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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第62話:鉄拳、すべてを捨てろ、ヴォルガンを斬って終わりにしませんか?

「さて……」


 重厚な長卓の最奥、国王ヴォルガンがその体躯を揺らし、場に集う者たちを鋭い眼光で射抜いた。

 石造りの壁が暖炉の焔を反射し、揺らめく影が壁面に巨大な怪物を描き出す。

 かつてこの場所を支配していた退廃的な空気は霧散し、今は王国の西を担う重鎮たちの、研ぎ澄まされた鋼のような気配のみが満ちていた。

 ヴォルガンは空席となっている一脚の椅子を見やり、不敵な笑みを浮かべて鼻を鳴らす。


「ブラッドレイ子爵は動いているようだな。ここに居たら叱ってやろうと思っていたが……」


 その言葉に応じたのは、卓の背後、影に溶け込むように控えていた『海鳥』の赤毛の娘であった。

 彼女はしなやかな淀みのない所作で頭を垂れる。


「子爵は西の各領を飛び回っているッス。最終的にはレグスの守りを固める指揮を執ると言っていたッス」


 その報告に、ヴォルガンは満足げに唇を歪めた。

 窓の外では、夜の湿気を孕んだ冷たい風が木々を揺らし、時折、遠くの街道を固める兵たちの蹄鉄の音が微かに響き渡る。

 王の背後で控える近衛兵たちの鎧が、呼吸に合わせて微かな擦過音を立てた。


「いいぞ、期待通りの動きだ。頭がキレる奴は違うな。さすがブラッドレイ子爵だ」


 ヴォルガンの賞賛には、西の総帥への絶大なる信頼が滲んでいた。

 彼は卓上に広げられた、ガーディス領へ続く街道が克明に記された地図を指先でなぞり、視線をアルベルトへと向けた。


「アルベルト、辺境伯はどうしている?」


 アルベルトは静かに顔を上げ、眼前の王を見据えた。

 彼の周囲には、一切の揺らぎがない。

 まるで、深い森の奥底に座す巨岩のような、峻厳な静寂が漂っていた。


「辺境伯軍の指揮を執っている。ギルガルド領、レグスとの間の街道にそれぞれ軍を配置し、辺境伯領にも本隊二千を配置した。『海鳥』から連絡があればすぐに兵を出すようにとの、ブラッドレイ子爵の指示だ」


 その言葉は、既に盤面が整っていることを示していた。

 西側の防衛網は、街道を通じて一糸乱れぬ連携を構築している。

 西側が、今や王国の国軍にすら匹敵する事実に、ヴォルガンの瞳には微かな熱が宿った。


「うむ、いいぞ。西の守りはブラッドレイ子爵とアイゼンハイド侯爵に任せよう。ガーディス領に攻め込む準備は万全か?」


 ヴォルガンの問いに対し、アルベルトは視線を傍らの二人に投げた。

 一人は、鋼のような肉体を持つ辺境伯軍の騎士団長。

 もう一人は、峻烈な戦気を纏った女騎士ヴァレリア。

 彼らが纏う鉄の規律は、この場に漂う緊張感をさらに一段、研ぎ澄まされたものへと変質させる。


「ああ、辺境伯軍二百、ヴォルフスブルク軍二百を連れてきている」


 その回答に、ヴォルガンは意外そうに眉を上げた。

 これから挑むのは、王国を蝕む巨大な膿、ガーディス侯爵領への侵攻である。

 四百という数は、軍勢と呼ぶにはあまりに心許ない。


「それで足りるのか? 辺境伯軍を千騎くらい連れてくるべきだったんじゃないのか?」


「ああ、辺境伯軍は連絡を入れればすぐに応援に駆けつける。だが……」


 アルベルトは言葉を切り、背後の闇に目を向けた。

 そこには、銀髪を揺らし、不気味なほどに凪いだ笑みを浮かべた男――ジャックが立っていた。

 彼の存在は、もはや人のそれではない。

 闇そのものが意志を持って人の形を成したかのような、絶対的な不吉を背負っている。


「はい。ここまできて『海鳥』を出し惜しみはしません。アルベルト様の懐刀である『海鳥』の力、如何なく発揮させてみせましょう」


 ジャックの声音は、冷え切った冬の月光のように透き通っていた。

 その背後には、気配すら殺した無数の『海鳥』の娘たちが潜んでいる。

 彼女たちの刃は、既に標的の喉元を正確に捉えているのだ。


「そうか、ジャックがそう言うのなら戦力は大丈夫なのだろう。私が連れてきた『梟』も使え」


「は。お任せください」


 ヴォルガンの許しを得たジャックは、優雅な角度で目を伏せた。

 王の目である『梟』と、西の影である『海鳥』。

 相容れぬはずの二つの闇が、今、一つの獲物を屠るために交錯しようとしていた。


「さて、次はアイゼンハイド侯爵の件だが……」


 ヴォルガンが視線を移した先には、この峻烈な軍議の場にはあまりに不釣り合いな、異様な情景が広がっていた。

 西側の知性を象徴する男、エーベルハルト・フォン・アイゼンハイド。

 その理知的な執務服の上から、一人の女が絡みつくようにしなだれかかっている。

 フェリシア・ギルガルド。

 彼女から放たれる生命力の横溢は、周囲の冷え切った空気を無理矢理に塗り替えるほどの質量を伴っていた。

 対するエーベルハルトは、石像のように硬直している。

 眼鏡の奥の鋭い知性は霧散し、その瞳には魂の不在を示すような虚無だけが湛えられていた。


「あれはどういうことだ? メリーちゃん」


 ヴォルガンは、顎を摩りながら信じがたいものを見る目で問いかけた。

 傍らで、メリーは深い溜息を吐き、不機嫌そうに肩をすくめた。


「どうもこうもないわよ。姉さまったら、『私の魅力でタジタジにしてやる』とか言ってたくせに、あの男を一目見た瞬間にあのザマよ」


 メリーの冷淡な声音が、静まり返った食堂に響く。

 フェリシアはエーベルハルトの胸元に頬を寄せ、うっとりと目を細めていた。

 合理主義の権化である侯爵を、その圧倒的な「生の輝き」で一瞬にして無力化したのだ。


「まあ、アイゼンハイド侯爵はイイ男だからな。わからんでもない」


 ヴォルガンは愉快そうに喉を鳴らした。

 その背後で、フェリシアに付き従う老侍従が、感極まったように目元を拭う。


「お嬢様が幸せであるのであれば、何よりでございます」


「うむ、アイゼンハイドの跡取りの問題は片付きそうだな。その男は堅物すぎるところが玉に瑕だが、君にかかれば些細な問題だろう、フェリシア嬢」


 ヴォルガンの言葉に、フェリシアは初めて顔を上げた。

 その瞳には、公爵夫人の重責を担う揺るぎない覚悟と、自ら選んだ伴侶を慈しむ、気高い情愛の輝きが湛えられている。


「はい、アイゼンハイド夫人の重責、謹んでお受けいたします」


 彼女の吐息がエーベルハルトの首筋を撫で、男はさらに深く、逃れられぬ絶望の深淵へと意識を沈めていった。

 満足げに頷く王と、生ける屍と化した未来の公爵。

 デムハイトの夜は、軍事的な緊迫と、抗いがたい生の熱狂を孕みながら更けていく。


     ──────


 重厚な石壁に囲まれた食堂に、パチリと薪の爆ぜる音が空虚に響いた。

 暖炉の焔が、卓を囲む者たちの影を壁面に歪に引き伸ばしている。

 ヴォルガンは、その鋭い双眸を長卓の端に座す一人の男へと向けた。


「次はベルン殿、君への依頼だ」


 ヴォルガンの声は低く、王としての重みを伴って部屋の隅々にまで染み渡った。

 しかし、その言葉を受けたベルンが顔を上げた瞬間、室内の空気の密度が予兆もなく劇的に変化した。

 普段の彼が纏っている、春の陽だまりのような温和な空気は微塵も残っていない。

 その瞳に宿るのは、一切の妥協を許さぬ峻烈な光であった。


「依頼……? 僕は王命と言われてここに来たのですが……」


 ベルンの声音は、研ぎ澄まされた薄氷のように冷たく、棘を孕んでいた。

 その豹変ぶりに、傍らにいたメリーが微かに息を呑む。

 ヴォルガンは意外そうに眉を寄せ、背もたれに体重を預けた。


「ここに来てもらい、話を聞いてもらうことが王命だ。その先は依頼だよ」


 王の寛大さを示唆するような言い回しであったが、ベルンはそれを鼻で笑うことすらしない。

 彼は卓上に置いた己の指先を凝視し、絞り出すような声で言葉を続けた。


「その依頼、僕は通り一遍の、可もなく不可もない結果しか返せません。それでも良ければお受けいたします」


 頑ななまでの拒絶の意志。

 それは不敬を通り越し、自らの存在を賭けた宣戦布告に近い響きを帯びていた。

 ヴォルガンは困惑を隠そうともせず、探るような眼差しを向ける。


「どうしたんだ? ベルン殿。まだ依頼の内容も伝えていないのだが……」


 静寂が食堂を支配した。

 ベルンはゆっくりと視線を上げ、正面に座す王を真っ向から射抜いた。

 その眼差しは、もはや一国の王を敬う者のそれではない。

 対等な、あるいはそれ以上の高みから、相手の魂の在り方を問い質す者の目であった。


「王国に仇成すガーディスを駆逐する。旧セレスタイン領を武力で奪還する。そこに僕の出番はないのは明らかです。しかし、陛下はガメル宰相、ガメル・ガーディス侯爵を連れてきている。ガーディス自治区を復興させるんですよね? そのために、僕と宰相に現地の調査をさせる。そうですよね?」


 澱みのない指摘に、ヴォルガンは目を見開いた。

 背後に控える近衛兵たちの鎧が、微かな動揺を反映して硬質な音を立てる。

 王の意図を、一介の商人がこれほどまで正確に、かつ瞬時に読み解くとは。


「……! ……驚いたな。そこまでわかっていたか」


 ヴォルガンの言葉を、ベルンは冷ややかに遮った。


「そのくらいわかりますよ。そして、復興のための最適解もわかっています。もちろん、現地に行く必要はあります。帝国との国境、人口や領地の広さ等、見るべきことはいくらでもあります」


 淡々と、実務的な事実を積み上げるベルンの表情には、依然として消えることのない苛立ちが煤のように沈殿していた。

 ヴォルガンは椅子から身を乗り出し、ベルンの奥底に渦巻く黒い情熱に直接触れようと試みる。


「そこまでわかっていて、何が不満なんだ? 君はさっきから何かに怒っている。不敬は問わない。言ってみないか?」


 ベルンは椅子の脚を鳴らし、スッと立ち上がった。

 王の正面、その手が届く距離まで歩み寄る。

 彼自身の足は、緊張ゆえか微かに震えていた。

 だが、その顔には死をも恐れぬ、凄絶なまでの覚悟が刻まれている。


「最適解はわかっていると僕は言いました。ですが、これは僕にとっての最適解ではありません」


 ヴォルガンは眉間に深い皺を刻み、喉を鳴らした。


「……わからないな。君が見つけた最適解なら、それはもう結論だろう」


 ベルンの唇が、自嘲気味に歪んだ。


「ええ、今回の飢饉を受けての壊滅状況、掘りつくした鉄、麦を作り続けて死んだ土地、この程度は聞いた情報だけで理解できます。そして帝国との国境を跨ぐ立地。結論なんか一つしかありません」


「ふむ。結論は一つしかないとまで言い切るんだ、本当にそれが結論なのだろう。それを教えてはくれないのか?」


 ヴォルガンの問いに対するベルンの回答は、氷の刃となって室内の熱を奪った。


「できません」


「なぜだ?」


 ひと呼吸の沈黙。

 ベルンの双眸から、抑え込まれていた憤怒が、溢れ出す奔流となって解き放たれた。


「陛下が他人任せだからですよ! ガーディス自治区を復興すべきは僕じゃない、陛下だ!」


 突然の激昂。

 周囲の誰もが息を飲んだ。


「あの夜、僕たちは分かり合えたと思っていました。なのに、陛下は最良を見つけようとしない、それどころか目を逸らしている! 陛下が全てを賭けないで復興なんかできるわけがない! 復興には、そこに住む住民の命が懸かっている! 僕たちがどんな想いで西側を復興してきたと思っているんだ!」


 ベルンの叫びが、重厚な石壁を震わせた。

 温厚であったはずの商人の、内臓を引き裂くような怒りに、メリーは目を見開いたまま動けない。

 アルベルトが慌てて身を起こそうとするが、その背後でジャックが静かに、しかし抗いようのない力で彼の肩を押さえ、制した。

 近衛兵たちが不敬の極みとして剣の柄に手をかけるが、ヴォルガンがそれを手で制止する。


 王は、自分を睨みつけるベルンの瞳の中に、己の逃避と未熟さを突きつけられていた。

 食堂を満たす空気は引き絞られた弓弦のように限界まで張り詰める。

 数十秒にも感じられる、濃密で逃げ場のない沈黙。

 ヴォルガンの背筋を冷たい汗が伝った。


「……っ! ……私にもその最適解が見えてしまった気がするよ。なんてことを考えるんだ君は。私にすべてを捨てろというのか?」


 ヴォルガンの声は、微かに震えていた。

 ベルンの指し示した「結論」が、どれほど取り返しのつかない、どれほど絶対的な犠牲を強いるものであるかを、彼は悟った。

 ベルンは揺らぐことのない眼差しで、王の魂の在り方を問い続ける。


「気づきましたか? 最良の、そして自らの手で成し遂げる手段を」


「……ああ、君の考えと同じである保証はない。だが、思い至ったことはある」


「それに全てを賭けますか? 賭けるのであれば、僕は陛下の右腕となって、僕の全てを使ってそれを成し遂げてみせます」


 ベルンの提案は、救済であると同時に奈落への誘いでもあった。

 ヴォルガンは苦渋に満ちた表情で視線を彷徨わせた。


「いや、しかし……。その手段を選ぶということは……」


「最良を選ぶ。それは、他の全てを切り捨てるということです。その覚悟があるのか? と僕は聞いているんです!」


 ベルンの言葉は、もはや怒号ではなかった。

 それは、真理を説く者が発する、峻厳なまでの断罪であった。

 ヴォルガンは拳を強く握りしめ、己の中の矜持と王としての立場を天秤にかける。


「……私はアステリア王国の国王だ。……捨てられない、切り捨てられないものをいくつも持っている。それは天秤にかけられる類のものではない」


 王の吐露は、ある種の正論であった。

 だが、その瞬間、ベルンの内に残っていた最後の理性が爆発的な感情によって上書きされた。


「甘ったれんな!」


 ベルンの右拳が、ヴォルガンの顔面を捉えた。

 鈍い、肉と骨がぶつかり合う衝撃音が食堂に鳴り響く。

 絶対的な権力者であるはずの王が、対応すらできずに椅子から転げ落ち、床の上を無様に転がった。

 誰もが言葉を失い、時間が凍りついた。

 だが、ベルンの怒りは止まらない。


「言ったよな! 選択するということは他の全てを切り捨てるということだと! お前は何も選択していない! 諦めて妥協しているだけだ!」


 ベルンは倒れたヴォルガンに馬乗りになり、拳を振り下ろした。

 王を殴るという、王国の歴史上類を見ない暴挙。

 しかし、その光景には、醜悪な暴力ではなく、魂と魂が剥き出しでぶつかり合う凄絶な美しさがあった。

 アルベルトが駆け寄り、背後からベルンの身体を力任せに引き剥がした。


「やめろ、ベルン殿。どうしたんだ、君らしくもない」


 アルベルトに拘束されながらも、ベルンの肩は激しく上下し、その瞳には依然として修羅の焔が燃え盛っていた。


「わからないんですか? アルさんはメリーさんの傍で何を見てきたんです? 八年間も……」


 ベルンの問いは、アルベルトの胸を鋭く突いた。

 アルベルトは力を込めつつ、静かに、そして重みのある声で応じる。


「わかっている。十歳の頃から八年間、自分の全てを捨てて王国の再建に賭けてきたメリーの決意と覚悟を、俺が知らないわけがない。セレスタイン公爵になることもその一環だ。わかってるさ」


「だったら僕が何に怒っているかわかりますよね? それでも僕を止めるんですか?」


 ベルンの瞳から、一筋の涙のような光が零れ落ちる。

 それは、仲間と共に歩んできた過酷な歳月と、それを踏みにじる「王の甘え」に対する、深い悲しみの表れでもあった。


「わかっている。俺たちは自分の全てを賭けて、人生全てを犠牲にする覚悟で西側の復興をしてきた。そして今、ここに立っている。全ては王国の、国民の未来のためだ。自分は何も捨てる覚悟もないのに、事が成せるなどと思うなと言うんだろう?」


 アルベルトの肯定に、ベルンは微かに力を抜いた。


「はい、大体そんな感じです。……アルさん、もういいんじゃないですか? ここでヴォルガンを斬って終わりにしませんか?」


 空虚なまでの静寂の中で放たれた死の宣告に、食堂の空気は一瞬にして絶対零度へと叩き落とされた。

 近衛兵たちの指先が剣の柄に凍りつき、暖炉の爆ぜる音さえもが、不吉な断頭台の響きを帯びて耳を突く。


 それは、今までの苦難も、得てきたものも全て捨てて諦めるという意味でしかない。

 それほどまでにベルンの失望は大きく、抗いきれない諦念が横たわっていた。

 だが、アルベルトは首を横に振り、ベルンを拘束していた腕を静かに解いた。


「それは、何もかもを諦める『終わり』だ。俺はそんなものは求めていない。ベルン殿の揚げ足を取るつもりはないが、俺にとっての終わりも最良も、俺が自分で決める」


 アルベルトの言葉は、重厚な石壁を伝い、魂の奥底まで染み渡る静かな威厳を湛えていた。

 ベルンは数度深く呼吸を繰り返し、瞳の奥に渦巻く激情の滓を静かに沈殿させると、ヴォルガンへと視線を戻した。


「……そうですね。いつの間にかアルさんがこんなに立派になっていて驚きました。……それに引き換え、ヴォルガン! お前はそれでいいのか?」


 指差されたヴォルガンは、近衛兵の助けを借りずにゆっくりと立ち上がった。

 その口角からは一筋の鮮血が流れ、頬は赤紫に腫れ上がっている。

 だが、その瞳には、先ほどまでの迷いは消え失せ、底知れぬ深淵のような覚悟が宿り始めていた。


「いいわけがない。そこまで言われて、私が日和ったままだとでも思ったか? 見くびるのも大概にしろ。……だが、君の考えに至れなかったのは確かに私が悪い。でもな、簡単に決められないこともある。少しくらい猶予をよこせ」


 ヴォルガンは無造作に袖で血を拭い、ベルンを真正面から見据えた。


「いつまで待てば答えが聞けますか? 時間はありませんよ」


「明日だ。一晩考えさせろ。その前に、答え合わせをさせてくれ。この話を聞いて良いのは私と君、ガメルの三人か?」


 王の問いに、ベルンは小さく頷いた。


「はい。それで構いません。あとで話をしましょう。僕は夜風に当たって頭を冷やしてきます。ジャックさん、『海鳥』を何人か貸してください」


 影の中から二人の娘が音もなく姿を現し、ベルンの背後に付き従う。

 ベルンは一度も振り返ることなく、食堂を去った。

 残された者たちは、開いたままの扉を、ただ呆然と見送るしかなかった。


「陛下、血が……」


 近衛兵が狼狽えながら駆け寄るが、ヴォルガンはそれを笑みすら浮かべて制した。


「よい。お前らもベルン殿を不敬だなどと言うなよ」


「しかし、国王に手をあげるなどと……」


 ヴォルガンは腫れた頬を摩り、窓の外に広がる漆黒の夜の闇をじっと見つめた。


「まあ、前代未聞だよな。だが、彼は西の大商人だ。何の考えもなく激情に駆られたなどと思うのは間違いだぞ。あれは彼なりの真摯な断罪だと思え。……そうだよな、アルベルト」


 ヴォルガンの問いに、アルベルトは深く溜息を吐きながら頷いた。


「ああ、ベルン殿は理屈の通じない相手じゃない。彼があそこまで怒ったのを見たのは初めてだ。お前が悪いとは言わん。だが、拳をもらって何か響くものがあったか?」


「……あったよ。当たり前だ。あそこまで言われて何も響かない朴念仁だと思うか? ……とはいえ、私が彼を失望させたことに変わりはない。あとは私の気持ち次第、か。何とかしたい、しなければ、という……」


 王の独白は、自らへの誓いのようでもあった。


「俺たちはこの問題に関与できない。お前とベルン殿で解決できるんだな?」


「ああ、それは大丈夫だ。だが、私が腹を括った場合、お前との頂上決戦が実現できない可能性も出る。それでもいいか?」


「お前にとって、何よりも優先すべきことであれば、俺のことは考えなくていい。ベルン殿の話じゃないが、最良を目指せ。その結果、何かに不都合が起きても仕方がない、そう思うことができればいいんじゃないか?」


「わかった、感謝する」


 ヴォルガンは短く応じ、食堂から出て行った。

 その背後に、ガメルが震えながらおろおろと付き従う。


 エーベルハルトは、眼鏡の奥の光さえ反射せぬ静止した瞳に、どこか畏怖を込めて扉を見つめていた。


「驚いたな。あれが西の大商人ベルン殿か。彼の見ている先が何なのかわからないが、彼と同じものに思い至らない者は、彼を咎めることも一緒に歩むこともできん。人はあそこまで孤高の存在になれるものなのか」


 畏怖と敬意が混じり合うようなその呟きは、食堂の全員の中へ溶けていった。

 メリーは、アルベルトの傍らで、ベルンが出て行った扉をじっと見つめていた。


「そうね、私も何も言えなかったわ。アル、あなたはベルンが何に思い至ったかわかる?」


「いくつかは思いつく。だが、『いくつか』と言っている時点でダメなんだろうな。彼は最適解、結論は一つと言っていた」


 アルベルトの声音には、友への敬意と、同時に拭いきれない一抹の寂しさが滲んでいた。

 かつてレグスの泥濘を共に這いずり回った仲間は、今や誰も到達できぬ高みへと、一人歩みを進めている。


「……ますます手が届かない存在になっていくわね。昔はあそこまでじゃなかったのに……」


 メリーの呟きは、氷の如き沈黙が支配する食堂の闇へと、静かに溶け込んで消えた。

 卓上には、王が拭い去りきれなかった鮮血の痕が乾きゆく赤黒い月影のように残り、先ほどまでの魂の衝突が残酷な現実であったことを物語っている。

 暖炉の薪は、自らの命を削り尽くすように小さく爆ぜ、最期の残り火が石床の継ぎ目を淡く照らした。

 窓から差し込む冷厳な月光が、アルベルトとメリーの足元に、逃れられぬ運命を暗示するかのような、歪で長い影を落とす。

 それは、血と泥に塗れた平穏の終焉と、二人の若者が歩み出す、眩いほどに苛烈な未来への道標のようでもあった。

 夜の帳が、重厚な沈黙と共にすべてを優しく、そして非情に包み込んでいく。


前話と合わせての話です

相変わらず不定期更新で申し訳ありません

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