第71話:再会、剥き出しの生命力、この地の希望か新たな火種か
「ヴォルガンはどこだ?」
凍てつく朝の静寂を切り裂き、ガーディス自治区の西門へと降り立ったアルベルトの低唱が、湿り気を帯びた空気に波紋を広げた。
門をくぐったその先に広がる光景は、数日前まで支配していた死の澱みから、僅かながらも確実な再生の胎動へと変貌を遂げている。
自治区の大通りを占拠するのは、王家の紋章を刻んだ重厚な馬車の列であり、さながら大地に根を張る鋼の長蛇の如き威容を誇っていた。
王国軍の兵士たちは、土に塗れた物資の木箱を抱え、一歩一歩を刻み付けるようにして前線へと命の糧を運び込んでいる。
荒廃した街並みに響くのは嘆きの声ではなく、石畳を削る車輪の唸りと、規律正しく交わされる兵士たちの号令であった。
「アルベルト殿下、よくぞいらっしゃいました。ヴォルガン陛下はあちらです」
駆け寄った兵士の瞳には、極限の疲労の奥に、秩序を取り戻した者特有の峻烈な光が宿っていた。
示された視線の先、アルベルトの視界に飛び込んできたのは、王者の威厳とはおよそかけ離れた、しかし凄絶なまでの生命の躍動であった。
王国の頂点に君臨するはずの男が、名もなき兵卒たちに混じり、自ら竹箒を振るって大通りの石畳にこびりついた泥を掻き出している。
瓦礫を払い、大地を清めるその動作には一切の迷いがなく、あたかもその一掃ごとに、王国に巣食う膿を削ぎ落としているかのようであった。
「ヴォルガン!」
ヴォルガンに駆けよるアルベルト。
その足音に応えるように、ヴォルガンは手にした箒を無造作に放り投げ、弾かれたように顔を上げた。
「アルベルト! よく来た!」
吠えるような叫びと共に歩み寄るヴォルガンの全身からは、春先とは思えぬ凄まじい熱量が立ち昇っていた。
その背後では、馬車から降り立ったばかりのレイモンドとメルキオールが、眼前で繰り広げられる異様な光景に息を呑み、反射的に地面へ膝を突いた。
王への拝謁という儀礼を、極限の現場が強制的に剥ぎ取っていく。
ヴォルガンの上半身を包むのは、泥と汗に塗れた薄手のインナー一枚のみであった。
労働によって昂ぶった肌からは白く細い湯気がゆらゆらと揺らめき、その皮下でうねる盛り上がった筋肉が、鋼の如き強靭な意思を体現するかのように躍動している。
「レイモンドとメルキオールを連れてきたのか。討たなかったのは良い判断だ」
ヴォルガンの声は、復興作業の喧騒さえも破壊するが如き重厚さを伴っていた。
「ああ、これでレイモンド、メルキオール、ヘルムートの討伐は終わった。あとの差配は任せる」
アルベルトの報告を受け、ヴォルガンの射抜くような眼光が僅かに細められた。
「ヘルムートはどうした?」
「討った。王国貴族として最後まで戦い、不忠の報いは受けたとお前への伝言を預かった」
その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が一気に温度を下げた。
ヴォルガンは天を仰ぎ、不忠の報いをその命で贖った若き王国貴族を悼んだ。
「そうか。その伝言、確かに受け取った。……さて……」
ヴォルガンは視線を転じ、未だ跪くレイモンドとメルキオールを静かに見下ろした。
死を覚悟した者たちが纏う、凍りついた静寂が辺りを支配する。
「我らレイモンドとメルキオール、いかような裁きも……」
レイモンドの唇から漏れた決死の言葉は、しかし最後まで紡がれることはなかった。
「レイモンド、メルキオール。よく来てくれた。お前たちに任せたい仕事がある」
断頭台の露と消えることを予期していた男たちにとって、その言葉は想定外でしかなかった。
「……は? 仕事? 裁きは?」
呆然と顔を上げたレイモンドの瞳には、理解の範疇を超えた事態に対する困惑が露わになっていた。
「そんなものはない。あるのは山積みの仕事だけだ。 ――おい、近衛兵! あれを持ってこい!」
ヴォルガンの力強い号令が飛ぶ。
背後に控えていた近衛兵が、主の意を汲んで即座に後方へと退いた。
「まずはメルキオール、立て」
「は!」
直立不動の姿勢をとるメルキオールの背筋が、鋼の芯が通ったかのように伸びる。
ヴォルガンは立ち上がったメルキオールの全身を、値踏みするようにまじまじと見つめた。
「お前のその筋肉は見せかけじゃないだろうな?」
「何をおっしゃいます陛下。実用一点張りの『使える』筋肉に決まっているじゃないですか」
メルキオールの答えに、ヴォルガンは満足げな、しかしどこか試すような笑みを浮かべた。
「うむ、いいぞ。お前のここでの役割はわかるな?」
「力仕事。これに尽きます。このメルキオール、誰の目にも留まる活躍を見せましょう」
決意を漲らせたメルキオールが、ヴォルガンを真っ向から見据えた。
だが、その視線が王の背後に広がる異様な光景を捉えた瞬間、彼の時間は凍りついた。
そこには、巨大な木材の廃材を軽々と肩に担いで運ぶ少女の姿があった。
あるいは、溢れんばかりに水を湛えた重厚な桶を両手に抱え、軽快に走り抜ける少女。
『海鳥』。
王国軍に混ざって、その小柄な体躯に見合わない重量物を抱えて運ぶ彼女たち。
「……」
その冗談のような怪力っぷりに、メルキオールは言葉を失い、呆気にとられるしかなかった。
常理を遥かに逸脱した光景が、武人としての彼の自負を微かに震わせる。
しかしそれも数舜のことに過ぎなかった。
すぐに目に宿る光を強靭なものへと取り戻したメルキオールが、腹の底から吠えた。
「『海鳥』! ここにも『海鳥』が! 負けておれん! ……陛下! 私は作業に入ります。これにて失礼いたします」
メルキオールはヴォルガンに深く一礼を捧げるなり、自らの上着を乱暴に脱ぎ捨てた。
剥き出しの背が、朝の光を弾いて鈍く輝く。
「うおおぉぉぉ!」
咆哮と共に、メルキオールは『海鳥』の少女たちと競い合うように、巨大な桶を掴んで駆け出していった。
その姿は、凄惨な地獄に咲いた一抹の生命の輝きのようでもあった。
しばし、土煙を上げて駆けていくその後ろ姿を、ヴォルガン、アルベルト、そしてレイモンドが沈黙の中で眺めていた。
「暑苦しい奴め……。だが、それでいい。それでいいんだ、メルキオール」
レイモンドの呟きには、彼を誤った政治に巻き込んでしまった後悔の念と、この地で再生しようとする生命力への賛辞が混じり合っていた。
「ああ、こういう場には暑苦しいほどの生命力が必要だ。 生きていくための力、というのかな……」
アルベルトの言葉が、死の気配に沈む街の空気に静かに溶け込んでいく。
そこへ、先ほどの近衛兵が仰々しい黒塗りの箱を恭しく捧げ持ち、戻ってきた。
「お持ちしました」
「ご苦労」
ヴォルガンは短く応じ、その箱を受け取った。
蓋が開かれた瞬間、中から溢れ出したのは、朝陽を吸い込んで眩いばかりに輝く、黄金の徽章であった。
「アルベルト用に持って来たんだが、よく考えてみたら、お前には不要だったな」
ヴォルガンは、自嘲気味な響きを乗せて笑った。
「ああ。お前が不在の王城において、王兄の俺には全権代行の資格があるからな」
アルベルトの答えに、ヴォルガンは肩を揺らして笑った。
「くっくっく……。どれだけ慌てていたんだ、あの時の私は……」
「お前のその間抜けな生真面目さ、嫌いじゃないぞ」
アルベルトが眉を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
二人の間に流れる時間は、一時の安らぎを伴って緩やかに旋回する。
「だが、そのおかげでここに徽章がある。巡り巡って運が私に味方しているとしか思えんな」
ヴォルガンは、黄金の輝きを慈しむように見つめた。
「ああ、その積み重ねを運命っていうんだろうな。レイモンドが生きてここにいることも含めて」
アルベルトの言葉の真意を測りかね、レイモンドが当惑の表情を浮かべる。
「……? どういうことです?」
「これはな、国王の権限を一時的に全権委任したと証明する徽章だ。お前はこれを持って王城へ行け」
ヴォルガンは、その黄金の重みをレイモンドへと差し出した。
「……なんっ! ……ですと……?」
恭しく徽章を受け取りつつも、レイモンドは驚愕に目を見開いた。
指先に伝わる金属の冷たさと重みが、託された責任の巨大さを無言で物語っている。
「お前の戦場はここじゃない、そう言われてたよな。その通りだったな」
アルベルトの言葉に、レイモンドの脳裏を一つの光景が過った。
逆立った寝ぐせの髪、だらしなく纏った寝間着、そして底知れぬ知性を秘めたあの『海鳥』の少女の姿を。
「今の王城にはお前の能力が必要だ。ヴェリウス侯爵にもその徽章を渡しているが、彼はお前には及ばん。お前がヴェリウス侯爵と王城の文官を使い、行政を回せ」
ヴォルガンの命は、緻密な計算に基づくものでありながら、同時にレイモンドという男の才知への絶対的な信頼に裏打ちされていた。
「……陛下……」
レイモンドの胸の奥で、長年彼を縛り付けていた何かが、静かに解けていくような感覚があった。
「不満か? お前にしか任せられんのだが、断られると困るな……。ああ、その格好で王都に行くのを躊躇っているのか?」
「いいえ、不満などあろうはずがございません。正装も執務服も一式持ってきております。そこに問題はございません」
レイモンドは力強く答えた。
その声には、再び己の足で立つ決意が宿っている。
「なら、受けてくれるな? レイモンド」
「はっ! このレイモンド、全身全霊をかけて陛下の期待に応えて見せます!」
泥まみれの王の前で、レイモンドは再び深く頭を垂れた。
「ああ、任せる。足りないものがあれば王都で調達しろ。アルベルトに割り当てられた予算が手つかずで残っている。自由に使え」
「おい!」
アルベルトが思わず声を上げたが、ヴォルガンはそれを事もなげに聞き流した。
追求を軽やかに躱すその姿は、かつての兄弟の距離を少しずつ埋めていくかのようであった。
「しかし、正装と執務服を持ってきているとは先見の明があるな。良くできた家令じゃないか」
ヴォルガンは愉快そうに、しかしどこか感慨深げに言葉を繋いだ。
「……え、ええ」
レイモンドは気まずそうにアルベルトへと視線を向け、アルベルトは極めて不自然に、かつ無造作に目を逸らした。
「護衛に王国軍をつける。見ての通り、みんな泥まみれだ。準備に時間がかかる。その間に馬を休ませろ」
「承知いたしました」
レイモンドは徽章を懐へと納め、背筋を伸ばして歩き出した。
「これで後方の憂いは消えた。アルベルトはこっちに来い。ベルンのところに顔を出しに行くぞ」
「わかった」
二人の王は、並んで歩き始めた。
この地に、確かな再生の足音が刻まれていく。
──────
土埃をあげる街道に、地響きの如き唸りが轟いた。
レイモンド領の備蓄を吐き出させた荷馬車の列が、終わりのない鎖となって地平を埋め尽くしている。
重厚な車輪が石畳を噛み、軋む木材の叫びが、死に体であった自治区に再生の拍動を強制的に刻み込んでいく。
運び込まれるのは単なる穀物の袋ではない。
それは、死を遠ざけ明日を繋ぎ止めるための、あまりにも重い命の糧であった。
「レイモンドからの物資が届き始めたな」
アルベルトの呟きに応えるように、辺境伯軍の騎兵たちが鋼の壁となって物資を護衛し現れた。
彼らが纏う銀灰色の鎧は、曇天の僅かな光を反射し、この停滞した地に秩序という名の刃を突き立てている。
屈強な馬たちが鼻息を荒くし、その蹄が土を蹴散らすたびに、この地に溜まっていた絶望の澱が僅かずつ、しかし確実に削り取られていった。
「屋根が残っている使えそうな建物以外は解体する。いいよな? ベルン殿」
アルベルトは廃墟と化した街並みを鋭く射抜いた。
腐敗し、崩落を待つだけの残骸は、もはや民を守る盾ではなく、再生を阻む枷に過ぎない。
その言葉を受けたベルンは、手にした厚手の帳面から目を離すことなく、短く、かつ確かな信頼を込めて頷いた。
「任せます。僕は物資の受け入れと管理をします。分業しましょう」
ベルンの指示は、混迷を極める現場に一本の筋を通していく。
押し寄せる物資の濁流を、彼はまるで魔法のように整然とした列へと整理し、適切な場所へと誘導していった。
その背後で、アルベルトは振り返り、自らの軍勢へと咆哮を上げた。
「ああ、レグスの時と同じだな。――みんなもいいな!」
その問いかけに対し、並み居る兵士たちが一斉に顔を上げた。
彼らの瞳に宿るのは、戦場を支配する殺気ではなく、荒野を切り拓く開拓者特有の狂気にも似た猛々しい輝きであった。
「ッス! アルベルト様! レグスの復興を経験した我ら、やるべき事はわかっております!」
大地を揺らす咆哮と共に、男たちは作業の邪魔になる重厚な鎧をまるで不要な皮を剥ぐように次々と脱ぎ捨てた。
無造作に放り投げられた鋼の響きを余所に、剥き出しになった彼らの胸元には、この凄惨な現場において絶望的なまでに不釣り合いな意匠が踊っていた。
極限まで愛玩化された可愛らしい『メリーちゃん』のイラストが、鍛え抜かれた屈強な男たちの胸筋と胸毛の上で汗と蒸気に塗れて無邪気に笑顔を振りまいている。
「メリーもそのうち到着する! カッコ悪いところを見せるなよ?」
アルベルトの言葉が、現場の熱量をさらに一段階、沸騰させた。
「ッス! 蒼紫の薔薇の旗の下に!」
「姐さんのために!」
「ッス! アルベルト様! 我らは作業を開始します!」
「朽ちた家屋を解体する! 解体班と瓦礫運搬班に分かれろ! 天幕を設置する場所を確保する! いつ天候が崩れてもおかしくない! 急げ!」
男たちは己の偶像をその身に宿したまま、巨大な廃材を羽毛のように担ぎ上げ、崩落を待つだけの廃屋へと取り付いた。
斧が枯れた木材を叩き割る音、瓦礫が積み上がる轟音。
破壊が再生へと直結するその熱量は、見る者の魂を揺さぶるほどに苛烈であった。
「……アルベルト軍って、もしかしてレグス商会の私兵団か?」
ヴォルガンは、眼前に広がるあまりにも異様で、しかし圧倒的な効率を誇る集団を見つめ呆然と呟いた。
王兄の威厳を纏うはずの精鋭たちの内側に潜んでいた、あまりにも深い混沌とした光景。
「そうだ。ほとんどがレグス復興当初からいた連中だ。この復興の現場において彼らの存在は何よりも心強い」
アルベルトは平然として、しかし誇らしげに言い放った。
彼の視線の先では、兵士たちが既に瓦礫の山へと消え、その手捌きで周囲の景観を猛スピードで塗り替えていた。
巨大な丸太を数人で担ぎ、バケツリレーで土砂を運び出すその動きには一分の無駄も介在する余地はなかった。
そこへ、馬を激しく駆らせた辺境伯軍の騎士団長がアルベルトの前で手綱を力強く引き絞った。
「アルベルト殿下。我ら辺境伯軍、こことレイモンド領を往復し、物資の運搬を継続します。ヴォルフスブルク軍はメルキオール領とレイモンド領の間を往復しております」
騎士の報告は、途絶えることのない物流の動脈が、今この瞬間に完全に開通したことを告げていた。
「わかった、任せる。馬を潰すなよ。物資の運搬が滞ることが何よりの痛手だ」
「承知!」
騎士団長は再び馬を翻し、物資を満載した馬車の列へと戻っていく。
土煙を上げ、嘶く馬たちの背中には、王国各地から集められた民の意志が乗せられていた。
その光景を、ヴォルガンは拳を握りしめて見つめていた。
「西の辺境レグスと辺境伯領の兵士か……。こんな東の果てまで来てくれたんだな。感謝に堪えない」
ヴォルガンの呟きには、王としての誇りと、それを遥かに凌駕するほどの、救済の手を差し伸べた者たちへの純粋な敬意が混じり合っていた。
「ああ、俺たち西の連中が東の地を踏むなんて、まだまだ数年先だと思っていたよ」
アルベルトの視線は、続々と荷馬車が到着する西門を見据えていた。
そこには、かつての敵対心を乗り越え、一つの目的に向かって走り出した王国の新しい形があった。
西門から続々と流れ込んでくる荷馬車を見つめながら、二人の王は、死地に刻まれた新しい歴史の足跡を噛み締める。
「おい、あれ……」
ヴォルガンの指差す先、西門の喧騒を割って、ひときわ異彩を放つ馬車が姿を現した。
御者台に腰掛けているのは、燃えるような赤毛を風に踊らせた『海鳥』の娘であった。
彼女は荒れた街道にとられる轍を嘲笑うかのように軽妙な手綱捌きを見せ、馬を躍動させる。
西門の喧騒が、まるで潮が引くように静まり返った。
「……来たな」
その瞬間、作業の喧騒が一瞬だけ止まった。
「ああ……。メリーちゃんの到来がこの地の希望となるか、セレスタインの血が新たな火種となるか……」
「大丈夫だろう。メリーなら過去の因縁も軽々と乗り越えてくれるさ」
アルベルトの口元に、僅かな、しかし確信に満ちた笑みが浮かんだ。
『海鳥』の赤毛が操るレグス商会の馬車、――即ちメリーの到来。
それは、秩序の再構築を告げる鐘の音か、更なる混沌の幕開けか。
馬車がの車輪が石畳を噛み、王たちの前で力強く停止する。




