第74話:石鹸、『鉄屑の誓い』の終焉、筋肉だるまと暑苦しい仲間たち
「何やら表が騒がしいわね」
使い込まれたガーディス自治区周辺の地図。
等高線は掠れ、幾度も指でなぞられた軌跡が黒ずんだ染みとなって残っている。
沈黙を支配していたのは、紙を引っ掻くペンの神経質な響きと、天幕の隙間から入り込む、わずかに湿り気を帯びた春の風だけであった。
再建の槌音が一定のリズムで刻まれるガーディス自治区の作戦本部内。
卓を囲み、広大な大地を新たな秩序の雛形へと変貌させるための緻密な区画整理案を練っていたカイロスとサフィアンが、同時に顔を上げた。
それは、秩序ある軍靴の響きでも、力尽きゆく者が漏らす末期の呻きでもない。
生命の根源が震えるような、剥き出しの熱狂。
不浄な汚れを洗い落とす術もなく、再生への歩みを止めることのない精鋭たちが、その魂の深淵から放ったかのような咆哮である。
メリーは握っていた万年筆を置くと、指先で天幕の重厚な布を押し上げ、外の陽光の中へと足を踏み出した。
視界に飛び込んできたのは、整然と並ぶ巨大な荷馬車の列と、西側の威厳をそのまま形にしたかのような、揺るぎない理知を宿した瞳。
そこには、一点の曇りもない執務服を纏ったエーベルハルト・フォン・アイゼンハイドが毅然と立っていた。
眼鏡の奥に宿る氷のような眼差しは、再生の途上にあるこの地の現状を、静かに、そして正確に見据えている。
しかし、その周囲の光景は、彼が常に重んじる規律や合理とはあまりにかけ離れた宗教的な混沌に支配されていた。
「あら、アイゼンハイド侯爵。到着したのね。この騒ぎは何?」
メリーの問いかけに応じるべき侯爵は、当惑を隠すこともなく、眉根を深く寄せて立ち尽くしていた。
彼の足元には、数十名の『海鳥』たちが大きな円を描き一斉に跪いている。
彼女たちは両の手を胸の前で固く組み、ある者は目を伏せ、ある者はエーベルハルトに熱い眼差しを送っている。
その姿は、凄惨な戦場に降り立った聖者を拝む熱心な信徒のそれであり、あるいは極限の渇きの中で滴り落ちる水の一滴を見た亡者の如き切実さを孕んでいる。
「メリー殿、どうにかしてくれ。こんなに拝まれたんじゃ仕事にならん」
常に盤面全体を鳥瞰し、不確定要素を排除し続ける男の弱り果てた声。
メリーは瞬きを繰り返し、跪く娘たちの中心で石像のように固まる侯爵と、馬車から降ろされつつある山積みの荷を交互に見やった。
「何があったのよ?」
「盥と桶と石鹸とタオルを持って来たと報告したらこれだ。気持ちはわからんでもないが……」
その言葉がメリーの鼓膜を震わせた瞬間、少女の思考は白光に包まれ、停止した。
再建の重圧と、長引く野営生活。
その白磁の肌には、拭えぬ不浄が蓄積していた。
清廉な石鹸の香りに包まれる幸福。
熱い湯気が優しく身体を撫で、地の汚れを根こそぎ奪い去るという奇跡。
それは、復興の地での衛生・防疫にとどまらず、過酷な路を進む者たちに差し込んだ、あまりに眩い一条の救済であった。
「風呂!? 風呂に入れるの!?」
咲き誇る花の如き満開の笑顔。
メリーの瞳に、エメラルドの輝きがかつてないほどの強度で戻る。
侯爵は小さく溜息をつき、指先で天幕の設営場所を示そうとした。
「ああ、風呂用の天幕を建てたいんだが、この娘たちを……」
言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
侯爵が視線を下ろすと、そこには『海鳥』の娘たちと全く同じ姿勢で膝をつき、必死に手を組み、自分を救世主の如く崇めるメリーの姿があった。
淑女としての気品も、未来を差配する指導者としての威厳も、今はただ「清潔」という名の福音の前に雲散霧消している。
エーベルハルト・フォン・アイゼンハイドは、語るべき言葉を失い、ただ春の空を仰いだ。
風呂というものが人を狂わせる力をこれほどまでに秘めているとは、合理主義者の計算には含まれていなかったのである。
******
「ジャック殿。道中でこいつらを拾ってきた。任せていいか?」
風呂用の天幕を建てるべく、狂乱状態で槌を振るい杭を打つメリーと『海鳥』たちの騒音を背に、侯爵は数人の男たちをジャックへと引き渡した。
ジャックは細められた鋭利な瞳で、その集団を値踏みするように見据える。
連れられてきたのは、身なりの整わぬ、しかし眼光に鋭い狡猾さと隠しきれない修羅の気配を宿した男たちであった。
「何者ですか?」
「『鉄屑の誓い』の幹部だと言っている」
ジャックの眉が、わずかに動いた。
王国の影で蠢き、不穏な火種を撒き散らしていたはずの工作員組織。
その中枢を担い、王国にとっての膿であったはずの者たちが、なぜ、このような地の果てに姿を現したのか。
ジャックは歩み寄り、死神の鎌の如き鋭い視線を男たちの一人一人に突きつける。
「ここに何しに来た?」
低く、地を這うような問いかけ。
男たちの先頭に立った逞しい体躯を持つ、どこか八百屋の店主を思わせる風貌の男が口を開いた。
「オレは材木屋のジャンだ。材木を積めるだけ積んで来た」
その背後には、三台の巨大な荷馬車が重量に耐えかねて軋みを上げながら待機している。
積載されているのは、建築に耐えうる良質な材木。
この地を再生させ、人々の生活を再び立ち上げるために最も欠けている物の一つであった。
続いて、腰に使い込まれた道具袋を下げた日に焼けた肌の男が前に出る。
「オレは大工のケインだ。工具と建築資材を積んで来た」
「私は会計士のカイルです。マルコだけメリーちゃんと仲良くやっているなどという状況、許せません」
カイルと名乗った、眼鏡をかけた理知的な風貌の男の言葉に、ジャンとケインが激しく同意し、拳を突き上げた。
「「そうだ! 許せん!」」
「『鉄屑の誓い』はどうなった?」
ジャックの問いに、ジャンは忌々しげに不浄な地面へと視線を落とした。
「壊滅だ。マルコがいない、レイモンド伯爵もいない。どうにもならん」
「西の布陣が完璧すぎてな。オレたちじゃ何もできん。ブラッドレイ子爵だったか? 指揮を執っているのは」
ケインが、その組織運用能力に戦慄を覚えるように肩を竦めた。
闇から王国を揺るがそうとした企みは、西側が長年研ぎ澄ませてきた経済と情報の刃によって、その根幹から断たれていたのである。
「諜報員、工作員は撤収させた。彼らはそのまま無害な王国民として暮らすか、ここに来るかのどちらかだな」
カイルの冷静な報告に、ジャックは静かに思考を巡らせる。
男たちの瞳に、工作員特有の濁った色はなかった。
あるのは、拠り所を失った者の諦観と、それ以上に強烈な、何らかの信仰にも似た期待であった。
「そうか。お前たちの処遇はヴォルガン陛下に委ねる。支援物資を持って駆けつけたお前たち。擁護は私が精一杯やろう」
「ああ、オレたちはここで裁かれても構わない。それだけのことをしてきた。だがな……」
ジャンの声が、不意に湿り気を帯びた。
カイルが眼鏡の位置を直し、熱を帯びた、どこか浮世離れした瞳でジャックを見つめる。
「死ぬ前に一目でいい、メリーちゃんをこの目で拝みたい」
「メリー様ならあそこにおられる」
ジャックはそう言うと、天幕を設置している最中のメリーを指差した。
湯気と清潔さへの予感に包まれ、少女らしい高揚感を全身から放ちながら慣れぬ手付きで天幕の紐を縛るメリー。
ジャンたちの視線が一斉に固定される。
不浄な大地に降り立った、唯一無二の光。
彼らが闇の中で守り守られ、いつしか心の支えとしていた偶像の本尊が、そこにいた。
「「「メリーちゃーん!」」」
天を衝くような、男たちの野太い雄叫び。
作業に没頭していたメリーの肩が、びくっと跳ねた。
「な、なに?」
ぎょっとして振り向いたメリーの瞳に、見知らぬ男たちが感涙に咽び、その場に崩れ落ちる姿が映る。
「うおおおおお! 美しすぎる! 神々しささえ感じる」
「ここに来てよかった。もう思い残すことはない」
「私はこの瞬間のために生きていたのだな」
男たちは震える手で、空中に不思議な印を切る。
反逆者たちの魂は、一人の少女が放つ、抗いようのない輝きによって焼き尽くされ浄化されていく。
ジャックは目を伏せ、この異様な、しかしどこか必然性を孕んだ光景に満足げに頷いた。
アイゼンハイド侯爵だけが、どこか呆然とした瞳で周囲へ視線を向けた。
「……なんの儀式だ、これは?」
******
ジャックに連れられて、男たちはさらに奥、ヴォルガンとマルコが担当する区画へと足を踏み入れた。
国王の放つ圧倒的な覇気が空気を支配する中、男たちは萎縮することもなく、ただ一人の知人へと視線を向けた。
「ヴォルガン陛下、『鉄屑の誓い』の幹部たちだそうです」
ジャックの紹介に、ヴォルガンは竹箒を手に、作業で汚れた腕を拭いながら険しい眉を跳ね上げた。
「うむ。その幹部たちが何しにここに来た?」
「お前たち……」
隣に立つマルコは、かつての同志たちの姿を認め、驚愕に目を見開いた。
しかし、ジャンたちの反応は、再会を喜ぶものでも主への忠誠を示すものでもなかった。
「マルコ! お前だけメリーちゃんとよろしくやってんじゃねーぞ! なぜオレたちに声を掛けなかった!」
ジャンの地鳴りのような不満。
マルコは面食らったように両手を振った。
「え? いや、別によろしくやってるわけじゃねぇよ」
「待て待て。まず、お前たちは何しに来たんだ?」
ヴォルガンが、噛み合わぬ会話を強引に引き戻す。
ジャンは姿勢を正し、王の瞳を真っ向から見据えた。
「材木と大工と会計士を連れてきた。役に立たねぇか? オレたちが差し出せるものなんざぁコレしかねぇ」
「あとな、オレたちは陛下に裁かれに来た。だが、これだけは言わせてくれ」
ケインが一歩前へ出る。
カイルが、極限の決意を言葉に乗せた。
「メリーちゃんの独り占め反対!」
「権力に物を言わせてメリーちゃんを拐かすな!」
「メリーちゃんはみんなの財産だ!王家の横暴を許すな!」
静寂が訪れた。
春の風が、男たちの熱すぎる吐息を運んでいく。
ヴォルガンは、その論理を超越した一塵の曇りもない要求を咀嚼しようとするが、常人の論理では辿り着けぬ深淵に、ただ困惑の影を落とした。
それは、権力闘争や野心とは無縁の、偶像に対する剥き出しの執着であった。
「……。何を言っているんだ、お前たちは?」
王の言葉は、熱狂に浮かされた男たちの耳には届かない。
こうして、王都の闇を司り国家の転覆さえ画策していたはずの組織『鉄屑の誓い』は、その歴史に幕を閉じた。
西側の総帥バルカス・ブラッドレイが築き上げた一点の隙もない防衛網と、圧倒的な理知の重圧。
それらを前に、彼らの牙は既に根元から折れていたのである。
そして、組織の支柱であったマルコの離脱、後ろ盾たるレイモンド伯爵の不在。
抗いようのない瓦解に直面した彼らは、反逆の意志を捨て、自ら幕を下ろす道を選んだ。
──────
地平の果て、春の陽光を遮るように立ち昇る巨大な土煙が、ガーディス自治区の静寂を塗り潰していく。
それは規律ある軍隊の行軍が放つ無機質な振動ではなく、大地そのものが意志を持って脈動し、物理的な質量となって迫りくるような重圧であった。
やがて、その土煙の奥から、数多の荷馬車を従えた屈強な集団が姿を現す。
先頭を行くのは、陽光を跳ね返すほどに磨き上げられた黒鉄の重装甲を纏う男。
分厚い胸板、岩塊を思わせる肩幅。
そして、幾多の荒野を切り拓いてきた者だけが持つ、野生の猛りと洗練された知性を同居させた眼差し。
ノルトヴァルト侯爵こと、マクシミリアン・フォン・ノルトヴァルト。
彼が率いる王国最強の開拓集団『黒鉄』の到来は、死臭の余韻に沈んでいたこの地に、猛烈な「生」の旋風を叩きつけた。
馬を降りたマクシミリアンの足が、石畳を力強く踏みしめる。
彼は一度だけ周囲を鋭く睥睨すると、立ち塞がるように整列していた王国騎士団の前で足を止めた。
「ノルトヴァルト侯爵だ。ここの責任者に会わせてほしい」
低く、しかし地の底まで響くような重低音。
騎士団長は、かつて王都で共に研鑽を積んだ英雄の、以前にも増して凄みを増した佇まいに一瞬だけ気圧されたように息を呑んだ。
しかし、すぐさま背筋を正し、敬意を込めて右拳を胸に当てる。
「マクシミリアン将軍、お久しぶりです」
「おお、久しいな」
マクシミリアンは、戦友との再会を祝うように不敵な笑みを浮かべた。
しかし、その瞳の奥には、一刻も早く作業に取り掛かろうとする開拓者の焦燥が火花を散らしている。
騎士団長はその熱量に打たれるように頷き、本部天幕へと視線を向けた。
「すぐに呼んできます。お待ちください」
騎士団長が走り去る背中を見送りながら、マクシミリアンは手袋を脱ぎ、腰の長剣の重みを確かめる。
背後に控える『黒鉄』の男たちは、使い込まれた鋤や鍬、そして巨大な石を砕くための大槌を手に、主の号令を静かに待っていた。
彼らにとって、この荒廃した地は絶望の墓標ではなく、新たな生命を芽吹かせるための巨大なキャンバスに過ぎない。
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騎士団長の報告を受け、天幕の厚い布を押し上げたメリーの視界に、春の陽光を背負って屹立する巨躯の影が飛び込んできた。
そこには、マクシミリアンが岩塊の如き威圧感を放ち、猛獣のような気配を纏って立っている。
メリーはサフィアンと共に外へと踏み出し、不敵な笑みを浮かべる男を挑戦的に見上げた。
「来たわね。筋肉だるま」
淑女の気品を一切感じさせない、この場の誰よりも傲然で揺るぎない声。
マクシミリアンはニヤリと唇を吊り上げ、自分を見上げる少女の傲慢な姿を満足げに眺めた。
「お前が責任者か。命を刈り取る地獄の娘」
死神の鎌の如き鋭さを秘めた少女への、最大級の畏怖と敬意を込めた呼称。
メリーは小さく鼻を鳴らし、隣で苦笑を浮かべていたサフィアンへと視線を流す。
「お久しぶりです。マクシミリアン殿」
「おお、サフィアン殿。久しいな」
サフィアンの穏やかな挨拶に、マクシミリアンは力強く頷いた。
しかし、メリーは二人の感傷的なやり取りを断ち切るように指示を放つ。
「筋肉だるまと暑苦しい仲間たちは挨拶回りをしてきなさい。どうせアイゼンハイド侯爵とも会ってないんでしょ?」
「兄上も来ているのか」
マクシミリアンの表情に、わずかな驚きと兄への敬意が混じる。
メリーは、どこか暗い影を宿した瞳でマクシミリアンを見据えた。
「アル、ヴォルガン、ベルンもいるわ。特にベルンとガメルは最初に現地入りしたから、精神を削られまくっているはずよ。あんたの暑苦しさで引き上げてちょうだい」
その言葉の端々に、過酷な救済活動の最前線に立ち続けた者たちへの彼女なりの配慮が滲む。
マクシミリアンは沈黙し、幾分かマシになったであろう大通りを見渡す。
「……地獄、だったらしいな」
「そうね。元気そうに振舞ってはいるけど、そんなに簡単に吹っ切れるものじゃないわ」
メリーは視線を伏せ、不浄の地で再び立ち上がろうとする仲間たちの背を静かに見守った。
安易な慰めを口にすることはない。
しかし、エメラルドの瞳の奥には、同じ地獄を歩み、共に重荷を背負ってきた者たちへの祈りにも似た深い労わりの色が滲んでいた。
マクシミリアンは、この傲岸不遜な少女が他者の魂の損耗を察するほどの深淵を覗き込んできたことを悟った。
「わかった。そんなことにまで気が回るんだな。女性ならではか?」
「どうかしらね? 終わったら作戦本部に来なさい。あんたは私の直属よ。やって欲しいことがあるわ」
「わかった」
マクシミリアンは短く応じると、風を孕むように背を向け、天幕の外へと踏み出した。
******
整備が進む中央広場の隅、資材の確認を行っていたエーベルハルトの背中に、雷鳴のような咆哮が叩きつけられた。
「兄上!」
エーベルハルトは、驚愕を押し殺した表情で振り返る。
そこには、戦場をそのまま体現したかのような弟の姿があった。
「マクシミリアン!」
「久しぶり、でもないか。先日の食糧輸送以来だな。マクシミリアン」
隣にいたアルベルトが、付着した土を払いながら歩み寄る。
マクシミリアンは即座に直立不動の姿勢をとり、王兄に対し最敬礼を捧げた。
「アルベルト殿下、ご無沙汰しております」
「ああ、よく来てくれた。ノルトヴァルト領から離れて大丈夫なのか?」
「はい。妻が私の職務を代行します。快く送り出してくれました」
マクシミリアンの言葉に、アルベルトは満足げに目を細めた。
「ああ、ヒルデガルド女史か。任せておいて大丈夫だろう」
「はい、殿下の奥方も素晴らしいお方ですね。ここに来る際に、種と苗を持たせてくださいました。先見の明があるというか……」
「ああ、やはりアンナマリーは気付いたか」
アルベルトは遠く西の空を見上げ、愛する妻の慧眼に敬意を表した。
食料という「今」の救済ではなく、種苗という「未来」を送り込む。
その思想の共有に、男たちの間に静かな熱が通う。
アルベルトはふと思い出したように、傍らで複雑な表情を浮かべるエーベルハルトを指差した。
「ところで、アイゼンハイド侯爵も結婚したのを知っているか?」
爆弾のような発言に、マクシミリアンの眼窩がこれ以上ないほどに見開かれる。
「なんだと!? 偏屈の兄上が!?」
「偏屈とは何だ! 私が結婚するのがそんなにおかしいか?」
エーベルハルトが、珍しく声を荒らげて反論する。
計算機のように正確な兄の、人間味溢れる反応にマクシミリアンは腹の底から笑いをこみ上げさせた。
「全く想像できんな。何が起きたんだ?」
「アイゼンハイド侯爵は、西側全体を領地とする公爵になる。そのためには跡取りが必要だというヴォルガンの命令だ」
アルベルトの解説に、マクシミリアンは納得したように頷いた。
国家の根幹を成す「公爵家」の永続。
それは合理的かつ非情な選択である。
「そうだったのか。で? 誰なんだ? 兄上の妻になった女性というのは」
「メリー殿の姉、フェリシア・ギルガルド嬢だ」
エーベルハルトが、どこか誇らしげに、しかし決まり悪そうに名前を告げる。
その瞬間、マクシミリアンの巨躯が微かに震えた。
「命を刈り取る地獄の娘の姉!? それは大丈夫なのか? 命どころか魂までも刈り取られるんじゃないのか?」
「良くできた娘さんだよ。しっとりとした大人の女性だ。ここに来る際にも石鹸やタオルを大量に持たせてくれた。私にはもったいないくらいの女性だよ」
兄のあまりに真っ当な、そして深い慈しみを湛えた言葉にマクシミリアンは毒気を抜かれたように肩を竦めた。
「そうか。それは良かった。めでたいな、兄上」
「おお、将軍。来ていたのか。何の話をしているんだ?」
背後から、竹箒を肩に担いだヴォルガンが土埃に汚れながらも覇気に満ちた姿で現れる。
アルベルトは片方の眉を上げ、揶揄うような笑みをヴォルガンへと向けた。
「妻帯者同士の語らいだ。独身のお前には関係ない」
「ぐっ……」
******
「待たせたな。挨拶は済ませてきた。ベルン殿にも会って来た……っ!? エルフィリア皇帝!?」
作戦本部へと足を踏み入れたマクシミリアンは、メリーの正面に座る老人の姿を認め、その場で石像のように硬直した。
大陸最強の帝国を率い、王国を幾度も滅亡の危機に追い込んできた巨星。
カイロス・エルフィリア。
老皇帝は、にこにこと柔和な笑みを浮かべ、硬直する将軍を見つめた。
「おお、王国軍の将軍か。お主が王都にいたせいで、帝国は何度進軍を踏み留まることになったか……」
「は。私はもう王国軍の将軍ではございません。西の辺境で開拓者をやっております」
マクシミリアンは即座に跪き、冷や汗を拭いながら応じる。
「聞き及んでおる。ノルトヴァルト侯爵だったか。ワシももう皇帝ではない。譲位した」
「なんと! では、現皇帝はフィデリオ殿か……」
「そうじゃ。ワシはこの地に骨を埋める覚悟で来た。お主ら王国の西側にサフィアンが見たという『大陸の未来』をこの目で見たくてな」
その老人の言葉に宿る、どこまでも深い意志。
マクシミリアンは頭を上げ、カイロスの瞳の奥にある純粋な探求の光を真正面から受け止めた。
「そこまでのご覚悟で……。いや、確かに西には未来がある。希望がある。この地にそれを造るおつもりなのですね?」
「そうだ。ここには西の希望の象徴であるメリーちゃん、西の大商人ベルン殿、そして大陸の未来を模索する経済学者のサフィアンがおる。可能であろう?」
問いかけられたマクシミリアンは、大きく息を吸い込み、天幕の布を震わせるほどの声で応じた。
「確かに。では、我ら王国最強の開拓集団『黒鉄』、この地に未来を切り拓いてみせましょう」
「うむ、心強いな。よい貴族が多いな、王国は」
カイロスの称賛に、メリーは不遜に脚を組み替えエメラルドの瞳を妖しく輝かせた。
「帝国の事情は知らないけど、王国は確かに粒揃いね。特にこの筋肉だるまたちは鬼神の働きをする『本物』よ」
「ああ、任せろ。オレはどこを開拓すればいい?」
マクシミリアンの闘志が、物理的な熱量となって天幕内を支配する。
メリーは立ち上がると、細い指先で天幕の外、廃墟の向こう側に広がる広大な荒野を指し示した。
「外よ」
「外?」
「ガーディス自治区の土は死んでいるわ。なので、城壁の外側を全て穀倉地帯に変える。そこは住民の命の糧を生み、そして雇用の受け口にもなるわ。その穀倉地帯がここを守る壁にもなる」
メリーの言葉は、単なる農地開拓の次元を超えていた。
生産と防衛、そして生存を一体化させた新しい国家の在り方。
マクシミリアンは、その壮大な構想の一端に触れ、戦慄に近い興奮を覚えた。
「ああ、言っていることはなんとなく分かる。任せろ」
「そのための図面を作成しましょう。街道から北に向けて、葉物野菜、豆、芋、そして山の麓は黒麦。そういう図面を引かなければならないわ」
「わかっている。農道や倉庫の場所も決めよう。アンナマリー殿に種や苗をたくさん持たされた。春のうちに植えてしまえば夏には収穫できるものもある。すぐに取り掛かろう」
マクシミリアンはメリーの隣に座り込み、差し出された図面を食い入るように見つめた。
武力で守るのではなく、豊穣で守る。
不浄な過去を覆い尽くすように、黒い土の上に瑞々しい野菜が、麦の穂が波打つ未来。
王国最強の開拓集団が加わったことで、ガーディスの再建は、今、決定的な速度を得て動き出した。
次話で第3部が終わります
なるべく早めに仕上げます




