り注ぐ陽光を浴びて白く乾いた地肌を晒していた。

 かつてこの地を支配していた死臭は、再興の槌音と共に剥ぎ取られ、代わりに人々の足取りには復興の熱が宿り始めている。

 だが、直近の危機が消え去ったことで露わになったのは、数世代にわたり醸成されてきた澱のような憎悪であった。

 歩みを進めるメリーの背に、作業の手を止めた住民たちの刺すような視線が次々と突き刺さる。

 それは再生を祝う者の眼差しではなく、かつての仇敵へと向けられた、逃れ得ぬ糾弾の火種であった。


「あの髪、あの瞳、セレスタインじゃないのか?」


 不意に、道端に佇んでいた男が、震える指先を向けて絞り出すような声を上げた。

 その言葉が引き金となり、周囲の空気は一瞬にして硬質な刺を孕んで凍りつく。


「ああ、間違いねぇ。オレたちが死にそうになっているというのに、セレスタインの娘は綺麗なドレスを着てオレたちの街を闊歩していやがる」


 隣に立つ男が、呪詛を塗り込めるように吐き捨てた。

 メリーは聞こえないフリをして前を見据えるが、その頬は微かに強張り、その瞳には険しさが宿る。

 無駄に刺激することは得策ではないと理性では理解していても、誇り高い彼女の精神は、浴びせられる侮辱の数々に静かな怒りの火を灯していた。


「おい! 何でセレスタインがここにいるんだ!」

「セレスタインは出て行け!」


 群衆の罵声が怒号へと変わり、道端に転がっていた箒や材木の切れ端が、次々とメリーへ投げつけられた。

 しかし、彼女の影に溶け込んでいたジャックと、傍らに控える赤毛の娘が、瞬き一つの間にその飛来物を叩き落とす。


「メリー様、お下がりください」


 ジャックが鋭い眼差しで周囲を牽制し、静かに制止を促した。

 だが、メリーはその制止を撥ね退けるように一歩前へと踏み出す。


 彼女は一度だけ深く息を吸い、込み上げる怒りを押し殺した。


「ジャック、いいのよ。彼らも恨みごとの一つや二つあるでしょう。話を聞こうじゃない」


 メリーは怒りをあらわにする住民の前へ踏み出し、その背筋を真っ直ぐに伸ばした。

 彼女の堂々たる佇まいに、次なる石を握っていた住民たちの手が一瞬だけ止まる。


「あんたたちの言う通り、私はセレスタインの娘よ」


 毅然と言い放った彼女に対し、一人の男が顔を真っ赤にして叫び返した。


「オレたちはセレスタインの施しは受けねぇ!」


「あんたたち大人がそんなことだから子供が死ぬのよ! 何人の子供が死んだと思ってるの!」


 メリーは腹の底から激情を叩きつけ、握りしめた拳が白く変色するほどに力を込めた。

 その叫びは乾いた空気を鋭く切り裂き、群衆の醜い罵声を力ずくでねじ伏せていく。


「黙れ! セレスタインめ!」


 なおも食い下がる住民に対し、メリーはエメラルドグリーンの瞳に激しい怒りを宿して男を睨みつけた。


「何十年前の話をしてるのよ! 今はセレスタインとかどうとか関係ないでしょ!」


 メリーの突き放すような物言いに、住民たちは顔を見合わせ、戸惑うように声を漏らす。


「九十……百年くらい前か?」

「確かそんくらいだったと思うぞ?」


 その曖昧な返答を聞き、メリーは心底呆れたように深い溜息を吐き出した。


「あのね、私は十八歳よ? そんな昔の話は知らないわ。あんたたちだってそんな歳じゃないでしょう?」


「嘘をつくな!」


 最前線にいた男が、鋭い視線でメリーを射貫いた。


「何が嘘よ?」


「お前が十八だという事だ! 見栄を張るな! せいぜい十代半ばだろう?」


「なっ!?」


 男の言葉に、メリーは屈辱で顔を真っ赤に染め上げ、肩を震わせる。


「よく見なさい! どう見ても十八の淑女でしょう?」


 彼女は腰に手を当てて精一杯に胸を張る。

 だが、住民たちの視線は彼女の身体を舐め、やがてその隣に立つ存在へと吸い寄せられていった。

 そこには、商会の制服すら弾き飛ばさんばかりの、圧倒的な起伏を描く肢体があった。


「あたしッスか? 二十歳ッス」


 赤毛の娘は屈託のない笑みを浮かべ、自身の生命力を象徴するような豊かな質量を惜しげもなく誇示した。

 住民たちは、メリーの小高い丘と、赤毛の娘の霊峰と呼ぶに相応しい嶺を交互に見比べる。

 やがて彼らは一様に顎に手をやり、目を伏せて、深く絶望的な溜息を漏らした。


「比べてんじゃないわよ!」


 メリーは逆巻く感情のままに、足元に転がっていた木切れをひったくるように掴み取ると、群衆に向けて全力で投げつけた。


「うおっ! キレたぞ!」

「キレやすい子供か!」


 住民たちの笑い混じりの怒号が響き渡り、緊張感はどこか滑稽な空気へと変質していく。


     ******


 石畳の大通りを、ヴォルガン、アルベルト、カイロス、ベルンらが、その場を支配する重厚な沈黙を纏い、悠然と踏みしめる。

 大陸の均衡を左右する巨星たちが一堂に会したことで、大通りの空気は歪むような威圧感に包まれ、作業に当たっていた兵卒たちは本能的な畏怖に動きを止めた。

 だが、その静謐を切り裂いたのは、淑女の仮面をかなぐり捨てたメリーの、あまりに世俗的で激しい罵声であった。

 彼女は顔を朱に染め、乱れた桃色の髪を振り乱しながら、足元に転がっていた不格好な木片を拾い上げ、住民たちへと次々に投げ返していた。


「なんだ? メリーちゃんが襲われているのか?」


 狼狽の声を上げ、ヴォルガンが駆け寄ろうとする。

 その隣で、アルベルトは視線を騒乱の核心へと向け、深く、呆れたような吐息を漏らした。


「いや待て。メリーが住民を襲っている……」


 アルベルトの指摘の通り、メリーが住民に向かって投げた木片が力ない放物線を描いて地面へ落ち、空しく転がっていく。

 ベルンが当惑を隠せぬまま、状況を整理すべく歩み寄った。


「将軍! 何があったんですか?」


 問いに対し、マクシミリアンは分厚い胸板を揺らし、何処か楽しげに、あるいは致命的に無遠慮な言葉を放った。


「ああ、メリーの発育に問題があってだな……」


 その一言が、メリーの導火線に真っ赤な火を灯した。

 彼女は足元に転がっていた木切れをひったくると、マクシミリアンの鋼のような胸板へ投げつけた。


「発育に問題って何よ! 私はちゃんと成長してるわよ!」


 メリーは絶叫し、次々と破片を掴んでは投げる。

 その滑稽なまでに懸命な姿に、殺気立っていた住民たちの足が止まる。

 それまで、仇敵セレスタインに対し呪詛を吐いていた口は半開きになり、憎悪に曇っていた瞳には、場違いなまでの好奇の光が宿り始めていた。


「なんだなんだ?」

「揉めてるのか? 喧嘩か?」

「いやぁ、セレスタインの娘がちょっと面白くてな……」


 住民たちの囁きは、もはや糾弾の響きを失っていた。

 彼らが目の当たりにしているのは仇敵の末裔ではなく、発育という極めて個人的で切実な悩みに憤慨する一人の年相応な少女の姿であった。

 不穏な静寂が、どこか拍子抜けした弛緩へと塗り替えられていく。


「落ち着け、メリー」


 アルベルトが宥めるように声をかけると、メリーは最後の一片を握りしめたまま上下していた肩をようやく鎮めた。


「……わかったわ」


 彼女は乱れたドレスの裾を一度だけ強く払い、視線を先ほど自分を子供扱いした住民へと向けた。


「そこの男! 私は十八歳よ! そこは前提として飲み込みなさい!」


 メリーは住民をビシッと指差した。

 彼女の不条理なまでの断言に、男は気圧されたように一歩下がり、頭を掻きながら当惑の声を漏らした。


「あ、ああ。そこは問題じゃなかったな。すまねぇ……」


 謝罪が自然と男の口から零れ落ちた瞬間、大通りを支配していた断絶が音を立てて崩壊する。

 メリーは頷くと、そこにあった大きな木箱へと歩み寄り、ジャックの手を借りてその上によじ登った。

 木箱の上に立ったメリーへ、散っていた住民たちの視線が自然と集まっていく。


「そうよ。私の発育の話じゃないわ。セレスタインとガーディスの因縁の話よ。さっきも言ったけど、私は十八歳よ? 百年前? そんな昔の話は知らないし興味もないわ。私にも、あんたたちにも必要なのは未来だけ。過去の話はそのへんに捨ておきなさい!」


 メリーの声は、詩的な装飾を排し、剥き出しの意志となって大通りに響き渡った。

 だが、住民たちの顔には、容易には拭い去れぬ深い諦念が刻まれている。


「捨ておきなさいって言われてもな……」

「そもそも、農奴であるオレたちに未来なんかねぇんだよ」

「ああ、正直、何のために生きてるんだ? って感じだしな」

「ちげぇねぇ。オレたちが死のうが生きようが、どうでもいいじゃねぇか」


 口々に溢れるのは、停滞に沈み続けた者たちの腐敗した吐息であった。

 しかし、メリーはその絶望を慈愛で包み込むことはしなかった。

 彼女はさらに語気を強め、逃げ道を塞ぐように正論を叩きつける。


「ダメよ! 生き残ったあんたたちは、歯を食いしばってでも生きなさい!」


 メリーの叱咤に、一人の男が憤ったように顔を上げた。


「オレの人生に、そこまでして生きる価値が見出せねぇって言ってんだよ!」


 自棄になったその反論を、メリーは一瞥のもとに切り捨てる。


「あんたの人生の価値の話なんかしていないわよ!」


「なっ! ……じゃあ何の話をしてんだよ!?」


「あんたの次の世代の話よ!」


 メリーは木箱の上で身を乗り出し、群衆を見据えた。


「……次の、世代……」


 呆然と呟く住民たちを、メリーの言葉が容赦なく追い詰めていく。


「聞きなさい。今のあんたたちの停滞は、未来の、次世代からの人生の前借りよ。負債よ」


 その容赦のない言葉に、住民たちは気圧されたように沈黙する。


「それだけじゃない。あんたたちは、ここが王国の植民地になってからの百年分もの負債を返さなければならないわ。次の世代にその負債を背負わせることは許さない! そのために、今を、未来を生きなさい! これは希望の話じゃないわ、責任と義務の話よ!」


 一気にまくし立てる彼女の気迫に、大通りは水を打ったような静寂に包まれた。

 メリーが提示したのは甘い救済ではない。

 逃れることのできない「負債」という名の鎖であった。


「……負債、かよ。前の代からは負債を押し付けられ、次の代からは前借りって、オレたちは借金まみれじゃねぇか」


 住民の一人が、自嘲気味に吐き捨てる 。

 メリーはその男を、そして全員の目を見て言い放った。


「そうよ。自覚しなさい。あんたたちはただの借金持ちじゃないわ、借金王よ!」


 そのあまりに不名誉で、それでいて奇妙な響きを持つ称号が、住民たちの胸を打った。


「ひでぇ……。借金王かよ……どん底じゃねぇか」

「ありがたくねぇ称号だな、借金王……」

「そこまでいくと、いっそ清々しいな」

「ちげぇねぇ」


 住民たちの間から乾いた苦笑が漏れ出した。

 先ほどまでの刺すような憎悪や剣呑とした空気は霧散し、代わりにそこには「定義」を与えられた者たちの微かな連帯感が生まれていた。

 メリーは彼らを哀れな犠牲者として扱うことを拒絶し、負債を返すべき責任ある主体として再定義したのである。


「メリーさん……」


 ベルンの目に、あの日の木箱の上の少女と、今のメリーが重なって見えた。

 あの頃と何一つ変わらない、未来以外の全てを切り捨てる彼女の苛烈なまでの生き様に、ベルンの凍りついていた心が震えた。


「これが、メリーちゃんか……」


 カイロスが驚愕と共に、少女が放つ異質な威光をその瞳に焼き付ける。


「相変わらず、少しも優しくないな。だが、下手に綺麗事を並べるより、よほどあの連中の心に突き刺さっている。メリーらしいやり方だな」


 アルベルトは苦笑を漏らしながら、しかしその眼差しには深い敬意を宿していた。


「ああ。憐れみを乞う敗者ではなく、義務を背負う当事者に仕立て上げるとはな……。ああだこうだと理屈をこねるより、あの不条理な勢いこそが泥沼に沈んだ民を引きずり出す。大した器だよ、全く」


 ヴォルガンは拳を握りしめ、感嘆の吐息を漏らした。


 住民たちから立ち昇るのは、わずかに湿った熱のような、不格好で、それでいて強靭な再生への鼓動であった。

 未来から目を背けていた彼らの心に、ようやく小さな揺らぎが生まれている。

 その『揺らぎ』こそが最初の一歩目であることを、彼らはまだ自覚していない。

 だが、この大通りの空気だけは、確かに前へと踏み出していた。

 まだまだ小さな、ほんの小さな一歩目であったとしても、その歩みが重なり繋がっていく限り、いつか必ず遥かな目的地へと辿り着く。


 一陣の風が、彼らの頭上をそっと撫でるように舞った。

 西からの風は、この地から各地へと広がり、いつか遠い未来、大陸全土を優しく包み込んでいく。

 誰もがそう確信できるほどの熱が、今、ここに確かに宿っていた。


 メリーは木箱の上で満足げに頷くと、大通り全体に響き渡る声で最後の号令を下した。


「さあ! まだまだ復興はこれからよ! 働かないやつは飯抜きだからね!」


第3部 完

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