第67話:八百屋、緊急支援物資、これは戦場の鉄則だ!
「……ん? なんだ? オレを張っている連中の仲間か?」
血を流したような、どす黒い朱色がレイモンド領の石畳を染め上げていた。
夕刻の風が、店先に積まれた丸芋の土埃を巻き上げ、八百屋の親父の足元を汚していく。
親父は、手慣れた手つきで店員へ店仕舞いの指示を飛ばし、自らは馴染みの酒場へと足を向ける準備を整えていた。
その横顔には、長年この街の喧騒に馴染んできた、どこか抜けたような、それでいて油断のない平穏が張り付いている。
だが、その双眸だけは、暮れゆく通りの影に溶け込む「影」たちの気配を、正確に捉えていた。
彼を監視し続けて三年になる、若き諜報員たちの未熟な視線を。
突如、乾いた石の音が、平和な黄昏の静寂を暴力的に切り裂いた。
ひりつくような蹄の音が急速に近づき、一騎の馬が砂塵を巻き上げて、親父の店の前で猛然と停止する。
跨っていたのは、泥と汗に汚れ、極限の疲労に表情を歪ませた『海鳥』の少女だった。
彼女の瞳は焦点が定まらず、その全身から剥き出しの焦燥が立ち昇っている。
「……ガーディス……壊滅……アイゼンハイド……救援……」
掠れた、今にも消え入りそうな声が、夕風に乗って親父の耳朶を打った。
その瞬間、親父の手から、今しがた掴み上げた丸芋が力なく転げ落ちた。
乾いた音を立てて転がる芋を追う者はいない。
親父の内側にあった「八百屋」という安穏な舞台装置が、内側から音を立てて崩壊していく。
その背中から立ち昇る、大気を歪ませるほどの凄絶な威圧感に、店員も、買い物客も、そして影から彼を監視していた海鳥たちさえも、本能的な死の予感に身を竦ませた。
(ガーディス? 壊滅? ……何を言ってやがる)
親父の思考は、ニ十年前の大戦の記憶――泥濘に沈む故郷、誇り高き民の断末魔、そして自分たちが捨て去ったはずの、あの呪われた土地の情景を瞬時に手繰り寄せた。
「急ぎますので!」と、血を吐くような悲鳴を遺して駆け去る伝令の背を見送ることもせず、親父はゆっくりと、己を監視し続けてきた背後の影へ、その身を転じさせた。
そこにいたのは、風景の一部として溶け込んでいたはずの、二人の『海鳥』の少女だった。
彼女たちの顔からは、訓練された諜報員としての余裕が消え失せている。
一人の男が放つ、深淵のような「執念」によって、彼女たちの理知は無惨にも蹂躙されていた。
親父は一歩、また一歩と、逃げ場を奪うような重圧を伴って距離を詰める。
「おい、嬢ちゃんたち。今の話、本当か? ガーディスが壊滅って……どういうことだ?」
その声は低く、地を這う雷鳴のように響いた。
監視対象に自ら接触し、情報を求めるという、諜報の理法を真っ向から踏みにじる禁忌。
だが、親父の瞳には、組織の掟など塵芥にも等しいという、猛烈な「個」の怒りが宿っていた。
「……っ!」
海鳥の少女たちが息を呑む。
目の前にいるのは、三年間監視し続けてきた、呑気な「八百屋の親父」ではない。
国を、組織を、己の人生さえも天秤にかけ、ただ一つの真実を求める「修羅」であった。
彼女たちの指先が、恐怖と当惑に震える。
その隙間を縫うように、親父の言葉が肉を圧し、骨にまで届かんとする圧をもって降り注いだ。
「ガーディス自治区はオレの故郷だ! 何があった? オレに何かできることはないか?」
怒号ではない。
それは、喉の奥から絞り出された、血を吐くような慟哭に近い切実さを持っていた。
親父の眼窩に溜まった、熱い情念の塊。
職務を優先すべき鋼の意志が、目の前の男が湛える圧倒的な「人間」の重みに、じりじりと敗北していく。
少女の唇が、耐えきれずに震えた。
「……機密情報、……です」
「そんなこと言ってる場合か! 言え!」
親父の掌が、少女の肩を掴んだ。
肉を握りつぶさんばかりの力。
しかし、そこから伝わってくるのは、暴力への衝動ではなく、故郷を想うあまりの、魂の震えだった。
少女の目から、一筋の光が溢れる。
あまりにも純粋で、あまりにも泥臭い人情。
それは、洗練された諜報技術という氷の壁を、一瞬で溶かし尽くす熱量を持っていた。
「壊滅ってどういう意味だ? 襲撃か? 飢饉か? 生きてる奴はどれくらい残ってる?」
「……飢饉の影響で……大量の死者が……生存者も、ほとんど……」
少女の声は、もはや組織の駒としてのものではなく、一人の人間としての悲嘆に満ちていた。
職務よりも、目の前の『人間の危機』が勝ってしまったのだ。
親父の力が、ふっと抜ける。
だが、それは絶望による弛緩ではなかった。
静かな、しかし確かな「決意」が、彼の全身に満ちていく。
「ちょっと! この男に情報を渡すのは……」
もう一人の『海鳥』が咎める。
至極まっとうな諜報部員としての指摘。
だが、親父は止まらない、止まることなどありえないとでも言わんばかりにまくし立てる。
「物資は届いていないのか? ガーディス自治区が拒んだのか?」
「……わかりません」
「ちっ! ちょっと待ってろ!」
親父は舌打ちを一つ。
そのまま、目にも止まらぬ速さで店の奥へと駆け込んだ。
数分後、彼が抱えてきたのは、古びているがずしりと重い、革の袋だった。
中から漏れる鈍い金属音。
それを、狼狽える二人の少女の手へ、無理やり押し付ける。
「これでパンと肉と清潔な布、古着を買えるだけ買ってこい! 荷馬車もだ! 急げ!」
「……え、あの……」
袋の隙間から覗く黄金の輝きに、少女たちは絶句した。
それが、単なる八百屋の蓄えを遥かに超えた「大金」であることを、彼女たちの職業的感覚が告げている。
だが、今の親父にとって、それらはただの金属片に過ぎない。
「行け!」
「はい!」
抗う術を失った『海鳥』の二人が、脱兎の如く走り出す。
それを見届けた親父は、震える店員へ、雷鳴の如き号令をかけた。
「おい! 荷馬車を出せ! 野菜と果物を全部積むぞ!」
日没が迫り、闇が街を飲み込もうとする中、店の前には慌ただしく二台の荷馬車が並んだ。
「戻りました! 荷馬車は満載です! 確認を!」
「いらん! すぐに出発する! ――おい! メリーちゃん人形を持ってこい!」
親父が最後に命じたのは、店の神棚に祀られている、ピンク色の滑稽な意匠の人形だった。
「……救援物資にそれは……」
場違いな「偶像」に、少女が戸惑いの声を上げる。
だが、親父は、人形の頭を乱暴に撫で、馬車の手綱を握り締めた。
「家内息災、魔除けなんだろう? 縋れるものには何にでも縋れ!」
その言葉には、理屈を超えた、切実なまでの民草の信仰が宿っていた。
神にも王にも見放された土地。
そこに届くのが、一握りのパンと、滑稽な少女の人形であったとしても。
それが命を繋ぐ依り代になるのであれば、彼はそれを迷わず差し出すだろう。
「……あなたは、いったい……なぜここまで……?」
少女の問いに、親父はすぐには答えなかった。
ただ、夕闇に溶けゆく北の空を、一頭の猛禽のような鋭い眼差しで見つめ、そして、重く、力強く答えた。
「言ったよな? ガーディス自治区はオレの故郷だと。それ以上に理由が必要か?」
少女は黙って首を振った。
「行くぞ!」
車輪が石畳を軋ませ、二台の荷馬車が動き出す。
それは、合理的な国家の策動でも、計算された救済でもない。
一人の男の、引き裂かれそうな情念が突き動かす、無謀で尊い、最初の足跡であった。
──────
車輪が粘つく泥を噛み、沈痛な音を立てて夜の静寂を掻き回していく。
レイモンド領を立ち、一刻の猶予もなく荷馬車を走らせ続けてきた八百屋の親父の手綱を握る拳は、白く強張っていた。
並走する二人の『海鳥』の少女たちは、馬上の衝撃に耐えながら、目の前の「標的」が放つ異様なまでの圧力に圧倒されていた。
彼女たちが三年にわたり監視し続けてきた男の横顔は、今や一抹の慈悲も、平穏の欠片も残っていない。
馬の体からは命を削り出すような白い蒸気が夜霧となって立ち昇り、漆黒の帳の中でそれだけが唯一の「生」の証のように見えた。
男の瞳に宿るのは、泥濘の底に沈んだ故郷へ向ける、執念という名の烈火であった。
夜の帳が降り、視界が泥色の闇に塗り潰される頃、一行はついに目的地へと到達した。
ガーディス自治区。
王国の圧政に耐えながら生き抜いてきた、痩せ細りながらも清冽な大地。
だが、今そこに広がっているのは、開かれたまま主を失った無惨な門と、その向こう側に延々と続く、死の臭気と泥濘の地獄であった。
道端に遺体は転がっていない。
先行した王国騎士団の手によって、骸こそはとっくに片付けられている。
だが、それが逆に、この地で起きた惨劇の徹底ぶりを、視覚的な残虐さ以上に生々しく突きつけてくる。
生活の痕跡をすべて泥に呑まれ、音もなく腐敗していく土。
そこには、物理的な死体があるよりも残酷な、完全なる「終焉」の気配が澱んでいた。
鼻腔を刺すのは、湿った風に混じる、命が絶え果てた後の澱んだ空気。
男の喉が、絞り出されるような音を立てた。
荷馬車が泥の飛沫を上げて止まると同時に、暗闇から複数の鋼の光が動いた。
王国軍の兵士たちが、不審な深夜の来訪者に対し、抜き身の殺気を向けてくる。
「何奴だ! 止まれ! この先は立ち入り禁止だ!」
兵士の怒号が響く。
だが、男は馬車から飛び降りると、泥濘を力強く踏みしめ、その刃の包囲網を無視するような怒気と共に一歩前へ出た。
「おい! 王国軍か? 救援物資を持ってきた! 使え!」
地を這う雷鳴のような声が、絶望に沈む自治区を震わせた。
その吼え声に、騎士団員たちは一瞬、呼吸を忘れた。
彼らがこの地で見てきたのは、死を待つだけの民草か、事務的に処理を進める同僚の姿だけだった。
だが、目の前の男は、絶望の深淵において、あまりにも鮮烈な「生」の怒りを爆発させている。
「救援物資? どこから?」
一人の兵士が、困惑を隠せずに問い返す。
「レイモンド領だ!」
その返答に、兵士は言葉を失った。
レイモンド領には救援要請を出していない。
だが、この親父はレイモンド領から来たという。
「レイモンド領……? 早すぎる……王都より先に届くなんて……!」
騎士団員の戦慄を、男は乱暴に一蹴する。
「細けぇことはどうでもいい! ここの責任者は誰だ?」
「はっ! すぐに呼んできます」
圧倒的な威風に呑まれた兵士が、弾かれたように奥へと駆けていく。
男はその背中を見送ることなく、背後の荷馬車へ向かって鋭い号令を飛ばした。
「積み荷を降ろせ! ぐずぐずするな!」
男は、積載の限界を超えてしなっていた荷馬車の側面を、折れんばかりの力で叩いた。
その衝撃に促されるように、騎士団員たちが慌てて荷馬車を倉庫前へと移動させ、命の糧である食糧を運び込み始める。
暗闇の中で、積み荷を運ぶ音と兵士たちの交わす声だけが、辛うじてこの地に活気を取り戻させていた。
騒乱の渦中、倉庫の奥から一人の男が姿を現した。
西側経済圏の物資と物流を一身に背負う、大商人ベルン。
その身に纏うのは、一見して上質とわかる旅装。
だが、その端々は泥に汚れ、整えられていたはずの髪も乱れている。
「救援物資ですか? 助かります!」
ベルンの声には、偽らざる安堵が混じっていた。
だが、男は彼を値踏みするように睨みつけ、低く問いかける。
「お前がここの責任者か?」
「はい、ベルンと申します」
丁寧な会釈を返すベルンに対し、男は容赦のない追及を続けた。
「西の大商人ベルンか。なぜお前がこんな東の地にいる?」
その言葉には、この事態の核心を突くような鋭さがあった。
ベルンは姿勢を正し、泥に塗れたこの男の眼差しが、一介の商人とは次元を異にすることを即座に察知した。
「ヴォルガン陛下の勅命です」
「なるほど。王都には救援要請を出したのか? アイゼンハイドにはあの娘たちの仲間が走ったようだが」
男が、後ろの荷馬車で無言を貫く『海鳥』の娘たちを顎で指す。
彼女たちは、親父の一挙手一投足を逃さぬ鋭い眼差しを保ったまま、ぺこりと頭を下げた。
ベルンはその異様な光景に、眉をひそめて問う。
「『海鳥』? なぜ『海鳥』が? あなたは何者です?」
その問いに、男はゆっくりと、長年隠し続けてきた己の真実を、暗い情念と共に解き放った。
かつて捨て去り、しかし決して消えることのなかった「呪い」と「誇り」の名を。
もはや、八百屋の親父という仮面は、この泥濘の地には必要なかった。
「マルコスティーノ・ガーディス。ガーディスの第三王子だ」
「「「……!」」」
絶句が、凍りついた空気をさらに重く沈ませた。
ベルンも、そして監視を続けてきた『海鳥』の娘たちさえも、信じがたい真実を前に息を呑んだ。
ガーディスの王族の血脈。
それが、泥にまみれた八百屋の姿をして、地獄の底へと帰還したのだ。
マルコは、自身の正体に衝撃を受ける周囲を、突き放すような眼差しで見据えた。
「そんなに驚くな。お前たちはそこまで調査していたんじゃないのか?」
マルコの皮肉に、一人の『海鳥』が震える声で答えた。
「……いえ、そこまでは……」
「それより、王都に救援要請を出したのかと聞いている」
マルコの声は、もはや個人の感傷を排した指導者のそれに変貌していた。
ベルンは姿勢を正し、重々しく答える。
「出しました。王都とアイゼンハイド、帝国に救援要請をしています」
「帝国にもか……まあ、すぐに届く距離じゃねぇな」
「ええ……」
マルコは傍らの『海鳥』へ荒々しい質問を投げつけた。
「おい、金はまだ残ってるか?」
「残っています。半分も使っていません」
「よし、もう一往復するぞ。馬を替えろ。急げ」
「はっ!」
マルコは再び泥に塗れた荷馬車へと手をかけた。
激しい走行によって軋む木材の音と、荒い呼吸を繰り返す馬たちの嘶き。
それを力尽くで御すように手綱を握り直そうとするその背中を、ベルンが慌てて制した。
「マルコスティーノ王子、あなたはここに残ってください。物資の搬送は騎士団に任せます」
「マルコでいい。オレをここに残してどうするんだ? 動ける奴が動く。これは戦場の鉄則だ」
マルコは拒絶し、再び手綱を握ろうとした。
だが、ベルンは静かに首を振る。
「指導者がいません。あなたには、王族として住民の希望になってもらいます」
マルコの表情が、月光の下でわずかに揺れた。
「希望」という言葉が、今のこの地でどれほど重く、残酷な意味を持つのか。
彼は震える唇を噛み締め、誰に問うでもなく、確認するように呟いた。
「兄上たちは死んだか……」
短い沈黙。
風が、遠くで泣くような音を立てて吹き抜けた。
「はい。ここの王族は全滅です」
ベルンの声は、葬送の鐘のように重く響いた。
マルコは天を仰いだ。
雲間に隠れゆく月。
その無慈悲な光が、彼を照らし出した。
かつての故郷、かつての家族。
すべてを捨てたはずの男に、再び「王」の重圧がのしかかる。
だが、彼はその重みを、逃げることなくその両肩で受け止めた。
「……わかった。物資の搬送は任せる。状況を説明しろ」
「こちらへ」
ベルンが倉庫へと案内を開始し、マルコはその背中を無言で追った。
泥濘を蹴り、死臭を切り裂き、かつての王子は、さらなる地獄へと足を踏み入れた。
──────
開きっぱなしの重厚な石造りの扉をくぐった瞬間、肺の奥を濡れた粘土で塗り潰されるような、重く澱んだ臭気がマルコを襲った。
それは降り続く雨が大地を腐らせ、そこに逃げ場を失った人々の排泄物と、静かに浸透していく死の予感が混じり合った、剥き出しの「生の崩壊」の臭気であった。
マルコの眉根が、彫像のように鋭く強張る。
王国の植民地として麦を作らされ、それを保管するための広大な倉庫は、今や巨大な病床、あるいは埋葬を待つだけの静かな待機所へと変貌を遂げていた。
床には、上質であっただろう布や、泥を吸ってどす黒く変色したボロ布が、隙間なく敷き詰められている。
その上に横たわっているのは、頬が削げ落ち、幽鬼のような眼差しを天井の闇へと向けている住民たちであった。
わずかな灯火の下、王国騎士たちの姿が点在している。
彼らは誇り高い白銀の鎧を泥に汚し、重いマントを投げ捨てて、必死に住民たちの体を温めた湯で拭い、汚れた布を替える作業に没頭していた。
その手つきは、敵を斬るための剣技とは程遠い、あまりにも拙く、そして痛々しいほどに真剣な祈りに似ていた。
だが、彼らの献身を嘲笑うかのように、人手も、清潔な水も、そして命を繋ぐための物資も、この広大な空間を埋めるにはあまりに絶望的に足りていなかった。
天井の隙間から漏れ出す湿り気が、人々の喘ぎを重く地面へと押し付けている。
「ここが一番状態の良い区画です。他は……もっと酷い。王族は全滅。行政機能は完全に停止しています」
ベルンの声は、乾いた砂が擦れ合うような響きを伴っていた。
惨状を見つめるその沈鬱な表情は、もはや再起の計算すら立たぬ破滅を前に、ただ昏い静寂を湛えていた。
マルコは答えない。
ただ、暗がりに横たわる無数の影を見つめ、彼らの微かな呼吸の音を、自らの鼓動と共に刻み込んでいた。
「生存者はまだ多いですが、ほとんどが衰弱しきっています。救援物資が届くまでの時間が勝負です」
ベルンの焦燥は、夜の冷気よりも鋭く肌を刺した。
その時、倉庫の奥から一人の男が、泥と返り血に塗れた外套を翻して姿を現した。
アステリア王国宰相ガメル。
彼は、運び込まれたばかりのわずかな資財を確認しようと顔を上げた瞬間、そこに立つ男の姿を捉え、喉を鳴らして凍りついた。
手にした物資のリストが、泥の上に音もなく落ちる。
「……マルコスティーノ殿下……」
震える声が、静寂を切り裂いた。
ガメルは、ガーディスの王妃の血縁の男。
だが、目の前の男は、この土地が王国の軍靴に蹂躙され、尊厳を剥奪される以前から続く、正当なる王族の血脈。
歴史の闇に消えたはずの、直系の継承者マルコスティーノその人であった。
ガメルの膝が、本能的な畏怖と、崩壊した秩序が再び立ち上がる瞬間の重圧によって折れかけた。
「今はそんな場合じゃねぇ。立て」
マルコの手が、ガメルの肩を無造作に掴み、強引に引き上げた。
その瞳には、再会を祝う情も、懐かしさもない。
あるのは、今この瞬間、どの命を拾い、どの絶望を切り捨てるかという、極限状態の指揮官のみが持つ研ぎ澄まされた判断力であった。
マルコは一瞬で倉庫全体を、盤面を俯瞰するように見渡した。
「……動ける奴はどれくらいいる?」
「わずかです。ほとんどが衰弱して……」
ベルンが答えを遮るように、マルコの低い声が響いた。
「ならまず『動ける奴』を増やす」
マルコは介護に当たっていた騎士団員たちへ向かい、腹の底から響く声を張り上げた。
その声は、沈滞していた空気の粒子を激しく震わせ、死の淵を漂っていた者たちの意識を力尽くで引き戻す衝撃を孕んでいた。
「動けない奴には林檎をすりおろして与えろ! 必要なのは糖と水分だ!」
騎士たちが驚愕に手を止め、一斉に振り返る。
だが、マルコは彼らに反論の隙を与えず、さらに怒号のような指示を重ねた。
「動ける奴には飯を食わせろ! 体力を戻せる奴から戻せ! 立てる奴を増やせ! これは戦場の鉄則だ!」
まくしたてる言葉の一つ一つが、混乱の中に「規律」という名の楔を打ち込んでいく。
弱った者から順に救うという慈悲ではない。
まず組織を再生し、救う側の手を増やすという、泥沼の戦いを知り抜いた者だけが辿り着く、情動を封殺した合理性。
騎士たちは、その命令の背後にある圧倒的な経験に気圧され、弾かれたように動き出した。
「……戦場の、鉄則……?」
ベルンが呆然と呟く。
彼が見てきた商人としての救済とは、あまりにも次元の違う、鮮烈な「戦」の論理がそこにはあった。
「言っただろう、オレはここの王族だ。先の大戦では最前線で指揮を執っていた。……まあ、当時は前線も後方もない状況だったがな……」
マルコの唇が、自嘲気味に僅かに歪む。
先の大戦において、最前線で指揮を執っていた過去。
その事実を静かに語るマルコの横顔に、ベルンはヴォルガンともアルベルトとも異なる、泥に塗れた王の威厳を見て息を呑んだ。
「ガメル! お前も動け! ヴォルガンが来た時に何もしてなかったと咎められたいのか!」
「はっ! ただちに!」
宰相としての矜持すら忘れたガメルは、慌てて林檎の詰まった籠へと駆け出した。
その必死さが、逆に周囲の騎士たちに、ここにはまだ機能すべき「規律」があることを知らしめていた。
マルコは動き出した人々の流れを視認し、ベルンへ向き直る。
「ベルン。お前が全権を持っているんだな? ガメルではなく」
「はい」
「なら、オレは現場の指揮を執る。お前は物資と人員の確保に集中しろ」
「はい!」
ベルンの瞳から、絶望の曇りが消え、その双眸に鋭い光が戻った。
自分の成すべき役割。
それを明確に定義された瞬間、人間は地獄の中でも一歩を踏み出すことができる。
軋む荷車の音、林檎を削る音、そして再び灯り始めた人々の意志。
ここはまだ地獄じゃない。
泥を噛み、腐敗した空気を吸いながらも、命を繋ごうとする意志がそこには灯っていた。
救援は来る。
そして何より、この地を見捨てない指導者が今、確かに泥濘の中に立っている。
見捨てられない限りは、ここはまだどん底ではない。
命を、尊厳を取り戻すための、名もなき兵士たちの戦いは、今始まったばかりであった。
不定期更新中
GW中にもう1話投稿できれば…




