第66話:ガーディス自治区、打ち捨てられた王族、本格的にマズいですよ
「……これは、マズイです! 今すぐ対策しないと壊滅ですよ!」
ガーディス自治区の石造りの重厚な城壁を越えた瞬間、ベルンの喉を突き上げたのは、悲鳴に近い警告だった。
視界を埋め尽くしたのは、王国のどこを探しても見当たらないはずの、生きた地獄が広がっていた。
鼻腔を蹂躙するのは、熱を帯びて発酵した排泄物と、腐敗し始めた有機物が渾然一体となった、肺の奥まで汚染する噎せ返るような臭気だ。
それはかつてメリーが木箱の上に立ったあの日のレグスですら、まだ「生」への執着があったと思わせるほど、死の停滞そのものだった。
足下は、数多の人間が踏み荒らし、泥と汚物が混ざり合った底なしの泥濘と化している。
一歩踏み出すごとに、粘りつく黒い泥が長靴を掴み、その下からは気泡と共に更なる生臭い沈殿が湧き上がる。
その泥濘の中に、無数の塊が転がっていた。
一見すれば、それは粗末な布切れを被せられた遺体の山に見える。しかし、その山の一部が不自然に痙攣し、喘ぐような微かな音を立てた時、同行した騎士たちは戦慄と共に足を止めた。
それは、住民だった。
かつて人間としての尊厳を持っていたはずの人々は、今や骨の形が浮き出るほどに痩せ細り、乾燥した皮膚はどす黒い土色に変色して、ただ生ける屍のような異形の姿で横たわっている。
落ち窪んだ眼窩の奥には、光を失った瞳が虚空を見つめ、自身の身体から垂れ流される排泄物の海に浸かりながら、死が訪れるのを事務的に待っているようだった。
生者と死者の境界は、この自治区において既に消失していた。
動く気力すら奪われた子供たちが、腐りかけた親の遺体に縋り付いたまま眠るように息を引き取っている光景は、戦場を知る騎士団員たちですら胃の腑を抉り、口元を覆わせるほどに凄惨だった。
「今すぐ王都に食料と人員を要請してください! 状況を正確に、いや、それ以上に悲惨だと伝えて構いません!」
ベルンの怒号が、死の静寂を切り裂く。
「わかった!」
返答した二人の騎士が、弾かれたように踵を返し、泥を跳ね上げながら馬へと走る。
その背中を見送る間もなく、ベルンは次なる指示を次々と叩きつけた。
「『海鳥』! 遺体を一箇所に集めてください。放置すれば疫病の巣窟になります。使われていない家屋を検分し、そこを仮の遺体置き場にしてください」
「承知!」
商会の制服に身を包んだ『海鳥』の娘たちが、感情を削ぎ落とした迅速な動作で、泥に塗れた遺体を引きずり始める。
ベルンは、その光景から目を逸らすことなく、震える拳を握りしめてガメルの方を向いた。
「ガメル宰相! あなたはこの地の出身だ。王族の居所を知っているはずです! 彼らに取り次いでください。これは我々だけで解決できる規模を遥かに超えている! 行政の機能が残っているなら、全てを供出させなければならない!」
「……承知しました」
ガメルは幽鬼のような足取りで、自治区の支配層が籠るであろう建物へと向かった。
ベルンは、視界の端で震えている騎士団員たちの肩を強く叩いた。
「騎士団は、まだ動ける住民をあそこの大倉庫に集めてください! おそらく麦を貯蔵するための場所です。そこを緊急の避難所にします。いいですか、休んでいる暇はありません! 清掃と収容を同時に行うんです!」
ベルンの号令により、騎士たちは泥に塗れた人々を抱き抱え、倉庫へと運び始めた。
運び込まれる人々は、重みをほとんど感じさせないほどに軽く、まるで枯れ木を運んでいるかのようだった。
倉庫の中では、ベルンの命令によって瞬く間に焚き火が熾され、大鍋で湯が沸かされ始めた。
「すぐに湯を沸かせ! 汚れた服を脱がせ、綺麗な布で体を拭くんだ! 衛生を確保しない限り、ここでは一晩で百単位の人間が死ぬ! 清潔な布と毛布を! 倉庫の隅まで掃き清め、少しでも土を、汚物を外へ出せ!」
騎士団長の怒号が飛ぶ。
騎士たちが剣を捨て、箒や雑巾を手に取って床を磨く。
かつて戦場で武勲を立てたであろう男たちが、涙を浮かべながら、排泄物に塗れた老人の体を拭う。
ベルン自身もまた、泥に膝をつき、呼吸さえままならない子供の口元に、湯で湿らせた布を当てた。
「騎士団長! 領地全体を見て回ってください。他の区画も、間違いなくこれと同じ、あるいはこれ以上の地獄になっているはずです。荷馬車を出してください! 放置されている住民を、強引にでもここに集めるんです!」
「ああ……だが、ベルン殿、物資が……」
「わかっています! だからこそ急ぐんです!」
ベルンは立ち上がり、国境の向こう側、帝国の空を見つめた。
「『海鳥』! すぐに西へ連絡を! アイゼンハイド侯爵領から緊急の物資を回してください! 一刻も早く!」
娘の一人が風のように馬を走らせる。
広場では細々と炊き出しの煙が上がり始めたが、それはあまりにも微力で、この巨大な死の渦を止めるには程遠かった。
ガメルは未だ戻らず、倉庫の入り口からは、意識を失ったまま運び込まれる住民たちの絶望的な呻きが絶え間なく聞こえてくる。
「騎士団長、二名僕に付けてください。帝国との国境に向かいます」
「帝国の……国境だと? ベルン殿、何を……」
「王国の救援だけでは間に合わないかもしれません。だったら次の手を打つ。帝国にも救援を要請します」
騎士団長が息を呑む。
かつての敵国に、独断で救援を求める。
それは本来、王国への反逆にも等しい行為だ。
「躊躇している暇はありません。僕は陛下から全権を託された委任状を持っています。ここで使わずに、いつ使うというんですか!」
ベルンが掲げた委任状には、鮮血のような国王ヴォルガンの玉璽が刻まれていた。
その断固たる意志に、騎士団長は深く頷いた。
「……承知した。私が行こう」
ベルンは『海鳥』の娘を見据え、短く告げた。
「『海鳥』、ここは任せます」
「はっ!」
泥を蹴り、ベルンたちは馬を走らせる。
背後で遠ざかる自治区の景色は、灰色の空の下でただひたすらに重く、呪われたように沈んでいた。
馬上でベルンは、自身の胸の内を激しく焦がす後悔に唇を噛んだ。
(……僕の見積もりが甘かった。視察報告の数値を信じ、これほどまでの惨劇を予見できなかった。これは、僕の失策だ)
だが、その自責の念が、逆に彼を突き動かす。
かつてレグスで、何もないところから立ち上がったメリーの背中を、彼は知っている。
そして、己にこの地を託した男の熱を、その拳の痛みを、今も覚えている。
(だが、このままここを壊滅させたりはしない。僕は陛下と約束したんだ。僕の全てを使ってここを復興する、と……!)
不退転の決意を宿した瞳が、死を拒絶するように国境の向こうを見据えた。
──────
分厚い鉄の重みが、騎士たちの肩を無慈悲に押し潰す。
ガーディス自治区と帝国を隔てるその門は、長きにわたる断絶の歳月を証明するかのように、分厚い錆の層に覆われていた。
湿り気を帯びた風と自治区内に充満する腐敗した熱気が、金属の隙間に入り込み、組織を内側から食い荒らしている。
「……くっ、動け! 頼む、動いてくれ!」
騎士たちが全身の筋肉を震わせ、泥に足を取られながらも門の閂を掴み、力任せに引き抜こうとする。
ぎり、ぎりと、金属が悲鳴を上げるような不快な音が静寂を切り裂き、剥がれ落ちた錆の破片が黒い泥濘へと吸い込まれていく。
それは単なる物理的な障壁ではなく、救済を拒む絶望の象徴であるかのように、ベルンたちの行く手を阻み続けていた。
ようやく閂が外れ、数人がかりで門を押し開くと、そこには自治区の惨状とはあまりにも対照的な、乾いた静寂が広がっていた。
一番近くの街までは、そう離れていない。
ここで疫病が発生した場合、あの街にも影響が出るだろう。
そして、その遥か彼方には、蜃気楼のように揺らめく帝都の城壁らしきものが微かに視認できる。
ベルンは長靴にこびりついた汚泥を振り払う余裕もなく、一歩、また一歩と帝国の領地へと足を踏み入れた。
だが、その歩みを止めたのは、風に乗って響く鋭い金属の交差音であった。
「止まれ! それ以上は帝国の領土だ。許可なき越境は認められない!」
砂塵の中から現れたのは、磨き上げられた銀の甲冑に身を包んだ、二人の帝国兵であった。
彼らの持つ槍の先は、迷うことなくベルンの胸元に向けられている。
しかし、その瞳にあるのは、かつての大戦で見られたような剥き出しの殺意ではなく、規律と警戒、そして隣国から流れてくる「死」に対する本能的な拒絶であった。
「帝国兵の方、中に入ってください。その目で見ていただきたいものがあります!」
ベルンは叫んだが、その声は乾いた荒野を抜ける風にさらわれていく。
「あ? それはダメだろう。国境警備の我々が国境を侵すわけにはいかん。ましてや、今は特段の指示も受けていない」
帝国兵の声には、官僚的な頑迷さが宿っていた。
彼らにとって、目の前の男がどれほどの悲痛な形相をしていようとも、それは規律の範疇を超える事にはなりえない。
「そんなことを言っている場合じゃありません! 今すぐにその目で確認してください! このままでは取り返しのつかないことになる!」
「言い分はわからんでもないが、我々には我々の命令がある。勝手な行動は軍法会議ものだ。貴様らが何を抱えていようと、まずは正式な書状を持って砦へ向かうべきだろう」
警備兵は、槍を構えたまま一歩も退こうとはしない。
一分一秒を争う状況下で、彼らが守ろうとしているのは人の命ではなく、守られるべき「規則」という名の停滞であった。
ベルンは、門の向こう側から漂ってくる饐えた臭気と、今この瞬間にも尽きようとしている人々の吐息を背中に感じ、奥歯を噛み締めた。
騎士団長が説得のために前に出ようとするが、それさえも帝国兵は「武力の誇示」と見なし、槍の穂先をさらに鋭く突きつける。
この膠着状態が、どれほどの命を削っているのか、彼らは理解しようともしない。
「手続きの話はもういい! あなたたちは、この風に乗ってくる臭いを感じないんですか? これが何を意味しているか、わからないはずがないでしょう!」
ベルンは自らの指で、開かれた門の奥を指し示した。
「自治区内では既に死者が溢れ、埋葬も追いついていない。このまま放置すれば、確実に疫病が発生します! そうなれば、帝国にも被害が及ぶかもしれない。病に国境なんて関係ないんですよ!」
ベルンの気迫に、警備兵の一人が微かに眉をひそめた。
彼は躊躇うように相棒と視線を交わし、槍を下ろさないまま、慎重な足取りで門の入り口へと近づいた。
そして、その鼻腔を門の内側から溢れ出した濃厚な死臭が突いた瞬間、兵士の顔は土色へと変わった。
そこには、泥濘の中で死体と区別がつかないほどに痩せ細った人々が、排泄物の中に横たわっている光景があった。
それは人間の住む場所ではなく、ただ「死」という現象が事務的に進行している、巨大な掃き溜めのような有様であった。
「……っ! これは……あ、ああ。確かにこれはマズイ状況だな……。想像以上だ」
「わかったなら急いでください! 今すぐ、エルフィリア皇帝に支援を要請してください! 貴国にとっても、これは重大な脅威になるはずだ!」
ベルンの言葉に、帝国兵は圧倒されたように頷きかけたが、すぐにその表情には官僚特有の困惑が戻った。
「いや、言っていることはわかる。その判断は正しい。だが、皇帝陛下にそのまま話を持っていけるかというと……我らのような末端の兵が、そのような外交上の問題を独断で上奏することなど不可能なのだ」
「なら、これを! これを見てください! 王国のヴォルガン陛下の委任状です!」
ベルンは懐から、一通の書状を取り出した。
それは、国王直筆の署名と、鮮血のような玉璽が刻まれた、国家の全権を裏付ける証であった。
帝国兵はその書状を覗き込み、そこに刻まれた権威の重みに息を呑んだ。
「……っ! ヴォルガン国王の直筆の委任状? ……ベルン? その名前は……西の大商人の……」
兵士の瞳に、ようやく「個人」としての認識が宿る。
それは単なる隣国の役人への敬意ではなく、かつて飢饉を救い、帝国の経済にも深い影響を与えた伝説的な商人に対する、驚愕と畏怖であった。
「僕の名前を知っているんですか? でしたら話は早い。サフィアン・エルフィリアを通して、皇帝陛下に支援要請をお願いします。彼なら、僕の言葉の意味を即座に理解するはずだ。急いで!」
サフィアン・エルフィリア。
帝国の元第二皇子であり、経済を重んじるその名は、今や両国を繋ぐ数少ない希望の架け橋であった。
「わかった。君の名前を使わせてもらうぞ、ベルン殿。……おい、お前はここで警戒を続けろ! 私は砦へ走る! 事情が事情だ、馬を潰してでも上官に伝える!」
帝国兵の一人が、弾かれたように背後の馬へと駆け寄り、砂塵を上げて荒野へと消えていった。
その背中を見送りながら、ベルンはようやく、肺の奥に溜まっていた濁った空気を吐き出した。
「お願いします。ここの門は開けておきます。僕の名前を使って出入りしてください。一刻も早く、物資と人員を!」
残された兵士に対し、ベルンはそれだけを告げると、再び死の沈殿する自治区の内側へと踵を返した。
ようやく外交的な道筋を一つ切り拓いたが、戻った先で待っていたのは、さらに深刻さを増した地獄の続きであった。
倉庫の周囲には、運び出されるのを待つ遺体が山を成し、その周囲を無数の銀蠅が黒い雲のように覆っている。
「死体を燃やさなければなりません。いつまでもここに置いておけば、そこから病が湧き出します。適した場所を見つけましょう」
ベルンの声には、先ほど帝国兵に向けた気迫とは異なる、ひび割れたような疲労が混じっていた。
「鉄を掘っていた鉱山跡があるはずだ。そこはどうだ? 」
騎士団長が、苦渋に満ちた表情で提案する。
「ありですね。見に行きましょう」
ベルンは、泥に沈む靴の重みを感じながら、再び歩き始めた。
やる事は山積みだ。
遺体の処理、生存者の隔離、衛生環境の改善。
だが、この限られた人員と欠乏した物資の状況では、どれもが溢れ出す濁流を指先で止めようとするような、虚しい対症療法でしかなかった。
すべては救援物資と人員が揃わないと、本当の意味での救済など不可能なのだ。
ベルンは、遠く国境の向こう側で上がるはずの砂塵を、祈るような思いで待ち続けていた。
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石造りの倉庫の入り口から差し込む鈍色の光が、埃の舞う冷たい空間を斜めに切り裂いている。
そこには、外の泥濘から運び込まれた住民たちの、腐った有機物と乾いた絶望が混ざり合った異臭が、低い雲のように澱んでいた。
高い天井に反響するのは、死を待つ者たちの途切れがちな呼吸と、外を飛び交う銀蠅の不吉な羽音ばかりである。
ベルンは、泥に汚れた長靴の耐え難い重さを引きずるようにして、広場から戻ったばかりの騎士団長と共に、入り口付近で足を止めた。
そこで二人を待っていたのは、数名の騎士を伴い、今しがた自治区の中枢である王族の居所から戻ったばかりのガメルであった。
かつて王宮において有能な策士を気取り、薄氷を履むような権謀術数の中でさえ余裕を湛えていたその顔には、今は見る影もなく焦燥の影が張り付いている。
整えられていたはずの外套は返り血か泥か判別もつかぬ汚れに塗れ、その瞳は定まらず、絶え間なく自身の安全を確認するように左右へと泳いでいた。
「ガメル宰相。どうでした? 王族の方にはお会いできましたか?」
ベルンの問いかけに対し、ガメルはすぐには言葉を返さなかった。
彼は荒い呼吸を整えようと試みるが、その指先は隠しようもなく震え、腰の帯に縋るようにして辛うじてその場に立っていた。
その姿は、自身がこれまで拠り所としてきた血筋や権力、あるいは旧時代の秩序という名の虚飾が、一瞬にして無意味な塵と化した現実を突きつけられた小物の狼狽そのものであった。
乾いた唇を何度か動かした末に、ようやく出たのは、この世の終わりを告げるかのような湿った呟きであった。
「……全員死んでいた」
絞り出されたその一言は、死の静寂に沈む倉庫の中に、冷たく重い質量を伴って響き渡った。
ベルンは一瞬、自分の聴覚が機能不全を起こしたのかと疑い、それから雷に打たれたように全身を硬直させた。
自治区の王族との交渉による行政機能の回復こそが、この溢れ出す地獄を止めるための救済の起点であると考えていたからだ。
「……なっ!」
絶句するベルンの耳元で、ガメルは吐き捨てるように言葉を続けた。
その声には、事態が自身の管理能力を完全に逸脱し、取り返しのつかない破滅へと転がり落ちたことへの、剥き出しの呪詛が混じっている。
「この状況だ。おそらくは、飢饉に耐えかねた住民による、無秩序な暴動だろうな……。ただの略奪の果ての出来事だ。王族は全員が一方的に斬り殺され、その死体は晒されるでもなく、打ち捨てられていた……」
ガメルの説明によれば、その最期はあまりにも無惨で、かつ機械的な排除に近かったという。
通常の反乱であれば、王族の遺体は憎悪の象徴として広場に晒されたり、何らかの政治的な見せしめにされたりするのが常である。
しかし、ここで行われたのは、そのような意志のある復讐ですらなかった。
ただ飢えと渇きに脳を焼かれた民草が、目の前にあるわずかな食料や金品を奪い取る際、その邪魔な障害物をどかすためだけに、家畜を屠るような無関心さで刃を振るったのだ。
それは組織的な略奪というよりも、崩壊した精神が生み出した、盲目的な破壊の爪痕であった。
尊厳も名誉もなく、ただそこにある不必要な肉塊として放置され、銀蠅の苗床と化した王族の骸。
その光景は、この地の秩序が根底から腐り果て、もはや修復不可能な段階に達していることを、これ以上ないほど雄弁に、そして残酷に物語っていた。
ベルンは目眩を覚え、視界が歪むのを感じた。
「……マズイ、マズイですよ。本格的にマズイ。この状況で王族がいないなんて……。生きる気力を失った住民を導く人物がいないのは本当にマズイ……」
ベルンの独白は、次第に呻きのような呪詛へと変わっていった。
行政を司るべき者たちが一掃された今、この自治区は巨大な死体となって転がっているに等しい。
混乱の極みにある数万の民衆に、誰の言葉であれば届くというのか。
ベルンは、石材が剥き出しになった倉庫の高い天井を仰ぎ、そこにあるはずのない神への恨みを募らせた。
国王ヴォルガンから託された全権委任の紙を握りしめるその手が、自身の無力さと、背負わされた責務のあまりの重さに震える。
どれほど天を呪ったところで、失われた命が戻ることはなく、解決策が奇跡のように降ってくることもない。
自身の見積もりの甘さと、この地の深淵を見誤った代償が、一分ごとに消えゆく命という形で彼に突きつけられている。
「ベルン殿、できないものは仕方がない、できることをやろう。あとは救援が来るのを待つしかない」
背後からかけられたのは、死線を幾度も潜り抜けてきた武人による、岩のように揺るぎない叱咤であった。
騎士団長は、震えるベルンの肩に、泥と錆にまみれた重厚な籠手を置いた。
ベルンの瞳に宿る焦燥、あるいはこの絶望的な地をすべて一人で背負い込もうとする危うさを、彼は静かな、しかし確かな敬意を込めた眼差しで見つめていた。
王の委任状を盾に、敵国への救援要請という越境的な判断すら即座に下したこの商人を、ここで絶望に屈させ、折れさせるわけにはいかない。
ここで彼が膝をつけば、この地に残されたわずかな希望の灯も、完全に吹き消されることになるのだ。
「……ええ、そうですね。延命措置でも、やらないよりはマシです。騎士団長の言う通りだ。僕たちに今できる最善を、全力でやりましょう」
ベルンは、自身の声を強引に腹の底から絞り出した。
絶望に飲み込まれ、足を止めることこそが、今この瞬間も汚物と泥の中で喘いでいる人々への、最大の裏切りとなる。
彼にはまだ、国王ヴォルガンとの約束が残っている。
自分の持てるすべてを使い、この地を復興させるという、拳に刻まれた痛覚と共に交わした不退転の誓いがある。
ベルンは、濡れた長靴で再び一歩、深く泥に沈む足下を確かめるようにして踏み出した。
そこに明るい未来があるからではなく、ただ自分が止まることを自分自身が許さないという、苛烈な執念だけを灯火にして。
絶望しかないガーディス自治区の静寂の中で、商人は死を拒絶するための戦いを、再び開始した。
これが地獄だと、ただ無力に諦めるわけにはいかないのだ。
始まりました、ガーディス自治区復興編
もちろん、『鉄屑の誓い』駆逐の話と並行ですし、関連してます




