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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第69話:反逆者、英雄、本当の地獄は私たちが諦めた先にある

「来ました! 王都からの救援です!」


 凍てつく朝靄の帳を切り裂き、泥濘の彼方から一際鋭い叫びが木霊した。

 ガーディス自治区の廃墟に立ち込める、鉄錆と饐えた死臭が混じり合った重苦しい空気。

 それが、騎士団員の放ったその一声によって僅かに震え、霧散していく。

 視界の端、灰色の地平の向こうから、王国の重厚な紋章を掲げた荷馬車の列が、まるで巨大な地を這う虫のように蠢きながら姿を現した。

 車輪が深く粘りつく泥を噛み、軋む木材の悲鳴が静寂を塗り潰していく。


 夜を徹し、素手で瓦礫を掘り返しては、泥に塗れた物言わぬ遺体と、微かな呼吸を繋ぐ生存者を峻別し続けてきた者たち。

 その頬には、安堵というよりはむしろ、魂の極限にまで達した疲労の影が、彫刻のように深く刻まれていた。

 その救助活動の最前線、泥と返り血に汚れ、もはや本来の色を失った衣を纏ったベルンが、ゆっくりと、しかし確実に頭を上げた。

 彼の瞼は鉛のように重く、充血した瞳が、東の空から差し始めた冷ややかな陽光を、鈍く反射している。


「王都から? 思ってたより早い。ありがたい限りです。荷降ろしを手伝いましょう」


 ベルンの声は、ひび割れた大地のように掠れていた。

 彼は痺れる肢体を無理やり動かし、泥に足を取られながらも、到着した馬車へと歩み寄ろうとした。

 その背後で、力尽きかけていた騎士団員たちが、消えかけた灯を吹き返すように、最後の気力を振り絞って動き出す。


「わかった。騎士団は荷降ろしを手伝え! 荷降ろしが済んだ荷馬車はすぐに移動させろ! 後続の邪魔になる!」


 怒号に近い指示が、峻烈な規律を伴って現場を支配した。

 「はっ!」という乾いた唱和が重なり、沈まり返っていた自治区に、生きるための熾烈な喧騒が戻る。

 救援物資を積んだ馬車からは、乾燥したパンの詰まった木箱や、真水の入った樽が次々と運び出されていく。

 馬たちの荒い鼻息が白く滲み、軍靴が泥を跳ね上げる重苦しい音が響き渡る中、ベルンが再び一歩を踏み出そうとした。

 だが、その背中に、地を這うような低い、重圧を伴った声が届いた。


「ベルンはここにいろ。話がある」


 振り返ると、そこには夜明けの薄明の下、今にも壊れそうな歪な木椅子に深く腰掛けたマルコがいた。

 彼の真剣な眼差しが、透明な鎖のようにベルンの足を縫い止めた。


「なんです? 今じゃなきゃダメなんですか?」


 ベルンは僅かに眉を寄せ、背後の忙しない動きに視線を巡らせながら問い返した。

 その指先は、極度の疲労から微かに震えている。


「そうだ。指揮系統の引き継ぎの話だ」


 マルコの言葉に、ベルンは小さく、吐息のような音を漏らした。

 この泥濘の地獄において、指揮の混乱は即座に新たな死を招く。

 彼は近くにあった空の木箱を引き寄せ、マルコの正面へと静かに腰を下ろした。


「わかりました。手短にお願いします」


 ベルンが促すと、マルコは組んだ指を白くなるほど強く握り込み、視線を足元の泥へと落とした。

 沈黙が流れる。

 その合間に、遠くで救助を待つ民の、鳥の羽ばたきほどに弱い呻きが、冷たい風に乗って運ばれてくる。


「簡単に言うとだな、オレは『鉄屑の誓い』のリーダーだ。王国の転覆を目論む工作組織だな」


 マルコの告白は、静かだが、物理的な重量を持って空気を押し潰した。

 ガーディスの王族という闇を背負って生まれ、アステリア王国を内側から腐らせる膿として復讐に生きてきた男。

 その逃れられぬ業と、積み上げてきた絶望が、その一言に凝縮されていた。


「……続けてください」


 ベルンの反応は、驚くほど平坦だった。

 鏡のように静まり返った態度は、マルコの予想を裏切るものだった。


「つまり、オレは王国の討伐対象、西のアルベルトの討伐対象だ」


 マルコは、自身の正体が招くであろう破滅的な結末を、自ら断頭台に首を載せるような覚悟で突きつけた。

 大逆の徒として捕縛されるか、あるいはその場で命を断たれるか。

 だが、ベルンは鼻を鳴らし、興味を失ったように視線を荷馬車を引く馬の背へと戻した。


「はあ、そうなんですか。それが指揮系統と何の関係が?」


 素っ気ない、乾いた返答。

 マルコの肩が、虚を突かれたように僅かに揺れた。


「……はあ、ってお前……。王国への反逆者だぞ、オレは。ヴォルガンがここに来たらオレは終わりだ。そういう話をしているんだ」


 マルコの声には、隠しようのない焦燥が混じり始めていた。

 己が人生を賭して背負ってきた大逆の重みが、この若き商人の前では、風に舞う羽毛ほどにも扱われない。

 ベルンは深く、胸の奥底から溜め息を一つ吐き出すと、初めてマルコの瞳を、射貫くような視線で真っ向から捉えた。


「だから何です? 王国への反逆者? あなたは何もわかっていない。僕が西の大商人と呼ばれているのは知っていますよね?」


「ああ、知っている。それが何だ?」


 ベルンは、泥のついた自身の手のひらをじっと見つめ、呪文を唱えるような静謐な調子で語り始めた。


「『西の』、『西側』、という呼び名は、単なる方角を示すものではありません。王国へ反旗を翻した西側の反逆者集団を指す隠語です」


「……! ……王国に? 反旗を翻した?」


 マルコの呼吸が、目に見えて止まった。

 目の前にいる、穏やかで理知的な商人が、自らと同じ、あるいはそれ以上の深淵を歩んできた事実に、思考が追いつかない。

 ベルンは、淡々と、しかし峻烈な事実を積み重ねていく。


「そうです。ヴォルガン陛下を討って、アルベルト・アステリアを国王にする。僕たちは、これを目的に立ち上がり、中央と戦争をしてきました」


「……なんっ……だと……?」


 マルコが椅子を軋ませ、前のめりになった。

 ベルンの言葉は、止まらない。

 その声には、八年の歳月をかけて、泥を啜りながら積み上げてきた、揺るぎない確信が宿っている。


「先代の『剣鬼』オルコット辺境伯を経済で絞め落とし、ギルガルド伯爵を討ち、ダルトン領とランツェベルク領を獲り、将軍を打ち倒して『黒鉄』を解散させ、アイゼンハイド侯爵を西側に引き入れた。これが僕たちのやってきたことです」


 語られる言葉の一つ一つが、歴史の奔流となってマルコの全身を圧し潰す。

 それは単なる反乱の記録ではない。

 王国の構造そのものを根本から組み替え、古き秩序を食い破ってきた、巨大な地殻変動の軌跡だった。


「……おいおい、そんなことをしてきたのか? 西は」


「はい。始めてから、かれこれ八年にもなります」


 ベルンの瞳には、一切の迷いも、後悔もなかった。

 そこにあるのは、完遂すべき職務を見つめる者の、透明な意志だけだ。


「そんなに……。つまり、西の大商人のお前は、その西側の協力者だということか……」


「協力者なんてものじゃありません。僕は西側経済圏の総責任者、西側連合の中心人物の一人です」


 その告白は、マルコの認識を根底から覆した。

 かつて自分が『鉄屑の誓い』で成し遂げようとしていた破壊は、自分の知らない『西』の足元にも及ばない稚拙なものだった。


「とんでもない大物じゃないか! ……首謀者はアルベルトか?」


 マルコの震える問いに、ベルンは僅かに、慈しむような口角の上げ方を見せた。

 そして、この絶望の王国における唯一の救済、最も恐るべき一人の少女の名を口にした。


「メリーさんです」


「メリー!? メリーって、あのメリュジーヌ・ギルガルドか!?」


 マルコの声が、驚愕で上擦った。

 あの『メリーちゃん人形』、『メリーちゃん画集』、西からの食糧の袋に印刷された可愛らしいイラスト。

 その姿と、国家を揺るがす反逆の指導者という像が、頭の中で激しく衝突する。


「はい。僕たちはメリーさんという指導者の下に集った、それぞれの分野を担う西側連合の一員です」


 マルコは言葉を失い、白み始めた空を仰いだ。

 あの少女が、この王国の知られざる大規模反逆組織の指導者。

 それはもはや、理解不能な衝撃だった。


「馬鹿な! そんな連中がなぜ……?」


「わかりませんか? 復興に反逆者だなんだは関係ありません。此度の飢饉で、僕たち西側は王国全土に食糧を配って回った。反逆者が一転して王国の救世主ですよ」


 ベルンはわざとらしく、それでいて確信に満ちた動作で肩をすくめて見せた。

 その不遜な仕草は、国家の命運を弄ぶ者のそれではなく、ただ一人の少女の願いを実現させるための、透徹した合理の現れだった。


「ヴォルガンはそれを受け入れた、ということか」


「それだけではありません。陛下は、メリーさんとアイゼンハイド侯爵をそれぞれ公爵へ叙し、王位をアルベルト殿下に継がせます」


「なに!? 退位するのか? ヴォルガンは」


 マルコの声は、もはや微かな震えを隠しきれなかった。

 影から転覆させようとした王国が、知らぬ間に姿を変えようとしている。


「退位ではありません。陛下は、ガーディス自治区をアステリア王国から独立させ、新生ガーディス国の国王になります。この復興はその第一歩なんです」


 マルコの喉が、ゴクリと音を立てて鳴った。

 目の前に広がる凄惨な汚物の山が、単なる被災地ではなく、新たな国家の産声を聞くための揺り籠であるという事実。

 その壮大な構想の前に、マルコの背負っていた小さな「反逆」は、霧の中に消え去った。


「……そんなとてつもない規模の話だったのか……」


「わかりますよね? あなたが反逆者だったなんてどうでもいい話です。そもそも、あなたが昨夜ここに来なければ、どれだけの死者が出たと思ってるんです?」


 ベルンはゆっくりと立ち上がり、マルコの肩に、泥に汚れた右手をそっと置いた。

 冷え切った朝の空気の中で、その手のひらから伝わる確かな温もりが、マルコの凍てついた魂を溶かしていく。


「あなたはもう反逆者なんかじゃない。誰にも真似のできないことをやってのけた『英雄』なんですよ」


「……英雄、……オレが……」


 マルコの瞳に、永い彷徨の果てにようやく辿り着いた、微かな、しかし消えることのない光が灯った。

 彼を長年縛り付けていた「過去」という名の亡霊が、夜明けの風と共に、静かに霧散していく。


「はい、英雄です。あなたの功績はここにいるみんなが知っている。胸を張ってヴォルガン陛下と会ってください」


 ベルンの言葉は、福音のように、そして逃れようのない責任となってマルコの背中を押し上げた。


「わかった」


 マルコは、憑き物が落ちたような、清々しい顔をして立ち上がった。

 その背筋は、もはや反逆者のそれではない。

 遥かに高く、誇り高く伸びていた。


「さあ、物資の受け入れをしましょう。まだまだ休めませんよ。もうひと踏ん張りです」


「よし! やるか!」


 徹夜明けの疲労など微塵も感じさせない、強靭な生命力がその全身に漲った。

 二人の男は、泥濘の倉庫を蹴立て、救助の最前線へと走り出した。

 背後から昇り始めた朝日は、もはや灰色ではなく、彼らが切り拓くべき未来を、鮮やかな黄金色に照らし始めていた。


     ──────


 視界の端、泥を跳ね上げながら突進してくる一騎の姿があった。

 アステリア王国国王ヴォルガン。

 その全身は馬を飛ばし続けたことを物語る乾いた泥と煤に塗れている。

 馬を降りるなり、その軍靴が深く粘りつく泥濘を力強く踏みしめた。

 周囲に控えていた騎士たちが、その覇気に圧されるように一斉に道を開ける。


「ベルン! 遅くなってすまない! 状況を説明してくれ!」


 凍てつく朝の静寂を暴力的に食い破り、その剛毅な咆哮が泥濘の地へと響き渡った。

 霧の帳を物理的に押し退けるかのような圧力。

 ベルンは深く充血した瞳を瞬かせ、泥に汚れた自身の掌を一度強く握り締めた。


「陛下! よく来てくださいました。こちらへ」


 ベルンは掠れた声を振り絞り、ヴォルガンの元へと駆け寄った。

 王の肩は激しく上下し、その肺腑からは白く熱い吐息が絶え間なく漏れ出している。

 二人の視線が交差した瞬間、言葉以上の熱量がその場の空気を焼き焦がした。

 ベルンは即座に踵を返し、巨大な石造りの倉庫へと王を導く。


「王国軍は物資の搬入を続けろ! その辺の民家を仮の置き場にしていい! 急げ!」


 ヴォルガンは歩みを止めることなく、背後の近衛兵たちへ地響きのような命令を飛ばした。

 その一言で、停滞していた空気は峻烈な規律を伴って旋回し始める。

 荷馬車から運び出される木箱の重苦しい音、軍靴が泥を噛む湿った響き。

 それらを背に、ヴォルガンはベルンの後に続いて倉庫の重厚な扉を潜った。


 一歩足を踏み入れた瞬間に鼻腔を突くのは、饐えた臭いと、大勢の人間が発する湿り気を帯びた熱気。

 そして、死の淵を彷徨う者たちが吐き出す、薄氷のように脆い呼吸の気配であった。

 広大な倉庫の床には、瘦せこけた住民たちが隙間なく横たわっている。

 浮き出た肋骨、土色に変色した肌、虚空を見つめる濁った瞳。

 その間を縫うようにして、王国軍の兵士たちが必死の形相で水の入った器を運び、汚れた毛布をかけ直していた。

 その地獄の光景を、一人の男が泥に塗れた手で必死に支えようとしていた。


「陛下!」


 住民の枕元に跪き、震える手でスープの入った器を持っていたガメルが、弾かれたように立ち上がった。

 その高価な官服は見る影もなく汚れ、顔には煤と涙の跡が幾重にも重なっている。

 かつての狡猾な光は消え失せ、そこにはただ、絶望の淵で命を繋ぎ止めようとする一人の人間の剥き出しの形相があった。


「ガメル! よく頑張ったな。私と王国軍が来たからにはもう大丈夫だ」


 ヴォルガンはガメルの痩せ細った肩を、壊れ物を扱うような手つきで一度だけ強く叩いた。


「……っ。陛下……」


 ガメルの喉が、嗚咽を堪えるように激しく上下した。

 彼は深く、折れそうなほどに頭を下げ、再び泥だらけの床へと膝をついた。

 ヴォルガンはその背を温かく見守り、ベルンが案内する倉庫のさらに奥、粗末な木製のテーブルが置かれた一角へと歩みを進めた。

 そこには、一人の男が彫像のように静かに座っていた。

 ヴォルガンの気配を察し、男がゆっくりと腰を浮かす。

 その動作一つ取っても、洗練された武人のそれであり、周囲の空気が張り詰めるのが分かった。


「ヴォルガン、よく来た。状況は見ての通りだ。まだまだ物資が足りない。ここと同じ状況の区画もある。お前にはそっちを頼みたい」


 男の声は、深い洞窟の底から響く地鳴りのように低く、重い。

 ヴォルガンは眉間に深い皴を寄せ、自身を呼び捨てにした不遜な男を真正面から射抜いた。

 王の威厳を真っ向から受け止めてなお、その男の瞳には微塵の揺らぎもなかった。


「……何者だ?」


 ヴォルガンの問いかけは、抜き放たれた刃のような鋭さを帯びていた。

 対する男は、自嘲気味な笑みをその厚い唇に浮かべる。


「マルコスティーノ・ガーディスだ。お前の叔父にあたる」


「なんだと! 生き残りの王族がいたのか!?」


 ヴォルガンの声が、倉庫の天井を震わせた。

 全滅したと聞いていた血脈が、この泥濘の地獄で息を吹き返したという衝撃。


「ああ、オレはレイモンド領で八百屋をやっていたからな。ここでの被害を直接受けたわけじゃない」


 男──マルコは、自身の節くれ立った手のひらを見つめながら、淡々と語った。

 八百屋の親父として、そして『鉄屑の誓い』として生きてきた年月は、その強靭な佇まいの下に深く隠されている。


「レイモンド? 八百屋? ……『鉄屑の誓い』か?」


 ヴォルガンの瞳に、鋭利な理知の光が灯った。

 国家を蝕む影として長年追ってきた組織の名。

 その首魁が、何の予兆もなく、唐突に目の前にいる。


「そうだ」


 マルコはふっ、と短く笑みを漏らした。

 それは長きにわたる潜伏と闘争の果て、ようやく陽の当たる場所に辿り着いた者の、乾いた吐息であった。


「その『鉄屑の誓い』がなぜここにいる?」


「マルコさんは、昨夜のうちに救援物資を持って来てくれました。それがなければ今頃……」


 ベルンが横から静かに言葉を挟んだ。

 その言葉に含まれた重圧に、ヴォルガンは一瞬だけ目を閉じた。

 誰よりも先んじてこの地に駆けつけ、いくつもの命を泥濘から掬い上げた事実。


「なるほど。ここの指揮はマルコスティーノ殿下が執っているのだな。私はどこに行けばいい?」


 ヴォルガンはそれ以上の追及を排した。

 今は『鉄屑の誓い』よりも、この凄惨な現状を打破するための力が先決であると、その判断が物語っていた。


「この大通りを東に行ったところに大きな建物があります。王国騎士団の団長がそちらにいます」


 ベルンが示す方角を、ヴォルガンは見つめた。


「わかった。私はそちらの指揮を執ろう。その前に……」


 ヴォルガンは不意に足を止め、ベルンと正面から向き合った。

 王の瞳から鋭さが消え、そこには一人の友としての、深遠な温情が宿っていた。


「ベルン、よくやってくれた。こんな地獄に君を放り込んだ私を恨んでくれても構わない。だが、もう大丈夫だ。君は一人じゃない」


 ヴォルガンの言葉は、冷え切ったベルンの心根に火を灯すような熱を孕んでいた。

 ベルンは一瞬、呆然と王の顔を見上げた後、ゆっくりと首を横に振った。


「そんな……、恨むだなんてとんでもない。言いましたよね? 僕の全てを使って成し遂げてみせる、と。ここはまだ地獄じゃない。そしてもう僕は一人じゃない」


 ベルンの声に、確固たる意志の響きが戻る。

 泥を噛み、眼前の惨状を睨みつけるその瞳には、何ものにも屈さぬ不退転の決意が滲んでいた。


「……ああ、ああ! その通りだ。本当の地獄は、私たちが諦めた先にある。だが、私たちは諦めない。そうだな?」


 ヴォルガンは力強く頷き、ベルンの肩を一度だけ、万感の思いを込めて握り締めた。


「その通りです。ですが、まだ危機的状況は脱していない。僕たちは、できることを全力でやる。ただ最善を尽くす。それだけです」


「ああ。ここは任せる。いいな? マルコスティーノ殿下」


「マルコでいい。……ところでヴォルガン、その顔の痣は何だ?」


 マルコが問いかけると、ヴォルガンは僅かに苦笑を浮かべ、自身の左頬に残る痣を無意識に摩った。


「ベルンに殴られた。もう済んだ話だ。私はもう行く」


 ヴォルガンはそれ以上の説明を拒むように、颯爽と倉庫の出口へと向かった。

 その背中は、背負った重圧を微塵も感じさせないほど、気高く、そして大きかった。

 ベルンとマルコ、そして作業を中断したガメルが、その雄大な後ろ姿を無言で見送る。


「大通りを清掃しろ! 王都と見紛うくらい徹底的にだ! 汚物や泥のひと欠片も残すな!」


 建物の外から、大地を揺るがすようなヴォルガンの号令が聞こえてきた。

 その怒号に近い指示は、しかし、絶望に沈んでいた人々の魂に、秩序という名の活力を吹き込んでいく。

 マルコはその場に立ち尽くし、呆然とした表情で外の喧騒を聞いていた。


「……デカい男だな。あれがミディア姉さんの息子、アステリア王国国王ヴォルガンか……」


 その呟きには、畏怖と、それ以上に、王としての器に対する敬意と感嘆が混じっていた。


「……ええ、僕たち西側が陛下を討てなかった理由がわかるでしょう?」


 ベルンは、ヴォルガンが出ていった扉の向こうを、眩しげに見つめた。


「ああ、あんな立派な国王を討てるわけがない。討つ理由がない」


 マルコの言葉に、ベルンは小さく、しかし満足げに頷いた。


「はい、その通りですね」


 その横顔には、かつて敵対していた者同士が、共通の未来を信じて同じ土を踏むことへの、静かな誇りが滲んでいた。


「お前はそんなヴォルガンを殴ったのか? 国王を殴るなんてとんでもない奴だな」


 マルコの冗談めかした問いに、ベルンは一転して、困り果てたような苦笑いを浮かべた。


「その話はやめてください。僕だってとんでもないことをした自覚はあります」


 勘弁してくれとばかりに、ベルンは両手を挙げて降参の意を示す。

 その僅かなやり取りの間に、倉庫の入り口からは、続々と到着する王都からの救援物資が運び込まれてくる。

 木箱が積み重なる音、粥を啜る民の微かな音。

 昨夜の死臭漂う静寂に比べれば、状況はいくらか改善の兆しを見せていた。

 しかし、泥濘の地を真に再生させるための行軍は、まだ始まったばかりに過ぎない。


 ベルンは再び、泥に汚れた自身の袖を捲り上げ、救助を待つ民の元へと歩み出した。

 その背中に、東から昇る鮮烈な陽光が、長い影を落としていた。



GW中の更新はここまで

月初は忙しいんで、続きは来週の投稿になります

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