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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第65話:張り込み、メリーちゃんの独り占め反対、黒か白かそれ以前の問題か

「あれ、どう思います?」


 春の陽光が、レイモンド領の乾いた街道を白く照らし出していた。

 人々の喧騒が石畳のあちこちで跳ね返り、市場の熱気と共に埃っぽい風が路地へと流れ込んでくる。

 没個性的な商会の制服を纏い、街の風景に完全に同化した少女が、隣の影に潜む同僚へと微かに唇を動かした。

 視線の先にあるのは、どこにでもある古びた八百屋だ。

 店先には春を告げる瑞々しい青菜や、泥の付いたままの丸芋が雑然と籠に盛られている。

 使い古された看板は陽光に晒されてひび割れ、時折あがる店主の威勢の良い声だけが、その一角を活気づけていた。

 だが、その一見して平穏な営みを、少女たちの鋭い視線が射抜いていた。

 店主である八百屋の親父は、西側の闇を束ねる男から直接、監視の命が下された組織のリーダー候補だった。

 この三年の月日、彼女たち『海鳥』の娘たちは交代で、その男の背中を見守り続けてきた。


「怪しいといえば怪しいけど、決定的かといえばそうでもない……」


 別の影から、同僚の少女が吐息混じりに応じる。


「そうなんですよね。たまに集会? 会合? に行っているかと思えば、『メリーちゃん画集』の話で盛り上がってるし……」


 潜入調査の過程で耳にした密談は、国家を揺るがす陰謀などではなく、幼き淑女の美しさを讃える熱狂的な称賛であった。

 本来ならば王国の膿として切除されるべき組織の影を追っているはずが、突き当たるのは常に、自分たちが崇拝する主への、度を越した信仰の形だった。


 彼女たちの視線は、店内の神棚へと向けられた。

 そこには、今や王国の隅々にまで浸透している『お出かけメリーちゃん人形』が、慇懃な様子で安置されている。

 薄桃色の髪をなびかせたその愛らしい意匠は、商売繁盛を願う護符として、この街の至る所に飾られていた。


「そして、店の神棚に祀ってある『お出かけメリーちゃん人形』。商売繁盛、家内息災だっけ?」


「魔除けの効果もあるらしいですよ」


「実物のメリー様を知っていると、魔除けの効果は信憑性があるわね」


 少女は、春の風に混じる土の匂いを吸い込みながら、神棚の人形を見つめた。

 かつて主が見せた圧倒的なまでの苛烈さ。

 それは確かに、不浄なるものを焼き払うような、静謐でいて残酷な神性に満ちていた。


「魔除けの話は問題じゃないです。八百屋の親父が『鉄屑の誓い』か? ですよ。私はあの親父が『鉄屑の誓い』のリーダーで間違いないと思っています」


 少女は確信を込めて断じるが、その声にはわずかな焦燥が滲む。

 確かな証拠は何一つとして積み上がっていない。

 ただ、長年の諜報活動で培われた肌を刺すような直感だけが、その男の背後に潜む闇を告げている。


「私たちだけじゃ判断できなくない? ジャックさんの判断を仰いだほうが……」


「ええー……? あの人、メリー様全肯定じゃないですか。これ、そのまま報告したら、一も二もなく善良な市民判定ですよ。きっと」


 少女が肩を竦める。

 指揮官である男は、その鋭すぎる知性を、主という存在に対してだけは麻痺させていた。

 彼にとって、主を崇拝する者はすべて、護られるべき教徒と同義であった。


「それね……。あんなに優秀なジャックさんの唯一の弱点よね」


「弱点……、というか、唯一の変な部分ですね。オカシイというか何というか……」


 一分の隙もない暗殺者としての貌を、時折見せる過剰なまでの自意識と、主への盲目的な心酔が上書きしてしまう。

 その滑稽なまでの落差は、部下である彼女たちにとって、尊敬と困惑の入り混じる複雑な感情の源となっていた。


「あ、ちょっと! 八百屋の親父、出かけるわよ」


 店先の賑わいが収まり、日が大きく傾き始めた頃、男が店の奥から現れた。

 商売道具の質素な上着を脱ぎ捨て、従業員に短い言葉を残して歩き出す。


「レイモンド伯爵のところに行くようなら決定的なんですけどね。『メリーちゃん』愛好家の会合だったら尾行しても無駄足ですよ」


「その無駄足も私たちの仕事よ。ほら、行くわよ」


 影から影へと、少女たちの身体が春の街角に溶けていく。

 没個性な制服は、行き交う群衆の中に一瞬で沈殿し、音もなく男の背後を追う。

 男が向かった先は、領主の館ではなく、路地の奥にある埃っぽい場末の酒場であった。

 染み付いた安酒の臭いと、脂ぎった油の煙が漂い、粗野な男たちの怒号が漏れ聞こえてくる不潔な空間だ。


「ああー、また酒場か。こうなると私たちは入れないから困るわよね」


「なんで『海鳥』は女の子しかいないんでしょうかね。こういう場所に入れないのは問題だと思うんですけど」


「ジャックさんの趣味なんじゃない?」


「趣味って……。あるかもしれませんね。いや、その可能性は大いにありますね」


「成人してる『海鳥』もいるんでしょ? 守備範囲が広いのかしら……」


 少女たちの会話は、潜入不能な障壁を前に、必然的にその組織の成り立ちへの疑念へと向かう。

 女性のみで構成された部隊。

 それは時に強力な武器となるが、こうした場末の探索においては、致命的な制約となっていた。


「『海猫』班の赤毛の姉さんは成人してるんで、こういう場所にも入れそうですね」


 二十歳を数えたという、赤毛の班長。

 その卓越した身のこなしと、成熟した女としての体躯を持つ彼女ならば、あるいはこの泥臭い酒場にも馴染めるかもしれなかった。


「いやダメでしょ、赤毛の姉さんは目立ちすぎるわ。あの髪も肉体も……」


「ああ、わかります。あんな場所に入ったら注目の的になりそうです。それどころか、貞操の危機ですね」


「秘密を探るどころか、人に言えない秘密をいっぱい作られちゃうわよ」


「キャー、エッチ!」


「あんたが言ったんでしょ? 貞操の危機って」


 軽口を叩きながらも、彼女たちの瞳は酒場の入り口から離れることはない。

 夕闇が路地を濃く塗りつぶし始める中、さらに一人の男が酒場へと吸い込まれていった。


「あの男、先日の……」


「アレですよね、『メリーちゃん画集』をしわくちゃにされて半泣きになってた……」


 かつての会合で、宝物の画集を汚された絶望に顔を歪めていたあの男。

 彼もまた、リストに記載された有力な監視対象の一人だった。


「そう、リストの監視対象。……あ、あの男の監視役も来たわ。合流する?」


「やめときましょう。怪しまれます」


 街灯が灯り、レイモンド領の街並みが薄暗い影に包まれていく。

 国家を覆さんとする組織の牙は、未だにその尻尾すら見せない。

 こうして、成果のない監視が今日も続くのだった。


     ──────


 埃っぽい風が吹き抜けるレイモンド領の片隅に、その酒場はひっそりと店を構えていた。

 使い古された厚い木扉は歳月に晒されてひび割れ、看板の文字は判別もつかぬほどに掠れている。

 扉を開ければ、そこには安物の油が焼ける臭いと、酸え切った酒の香りが泥のように沈殿していた。

 日の光を拒絶したような薄暗い店内の奥、ガタつく丸テーブルを囲む四人の男たちがいた。

 一見すれば、街のどこにでもいる辛気臭い労働者だ。

 泥に汚れた上着、荒れた指先、そして活力の失せた瞳。

 だが、彼らが杯を傾ける所作には、一般の民草にはない研ぎ澄まされた不穏な静寂が宿っていた。


「どうだ? 『メリーちゃん』は、メリュジーヌ・ギルガルドだったか?」


 リーダー格の男が、濁った酒を飲み干し、低く呟いた。

 その声は喧騒に紛れながらも、卓を囲む仲間たちの鼓膜だけを正確に捉える。


「はい。裏を取りました。一時期、ギルガルド家の当主をやっており、領地の面々にそう名乗ったそうです」


 メンバーの男が、周囲を警戒しながら声を潜めて応じた。

 店の壁際に、西側から供給されている丸芋の袋が置かれている。

 袋の表面には、誰からも愛されるような愛らしい少女の似顔絵が大きく印刷されていた。


「やはりそうか。……名乗った? 西では周知の事実なのか?」


「そのようです。西は、徹底した情報統制が敷かれているようですね。外部には漏れていないようです」


 リーダーは、手元の杯を弄びながら、皮肉な笑みを浮かべた。

 窓の外を見れば、街道を行く商人の馬車にも、子供が抱える包み紙にも、あの桃色の髪の少女の意匠が溢れている。


「いや、みんな『メリーちゃん』の素性を知ろうとしていないだけだろう? 西からの食糧に印刷されているメリーちゃんを知らないヤツはいないだろうし、食糧輸送に同行して各地を飛び回っているだろう?」


 それは、もはや隠しようのないほど巨大な事実だ。

 だが、人々はその背後にある政治的な血脈よりも、目の前にある温かな食糧と、それを届ける愛らしい偶像を信じる道を選んでいる。


「『メリーちゃん』という記号の強さが、逆に本人の素性を隠している。恐ろしいですね」


 男は、丸芋の袋の似顔絵を見つめ、溜息を漏らした。

 あまりに強烈な光を放つ記号は、時に本人の実在感を塗り潰し、都合の悪い真実を闇へと葬ってしまう。


「まあいい、いや、良くないが……。これで『メリーちゃん』がセレスタインの生き残りであることが分かった。……消すか?」


 リーダーが、義務を果たすための淡々とした口調で、不穏な選択肢を提示した。

 工作員として、それは避けて通れぬ判断のはずだった。

 しかし、その言葉が投げかけられた瞬間、卓の空気が凍りついた。


「王国の至宝『メリーちゃん』を消すなど、人類にとってどれだけの損失になると……」


「ぶっ!」


 リーダーが、口に含んでいた安酒を盛大に吹き出した。

 隣の男の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。

 そこにあるのは、任務への忠誠心などではなく、偶像に対する剥き出しの、そして狂信的な崇拝であった。


「おい! 本気で言って……ああ、その顔は本気だな……」


 リーダーは背もたれに深く寄りかかり、諦めにも似た顔で残りの酒を煽った。

 自らの組織さえもが、少女が撒き散らした熱狂という名の毒に侵されている現実に眩暈を覚えた。


「現在、メリーちゃんはデムハイトにいます。アルベルト殿下とジャックもです。レグスを攻めるのならば今が好機かと」


 一人のメンバーが、崩れかけた話し合いを強引に引き戻そうと、新たな情報を差し出した。


「デムハイトに放った密偵はどうした? 狩られたか?」


「我らが放った密偵は狩られました。レイモンド伯の放った密偵が持ち帰った情報です」


「狩ったのはジャックか?」


 ジャック。

 西に潜む、元王国諜報部の影務官の名が、酒場の湿った空気を震わせる。


「いえ、ヴォルガン陛下です」


「「「……!」」」


 そこにいた全員が、あまりの予想外の名前に息をのんだ。


「なんだと!? メリーちゃんとヴォルガンが繋がっているのか?」


 リーダーは反射的にテーブルを叩き、身を乗り出した。

 木材が悲鳴をあげ、不快な音が酒場に響き渡る。

 だが、その衝撃は思わぬ方向へと波及した。


「なに!? その話は本当か?」


 隣のテーブルで、所在なげに酒を飲んでいた見知らぬ客が、椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がった。


「なんだって? 陛下とメリーちゃんがくっつく? 陛下もついに妻を娶るということかい?」


 煮込み料理の皿を運んでいた給仕の女が、即座に足を止め、血相を変えて食いついてきた。


「ふざけるな! いくら陛下だろうとそれは許されないぞ!」


「暴動が起きるぞ!」


「国王といえど、やって良いことと悪いことがある!」


 店内にいた客たちが次々と立ち上がり、怒号と悲鳴が酒場の薄暗い天井へと跳ね返る。

 国家の転覆を企む秘密会議の場は、一瞬にして『メリーちゃん』の結婚疑惑を巡る民草の暴動寸前の集会所へと変貌を遂げた。


(いや、王家の人間とセレスタインの人間が結婚するのは良いことだろう……)


 本来、王家の血筋と、王家と対を成す公爵家の血筋が結ばれることは、王国の正統性を保つ上での最善であるはずだった。

 あまりの熱狂に、リーダーの男はあきれ顔でナッツを口に放り込んだ。

 彼らが叫んでいるのは、政治的な利害などではない。


「王都で反対運動をしよう! メリーちゃんの独り占め反対!」


「メリーちゃんを独り占めするな!」


「王家の横暴を許すな!」


 怒れる客たちは拳を突き上げ、もはや給仕さえもが彼らと肩を組んで叫び声をあげている。

 秘密組織としての対話は、完全に霧散した。

 少女の放つ眩しすぎる熱狂は、陰謀さえも飲み込む巨大な濁流となって、この街の隅々まで荒れ狂っていた。


(ああ、こうなると話ができん……今日はここまでか……)


 もはや様式美となりつつある光景に、リーダーはがっくりと項垂れた。

 春の夜が更けていく中、酒場に響き渡るのは、少女への歪んだ愛と、それを独占しようとする権力への、滑稽なまでの怒りの唱和であった。


     ──────


 デムハイト領の夜は、春の冷気を孕んだ静謐な帳に包まれていた。

 奪還したばかりの伯爵邸、その重厚な執務室では、主人の不在を嘲笑うかのような光景が広がっている。

 本来ならば領主が座るべき執務机には、気品ある意匠のドレスを纏ったメリーが、当然のような顔で腰を下ろしていた。

 彼女は白磁の杯に注がれた紅茶を、優雅な所作で唇へと運ぶ。

 その隣には、燃えるような赤毛を揺らした『海鳥』の娘が、影と同化するかのように控えていた。

 執務机の前のソファには、眉間に深い皺を刻んだジャックが深く沈み込み、その前には二人の『海鳥』の娘たちが、報告のために直立している。


「リストのメンバーに張り付いて三年、ここまで成果が出ないとは……」


 ジャックが漏らした吐息は、執務室の静かな空間に重く沈殿した。

 彼が心血を注いで作り上げた監視網は、西側の平穏を守るための盾であったはずだ。

 だが、その盾が弾き返してくるのは、常に拍子抜けするような日常の断片ばかりであった。


「それなんですけどね、九割がた『黒』だと思うんですよ。でも……」


 報告に当たっていた娘が、困惑を隠しきれない様子で言葉を濁した。

 長年の諜報活動で培われた彼女たちの直感は、対象の男が抱える歪な闇を確かに捉えている。

 しかし、その確信を打ち砕く決定的な不確定要素が、常に彼女たちの足を止めていた。


「残りの一割は何だ?」


 ジャックが鋭い視線を投げかける。


「『メリーちゃん』です」


「ぶっ!」


 静謐な室内を、無作法な水音が切り裂いた。

 驚愕に目を見開いたメリーが、口に含んでいた最高級の紅茶を盛大に噴き出したのである。

 水飛沫が執務机の書類を濡らした瞬間、隣に控えていた赤毛が、台拭きで机の上を乱暴に拭き上げる。

 そしてその勢いのまま、濡れたメリーの顔面を、無造作に、かつ力任せに拭い去った。

 台拭き特有の、わずかに生乾きのような臭いと紅茶の渋みがメリーの鼻腔を突く。


「な、何をするのよ、この赤毛!」


 主への敬意など微塵も感じられない赤毛の仕草に、メリーが憤慨して身を捩る。

 だが、そんな騒動を無視するように、報告役の娘は淡々と話を続けた。


「今日も、酒場で集まった男たちと、『メリーちゃんとヴォルガン陛下の結婚反対!』と騒いでいました」


「何よそれ! なんで私とヴォルガンが結婚するなんて話になってるのよ!」


 メリーの叫びが、夜の執務室に木霊した。

 想定外すぎる単語の羅列に、彼女の端正な顔立ちは屈辱と混乱で赤く染まっている。


「メリー様は、セレスタイン公爵になられるんですよね? アステリア王家のヴォルガン陛下と結婚するのは自然な流れでは……?」


「しないわよ! ……というか、ヴォルガンはそんなことを考えて、私をセレスタイン公爵に……?」


 メリーは戦慄し、己の身を守るように自身の身体を抱きしめた。

 あの不敵な笑みを浮かべる国王の真意が、もしや自身の自由を奪うための壮大な政略であったのかという疑念が、背筋を凍らせる。


「ご安心ください、メリー様。そのような暴挙はこの私が許しません」


 ソファに座るジャックの瞳に、暗く、澱んだ光が宿った。

 それは主を守る忠誠心というよりも、自身の聖域を侵そうとする者への、剥き出しの独占欲に近いものであった。


「あの……、報告の続きを……。私たちは判断に迷っているので、ジャックさんに相談をしたくて……」


 場の空気に耐えかねた娘が、恐る恐る口を開く。


「残りの一割の話か。詳しく話せ」


 ジャックが声を低め、情報の精査へと意識を切り替えた。


「私は、八百屋の親父が『鉄屑の誓い』のリーダーだと踏んでいます。ですが、店の神棚に……」


 言い淀んだ彼女の代わりに、もう一人の『海鳥』の娘が、続きの報告を引き継いだ。


「『お出かけメリーちゃん人形』を祀っています。開店時に神棚に手を合わせている姿を何度も見ています」


「『黒』よ! そいつが『黒幕』で確定よ! 呪いの人形を祀るなんて、黒ミサ以外の何物でもないじゃない! 怪しいにも程があるわ!」


 メリーが立ち上がり、机を叩いて断言した。

 自身の姿を模した人形を『呪いの人形』と言ってしまうあたり、彼女にとって、それは嫌悪対象以外の何物でもなかった。


「『白』ですな。善良な一般市民に間違いありません。警戒レベルを引き下げましょう」


 だが、ジャックが下した結論は、メリーの叫びを真っ向から否定するものだった。

 彼の表情からは、先ほどまでの不穏な光が消え、慈愛に満ちた平穏な笑みさえ浮かんでいる。


(予想はしてましたけど、やっぱりこうなるんですね……)

(本部には、まともな判断を下せる人間はいないの?)


 報告に来た二人の娘たちは、深く重いため息を漏らしながら、互いに顔を見合わせた。

 長年の苦労が、主従の歪んだ価値観によって霧散していく虚脱感が、彼女たちの肩に重くのしかかる。


「『メリーちゃん人形』を祀る人間に悪人はおりません!」

「なんで本人の私より、人形の方が正義なのよ!?」


 その絶叫は、冷え始めた執務室の空気を激しく震わせた。

 机を叩くメリーの白い指先が、微かな振動と共に白磁の杯を揺らす。

 対するジャックの貌は、聖画の如き静謐な確信に満ち溢れていた。

 彼の瞳には、目の前の主さえも上書きするほどに強固な、偶像という名の「善性」が焼き付いている。

 主従の視線が激突し、火花を散らすその傍らで、報告に訪れた娘たちは揃って深く項垂れた。

 彼女たちが命を懸けて潜り込み、掬い上げてきた不穏な情報の数々は、この不毛な問答の濁流に飲み込まれ、一滴の雫へと瓦解していく。


 窓の外では、春の月光がデムハイトの屋根を冷たく、しかし静かに撫でている。

 デムハイトを包む帳は一段とその色を濃くし、夜はただ静謐に更けていくのだった。


不定期更新中

GWの予定も未定

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