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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第63話:兄弟、王家の剣術と無能の真実、血よりも濃い誓い

「お前、今日出撃するんだろう? それなのに朝から鍛錬か?」


 石造りの回廊を抜けてきたヴォルガンの声が、春の静謐な空気を揺らした。


 デムハイト邸の中庭は、昨夜の重苦しい緊迫感など夢であったかのように、柔らかな陽光に包まれている。

 黄金色の粒子となって降り注ぐ光は、丹念に手入れされた芝生を鮮やかに彩り、微風にそよぐ花々の香りを運んでいた。


 アルベルトは一拍、呼吸を整えると、手にした木剣の先をゆっくりと下ろした。

 その額から一筋の汗が流れ、顎の先で真珠のように光を孕んでから、乾いた土の上へと吸い込まれていく。

 アルベルトは振っていた木剣をベンチに立てかけ、傍らに置いてあったタオルを手に取り、無造作に顔を拭った。


「今回の作戦は夜襲だ。昼飯を食ったら仮眠を取るさ。問題ない」


 タオルの奥から響くアルベルトの声は、どこまでも落ち着いている。

 出撃を数時間後に控えた者の焦燥など微塵も感じさせない。

 その佇まいは、まるで深く静かな森の奥底に座す大樹のような、揺るぎない安定感を伴っていた。


 ヴォルガンは歩み寄り、アルベルトが今しがたまで振っていた木剣を手に取った。

 その重みを確かめるように軽く一閃させると、硬質な木材が空気を切り裂く鋭い音が響く。


「お前はどうするんだ? 王城に帰るのか?」


「ああ、ベルン殿の件で手続きが必要になった」


 ヴォルガンは木剣の重心を確認しながら、淡々と応じた。

 昨夜の騒動、西の大商人ベルンとのあの嵐のような時間は、今や彼の中で一つの決断へと昇華されている。

 その瞳には、迷いを断ち切った者特有の、澄み渡った光が宿っていた。


「『灰色の休戦条約』の調査員証か?」


 アルベルトの問いに、ヴォルガンは僅かに目を見開いた。

 自らの目的を正確に言い当てた兄に対し、ヴォルガンは驚きを隠そうともせず、深い信頼の籠もった眼差しを向けた。


「ベルン殿との問題は解決したのか? 今日、何かしらの返事をするんじゃなかったか?」


「昨夜、答え合わせをした。その時に答えを出した。今日まで引き延ばせる雰囲気じゃなかったな。蛇に睨まれた蛙状態だったよ、この私が……」


 ヴォルガンは自嘲気味に口角を上げたが、その表情には卑屈さはない。

 むしろ、強大な存在に真っ向から断罪されたことを受け入れた、清々しささえ漂っていた。


「ああ、彼は、誇張なしに西の王だからな。国王のお前と対等、それ以上でも不思議はない」


 アルベルトはタオルで乱雑に頭を拭きながら、当然のことのように頷いた。

 その仕草は気取ったところがなく、少年時代と変わらぬ親密さを醸し出している。


「昔からそうなのか? 彼はレグスの復興当初からいたらしいじゃないか。お前は彼を見てきたんだろう?」


 ヴォルガンの問いに、アルベルトの動きが止まった。

 視線を遠く、かつて共に泥濘を這いずり回った日々の記憶へと飛ばす。


「彼は、気の小さいただの商人だったよ。ただ、腹を括ったときの決断力と行動力は目を見張るものがあった」


 アルベルトはヴォルガンの手から木剣を取り返すと、再び自然体で構えた。

 春の光を跳ね返すその剣筋は、一見すると緩やかでありながら、その実、一切の無駄が削ぎ落とされている。


「そんな彼が、西側の物流の責任者として国民の命を背負った。その重責が彼を高みに登らせたんだろうな。……わかるか? 彼は誰の理解も得られず、誰も彼の隣を歩めない。そんな状況で、たった一人で戦い続けてきたんだ」


 一振り、二振り。

 木剣が空を断つごとに、心地よい風がヴォルガンの頬を撫でる。

 その風が、彼の中に沈殿していた最後の澱みを連れ去っていくかのようだった。


「……ああ、わかる。そんな彼の目に射すくめられては、私も腹を括るしかなかったよ」


 ヴォルガンの独白に、アルベルトは何も言わず、ただ静かに剣を振り続けた。

 やがて、控えていた近衛兵が恭しい所作でヴォルガンのための木剣を差し出した。

 ヴォルガンはそれを受け取り、重心を確かめるように手の中で回す。


 しばしの間、中庭には二人の剣士が奏でる、重厚な素振りの音だけが支配した。

 降り注ぐ陽光の下、呼吸を合わせるように繰り返されるその動作は、言葉以上の対話として、二人の間に流れる時間を濃密に満たしていく。


「お前、その顔で王城に戻ったら騒ぎになるんじゃないか?」


 アルベルトが素振りの合間に、ヴォルガンの左頬へと視線を投げた。

 そこには、昨夜の激情の残滓が、鮮やかな赤紫の痣となって刻まれている。


 ヴォルガンは腫れた箇所を指先でなぞり、不敵な笑みを浮かべた。


「ああ、だからここに来た。お前との稽古で痣ができた、とすれば問題ないだろう。近衛兵にそう証言させる」


「それは名案だ。で? 本当に俺と稽古をするのか?」


「なんだ? 私では力不足か? 元王国騎士団最強の剣士様」


 挑発的なヴォルガンの言葉に、アルベルトの眉が僅かに跳ねた。

 彼は木剣を肩に担ぎ、楽しげに目を細める。


「元、ではない。俺はいつだって騎士団最強の剣士だ。十年ぶりにお前の剣を受けてやろう。……稽古なんだよな? 決闘でも試合でもなく……」


「ああ、稽古だ。騎士団最強の剣士様の胸を借りようじゃないか」


 ヴォルガンはそう言うと、アルベルトとの間に一定の距離を取り、スッと腰を落として構えた。

 その所作には、長年の鍛錬に裏打ちされた盤石の基礎が宿っている。

 アステリア流剣術の真髄とも言える、一切の隙を排した伝統的な構えであった。


「いいぞ、どこからでもかかってこい」


 対するアルベルトは、何ら意図を感じさせない自然体で立っていた。

 両足は軽く地面を捉え、木剣を無造作に下ろしている。

 だが、その周囲には、触れれば指先を断たれるような、研ぎ澄まされた静謐な気が満ち満ちていた。


 突如、ヴォルガンの身体が爆発的な踏み込みと共に前方へと放たれた。

 春の空気を激しく圧縮し、一直線にアルベルトの眉間を狙う鋭い刺突。


 それは、アステリア流の基本を何十万、何百万回と繰り返した果てに辿り着いた、極限の昇華であった。

 一撃一撃が必殺の威力を持ち、その軌道には微塵の揺らぎもない。

 並の剣士であれば、その気迫に射竦められ、迫り来る斬撃の存在を認識しながらも、ただ立ち尽くすことしかできないであろう「剣の芸術」である。


 だが、アルベルトはその刺突が鼻先を掠める寸前、紙一重の体捌きで回避した。

 ヴォルガンの踏み込みによる衝撃波が、アルベルトの髪を激しく揺らす。

 流れるような連撃。

 上段からの一撃、返す刀での横薙ぎ。

 ヴォルガンの放つ剣筋は、どれもが非の打ち所のない完成度を誇っていた。

 しかし、アルベルトはそのすべてを、まるで予知しているかのように軽やかなステップで躱し続ける。


 木剣が交差する音すらしない。

 ただ、ヴォルガンの放つ鋭い風切り音と、アルベルトの静かな衣擦れの音だけが、陽だまりの中で交錯する。


 ヴォルガンの猛攻が途絶える一瞬の隙。

 アルベルトの木剣が、ヴォルガンの胸元へと吸い込まれるように突き出された。

 ヴォルガンは必死に身を捩り、それを回避しようとするが、気づけばその切っ先は既に彼の喉元を正確に捉えていた。


「……っ」


 一転してヴォルガンが大振りの一撃を繰り出す。

 それをアルベルトは、足元を払うような素振りで軽く捌いた。

 体勢を崩し、わずかに前のめりになったヴォルガンの後頭部を、アルベルトの木剣がコツンと優しく叩いた。


 何度繰り返しても、結果は同じであった。

 ヴォルガンの剣は間違いなく超一流であり、その洗練された技は見る者を圧倒する輝きを放っている。

 しかし、アルベルトはその「極まった技」という枠組みの、遥か外側にいた。


 やがてヴォルガンは激しい呼吸を整えようと、両手を膝について立ち止まった。

 滴る汗が芝生を濡らし、立ち昇る体温が春の空気と混じり合って微かな陽炎を作る。


「……ヴォルガン。お前、馬鹿なんだな」


 アルベルトの言葉が、静かになった中庭に響いた。

 ヴォルガンは顔を上げたが、肺が酸素を求めて激しく鳴り、すぐには言葉を返せない。


「アステリア流剣術で俺に勝てるわけがないだろう? 変化をつけるとか、他の技術体系を乗せるとかできないのか?」


「……できん。私はこれしかやってきていない」


 ようやく呼吸を整えたヴォルガンが、真っ直ぐにアルベルトを見据えて答えた。

 その瞳には、己が歩んできた正道を疑わぬ、頑ななまでの誇りが宿っている。


「基本を突き詰めた究極の剣になっていることは認める。その剣筋は美しい芸術にまで昇華されていることも認める。だが、対人戦はそれだけでは勝てない」


 アルベルトはそう言うと、自然体で半歩、ヴォルガンの間合いへと足を踏み入れた。

 緩やかな上段からの斬撃。

 ヴォルガンの目には、それはあまりに遅く、容易に受け流せるものに映った。


 彼は反射的に木剣を掲げ、その一撃を正面から受け止めようとする。

 だが、衝撃が来るはずの瞬間に、ヴォルガンの感覚は奇妙な「空白」に捉えられた。


 アルベルトの木剣は、ヴォルガンの剣を打たなかった。

 それどころか、目の前にいたはずのアルベルトの姿が、陽炎の中に溶け込むようにして消えたのだ。


 脳が予測する位置情報と、実際のアルベルトの位置に差異が生じている。

 その意識の死角を突く絶妙なタイミング。


 次の瞬間、ヴォルガンの後頭部を、柔らかな、だが確かな衝撃が小突いた。


「……は?」


 彼が振り返ると、いつの間にか背後に回り込んでいたアルベルトが、木剣を肩に担ぎ、口角を吊り上げて笑っていた。

 彼の左手は、今しがた小突きを入れた手刀の形を維持している。


「お前、頂上決戦って言ってたよな。まさか、俺と、剣で戦うつもりだったんじゃないだろうな?」


「……っ!」


 ヴォルガンは呆然として立ち尽くした。

 王としての権威も、磨き抜いた剣技も、この男の前ではあまりに無防備であった。

 アルベルトの言葉は、技術的な指摘を超えて、ヴォルガンの本質を突いていた。


「……ヴォルガン。お前、本当に馬鹿なんだな」


 二度目の言葉。

 それは蔑みではなく、不器用なまでに真っ直ぐな弟への、心からの呆れと親しみが込められていた。


「うるさい! 馬鹿と言うな! しかも、二回も!」


 ヴォルガンが語気を荒げて憤慨する。

 その様子は、王としての重責を脱ぎ捨てた、かつての無邪気な少年そのものであった。


 アルベルトは片方の眉を上げると、大げさに肩をすくめてみせた。

 晴れ渡った春の空の下、兄弟の笑い声にも似たやり取りが、穏やかな陽光の中に溶けていった。


     ──────


 激しい武の交差が止み、中庭には再び春の穏やかな静寂が戻ってきた。

 高く昇った太陽が、石畳に落ちる二人の影を短く、そして濃く描き出している。

 アルベルトとヴォルガンは、先ほどまで稽古の舞台であった芝生の端にある石造りのベンチへと腰を下ろした。

 使い込まれた木剣が、乾いた音を立てて石の側面に立てかけられる。

 二人の身体からは、立ち昇る熱気が陽光と混じり合い、微かな陽炎となって揺らめいていた。

 アルベルトの額を伝う汗が、首筋を通り、鍛え上げられた胸元へと吸い込まれていく。


 控えていた近衛兵が、銀の盆に乗せた水差しを恭しく差し出した。

 切り出されたばかりの氷が中で触れ合い、涼やかな音を奏でている。

 ヴォルガンはそれをひったくるように受け取ると、溢れるのを構わずに口へと運んだ。

 喉を鳴らしてがぶ飲みし、残った冷水を己の頭から豪快に浴びせる。

 飛散した水滴が、光を反射して砕け散る宝石のように中庭を舞った。

 濡れた髪を無造作にかき上げ、ヴォルガンは肺の中の熱をすべて吐き出すように深い溜息を漏らす。


「生き返るな。……お前は飲まないのか?」


「ああ、後でもらう」


 アルベルトはそう短く応え、滴る汗をタオルで丁寧に拭った。

 その視線は、どこまでも澄み渡った春の空へと向けられている。

 数拍の沈黙。

 風が木々を揺らし、新緑の瑞々しい香りが鼻腔をくすぐった。


「ヴォルガン。……お前、俺と剣で戦い、斬り殺されるつもりだったんだな」


 唐突に放たれたアルベルトの言葉が、平和な空気を鋭く切り裂いた。

 ヴォルガンを責めるような響きはない。

 ただ、確定した事実を確認するかのような、静謐な響きを伴っていた。

 ヴォルガンは水差しの縁を見つめたまま、動かない。

 濡れた睫毛から零れた一滴が、彼の膝の上で小さなシミを作った。


「……そうだ。お前には負い目がある」


 掠れた声が、地面を這うように漏れ出した。

 王としての威厳を脱ぎ捨て、一人の罪人として兄の前に身を曝け出す。


「お前の両親を殺し、お前を正当な王位継承者の座から追いやった。その事実は、どんな大義名分を並べたところで消えはしない。いつかお前に玉座を返す」


 ヴォルガンの告白を、アルベルトは穏やかな眼差しで受け止めた。

 昨夜の凄絶な衝突も、今この瞬間の懺悔も、すべてはこの巨大な男の誠実さゆえであることを知っている。


「父上に関しては、お前の親でもあるだろう」


「まあ、そうなんだがな……。それでも、私は彼らを殺した。その事実は変わらん」


 ヴォルガンは自嘲気味に口角を上げた。

 左頬の赤紫の痣が、その表情をさらに歪ませる。


「……今思えば、あの時のお前は腑抜けの無能な王子様に見えていたが、あれはそう演じていたのか? ……ジャック?」


 ヴォルガンの問いかけが、何もないはずの背後の空間へと投げかけられた。

 すると、いつの間にかアルベルトの背後の影に溶け込んでいたジャックが、幽霊のように姿を現した。

 銀髪を揺らし、不気味なほどに凪いだ笑みを浮かべている。


「はい。帝国への売国、諸侯への裏金、それらの証拠を洗っておりました」


 ジャックの声は、春の陽気とは対照的な、冷え切った月光のような響きを湛えていた。


「その間、先王に目を付けられないよう、アルベルト様に無能を演じるよう要求したのは私です。不用意に知性を見せれば、その瞬間に始末されていたでしょうから」


 ジャックの淡々とした説明に、ヴォルガンは呆然として言葉を失った。

 自分が無能だと蔑んでいた兄は、実は影で王国の膿を抉り出すために潜伏していたのだ。


「……そうだったのか。私は先走ったのだな……」


 ヴォルガンの声に、隠しきれない悔恨が滲む。

 もし自分が動かなければ、もっと犠牲の少ない道があったのではないか。

 そう問い続ける彼に対し、ジャックは首を横に振った。


「いいえ、そうではありません。それは結果が証明しております」


 ジャックは一歩、ヴォルガンの間合いへと近づいた。

 その気配は依然として希薄だが、言葉には確かな重みが宿っている。


「仮に証拠が揃ったとして、それをネタに先王を糾弾しても、王位から引きずり下ろせていたとは限りません。なにせ、法を作るのは他ならぬ国王であるのですから……。ヴォルガン陛下の決断、行動は、先王の逃げる余地を一切無くす、確実な手段だったと思っております」


「そうか、そう言ってくれるか……」


 ヴォルガンは、ようやく救われたような顔をして息を吐いた。

 ジャックの瞳には、打算のない純粋な肯定が宿っている。


「はい。こう言ってしまえば元も子もありませんが、私がこの手で先王を暗殺していれば済んでいた話。その件を悔いているのは陛下だけではありません」


「ヴォルガン、済んだ話を悔いても始まらない」


 アルベルトがヴォルガンの肩を力強く叩いた。

 その掌から伝わる体温が、凍りついていたヴォルガンの心をゆっくりと溶かしていく。


「俺たちは未来を見なければならないんだ。過去に縛られて足を止めるには、この王国はあまりに脆すぎる」


「ああ、王国の基盤を整備し直す、その最後に、お前を国王にする。今、私が目指すのはそこだ」


 ヴォルガンの宣言は、もはや迷いのない「誓い」へと変わっていた。

 アルベルトはその覚悟を正面から受け止め、しかし、皮肉めいた笑みを浮かべてみせる。


「その片手間でガーディス自治区の復興とか言ってたから、ベルン殿に殴られたんだろ? それでいいのか?」


「片手間ではない。役割分担だ。昨夜、それで合意した。あそこまで言われて、理解できないほど私は愚かではない」


 ヴォルガンは腫れた頬を摩りながら、神妙な面持ちで頷いた。


「……ミディア叔母さんは納得するのか? お前を国王にするために一番奔走したのはミディア叔母さんだろう?」


 アルベルトの問いに、ヴォルガンは困ったような表情で頭を抱える。

 母の献身を仇で返すことへの、拭いきれぬ後ろめたさ。

 それがヴォルガンの顔を苦く歪ませる。


「それな……。どうすればいいと思う? 私が可愛らしい嫁さんを貰い、孫の顔を見せれば納得してくれるだろうか……」


 ヴォルガンの切実な問いに、アルベルトは真顔で返した。


「その可愛い嫁って、メリーの事か?」


「違う! 私はメリーちゃんの夫にはふさわしくない。……ジャック、お前はその暗器をしまえ」


 ヴォルガンが慌てて叫ぶ。

 ジャックの右手に握られた、春の陽光を妖しく反射する細長い針が、音もなく袖の中へと消えていった。

 ジャックは無言で目を伏せ、何事もなかったかのように再び静止する。


「冗談だ。お前は帝国から嫁を貰うべきだろう」


 アルベルトの言葉に、ヴォルガンの表情が引き締まった。

 空気が再び、実務的な重みを伴って沈降していく。


「思い至ったのか? ベルン殿の言う『最適解』に」


「ああ、お前とミディア叔母さんとガメル、ベルン殿とサフィアン殿、そして帝国からの嫁、これらが揃わないと盤石じゃない。ガーディス自治区を交易・経済を中心とした、商業国として独立させる。お前の目指すべきはそこだろう?」


「そうだ」


 ヴォルガンは、アルベルトを真っ直ぐに見据えた。


「その一歩を踏み出すために、あとを任せるに足るお前の存在は不可欠だ。此度の作戦で殺されたりするなよ? お前が死ねば、計画はすべて台無しだ」


「私と『海鳥』がアルベルト様を守護いたします。ヴォルガン陛下は安心してご自身の道をお進みください」


 ジャックの静かな決意が、二人の間に漂う空気を補強する。


「俺は簡単に殺されたりはしない」


 アルベルトは立ち上がり、再び木剣を手に取った。

 その佇まいは、数分前までの穏やかなものとは異なり、戦場へと赴く武人の峻烈さを纏っている。


「剣の腕に慢心しているんじゃない、俺が背負っているもののために、道半ばで倒れることは許されないからだ」


「ああ、お互いに目指すべきところに辿り着こう。それまでは倒れることは許されない。これは約束なんかじゃない、俺たちだけの誓いだ」


 ヴォルガンもまた立ち上がり、兄の肩を掴んだ。

 その瞳には、血よりも濃い絆が火花となって散っている。

 アルベルトはふと、ヴォルガンの言い回しに気づき、口角を上げた。


「『俺』? お前は自分を『私』って呼ぶんじゃないのか?」


「茶化すな。国王たるもの、知的に振舞う必要もあるんだ。あの将軍だって、自分を『私』って呼んでいたじゃないか」


 ヴォルガンが顔を背け、気恥ずかしそうに鼻を鳴らす。


「そう言われるとそうだな。だが、俺は国王になっても『俺』のままだと思うぞ」


「それでいい、というか、どうでもいい話だな」


「ああ、違いない」


 二人の笑い声が、春の中庭に響き渡った。

 それは、重い十字架を背負った者同士が、一瞬だけ見せる無邪気な光景であった。


「アルベルト様ー! 朝食ができたッス! 戻ってくるッスよー!」


 石造りの回廊から、元気な声が響いた。

 『海鳥』の赤毛の娘が、大きく手を振って二人を呼んでいる。

 朝の光が彼女の髪を鮮やかに染め上げ、邸宅全体に活気が戻りつつあることを告げていた。


「ああ、すぐに行く」


 アルベルトは短く応えると、館に向かって歩き出した。

 その背を追うヴォルガンは、アルベルトの逞しい背中を見つめた。

 その背中は、あの時から十年近く、拒絶し、反発し、目を逸らしてきたものである。

 今、自分の前を確かな足取りで歩く兄の背中は、どこまでも眩しく映った。


不定期更新です

毎話、プロットを練るのに悪戦苦闘しています

申し訳ございません

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