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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第68話:集結、東の果ての地へ、終わりのない行軍

「アイゼンハイド侯爵はいますか!」


 深夜の静寂を暴力的に切り裂き、重厚なデムハイト邸の扉が悲鳴を上げて開かれた。

 夜気に乗って食堂へと流れ込んだのは、死の臭気と焦燥に焼かれた者の、生々しい熱気である。

 影を纏ったような身なりの『海鳥』の娘が、泥に塗れた足音を石床に響かせ、呼吸を乱しながら叫びを上げた。


 蝋燭の炎が大きく揺らぎ、卓を囲んでいた者たちの影が壁に長く、不吉に伸びる。

 デムハイト領の中心に鎮座する広大な館の一角、第一食堂の空気は、その一言で氷点下へと叩き落とされた。

 卓上には広げられたままの地図と、冷めきった茶が置かれている。

 未だに睡魔を撥ね除け、盤面の推移を見守っていたアルベルトとメリー、そして影のように控えるジャックの視線が、一斉に闖入者へと突き刺さった。


「いや、侯爵は領地に帰った。どうした? 急用か?」


 アルベルトの問いは、低く、重い。彼は椅子に深く背を預けたまま、鋭い眼光を放つ。

 その傍らでは、辺境伯軍の騎士団長が反射的に腰の剣の柄に手をかけ、ヴォルフスブルク軍を率いるヴァレリアが、野獣のような瞳を細めて情報の到来を待ち構えていた。


「ガーディス自治区が壊滅状態です! 救援物資を求めています! 今すぐ!」


 吐き出された言葉は、もはや悲鳴に近い。

 報告を携えた『海鳥』の娘は、肩で荒い息を繰り返しながら、渇いた喉で窮状を絞り出した。

 彼女の背後にある暗闇が、そのままガーディスを飲み込もうとしている地獄の深淵であるかのように、食堂の温度がさらに下がっていく。


「どういう状況だ?」


 アルベルトの声に動揺はない。

 しかし、その短い問いに含まれた圧は、場を支配する緊迫感をさらに一段階引き上げた。

 メリーの指先が、ドレスの布地を無意識に強く握りしめる。

 エメラルド色の瞳が、揺れる灯火を反射して硬く、鋭く輝いた。


「飢饉の影響です。ガーディス自治区には西からの物資は届いていません」


 その一言が、この場にいる全員の脳裏に、飢えに喘ぎ、泥にまみれて力尽きていく民草の凄惨な光景を想起させた。

 供給の動脈を断たれ、歴史の狭間に打ち捨てられた自治区。

 その絶望的な沈黙が、今、急報という名の叫びとなってデムハイトを震わせている。


「わかった。――ジャック、『海鳥』をアイゼンハイド侯爵家と辺境伯領へ飛ばせ!」


 アルベルトの決断は速かった。

 彼が放つ言葉はもはや単なる指示ではなく、この盤面を支配する絶対的な力を持った号令である。


「畏まりました」


 ジャックが短く応じると同時に、彼の背後の影から別の『海鳥』たちが音もなく湧き出した。

 その存在は夜の闇そのものであり、次の瞬間には食堂の扉が再び開き、冷たい風と共に複数の影が夜の帳へと消えていく。

 その迅速さは、死神の鎌が振るわれる速度にも似ていた。


 アルベルトは間髪入れず、今度は隣に座る少女へと視線を向けた。

 その瞳に宿るのは、一人の協力者への信頼を超えた、この難局を託すに足る重責の授与である。


「メリーはここ、デムハイト領で物資を集めろ。資金は全てメリーに預ける。金にものを言わせろ。ある程度でいい、揃ったらすぐに出発しろ」


 此度の作戦の軍資金すべてを投げうつ覚悟。

 それは、命の糧を金で買い叩き、力ずくで運命を引き寄せるという傲岸なまでの意志の表明であった。


「……! …… わかったわ。アルはどうするの?」


 不意に投げられた重い言葉に、メリーの呼吸が一瞬だけ止まった。

 出会って以来、対等な関係を築いてきたはずの彼から発せられた、初めての、そして逃れようのない「命令」。

 戸惑いに揺れた彼女の声は、しかし即座に戦う者のそれへと変貌を遂げていた。


「俺もガーディス自治区へ向かう。物資は途中で現地調達する」


 アルベルトの口元に、獰猛な笑みが刻まれた。

 それは守護者の慈愛ではなく、獲物を追い詰める捕食者の、峻烈な戦意の表れである。


「……現地?」


 メリーが問い返す。

 現地とは何か、アルベルトの言っていることが飲み込めない。


「メルキオール子爵とレイモンド伯爵の館に乗り込む。そこで物資と人員を出させる。王兄殿下の威光と武力の使いどころだ」


 アルベルトは不敵に、そして傲岸に笑い飛ばした。

 自らの身分を、正義を遂行するための暴力として、あるいは法をねじ伏せるための槌として振るう。

 元々、アルベルトたちがデムハイトにいるのは、メルキオールとレイモンドを討つためだ。

 この合理性しかないアルベルトの作戦は、どこまでも非情で無駄がなかった。


「っははは! そいつは面白いね。私も連れて行ってくれるんだよね?」


 ヴァレリアが、弾かれたように声を上げて笑った。

 牙を剥き出しにしたようなその笑顔は、流血を予感させる戦場への誘いを、何よりも甘美な宴として歓迎していた。

 彼女の纏う殺気が、食堂の空気をさらに熱く、激しく攪拌する。


「当然だ。期待している」


 アルベルトの短く、力強い肯定。

 それは共に修羅の道を歩む者への、確固たる契約の再確認でもあった。


「ここの守りはどうするんです?」


 重苦しい沈黙を守っていた辺境伯軍の騎士団長が、現実的な懸念を口にする。

 指揮官不在となったこの館が、ガーディスの残党や背後の工作員にとって格好の標的となるのは火を見るより明らかであった。


「守る必要はない。メルキオールとレイモンドを俺が押さえれば、ここを攻める奴はいなくなる。あとはデムハイト軍と『海鳥』に任せれば大丈夫だろう」


 防御を捨て、敵の心臓部を直接叩くことで一切の憂いを断つ。

 その攻撃的な戦略は、彼という存在が持つ圧倒的な武への自信に裏打ちされていた。


「はい。大丈夫です。『海鳥』を一部隊残します」


 ジャックの声が、氷細工のように静かに響く。

 彼の保証は、この館の周囲に張り巡らされた見えない死の網が、依然として機能し続けることを意味していた。


「ジャックはメリーを守れ。いいな?」


 アルベルトの視線が再びジャックを捉える。

 その声には、戦略的な合理性とは別の、剥き出しの懸念が混じっていた。

 自らの手足として動く従者に対し、この場における最優先の防衛対象を明確に刻み込む。


「お任せください」


 ジャックは深く頭を垂れた。

 その影が揺れ、決意の重さが食堂の壁に刻みつけられる。


「よし! 辺境伯軍とヴォルフスブルク軍は俺についてこい! 半刻後に出発する!」


 アルベルトが勢いよく立ち上がると、食堂中の空気が一気に爆発した。

 騎士団長は鋼の音を響かせて敬礼を捧げ、ヴァレリアは既に戦場を駆ける幻影を見つめるように目を輝かせている。

 メリーは、遠ざかる背中を見つめ、自らに課せられた重責の重さを噛み締めながら、瞳に揺るぎない覚悟を宿した。


 嵐の前のような、張り詰めた静寂。

 半刻後には、この館から、未来を切り拓くための軍勢が、夜の帳を切り裂いて東へと走り出すのだ。


     ──────


 深い藍色に塗り潰されたアステリア王国の夜は、峻烈な静寂を纏い、王城の堅牢な石壁を噛んでいた。

 執務室の窓を叩く夜風は、どこか遠い地の悲鳴を運んでいるかのように鋭く、不吉な唸りを上げている。

 揺れる灯火の下、報告を終えた近衛兵の額から落ちた汗が、高価な絨毯へと静かに吸い込まれた。

 その報告が意味する絶望の深さを測るように、国王ヴォルガンは、自らの指先を見つめたまま彫像のように凝固していた。


「なんだと! そんな状況なのか……。見通しが甘かったか……」


 絞り出された声は、広大な室内で虚しく反響した。

 王という座が強いる冷厳な合理性が、今は刃となって彼自身の胸を抉っている。

 初手で大量の物資を運び込まなかった己の失策。

 調査という名の猶予を許し、盤面を悠長に観察していた数日間。

 その沈黙の時間が、東の地では無数の民の命を削る死神の鎌となっていた。

 己が振るうべき力の重さを、あるいはその振るうべき時機の誤りを、彼は奥歯を噛み締めることでその苦みと共に呑み下した。

 机上に広げられた地図の、ガーディス自治区を示す一点が、呪われた暗礁のように黒く沈んで見えた。


「『梟』と『海鳥』と国軍の隊長たちを謁見の間に集めろ! 急げ!」


 ヴォルガンの咆哮が、重厚な扉を震わせた。

 反射的に敬礼を捧げた近衛兵の靴音が、回廊を走る雷鳴となって遠ざかっていく。

 玉座へと至る長き廊下には、緊急召集を告げる鐘の音が響き渡り、眠りについていた巨大な王宮が、熱病に浮かされた巨人の如く脈動し始めた。


 謁見の間。

 高い天井へと伸びる円柱の影から、音もなく『梟』たちが湧き出し、整列する。

 その隣には、侍女服や色彩豊かなドレス、厳格な文官服を纏った『海鳥』の娘たちが、戦場の華のような異質さを放って控えていた。

 鋼の擦れる音と共に、王国軍の隊長たちが一糸乱れぬ動きで膝を折る。

 静謐と殺気が複雑に絡み合うその空間の中心で、ヴォルガンは一段高い玉座の前、王冠の重圧に抗うように背筋を伸ばした。


「王城の貯蔵庫を開けろ。物資を積めるだけ積んで現地へ向かえ。準備ができた者から移動開始だ。小隊単位で動け」


 その号令は、慈悲ではなく、剥き出しの義務感によって研ぎ澄まされていた。

 一刻を争う飢餓の戦場において、軍隊の足並みを揃える儀式は無意味な装飾でしかない。

 先に行く者が、一握りの麦を届けること。

 その積み重ねだけが、今の王国に許された唯一の贖罪であった。


「はっ!」


 軍靴の轟音が床を震わせ、武官たちが弾かれたように出口へと殺到した。

 開かれた扉から流れ込む冷気は、戦いへと向かう者たちの昂揚を冷酷に冷やしている。

 ヴォルガンは、次に影のように控える王室諜報員へと、鋭い眼光を向けた。


「『梟』をヴェリウスに飛ばせ。私が不在の間、王城はヴェリウス侯爵に任せる」


「はっ!」


 一人の『梟』が、一陣の風となって暗がりに溶けた。

 王都の統治権を一時的に預けるという異例の措置。

 それは、自らも泥濘の地獄へと足を踏み入れるという、王としての覚悟の現れでもあった。


「委任状を書いている時間が惜しい。全権委任の徽章を出せ。二つだ」


 その言葉に、傍らに控えていた近衛兵が、驚愕に目を見開いた。

 唇を戦慄かせ、禁忌に触れるかのような恐れを孕んだ声を絞り出す。


「そ……それは……」


 それは、王家の血統と権威を物理的に結晶化させた、不可侵の証。

 所持する者に、国王と同等の言葉と決断を許す、魔的なまでの力を持つ象徴であった。


「アルベルトとヴェリウス侯爵の分だ。問題あるまい」


 反論を許さぬ響き。

 ヴォルガンの瞳には、もはや身内への情愛や王権の維持といった矮小な懸念は欠片も残っていない。

 ただ、この危機を乗り越えるためだけの、峻烈な意思のみが燃えていた。


「はっ!」


 近衛兵が脱兎のごとく謁見の間を辞した。

 残されたのは、西の諜報部員『海鳥』たちと、王を守るべき近衛兵団。

 ヴォルガンは、自らも漆黒の外套を手に取り、肩へと掛けた。


「さて、私たちも出るぞ。近衛兵は準備をしろ」


「はっ!」


 重厚な鎧の擦れる音が、決戦の序曲となって響く。

 ヴォルガンは次に、その瞳に底知れぬ狂気と忠誠を宿した娘たちを見据えた。


「『海鳥』は私についてこい。時間はないぞ、すぐに準備をしろ」


「「「承知!」」」


 色とりどりの装いの裏に、鋭利な刃と死を隠し持った娘たちが、一斉に唱和した。

 その声は若々しくも、一切の迷いを排した死神の調べにも似ていた。


 再び扉が開き、仰々しい黒漆塗りの箱を抱えた近衛兵が入室する。

 箱を置く手は、その中身の重圧に耐えかねるように微かに震えていた。


「お持ちしました」


「ご苦労」


 ヴォルガンが蓋を押し上げると、室内の灯火が黄金の光に反射して爆発した。

 ビロードの敷物の上に鎮座していたのは、アステリア王家の紋章を象った、掌ほどの大きさの徽章であった。

 精緻を極めた黄金の細工に、深紅の宝石が、まるで王国の流した血を固めたかのように禍々しく、かつ美しく散りばめられている。

 それは、手にした者に法をねじ曲げ、軍を動かし、一国の運命を背負わせるだけの、重すぎる特権の証であった。


「これをヴェリウス侯爵に渡せ」


 ヴォルガンは、迷いなくその一つを掴み取り、差し出した。

 受け取った『梟』の指先が、徽章の放つ熱に焼かれるように強張る。

 しかし、その男は一言も発することなく、深く、深淵の如き礼を捧げると、再び影となって夜の帳へと消えていった。


 一人残された広大な謁見の間。

 ヴォルガンは、窓の外に広がる、何も知らずに眠る王都の灯を見つめた。

 その視線の先にあるのは、東の荒野。

 その地で、死臭と泥濘にまみれ、一人孤独に王国という器を守ろうとしている同志の男の姿であった。


「……ベルン、耐えてくれ。君は一人じゃない。王国は君を見捨てたりはしないぞ」


 独り言は、石造りの壁に吸い込まれ、誰に届くこともなく消えた。

 しかし、その誓いは彼の魂に刻まれ、消えることのない道標となった。

 ヴォルガンは、外套の襟を立て、一度も振り返ることなく、光の失せた謁見の間を後にした。

 彼の足音は、静かに、しかし確実に、新時代の産声となって夜空に響いていた。


     ──────


 アイゼンハイド侯爵邸を包む深夜の静寂は、無機質な氷のように硬く、重い。

 その静止した時間を粉砕したのは、鋼を擦り合わせたような、急を告げる『海鳥』の鋭い打鍵音であった。

 主寝室の重厚な扉が悲鳴を上げ、夜の闇を溶かしたような黒衣の影が、淡い月明かりの中に音もなく滑り込む。

 エーベルハルト・フォン・アイゼンハイドは、意識の覚醒と同時に、迷いなく机上のランプに火を灯した。

 眼鏡の奥に宿る知性は、瞬時の報告から事態の全容を峻烈に、そして克明に組み上げていく。


「状況は分かった。私も出る。君たちはダルトンのところへ行け。私の名前を使っていい。ダルトン領の街道で合流だ」


 その声は低く、部屋の隅々まで響き渡る断固とした響きを持っている。

 軍務局長として培われたその声は、一瞬にして邸宅内の空気を、平穏な眠りから有事の緊迫へと塗り替えた。


「承知」


 『海鳥』の娘は、短く、しかし鉄の規律を感じさせる声音で応じた。

 彼女の気配は、次の瞬間には風のように窓の外へ、ダルトン子爵邸を目指して夜の帳へと溶けていく。

 エーベルハルトは、窓の外を駆ける見えない影を見送り、自らの指先を見つめて沈思した。

 理知的な合理主義者の脳裏には、ガーディス自治区の泥濘と、そこに横たわる幾千もの絶望が展開されている。


「さて、距離を考えると私はだいぶ出遅れるな。安易に食料や薬を持って行っても役には立たんかもしれん。どうしたものか……」


 独白は、静まり返った部屋の壁に吸い込まれていく。

 命を繋ぐための糧は、既にアルベルトやベルンが手配しているはずだ。

 しかし、壊滅した地で真に必要なものは、物理的な満足だけではないことを、彼の経験が告げていた。

 扉の傍ら、暗がりに揺れるシルクの衣擦れの音が、静謐な思考を優しく遮った。


「建築資材や日用品じゃない? 建築資材をここから運ぶのは現実的じゃないかもしれないけど」


 そこに立っていたのは、月光を浴びて白磁の肌を輝かせるフェリシアであった。

 寝乱れた黒髪を無造作に払いながらも、その瞳には、夫が抱える難題を射抜くような鋭い生命力が宿っている。

 彼女の纏う圧倒的な質量感は、この張り詰めた深夜の空気に、生々しい現実の体温をもたらした。


「ああ、すまん。起こしてしまったか」


 エーベルハルトの声から、一瞬だけ鋭利な緊張が抜け、一人の夫としての温もりが混じる。

 彼は、自らの判断の遅れを詫びるように、愛する妻へと柔らかな視線を向けた。


「そりゃ起きるわよ。『海鳥』のあの剣幕じゃ……」


 フェリシアは、呆れたように、しかし慈しむような溜息を吐いた。

 彼女は、夫の思考が袋小路に入り込んでいることを見抜き、直感という名の真実を突きつける。


「しかし、建築資材か。それは無理としても、天幕を持っていくことは可能だな。医療用、王国軍の寝泊まりする場所用に必要だな」


 エーベルハルトの瞳に、再び火が灯った。

 天幕。

 それは野戦の陣営・野戦病院等、戦場において必須の物資である。

 合理的な思考が、妻の言葉を起点として新たな支援の形を構築し始める。


「お風呂も必要よ。盥と桶と石鹼、そしてタオル。これなしに人は生きられないわ」


 フェリシアは、当然のことを告げるように言葉を重ねた。

 それは、数字や戦術では測りきれない、人としての尊厳を繋ぎ止めるための、泥臭くも崇高な必需品であった。

 清潔を保つこと、それは疫病を防ぐだけでなく、絶望に折れかけた魂を温め直すための、最上の儀式に他ならない。


「……! それは気付かなかった。さすがだなフェリシア。君がいてくれてよかった」


 エーベルハルトは、感嘆と共に妻の肩を抱いた。

 軍務局長としての視点では見落としがちな、生活という名の戦場を知り抜いた女の智慧。

 その言葉が、今、ガーディス救済の盤面に欠けていた最後の一片を埋めた。


「どういたしまして。……行ってらっしゃい、旦那様。帰ってきたらまた子作りよ」


 フェリシアは、悪戯っぽく、しかし不退転の覚悟を込めて微笑んだ。

 生を肯定し、未来を紡ぐという、彼女なりの戦場への送り出し。

 その露骨なまでの生命の熱が、冷え切った室内を激しく、甘やかに掻き乱す。


「……あ、ああ。行ってくる。留守は任せた」


 エーベルハルトは、先ほどまでの激しい営みの余韻が鈍い痛みとなって腰に響くのを感じ、わずかに表情を崩した。

 理知的な合理主義者が一瞬だけ見せた、一人の男としての困惑と甘やかな諦観。

 しかし、その足取りは既に、戦場へと向かう武人のそれへと戻っていた。


 彼は、薄手のコートを羽織り、型崩れのない帽子を手に取ると、一度も振り返ることなく寝室を後にした。

 廊下を叩く規則正しい靴音は、夜の帳を切り裂く意志の鼓動となって響き渡る。

 アイゼンハイドの当主が、泥濘の地獄へとその身を投じるための、峻烈な旅立ちであった。


     ──────


 大陸西部の峻烈な朝気は、岩肌を叩く風のように鋭く、肌を刺す。

 辺境伯領都バルト、その静止した空気の中で、ガレル・オルコットの振るう木剣だけが、重低音の唸りを上げて空間を切り裂いていた。

 父譲りの圧倒的な巨躯から繰り出される一撃は、もはや武芸の範疇を超え、荒れ狂う自然の猛威を形にしたかのような威圧感を放っている。

 鋼のような筋肉が躍動し、額から滴る汗が、凍てつく石床に落ちては瞬時に熱を失った。

 彼が背負う辺境伯という地位の重圧と、王国の守護者としての義務が、その一振りごとに凄絶なまでの質量を与えている。


 その静寂を、遠くから近づく激しい蹄の音が粉砕した。

 跳ね上がる泥を厭わず、一騎の馬が中庭へと滑り込む。

 漆黒の衣を纏い、砂塵に塗れた『海鳥』の娘が、落馬せんばかりの勢いで手綱を引いた。

 彼女の瞳に宿る焦燥の色が、平穏な朝を、有事の赤色へと塗り替えていく。

 急報を携えた使者の荒い呼吸が、冷たい空気の中で白く弾けた。


「アルベルト様からの伝令です。ガーディス自治区が壊滅。餓死者が溢れ、地獄と化しています。直ちに救援を」


 報告を遮るように、ガレルは木剣を地面に突き立てた。

 その衝撃で石床が微かに震え、彼の理知的な瞳には、即座に決断の炎が宿る。

 状況を咀嚼するまでの一瞬、彼は東の山脈の先に広がる、目に見えぬ悲劇の光景を凝視した。


「わかった。私はここを離れるわけにはいかん。辺境伯軍を向かわせる。もちろん食糧と物資も積めるだけ詰め込んでな」


 ガレルは報告に来た『海鳥』を屋敷に招き入れ、必要な救援物資に思いを馳せる。


「ここからガーディス自治区までは遠すぎる。辺境伯軍の救援はおそらく最遅の到着になるだろう。必要なものは救援物資じゃないな。復興に携わる人員の食糧か……?」


 その呟きは、絶望的な距離への回答を求めて、虚空に漂った。

 西の果てから東の果てへ。

 王国を横断する行軍は、どれほどの迅速を期しても、最初の一撃にはなり得ない。

 己が果たすべき真の役割を、あるいはこの遅滞を埋めるための最適解を、彼は高い天井を仰ぎ、模索した。

 思考の海を彷徨う彼の耳に、鈴の音のように清らかな、しかし不退転の意志を孕んだ声が届いた。


「ガレル兄さん、目先だけじゃなく、もっと先を見ましょう。食糧は当然必要だわ。でもそれだけじゃ足りない。新たに開拓をする必要があるんじゃない? そのための人員と道具、種や苗が必要なのでは?」


 回廊の柱に身を預け、生まれたばかりの男児を愛おしげに抱いたアンナマリーが、そこに立っていた。

 赤子をあやす慈愛の表情とは裏腹に、彼女の言葉は、国家を再建するための土木的な真実を突いている。

 腕の中の小さな命が発する微かな温もりが、今、死に瀕している地へと向かうべき、真の救済の形を指し示していた。


「……開拓、……開拓な。確かに必要になるな」


 ガレルは、自らの視界を覆っていた霧が晴れるのを感じた。

 ただ命を繋ぐだけでは、地獄を先延ばしにするに過ぎない。

 生きるための根源的な力こそが、今のガーディス自治区には欠けているのだ。

 施しによって生かされるのではなく、自らの手で土を耕し、明日を掴み取るための権利。


「いるわよね? 開拓に特化した集団が。そして兄さんの代わりに指揮官として現地入りを任せられる人物が」


 アンナマリーの瞳が、確信を持って兄を射抜いた。

 その問いかけが、ガレルの記憶の底に沈んでいた、ある男の姿を鮮やかに浮き上がらせる。

 この西の果ての地で、誰よりも土を愛し、開拓という名の戦いに生涯を捧げる者たち。

 厳しい冬を乗り越え、果てしない広大な地を実り豊かな領土へと変え続けてきた、王国最強の開拓集団。


「……! いる! そうだ! なんで気付かなかったんだ!」


 ガレルの咆哮が、屋敷の壁を震わせた。

 西の果てのこの地からでも、東の果てに希望の種を蒔くことはできる。

 軍事的な制圧でも、一時的な施しでもない。

 人が生きるための大地を取り戻すという、最も泥臭く、かつ神聖な任務。

 彼は即座に拳を固く握りしめ、新たな動員を告げるための息を吸い込んだ。


 直ちに、新たな号令が飛んだ。


     ──────


 アステリア王国の全土から、明日への糧を積み込んだ荷馬車が一斉に走り出した。

 その無数の轍は、泥濘に沈もうとするガーディス自治区を、再び人の世へと繋ぎ止めるための巨大な生命の脈動となって大陸に刻まれていく。

 アステリア王家、西の反逆者集団、アイゼンハイド侯爵家。

 かつて反目し、ぶつかり合っていた力が、今、一つの地獄を救うために東の果てを目指して突き進む。

 命と未来を運ぶ終わりのない行軍が、今、始まった。


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