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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第70話:断頭台、未来の命を救う力、アルベルトは止まらない

「メルキオール子爵、起きてください。あなたの断頭台が届きましたよ」


 深夜の静寂を、研ぎ澄まされた刃のような声が切り裂いた。

 意識の底に澱んでいた微睡みが、冷水を浴びせられたかのように霧散する。

 メルキオールは、寝台の横に置いた護身用の短剣へ無意識に手を伸ばしていた。

 視界の端で、商会の制服を纏った『海鳥』の娘が、淀みのない動作で重厚なカーテンを引き絞るのが見えた。

 窓から流れ込んできたのは、銀色の月光だけではない。

 館の正門前を埋め尽くす、無数の松明の揺らめきと、夜気を震わせる金属の擦過音。

 そして、何よりも漆黒の闇に鮮烈に浮かび上がる、毒々しいまでの色彩であった。


「断頭台?」


 喉の奥から絞り出した問いは、ひどく掠れていた。

 メルキオールは窓辺へと歩み寄り、眼下の情景に瞳を凝らす。

 正門前に翻っているのは、領主である自身の紋章ではない。

 目に痛いほどのピンク地に、大輪の蒼紫の薔薇を刺繍した新時代の胎動を告げる王兄殿下の旗印。

 その旗が風に爆ぜるたび、王国の古い秩序が削り取られていくような形容しがたい圧迫感に襲われる。

 正門を固めていた私兵たちが、困惑したように槍を収め、道を開けていくのが見えた。

 血を流すこともなく、ただ圧倒的な威容によって支配権を奪取していくその光景は、確かに旧弊な貴族にとっての断頭台に相違なかった。


「はい、アルベルト様がいらっしゃいました」


 少女は淡々と、しかし一点の曇りもない確信を込めてその名を口にした。

 メルキオールの胸の内で、熱い塊が震える。

 ついにこの時が来たのかという高揚と、よりにもよってこの時刻かという嘆息が、複雑な螺旋を描いて思考を掻き乱していった。

 窓の向こうで揺れる光の粒は、もはや一つの軍勢という枠を超え、巨大な時代のうねりとなって彼を飲み込もうとしている。


「……来たか。それにしてもこんな夜中に……」


 呆れを装った言葉の裏には、底知れぬ覚悟が沈殿している。


「ひとまず、寝間着のままで良いんで出ましょう」


     ******


 正面玄関を抜けると、肌を刺すような夜の冷気が肺の奥まで侵入してきた。

 石畳を叩く自身の足音が、静まり返った館の廊下に静寂を上書きするように響く。

 正門へと続く並木道は、既にアルベルトの軍勢によって音もなく整然と制圧されていた。

 そこに並ぶ兵士たちの瞳には、深夜の行軍による疲労など微塵も感じられない。

 ただ一つの意志に従い、強靭な歯車と化した男たちの沈黙が重厚な圧力となって空間を支配している。

 自領の私兵たちは、そんな異質な軍勢の気迫に押され、申し訳程度に隊列を組んで硬直していた。

 メルキオールは、その境界線の中央で馬を降りた一人の男を捉える。

 暗闇の中でも、ひときわ輝く純白の鎧。

 鮮血を流したような真紅の片マントを翻す王兄殿下の威容を。


「アルベルト殿下。待たせてすまない、メルキオールだ」


 メルキオールは足早に歩み寄り、武人としての礼を尽くした。

 アルベルトは、その声を聞くとゆっくりと振り返った。

 その瞳には、深海を思わせるような光が、静寂を湛えている。


「ああ、こんな夜中にすまないな。緊急事態だ。今すぐここの備蓄を開けろ。ガーディス自治区に救援物資を届ける」


 アルベルトの言葉は、短く、そして鋭かった。

 その内容を理解するのに、メルキオールの脳は数瞬の時間を要した。

 ガーディス自治区──そこは、王国の東端に位置する、王国の植民地ではなかったか。

 救援という言葉の背後にある、膨大な「死」の予感に、メルキオールの背筋が凍りつく。


「ガーディス自治区? 救援物資? 何があったのです?」


 疑問が口を突いて出る。

 しかし、アルベルトの返答は、想像を遥かに超える凄惨な現実を突きつけるものであった。


「飢饉の影響だ。西からの物資が届いていなかったらしい。大量の死者が出ているとの報告だ」


 低い声が、夜の静寂に重く沈み込んでいく。

 メルキオールは、自身の指先が微かに震えるのを感じた。

 脳裏をよぎるのは、昨夏の止まない大雨と冷夏の記憶だ。

 あの天災がもたらした空腹の恐怖を、王国中が分かち合ったはずではなかったか。

 そして、西からの救援物資で皆が腹を満たしたのではなかったか。


「なんだと!? 飢饉の影響? あの飢饉発生からどれだけ経っている! その間、西からの物資が届かなかった!?」


 信じがたい事実に、メルキオールの声は荒ぶる。

 西側の物流網は、鉄の結束で結ばれていたはずだ。

 それが届かないなどという事態は、もはや天災ではなく人災に他ならない。

 だが、アルベルトはその憤りを、掌で押し留めるように静かに首を振った。

 その瞳には、燃え上がる怒りよりも深い、底なしの悲哀が湛えられている。


「ここでそれを論じても仕方がない。俺たちにできることは、救援物資を一刻も早く届ける事だけだ」


 その言葉は、激情に流されかけたメルキオールの理性を、氷の如く透徹した義務感へと引き戻した。

 そうだ、今は盤面の分析よりも、目の前の命を繋ぐための駒を動かすべき時だ。

 メルキオールは即座に踵を返し、背後の私兵たちへと怒号を飛ばした。


「……わかった。殿下の言う通りだ。――今すぐ備蓄を吐き出せ! 積み込みが済んだ者から出発しろ! 手の空いている者は領都の商会へ走れ! 私の名前を使って物資を搬送させろ!」


 メルキオールの指示に、私兵たちが弾かれたように動き出す。

 倉庫の重い扉が開かれる金属音が、沈黙の館に木霊した。

 その決断の速さに、アルベルトの口元がわずかに和らぐ。


「メルキオール子爵は着替えてこい。乗馬服でいい。ここはヴォルフスブルク軍に任せて俺たちは先行する」


「承知。――私の馬を用意しろ! すぐに出る!」


 メルキオールは再び屋敷へと走り出した。

 背後では、アルベルトが闇の中に潜むもう一人の影に声をかける。


「ヴァレリア、ここは任せる。俺と辺境伯軍は先行する。現地で落ち合おう」


「承知した」


 低い、それでいて鋼のような響きを持つ女の声。

 月光を浴びて現れたのは、巨大な戦斧を腰に佩いた、ヴォルフスブルクの女主人であった。


「反抗する者がいれば、お前の判断で斬ってもかまわない。いいな?」


 アルベルトの言葉には、慈悲を削ぎ落とした統治者の非情なまでの静謐が混じっていた。

 それを受けたヴァレリアは、不敵な笑みを浮かべ、腰の戦斧をゆっくりと引き抜く。

 銀色の閃光が、夜の帳を切り裂いた。


「いいよ、任せな。……だが、反抗する者がいるとは思えないねぇ。あたしの刃は今夜もお飾りで終わりそうだ」


 ヴァレリアは戦斧の刃を月光にかざした。

 その仕草だけで、周囲の空気は一瞬にして凍りつき、反論や不満の余地は完全に断たれた。


「誰も斬らずに済むならそれでいい。ガーディス自治区を救うためにメルキオールの兵を斬るのも何か間違っている気がしないか?」


「違いないね」


 ヴァレリアはニカっと歯を見せて笑った。

 その野性的な輝きは、凄惨な任務に向かう軍勢の中で、生命力そのもののように見えた。


     ******


 メルキオールの寝室は、先ほどまでの静寂が嘘のような喧騒に包まれていた。

 『海鳥』の娘たちが、驚異的な手際で彼の旅支度を整えていく。

 メルキオールは荒い呼吸を整えながら、差し出された乗馬服に袖を通した。


「肌着と靴下を多めに用意します。靴もいくつか持たせましょう。後続の馬車に積んでおきますので、現地で受け取ってください」


 一人の娘が、革製の袋に手際よく衣類を詰め込んでいく。

 その無機質で事務的な作業の中にも、戦場を渡り歩く者特有の配慮が込められていた。


「石鹸とタオル、髭剃りも必要よね。着替えと一緒に積んでおきます」


 もう一人の娘が、必需品を次々と整理していく。

 メルキオールは、その完璧なまでの差配に苦笑を漏らした。

 領主である自身以上に、彼女たちはこの事態の先にある過酷な現実を見通している。


「すまないな。なんて気が利く娘たちなんだ。それに比べ私の妻は……」


 メルキオールは、閉ざされたままの隣室の扉を一瞥した。

 館が軍勢に囲まれ、夫が救援に赴こうとしているというのに、物音一つしない。


「起きてきませんね。肝が据わっているのか、低血圧なのか……」


 『海鳥』の娘が、感情の読めない声で答える。


「起こしても仕方ないでしょう。話し込まれてもアルベルト様が待たされるだけです」


 もう一人の娘が、突き放すように言った。

 メルキオールは肩をすくめ、彼女たちの言葉に従うことにした。

 確かに、今の自分に愛の囁きや別れの惜しみなどは、ただの不純物でしかない。


「果実水と乾燥パンを用意しました。道中で召し上がってください」


 差し出された水筒を腰にぶら下げ、メルキオールは身支度の最終確認を行う。

 鏡に映る自分は、先ほどまで眠りの中にいた男とは別人のような、鋭い眼差しを取り戻していた。


「トイレは済まされましたか? 背中からシャツが出ています。寝ぐせは帽子をかぶれば大丈夫ですね」


 一人の娘が、甲斐甲斐しくメルキオールの襟元を直し、帽子を深く被せ直した。

 その世話焼きな様子に、メルキオールは思わず頬を緩める。


「……お前は私の母上か」


 呆れたような軽口が口を突く。

 刹那、娘の右拳が、容赦のない速度でメルキオールの鳩尾を抉るように放たれる。

 メルキオールは反射的に腰を引き、左手でその拳を斜め下へと受け流した。

 鈍い衝撃が掌に伝わる。

 それは、冗談に対するツッコミにしてはあまりに重く、実戦に近い一撃だった。


「……やりますね」


 娘は拳を引き、不敵な笑みを浮かべた。

 メルキオールもまた、低く笑い声を上げた。


「武人だからな」


 二人の間に、戦う者同士にしか理解し得ない特異な連帯感が生まれる。

 娘は、部屋の隅に立てかけられていたメルキオールの愛剣を手に取った。


「その鍛え上げられた肉体は、誰かを救う力になります。過去を忘れろとは言いません。どうか、過去に捉われず、未来の命を救う力となってください」


 少女の言葉は、確かな痛みと重量を持ってメルキオールの胸に突き刺さった。

 メルキオールは厳粛な面持ちで、少女から剣を受け取る。

 革の鞘の感触が、掌に馴染む。

 それは、彼が再び立ち上がるための、重い錨のようでもあった。


 『鉄屑の誓い』に都合よく使われ、王国の討伐対象となった我が身。

 しかし、王兄殿下はそのことに少しも言及せずに、救援を申し入れてきた。

 そして、この娘の祈りにも似た言葉。


「わかった、胸に刻もう」


 剣を帯びた瞬間、室内には虫の声が入り込むほどの静寂が訪れた。

 しかし、それは冷たい断絶ではない。

 来るべき嵐を前にした、静かなる祈りの時間。


「ご武運を」


「ああ、行ってくる」


 メルキオールは帽子を深く被り直し、背を向けた。

 一歩、一歩、床を踏みしめる音が、部屋から遠ざかっていく。

 暗い廊下を抜け、再び夜の帳へと飛び出す彼の背中は、もはや王国に害をなす不逞貴族のものではない。

 未来を救うために、泥濘の中へと身を投じる一人の戦士のそれであった。


     ──────


 レイモンドの朝は、常に領都の鼓動よりも早く、静寂の重みと共に幕を開ける。

 薄氷のような冷気を孕んだ早朝の中庭を、軽装に身を包んだ老伯爵は、一歩一歩確かめるように踏みしめていた。

 視線の先には、昇り始めた陽光を浴びて、木剣を振るう私兵たちの姿がある。

 乾いた木材のぶつかり合う音と、荒い吐息が、冬の名残を残す空気の中で白く弾けて霧散していった。

 彼らの無駄のない動きを眺め、研ぎ澄まされた規律を確認することが、老いた主にとっての欠くべからざる日課だった。

 だが、その安穏とした儀式を、地の底から這い上がってくるような不穏な振動が唐突に打ち砕いた。


 最初は、鼓膜が捉えるかどうかの微かな震えに過ぎなかった。

 しかし、それは瞬く間に石畳を叩き鳴らす、数多の蹄鉄の咆哮へと変貌を遂げていく。

 レイモンドの、深く刻まれた眉間に鋭い皺が寄った。


「なんだ?」


 修練の手を止めた私兵の一人が戸惑いを含んだ声を漏らし、主の顔色を窺う。

 レイモンドは答えず、ただ音の源流である正門の方角を、射抜くような眼差しで見据えた。

 異変を感じ取った私兵たちが、主を守るように扇状に広がり、正門へと駆け出す。

 重厚な鉄の扉の向こう側から、夜の帳を引き裂いてきた軍勢の、圧倒的な圧力が流れ込んできた。


「あれは……、アルベルト軍と辺境伯軍!?」


 正門の隙間から外を覗き見た私兵が、慄きと共に叫んだ。

 その言葉は、静まり返っていた中庭に、一滴のインクを落としたかのような激動をもたらす。

 私兵たちは即座に得物を構え、迎撃の体制を整えようと身を固くした。

 しかし、レイモンドはその混乱を、掌を掲げる一動作のみで静止させた。

 老伯爵の瞳には、動揺ではなく、むしろ長い間待ち望んでいた宿命を迎え入れるかのような、透徹した覚悟が宿っている。


「……来たか。兵を正門前に整列させろ。攻撃の意思を見せてはならん。あくまで出迎えだ」


     ******


 開け放たれた正門から、巨大な潮流が雪崩れ込んできた。

 先頭を征くのは、黄金の髪を夜明けの光に輝かせたアルベルト、そしてその傍らで馬を並べるメルキオール。

 その後方に連なる辺境伯軍の鉄騎兵たちは、ただそこに存在するだけで、周囲の空間を凍結させるほどの武威を放っている。

 石畳を粉砕せんばかりの蹄の音が止み、一転して、真空のような静寂が中庭を支配した。

 アルベルトは馬上で、胸を張って老伯爵を見下ろした。

 その口から、峻厳なる宣誓が紡がれようとする。


「アルベルト・アステリアだ。アステリア王国第一王子として……」


「口上は不要。殿下の命に従う。用件だけを簡潔に述べていただきたい」


 レイモンドは、王兄の尊大とも取れる前口上を、容赦のない速度で遮った。

 それは不敬ではなく、極限状態における最良の服従の形であった。

 老いた身を深く折り、臣下としての礼を捧げるその背中には、一切の迷いも妥協も介在していない。

 出鼻を挫かれた格好となったアルベルトは、数瞬、面食らったように目を瞬かせた。


「そ、そうか? では用件を伝える。ガーディス自治区が飢饉の影響で壊滅、レイモンド伯は救援物資をガーディス自治区に届けろ。大至急だ」


 その言葉が落ちた瞬間、レイモンドの思考は音を立てて組み上がった。

 ガーディス自治区。

 救済という名の、凄絶な戦いの火蓋が切られたことを悟った。

 レイモンドは顔を上げることなく、淀みのない声で応諾した。


「承知。領の備蓄を放出、領都の商会にも協力させよう。ここからなら一刻半もあればガーディス自治区に行ける。それは任せてもらおう」


 レイモンドが背後の執事へ、微かな目配せを送る。

 主の意志を瞬時に理解した執事は、音もなく私兵たちへと駆け寄り、物資搬出の号令を下し始めた。

 沈黙を守っていた中庭が、瞬く間に、巨大な救済の歯車となって回転を始める。

 アルベルトはその無駄のない差配を認め、満足げに頷いた。


「感謝する。レイモンド伯は俺に付いてきて欲しい。まず俺たちだけでも現地入りする」


「わかった。メルキオールもいるということはそういう事なのだろう。だが、すまんが私は馬に乗れん。この歳なんでな。馬車でいいか?」


 レイモンドは自嘲気味に、しかし隠しきれない老獪な自尊心を込めて告げた。

 その言葉は、先ほどまでの儀礼に寄ったものではなく、既に戦友のようなものに変わっていた。

 武人としての最前線は退いても、政治と盤面の最前線には、己の居場所が厳然として存在している。

 その自負が、枯木のような肉体に不屈の芯を通していた。


「かまわない。準備をしろ」


「馬車の準備だ! 急げ!」


 レイモンドの怒号が響き渡る。

 私兵たちは弾かれたように厩舎へと走り、老伯爵は旅の支度を整えるべく、屋敷の奥へと踵を返した。


     ******


 レイモンドは、自室へと向かう廊下を普段の散歩からは想像もつかない速さで駆け抜けていた。

 だが、その足は寝室を通り過ぎ、客間の一つへと吸い寄せられるように向かう。

 そこには、数日前から潜入していた不遜極まる「客」が眠っているはずであった。

 レイモンドは礼儀などかなぐり捨てて、重厚な扉を乱暴に押し開いた。


「起きろ!」


 天蓋付きの贅沢なベッドへ向かって、腹の底からの大声を叩きつける。

 そこには、商会の制服を脱ぎ捨て、不気味なほどの色彩を放つ布に包まれた二人の『海鳥』の少女が寄り添うように眠りこけていた。

 一人の少女が、瞼を重そうに震わせ、薄く瞳を開く。


「……んあ?」


 寝ぼけ眼のまま、ひどく間の抜けた声を漏らす少女に対し、レイモンドの青筋がこめかみに浮かび上がった。

 もう一人の少女に至っては、微動だにせず規則正しい寝息を立て続けている。


「んあ? じゃない! 起きんか馬鹿者!」


「……なんです? こんな朝っぱらから」


 少女は欠伸を噛み殺しながら、上体を起こした。

 その態度は、領主である老伯爵を前にしても、微塵の恐縮すら感じさせない。

 むしろ、安眠を妨害されたことへの不満が隠しきれずに漏れ出している。


「アルベルト殿下が来ておる! 寝ている場合じゃない! すぐに動け! 私もすぐに出発する!」


 それだけを吐き捨てるように言い残し、レイモンドは再び廊下へと飛び出した。

 背後で少女たちがどのような表情を浮かべたか、確かめる余裕すら惜しかった。

 自室へ戻ると、待機していた侍女たちが、流れるような手際で彼の着替えを手伝い始める。

 一方、客間では、レイモンドの私兵が戸惑いながらも、少女たちに事態の深刻さを説明し続けていた。


     ******


 時が経ち、玄関前には伯爵家の紋章が誇らしげに刻まれた漆黒の二頭曳きの馬車が据えられていた。

 馬たちは朝の冷気に鼻息を白く輝かせ、出立の時を今か今かと待ちわびている。

 旅装に身を包んだレイモンドが、威厳を纏い直して屋敷から現れた。

 その後ろには、大きなカバンを両手に抱え、足並みを揃えて付き従う二人の『海鳥』の姿がある。


「待たせたな。すぐに出発できる。お前たちは荷物を馬車に積め」


「はぁ~い」


 返ってきたのは、やはり緊張感の欠片もない、溶けた飴のような返事であった。

 少女の一人は、寝間着姿のまま、盛大に逆立った寝ぐせも構わずに荷物を運んでいる。

 そしてもう一人の少女は、完全に覚醒するには至っていないのか、枕を胸に抱え、ゆらゆらと身体を揺らしていた。

 その異様な光景に、馬上で待機していたメルキオールとアルベルトの表情が引き攣る。

 レイモンドは、堪えきれない困惑と憤りをアルベルトへとぶつけた。


「殿下。どうなっているんだ、この娘たちは。諜報部員なんだろう? 毎日飯を食ってお茶を飲んで寝ているだけだぞ、彼女たちは」


 その言葉は、老伯爵としての切実な嘆きであった。

 彼女たちの優秀さを、そしてその裏に潜む底知れぬ実力を理解しているからこそ、目の前のあまりにも弛緩した姿が理解の範疇を超えていた。

 アルベルトは、苦い薬を飲み込んだような顔で曖昧な笑みを浮かべるしかない。


「え~……、ちゃんとお仕事もしてますよぅ」


「嘘をつくな! 大体、なんだ? その浮かれた寝間着は!」


 レイモンドの指差す先で、少女たちの纏う布が、朝の光に毒々しく浮かび上がった。

 それは西側で爆発的な流行を見せている、あの『メリーちゃんパジャマ』であった。

 目に痛いほどの淡いピンク地に、呪わしいほど鮮やかな蒼紫の薔薇が咲き乱れ、全身を蔦が這い回るその意匠は、神聖な領主邸の玄関前にはおよそ相応しくない。

 かといって、どこならば相応しいのかという疑問もあるが。


「これは『海鳥部隊』の標準装備ですぅ。下着も標準装備ですよぅ」


 少女はこともなげに言い放つと、寝間着の胸元をわずかばかり押し広げた。

 そこからのぞいたのは、同じく蒼紫の薔薇を刺繍したピンクの下着の端であった。


「どうでもいい! 早く荷物を馬車に積め! 出発できんだろうが!」


 老伯爵の怒りに追われるように、一人の少女がいそいそと荷物を積み込み始める。

 枕を抱えたままの少女は、依然として朝風に吹かれながらゆらゆらと揺れ続けていた。


「こっちは着替えと日用品、こっちは正装と執務服が一式入っています。そのまま王都に行けちゃいますよ」


 重い荷を運び終え、ようやく瞳に理知の光を宿した少女が、カバンを叩いて胸を張った。

 レイモンドは、その言葉の内容に眉をひそめる。


「飢饉の救援に行くんだぞ? 正装が必要か?」


「備えあれば、ですよ。伯爵様の戦場は救援の現場じゃないと思うんですよね」


「いいから出発するぞ! お前たちは寝間着のまま行くつもりなのか?」


「私たちは、伯爵様がご不在の間、あなたの屋敷とご家族をお守りします。現場には行きません」


「だったら最初からそう言え!」


 レイモンドは毒づきながら、馬車の中へと身を滑り込ませた。

 玄関前には、まるで祖父と孫の睦まじい言い争いを見せられたかのような奇妙な脱力感が漂っている。

 アルベルトとメルキオールは、言葉を交わすタイミングすら見失ったまま、ただ呆然とその光景を眺めるしかなかった。


 やがて、御者が鞭を鳴らし、二頭の馬が力強く石畳を蹴った。

 伯爵家の馬車は、アルベルトの騎兵隊を従えて霧の向こう側へと進んでいく。

 それを見送る玄関前には、ただ一人、枕を抱えたままの少女が、いまだに朝陽の中でゆらゆらと揺れ続けていた。


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