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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第64話:閉塞感、観覧料なき歌劇、名誉ある死を与える純白の死神

 「知っているとは思うが、デムハイトが落ちた。西の連中の仕業らしい」


 レイモンド伯爵の、ひび割れた古木のような声が執務室の重苦しい静寂を震わせた。

 分厚い帳に閉ざされた室内には、澱んだ空気と共に沈殿したインクの匂いと、長年積み上げられた紙束が放つ乾いた塵の気配が充満している。

 わずかな隙間から射し込む斜光が、宙を漂う埃を白く浮き上がらせ、三人の男たちの顔に刻まれた深い絶望の影をより一層際立たせていた。

 白髭を震わせるレイモンドの視線の先には、硬直したまま動かない二人の貴族があった。


 「お前のところも、今頃襲撃されているかもな。帰らない方が良いんじゃないか? ヘルムート」


 メルキオール子爵が、オールバックに整えた黒髪の端を指先でなぞりながら、どこか他人事のような響きを伴って告げた。

 その瞳には、合理主義者特有の冷めた光が宿っている。


 「冗談はやめろ! そもそも兵を配備してある。そんな簡単に落とされてたまるか」


 若きヘルムート男爵が、椅子を激しく鳴らして立ち上がった。

 荒い呼吸が室内の空気をかき乱し、握りしめられた拳は白く震えている。

 彼が纏う豪華な外套の金糸が、微かな光を弾いて虚しく輝いた。


 「アルベルト殿下なんだろう? 西の指揮をしているのは。ということは、辺境伯軍がついているということだ。侮ってはいかんぞ」


 レイモンドの声は重く、湿っている。

 かつて王国騎士団最強と謳われた男の名を口にすることさえ、今の彼らには毒を飲むに等しい苦痛であった。

 王国の誇りそのものであったはずの剣が、今や自分たちの喉元を正確に狙う刃と化している事実に、老伯爵は深い溜息を漏らす。


 「こちらから打って出られないのですか?」


 メルキオールが地図の上に指を置いた。

 その指先は、絶望的なほどに閉ざされた地形をなぞる。


 「どこに打って出ろというのだ。辺境伯領か? アイゼンハイド領か?」


 レイモンドの問いに、室内の温度がさらに下がった。

 沈黙という重圧が、三人の肩に伸し掛かる。


 「……くっ! 忌々しい西の連中め。西の本拠地はどこなんだ?」


 ヘルムートが吐き捨てるように問い、壁に掲げられた紋章を睨みつけた。


 「港町レグスだろう。辺境伯領やアイゼンハイド領は西の協力者の一部でしかない」


 メルキオールの冷静な分析が、ヘルムートの焦燥に冷水を浴びせる。

 港町レグス。

 西の果ての辺境の港町が、今や王国を揺るがす巨大な心臓部となっている事実は、彼ら貴族にとって認めたくない悪夢であった。


 「攻め込むか? 可能だと思うか?」


 レイモンドが、縋るような眼差しをメルキオールへと向けた。


 「不可能、としか言えません。辺境伯領を抜けて陸路で? アイゼンハイド領を抜けて海路で? どっちも無理でしょうね」


 メルキオールは地図を払い、椅子に深く身を沈めた。

 活路という名の糸口は、どこにも見当たらない。


 「守るだけでは勝てない。こちらから打って出る必要があるのは明白だ」


 ヘルムートが吠えるが、その声は空虚に執務室の壁に跳ね返るだけだった。


 「ああ、そうだな。どれだけの兵力でどこを抜けるか。海と山に囲まれたレグスを攻めるのは容易じゃないぞ」


 レイモンドは震える指で、卓上の紙束を整理しようとしたが、その手は虚空を彷徨う。

 その時、重厚な扉が控えめに叩かれた。

 入室してきたレイモンドの執事の顔は、死人のように青ざめている。


 「旦那様、『鉄屑の誓い』から連絡が入りました」


 執事の声が、室内の澱んだ空気を切り裂いた。


 「ほう、このタイミングで、か。彼らの放った密偵は全員狩られたわけではなかったのだな。して、報告内容は?」


 レイモンドが身を乗り出す。

 その声には、この行き詰った状況を打開する情報が得られるかもしれない、という期待が滲む。


 「デムハイト領にはアルベルト殿下と辺境伯軍数百、ヴォルフスブルク軍数百、アイゼンハイド軍数百、合わせて千程度の兵が駐留しています」


 執事の言葉に、メルキオールが鼻を鳴らす。


 「まあ、そうだろうな。辺境伯軍を数千連れてきていないということは、領主の館を強襲する作戦なんだろうな」


 「恐らくそうであるかと。領主の館近辺の石畳の上では騎馬は役に立ちませんからな」


 執事が淡々と応じるが、その額には脂汗が滲んでいた。


 「で? その程度の情報しかないのか?」


 レイモンドが苛立ちを露わにする。

 だが、執事の次の言葉は、その場の全員の思考を完全に停止させる破壊力を伴っていた。


 「西の進軍を指揮しているのはヴォルガン陛下です」


 「「「……!」」」


 執務室に、落雷を受けたような衝撃が走った。

 レイモンドの指先から紙が滑り落ち、ヘルムートの顔からは一切の血の気が引いていく。


 「なん……だと……?」


 レイモンドの声は、もはや言葉の形を成していなかった。


 「……おいおい、陛下が?」


 ヘルムートが掠れた声で呟き、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。


 「陛下は我らを切り捨てた、ということか……」


 メルキオールの独白が、逃れようのない現実として室内に響き渡った。

 国家という盾が、自らを押し潰すための槌へと変貌を遂げた瞬間だった。


 「王城に潜んでいる、我らの息のかかった『梟』からの情報と照らし合わせても、間違いないかと……」


 執事の言葉は、最後の一押しとなって彼らの心を砕いた。


 「冗談じゃないぞ! 王国の討伐対象になった以上は、我らにはもう後がないということだ! このまま座して討たれるなんてゴメンだぞ!」


 ヘルムートが狂乱したように叫び、卓を拳で叩いた。

 その振動でインク瓶が倒れ、漆黒の液体が地図の上を汚していく。

 それはまるで、彼らの領地が侵食されていく未来を暗示しているかのようだった。


 「ああ、その通りだ。打って出よう。我らの領地は捨てる。港町レグスに攻め込み、占拠する。これしかあるまい」


 メルキオールの瞳に、自暴自棄に近い熱が灯った。

 理知を捨て、破滅へと突き進もうとする男の目は、不気味なほどに凪いでいた。


 「各地に放った密偵からの情報では、辺境伯領の東と南に辺境伯軍が配置されているとのことです」


 執事が無情な事実を突きつける。


 「陸路は絶望的だな……」


 メルキオールの声から、再び力が失われた。


 「仮に、レグスの占拠ができたとして、お隣はあの辺境伯領だ。しかもレグスには港がある。ヴェリウスから船で王国軍が来たら対処しきれないだろう」


 レイモンドの指摘は、あまりにも正鵠を射ていた。

 彼らの周囲には、逃げ場のない檻がいつの間にか完成していたのだ。


 「じゃあどうしろと言うんだ! 守ることも攻めることもできない、このまま死ねというのか?」


 ヘルムートの問いに、誰も答えることはできなかった。


 「いっそ、王都を攻めるか?」


 メルキオールが力なく提案する。


 「王都には第一軍が配備されています。それは難しいかと……」


 執事の言葉が、最後の退路を断った。


 「完全に詰んでいるな……。むしろ、『鉄屑の誓い』を狩る方が簡単なのではないか?」


 レイモンドが、もはや自分たちをこの窮地へ追い込んだ元凶にさえ矛先を向けようとする。


 「『鉄屑の誓い』は、完全に組織自体が闇に覆われています。誰がリーダーなのかもわからない組織を狩るのは、困難を極めるかと……」


 執事の言葉は、もはや引導であった。


 「……くっ! どうしようもないじゃないか!」


 ヘルムートの叫びが、虚しく室内に木霊する。


 「ああ、どうにもならん」


 メルキオールは、もはや地図を見ることもなく目を閉じた。


 「アルベルト殿下に投降し、『鉄屑の誓い』を狩るための協力を申し出るか?」


 レイモンドが絞り出すように提案した。

 王国貴族としての誇りを溝に捨て、生き延びるためだけに差し出す最後の一手。


 「それで見逃してもらえるのか?」


 ヘルムートが力なく問い返す。


 「領地の没収と爵位の剥奪だけでは済まないだろうな。命だけでも……、というのも虫のいい話かもな」


 レイモンドの言葉に、室内の空気は澱みきった水のように停滞した。


 「この足で王城に行きますか? 自ら裁かれに……」


 メルキオールの問いに、老伯爵はただ深く頷くだけだった。


 「それも手だな。王国に逆らうだけの力が我々にはない。討ち死にする戦場を作ることもできんとなれば……」


 「冗談じゃない! 私は打って出る! デムハイトのアルベルトを討てば活路を開ける! お前たちはここで投降の準備でもしてろ!」


 ヘルムートが激昂し、乱暴に扉を開け放った。

 その背中には、若さゆえの無謀と、現実から目を背けるための狂気が張り付いている。

 石廊下に響く激しい足音を、レイモンドとメルキオールはただ無言で見送った。


 「馬鹿な奴だ。若さゆえの視野の狭さ、と責めるのは酷か……」


 レイモンドが、力なく椅子に崩れ落ちた。


 「追い詰められれば、ああもなるでしょう。とは言え、打つ手がないのは確かです。彼を馬鹿と罵る資格が我々にあるとも思えませんね」


 メルキオールが冷笑を浮かべ、空のグラスを見つめた。


 「ああ、その通りだな……」


 重苦しい沈黙が、再び室内を支配しようとしたその時。


 「そうでもありませんよ。伯爵様、子爵様」


 場の空気を切り裂くような、場違いに軽やかな若い女の声が響いた。

 影の中から、音もなく一人の娘が現れた。

 没個性な商会の制服を纏ったその姿は、まるでこの執務室の重厚な歴史そのものを嘲笑っているかのようだった。


 「投降を選択肢の一つに挙げるあたり、まだマトモだとも言えるかもね」


 別の影からも、同じような制服を着た娘が滑り出す。

 二人とも、感情を排した事務的な眼差しで、王国の重鎮たちを見下ろしていた。


 「何者だ!」


 メルキオールが反射的に立ち上がろうとしたが、腰が抜けたように動かない。


 「何者って……、この状況でここに潜入している私たちが味方のはずがないでしょうに……」


 『海鳥』の娘が、肩をすくめてみせる。

 彼女たちの存在そのものが、この屋敷がすでに完璧な檻の中に閉じ込められている事実を証明していた。


 「我らは、アルベルト様を守護し、敵を闇に葬る乙女たち……組織名は『ヴァイオレット・ローズ……、なんでしたっけ?」


 「いいのよ、『海鳥部隊』で」


 娘たちが交わす軽口は、レイモンドたちが積み上げてきた「悲劇」を、瞬く間に質の悪い安劇へと引き摺り下ろしていく。


 「アルベルト殿下の密偵か? 我らを暗殺する気か?」


 レイモンドが掠れた声で問う。


 「レグスを攻めるというのであればそうしていました。ですが、その結論にはならなかったようで……」


 娘の一人が、いとも簡単に暗殺という手法も取れたのだと述べる。


 「そうそう。正々堂々とアルベルト様と戦うか、もしくは投降するのであれば、我らは何もしませんよ。日々、この屋敷の食料が私たちに消費されるくらいかな?」


 その言葉は、彼らの選択肢は既にないことを意味していた。


 「私の屋敷にも潜入している、そうだな?」


 メルキオールが、震える声で確認する。


 「はい。メルキオール子爵のところにも潜入済みです。お帰りになられるのであれば、暗殺はしないよう伝言を添えます」


 娘の淡々とした返答に、メルキオールの顔から表情が消えた。

 自らの城さえも、すでに土足で踏み荒らされているのだ。


 「……ふっ。ふははははは。……どうにもならんとか言う次元じゃないじゃないか」


 レイモンドが、壊れたように笑い出した。

 その乾いた笑い声が、埃の舞う執務室に虚しく響く。


 「ええ。正面衝突か投降か、既に道はこれしかなかった。さっきまでの議論は何だったのか……」


 メルキオールもまた、絶望の極地で奇妙な昂揚感を抱き始めていた。

 自分たちが必死に抗おうとしていた運命は、最初から事務的に処理されるべき予定事項に過ぎなかったのだ。


 「追い詰められて取り乱す若造、王都を攻めるとか言い始める子爵様、諦めが悪いのか早いのか分からない伯爵様。なかなかに面白い歌劇でした」


 『海鳥』の娘が、優雅に一礼してみせる。


 「そうね。観覧料は払わないけどね」


 制服の娘たちの無機質な言葉が、王国貴族としての最後の矜持を粉々に打ち砕いた。

 重厚な執務室は、もはや悲劇の舞台ですらなく、西側の支配を一方的に宣告されるための、ただの狭い部屋へと成り果てていた。


     ──────


 石畳を叩く馬蹄の音が、奇妙なほどに高く響いた。

 自領へと急ぐヘルムート男爵を乗せた馬車が、自身の屋敷を囲む異様な光景を前に、喘ぐような音を立てて停止する。

 そこには、彼が知るはずの私兵の姿はどこにもなかった。

 代わりに屋敷の周囲を埋め尽くしていたのは、鉄の規律を纏い、無機質な殺気を放つ数百の軍勢である。


 風に翻る軍旗が、逃れようのない現実を突きつけていた。

 二本の剣が交差する紋章を刻んだ、漆黒の辺境伯軍の旗。

 銀の狼が鋭い横顔を見せる、ヴォルフスブルク軍の旗。

 そして、それらを従えるように中央で不気味なまでの存在感を放つ、鮮やかなピンク地に蒼紫の薔薇が描かれたアルベルト軍の旗。

 夕刻の陽光を浴びて揺れるその「薔薇」の意匠は、かつて王国を救った英雄の帰還を告げると同時に、敵対者への峻烈なる死の宣告を意味していた。


 「な……何だ、これは……」


 馬車から降り立ったヘルムートの足元が、目に見えて震えた。

 長年、自らの権威の象徴であった屋敷が、今は見知らぬ巨大な獣に呑み込まれたかのように見える。

 配備していたはずの私兵たちの気配は、霧が晴れるように消え失せていた。

 静寂が、耳を劈くほどの圧力となって彼に襲いかかる。


 その軍勢の間を割るようにして、一人の男が静かに歩み出た。

 汚れ一つない純白の鎧が、沈みゆく太陽の残光を捉えて神々しいまでの輝きを放ち、肩に掛けられた真紅の片マントが、死神の鎌のように風を孕んで翻る。

 アルベルト・アステリア。

 その男が放つ研ぎ澄まされた静謐な気配は、周囲の空気を凍りつかせ、ただ一人の存在で戦場の支配権を完全に掌握していた。


 「アルベルト・アステリアだ。王国に仇成すガーディスに侵食された貴公を討ちにきた。ヘルムート男爵」


 その声は、高貴な響きの中に刃のような鋭利さを孕んでいた。

 アルベルトの瞳には、憎しみも憤怒もない。

 ただ、枯れた草を刈り取るような、淡々とした義務感だけが宿っている。


 「ヘルムートだ。私の兵はどうした?」


 ヘルムートの声は掠れ、裏返っていた。

 自身の盾となるべき存在を失った恐怖が、王国貴族としての皮を剥いでいく。


 「屋敷の中庭に縛って転がしてある。従者や侍女も同じだ。妻子は応接室でお茶をしている。心配しなくても彼女たちに手は出さない」


 アルベルトの回答は事務的で、一切の迷いがない。

 彼にとって、罪なき者への加害は戦略上の必要もなければ、道徳的な衝動も湧かぬ無意味な行為に過ぎない。

 だが、その徹底した合理性は、ヘルムートにとっては何よりも恐ろしい拒絶に感じられた。


 「そうか。妻子が人質になろうとも、私は退かん。討たせてもらうぞ、アルベルト・アステリア」


 ヘルムートは震える手で豪奢な外套を脱いだ。

 絶望が極まった果てに、奇妙な熱が彼の魂に宿り始めていた。

 逃げ場を失い、未来を断たれた男に残されたのは、王国貴族としての最期の名誉を守ることだけだった。


 「おとなしく投降する気はない、ということだな?」


 「そうだ。……俺の剣を持ってこい!」


 ヘルムートが馬車から降りた執事に向かって吠えた。

 その叫びに応じるように、執事が屋敷に目を向ける。

 アルベルトはそれを止めるどころか、顎をしゃくって促す。


 「かまわん、行ってこい」


 アルベルトのその態度は、敵への敬意というよりは、死にゆく者に許された一時の「猶予」を黙認する、上位者の余裕そのものであった。


 「私には後がない。なので、貴様だけは討って死のうと思っていた。機会を与えてくれたことに感謝するぞ」


 屋敷から戻った執事が、震える足取りでヘルムートのもとへ剣を届ける。

 ヘルムートは執事から受け取った剣を抜き放ち、鞘を投げ捨てた。

 夕闇の中で、鋼の刃が妖しく光る。

 討ち死にの相手として、これ以上の名誉はない。

 それは歪んだ救済であった。


 「相手は俺でいいのか? ヴォルガンでも『鉄屑の誓い』でもなく」


 アルベルトが自然体で問いかける。

 その問いに、ヘルムートは低く、しかし確かな力強さを込めて答えた。


 「ああ、討ち死にする相手として、これ以上ない。この巡り合わせに感謝しよう」


 彼は隣で震える執事の肩を、一度だけ強く叩いた。

 その手からは、先ほどまでの震えが消えている。


 「今日までよく仕えてくれた。お前は死ぬ必要はない。妻と子供を頼む」


 「だ、旦那様……っ!」


 執事が泣き崩れるのを背に、ヘルムートはゆっくりと歩を進めた。

 それに応じるように、周囲を固めていた辺境伯軍とヴォルフスブルク軍の精鋭たちが、波が引くように円を描いて空間を広げた。

 沈みゆく太陽が、対峙する二人の影を長く、黒々と石畳に描いている。


 ヘルムートは剣を正面上段に構え、アルベルトを見据える。

 その所作には、迷いを断ち切った者特有の、悲壮な美しさが宿っていた。

 一方のアルベルトは、左腰に差した宝剣を抜き放つと、何の構えも見せず、ただ静かに立った。

 両足は軽く地面を捉え、剣先は斜め下を向いている。

 だが、その周囲には、触れれば魂まで断たれるような、凄絶なまでの静謐が満ち満ちていた。


 開始の合図などは不要だった。

 ヘルムートが、裂帛の気合と共に大地を蹴った。


 「おおおおおっ!」


 その踏み込みは鋭く、放たれた斬撃は空気を激しく圧縮してアルベルトの脳門へと迫る。

 それは決して素人の剣ではなかった。

 王国貴族として嗜んできた武芸の粋を、死を覚悟した極限の集中力が昇華させた、人生最高の一撃。

 並の騎士であれば、その気迫に気圧され、為す術もなく両断されていただろう。


 しかし、アルベルトの身体は、まるで最初からそこに実体がなかったかのように揺らめいた。

 特に回避したようにも見えない。

 ただ、自然な歩みの延長で、わずかに重心を移動させただけのように見えた。

 ヘルムートの剣筋は、アルベルトの髪一筋さえ捉えることができず、空しく虚空を切り裂いた。


 「――見事な剣だ」


 アルベルトの呟きが、耳元で聞こえた。

 ヘルムートが驚愕に目を見開く。

 振り下ろした剣の重みで体勢がわずかに流れた、その一瞬。

 アルベルトの剣が、羽毛のような軽やかさで一閃した。


 衝撃すらなかった。

 ただ、熱い風が身体を通り抜けた感覚だけが、ヘルムートの意識に残る。

 次の瞬間、彼の胴から鮮血が噴き出し、夕闇の中に赤い霧を作った。


 「が……はっ……」


 膝から崩れ落ち、石畳を赤く染めていくヘルムート。

 斬られた箇所を抑えることもできず、彼は血を吐きながら、自分を見下ろす純白の騎士を仰ぎ見た。

 その視界は急速に薄暗くなり、世界が遠ざかっていく。


 「……見事だ。……陛下に伝えろ、このヘルムート、最後まで王国貴族として戦い、不忠の報いは受けたと……」


 言葉の終わりと共に、ヘルムートの身体から力が抜けた。

 握りしめていた剣が手から滑り落ち、乾いた音を立てて転がる。

 王国を蝕む毒の一部となった男は、最期にその毒をすべて吐き出し、一人の武人として息絶えた。


 「ああ、伝えておこう」


 アルベルトは静かに剣を納めると、一度だけ短く息を吐いた。

 屋敷の窓から事の顛末を見届けていたヘルムートの妻の悲鳴が響き渡ったが、彼はそれを一瞥することもしなかった。


 アルベルトは沈む夕日に向かって、迷いのない足取りで歩き出す。

 真紅の片マントが風に舞い、彼の背後に広がる死の静寂を塗り潰していく。


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