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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第61話:鉄屑、二人の王の正義、足が長いシュッとしたイイ男

「デムハイトが落ちたか……」


 煤けた天井から滴り落ちる黒ずんだ脂が、卓上に並んだ濁った酒に波紋を広げた。

 ガーディス侯爵領の片隅、湿り気を孕んだ石造りの壁が、鈍い松明の光を反射して不気味に光る場末の酒場。

 その最奥、陽光の欠片さえ差し込まぬ影の溜まり場で、一人の男が枯れ木を鳴らすような声で呟いた。

 『鉄屑の誓い』のリーダーは、ひび割れた陶器のジョッキを岩のような指で握りしめ、その指先に白くなるほどの力を込めた。

 店内に漂うのは、数十年分の脂と安酒の腐臭、そして絶望を煮詰めたような重苦しい空気である。


「何の予兆もなく、突然の夜襲だったと聞いております。首謀者も不明、デムハイト伯爵の生死も不明です」


 傍らに座る、深いフードで顔を覆った男が、震える声を絞り出した。

 卓の上には、出所不明の獣肉を脂ぎった塩で炒めたつまみが、泥のように盛られた皿の上で鈍く光っている。

 その肉片からは鼻を突くような獣臭さが立ち上り、酒場の澱んだ空気と混ざり合って、吸い込むたびに肺の奥を焦がした。

 男は神経質そうに指を動かし、卓の端に溜まった煤を無意識に弄っている。


「『梟』に潜り込ませている者は? 何か情報を持っていないのか?」


 リーダーの問いが放たれた瞬間、円卓を囲む空気は、冬の底に沈んだ湖のように冷たく凍りついた。

 彼は卓上の肉を乱暴に掴み取り、奥歯で硬い繊維を噛み締めた。

 過剰なまでの塩分が口腔の粘膜を突き刺し、喉を焼くような不快な渇きを煽る。

 リーダーの瞳には、制御しきれない苛立ちと、得体の知れない深淵を覗き込むような昏い光が宿っていた。


「その『梟』ですが、おそらく狩られています。こちらから連絡が取れません」


 メンバーの言葉と共に、男は濁ったエールを喉の奥へ一気に流し込んだ。

 その酒は、この領地が抱える停滞と腐敗をそのまま液体にしたような、喉越しの悪い酸味と苦味が混ざり合っていた。

 王城の深部にまで根を張っていたはずの耳目が、音もなく摘み取られたという事実が、影の中に潜む者たちの背筋に冷たい戦慄を走らせる。


「……ふむ。西の連中だろうな。『梟』を狩り、一夜にしてデムハイト伯爵の館を陥落できる者はそうはおらん」


 リーダーはジョッキの縁を脂ぎった指先でなぞりながら、煤けた天井の隅を見上げた。

 蜘蛛の巣が幾層にも張り巡らされた梁の向こう側に、王国の秩序が音を立てて崩壊していく様を見ているかのような、虚無的な笑みを浮かべる。

 かつては不毛の地と蔑んでいた西側が、今や王国の喉元を食い破る巨大な顎へと変貌している現実に、彼は奥歯を鳴らした。


「どうします? デムハイトを獲られたのはだいぶマズい状況ですが……」


 別のメンバーが、卓の上で短剣の切っ先を弄びながら、抑えきれない焦燥を声に滲ませた。

 酒場の中央では、泥酔した男たちが下卑た歌を歌い、椅子を叩いて騒いでいる。

 しかし、その喧騒ですら、この一角を支配する死の予感に満ちた沈黙を揺らすことはできなかった。

 男は皿の隅に転がっていた、泥の付いたまま茹でられた丸芋の破片を口に運んだが、その味を咀嚼する余裕すら失っていた。


「どうにもできんな。西の連中の犯行だとすれば、アイゼンハイド侯爵とオルコット辺境伯がバックにいる。なにより、一番の不確定要素であるアルベルト・アステリアの動向もわからん」


 リーダーは、もはや砂を噛んでいるかのような無味乾燥な肉を嚥下し、低く唸った。

 アルベルトという名の劇薬が、王国の全土にどのような化学反応を引き起こしているのか。

 その全貌が見えないことへの恐怖が、熟練の工作員である彼の判断を鈍らせていた。


「しかし、このままでは我々の喉元にも……」


 不安を吐露したメンバーを、リーダーは射抜くような鋭い眼差しで制した。

 彼は脂ぎった手を汚れた布で拭うこともせず、卓の上に広げられた、手垢で黒ずんだ地図を指差した。


「そうだな。他領の兵がデムハイトを襲撃した。なので、ガーディス領は兵を挙げて反撃する。こういう筋書きにするしかないだろうな」


 リーダーの唇が、歪な曲線を描いて吊り上がった。

 真実が何であるかなど、この闇の底では何ら価値を持たない。

 ただ、西側を「不当な侵略者」として仕立て上げ、正義の旗印を掲げるための口実さえあれば、民衆を煽り、軍を動かすことができる。


「レイモンド伯に要請しましょう。その間、我々は情報を集める。まず、デムハイトの動向を監視します」


 メンバーの一人が深く頷き、追加の酒を注文するために手を挙げた。

 運ばれてきたのは、さらに質の悪い、獣の体臭が混じったような安物のエールであった。

 彼らはその不快な液体を、己の内に渦巻く黒い意志を飲み込むかのように、無言で煽った。


「そうしてくれ。ヴォルガンがアルベルトをさっさと潰してくれればこんな話にはならなかったのにな。ガメルは何をやっているんだ、あの役立たずめ」


 リーダーは吐き捨てるように言い放ち、拳で卓を激しく叩いた。

 ひび割れた陶器の皿が悲鳴を上げ、濁った酒の飛沫が卓上に散らばった。

 国王ヴォルガンの優柔不断さと、宰相ガメルの無能さへの呪詛が、重苦しい空気の中に溶けていく。


「レイモンド伯に要求させるしかないでしょうね。我々が表に出るわけにはいきません」


 影の中に潜み、他者を操ることでしか己の存在を誇示できぬ者たちの囁き。

 それは酒場の喧騒にかき消され、誰の耳に届くこともなく霧散していく。


「ミディア姫もさっぱり動かなくなったしな。歳のせいか?」


 リーダーの嘲弄を含んだ問いに、メンバーは冷ややかに鼻で笑った。

 彼は卓の上にこぼれたナッツを拾い上げ、奥歯で粉々に噛み砕いた。

 乾燥した破片が喉に張り付き、彼は短く、不快そうな咳を漏らした。


「ミディア様はどうすることもできないですね。王宮から出てこない、連絡用の『梟』も音沙汰無し、息災でおられるかも不明であれば、ミディア様はいないものと考えて動くしかないでしょう」


 かつての野心に燃え、王国そのものを食い破ろうとしていた王太后の姿は、もはや影も形もない。

 王宮の最深部で朽ち果てていく過去の遺物。

 それが、現在の彼女に対する冷酷な評価であった。


「くそっ! この飢饉で王国が疲弊すれば、一気に王国の崩壊まで持っていけたはずが……」


 リーダーは無言で、塩辛いナッツの山を鷲掴みにした。

 硬い殻が砕ける鈍い音が、沈黙の中に響き渡る。

 彼らにとって、この王国を襲った未曾有の大飢饉こそが、古い秩序を根底から覆す絶好の好機であったはずだった。


「すべては西ですね。帝国との休戦も西の手によるもの。陛下がアルベルト殿下を仕留められなかったのがすべての原因……」


 メンバーの呪詛は、冷え切った空気の中に溶け込み、消えていった。

 西側の驚異的な復興と、それを支える強固な供給網。

 それは、彼らが長年かけて築いてきた崩壊への筋書きを、無慈悲に塗り替えてしまった。


「それは言っても仕方ない。それに、西はアルベルトだけではない。アルベルトを暗殺できれば西は崩壊するか? しないだろう?」


 リーダーの眼差しに、深い苦渋が滲んだ。

 彼は空になったジョッキを、卓に叩きつけるように置いた。

 陶器の底が石の卓とぶつかり、鈍い音が周囲の会話を一瞬だけ沈黙させた。


「しないでしょうね。西はあまりにも盤石すぎます。誰かキーになる人間を始末しようとしても、キーになる人間が多すぎます。本命がアルベルト殿下である保証もない」


 西側を支えているのは、もはや一人の英雄ではない。

 政治、軍事、暗部、経済、物流。

 それぞれの分野で突出した才を持つ者たちが、一糸乱れぬ連携で巨大な意思の集合体を形成している。


「アイゼンハイド兄弟、オルコット辺境伯、ブラッドレイ子爵、そして西の大商人ベルン、か? 主要な人物はこのくらいだろう?」


 リーダーが一人ずつ名を挙げると、円卓の周囲の温度がさらに数度下がったかのように感じられた。

 その時、これまで沈黙を守っていた工作員の一人が、鞄から一冊の冊子を丁寧に取り出した。

 それは、この酒場の煤けた汚れを一切拒絶するような、異様な輝きを放っていた。


「この娘も主要メンバーだと思われます」


 男が卓の上に置いたのは、『祝! メリーちゃん十八歳。大人の装い編』という、鮮やかな色彩で彩られた画集であった。

 脂ぎった肉と安酒の匂いが支配する場には、あまりにも不釣り合いな、輝くような少女の微笑みがそこにあった。

 その瞳は、まるでこの汚泥に満ちた場所を嘲笑うかのように澄み渡っている。


「何故そんなものを持ち歩いているんだ? お前、『メリーちゃん』のファンなのか?」


 リーダーの眉間には、深い深い不快の皺が刻み込まれた。

 彼はその画集を、まるで穢らわしい汚物でも見るかのような目で見つめた。


「これを持ち歩いていれば、『メリーちゃん』愛好家の一般市民であると偽装できます。自分の身を守るために必要な措置だとお考え下さい」


 工作員は、寸分の揺らぎもない真剣な眼差しで答えた。

 リーダーは毒気を抜かれたように、しばし絶句した。

 少女の無垢な瞳は、彼の魂の奥底にある醜い欲望を見透かしているかのように、残酷なまでに明るかった。


「なるほど、それは名案だな。『鉄屑の誓い』のメンバー全員にそのように通達しよう。……というか、この娘はメリュジーヌ・ギルガルドじゃないのか?」


 リーダーは脂ぎった指でページを捲り、そこに描かれた少女の容姿を食い入るように凝視した。

 上質な紙が立てる硬質な音が、酒場の喧騒を鋭く切り裂いた。


「まさか。メリュジーヌ嬢は宰相の妹を潜入させて始末したはず。……しかしこの髪、この瞳は……」


 他のメンバーも身を乗り出し、食い入るように画集を覗き込んだ。

 彼の指先が、少女の肖像の上で微かに震えているのを、リーダーは見逃さなかった。


「セレスタインではないのか? 要調査だな。セレスタインの娘を十年近くも見過ごしていたとなると大失態だぞ」


 リーダーの声が、怒りと底知れぬ恐怖で震え始めた。

 もしこの少女が、かつて自分たちが根絶やしにしたはずのセレスタイン公爵家の正当な継承者だとしたら。

 彼は画集を強く握りしめ、その美しい表紙を歪ませた。


「はい、調査させます」


 その密談を遮るように、一人の女が近づいてきた。

 酒場の給仕だ。

 彼女は片手に空のジョッキを抱え、もう一方の手で男たちの卓を乱暴に指差した。


「ちょっと、そこのお客さん」


「なんだ?」


 工作員が慌てて画集を懐へ隠そうとするが、給仕の女は素早く卓に手を突き、身を乗り出してきた。


「それ、『メリーちゃん』の新作画集じゃないかい? ちょっと見せておくれよ」


 女の声は、酒場全体の喧騒を切り裂くほどに高らかで、力強かった。

 周囲の客たちが、一斉にこちらを振り返る。

 リーダーの背中に、嫌な汗が流れた。


「ダメだ! これを入手するのにどれだけ苦労したと思ってるんだ」


 工作員は画集を胸に抱え込み、必死に守ろうとした。

 その形相は、国家の機密を守る時以上の必死さに満ちていた。

 そのあまりの気迫に、周囲の客たちはさらに興味を惹かれ、席を立ち始めた。


「何!? 『メリーちゃん』の新作画集? よく入手できたな、オレにも見せてくれ」


 酒場の中心にいた、泥酔した男たちが雪崩のように押し寄せてきた。

 先ほどまでの絶望と不穏に満ちていた空気は瞬時に霧散し、そこには一人の少女の幻影を追い求める、狂気にも似た熱狂だけが渦巻いていた。


「やめろ! キタナイ手で触るな!」

「金出すから売ってくれよ」

「売らん! たとえ相手が領主様であろうと売ってたまるか!」


 円卓の周囲は、怒号と懇願が入り混じる混沌とした騒ぎへと変貌した。

 リーダーは、目の前で繰り広げられる滑稽な光景を、どこか得体の知れない確信を持って見つめていた。

 押し寄せる客たちの熱気が、酒場の温度を急上昇させていく。


(……なるほど、『メリーちゃん』のファンを装うのは名案だな。これなら西の諜報部隊にも我々の素性を隠せるか?)


 彼は狂騒に包まれる酒場の真ん中で、冷え切って脂の固まった肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。


     ──────


「待たせたな。全員揃っているか? アルベルトは?」


 ヴォルガンの声が、重厚な扉を押し開けて食堂へと響き渡った。

 鎧の擦れる硬質な音が静寂を切り裂き、広々とした空間に鋭い緊張を撒き散らす。

 五日前に凄惨な駆除が行われたデムハイト伯爵邸の食堂は、今は西側の重鎮たちが集う密談の場へと変貌していた。

 剥がれかけた豪華な壁紙の隙間からは、石造りの壁が冷気と共にその素顔を覗かせている。

 部屋の隅に漂うのは、消しきれないわずかな血の匂いと、新しく焚かれた暖炉の薪が爆ぜる乾いた音だけだった。


「いるぞ」


 食堂の奥、影に沈んだテーブルの端で、一人の男が静かに手を挙げた。

 アルベルト・アステリア。

 かつての第一王子であり、今は王兄殿下として王国の西側に街道網を敷く、道を造る王である。

 ヴォルガンは大きく一歩を踏み出し、テーブルの反対側にまで歩み寄る。

 その背後では、屈強な近衛兵たちが、獲物を狙う鷹のような眼差しで周囲を圧していた。


「どうだ? あれからガーディスに動きはあるか?」


 ヴォルガンの問いは、単なる確認以上の重みを持って空気を震わせる。

 アルベルトは視線を上げ、かつて玉座を奪った異母弟の顔を正面から見据えた。


「ここ三日くらい、特に動きはない」


 その声音には、焦燥も敵意も混じっていない。

 ただ、淡々と現状という事実のみを差し出すような、透明な響きがあった。


「そうか? 『海鳥部隊』は機能しているのか? たった今、こんなのを捕まえてきたぞ」


 ヴォルガンが短く顎で合図を送る。

 近衛兵たちが、引きずってきた二つの物体を床へと無造作に放り出した。

 鈍い音が響き、それは冷え切った死体となって石畳の上に転がった。


「『梟』に混ざっていたガーディスの斥候だ。もうちょっと周囲を警戒させろ。情報が洩れていいことなど一つもないぞ」


 ヴォルガンの冷酷な忠告が、場にさらなる冷気をもたらした。

 王城の目である『梟』の網の目さえもが、不気味な組織に侵食されている。

 その事実が、この邸宅が未だに安全な聖域ではないことを物語っていた。


「は。そこは私にお任せください」


 ヴォルガンの背後、揺らめく影そのものが形を成したかのように、ジャックが姿を現した。

 彼は音もなく死体の傍らへ膝をつき、その懐を素早い手つきで探る。

 銀髪を揺らし、獲物を仕留めた後の狩人のような、不気味なほどに凪いだ笑みを浮かべていた。


「それから、この男がガメルだ」


 ヴォルガンが傍らで震える、仕立ての良い法衣を纏った男を指差した。

 宰相ガメル。

 王国を蝕む膿の一部として、メリーたちがその首を狙っていたはずの男である。


「ガメル!?」


 メリーの瞳が驚愕に見開かれた。

 彼女の指が、無意識にテーブルの端を強く掴む。

 室内には剣を抜く直前のような殺気が充満した。


「メリー様、ガメル宰相は敵ではありません。いえ、ヴォルガン陛下が敵であるならガメル宰相も敵なのですが……」


 ジャックが立ち上がり、衣服の埃を払うような優雅な動作で言葉を挟んだ。

 その言葉の裏にある「使い勝手の良い道具」としての評価を隠そうともせず、彼はメリーへと穏やかな眼差しを向ける。


「敵じゃない? つまり、王国に仇を成すガーディスとは違うということ?」


 メリーは不審を隠そうともせず、ガメルを凝視した。

 ガメルは蛇に睨まれた蛙のように硬直し、必死に酸素を求める魚のように口を動かしている。

 その矮小な姿は、国を裏から操る巨悪というよりは、嵐に翻弄される木の葉のようであった。


「その通りでございます」


 ジャックの短い肯定が、メリーの疑問を一時的に封じ込める。


「よくわからないけど、あとでちゃんと説明してくれるんでしょうね?」


 メリーは溜息をつき、疑念を心の一片に留めるに留めた。


「ああ、今は捨ておけ」


 ヴォルガンが遮るように言い、アルベルトへと向き直った。

 王としての威厳が、小さな食堂を巨大な戦略図へと塗り替えていく。


「さて、アルベルト、状況は把握しているか?」


「ああ、メリーから聞いた。旧セレスタイン領を奪還し、セレスタイン公爵家を再興させるんだってな」


 セレスタイン。

 かつて無惨に滅ぼされ、王国の歴史から消されたはずの名。


「そうだ。そのために、お前はレイモンド伯爵を討て。もちろんメルキオール子爵、ヘルムート男爵もだ」


 ヴォルガンの命令は、血塗られた粛清の号令であった。

 ガーディスに侵された貴族たちを根こそぎ刈り取る。

 それは、国という肉体を救うための、峻烈な切除手術であった。


「ガーディス侯爵領は?」


「ガメルの直轄領は王国に返還させる。そこは気にしなくていい」


 ヴォルガンは一顧だにせず言い放った。

 隣でガメルが「ひっ」と短い悲鳴を漏らしたが、誰一人として彼を顧みる者はいなかった。

 借り物の爵位も、奪った領地も、王の言葉一つで霧のように消え去る。


「わかった。名目は何にするんだ?」


「王国に仇成すガーディスの駆逐、そして、西からの食糧輸送の妨害の罪だな。国王である私が許可するんだ。名目など何でもいいだろう」


 ヴォルガンの言葉には、絶対的な権力者としての、残酷なまでの合理性が宿っていた。

 正義とは、常に強者が定義するものである。


「そういうわけにはいかない。俺たちを利用してガーディスを駆逐した後、反逆の罪に問われたんじゃかなわない」


 アルベルトは視線で王を射抜いた。

 彼は知っている。

 政治という魔物が、いかに容易く梯子を外し、忠臣を逆賊へと仕立て上げるかを。


「何を言っているんだお前は。そもそもお前たちは王国への反逆者だろうが」


 ヴォルガンの冗談めかした、しかし真実を含んだ言葉に、食堂を囲む兵たちの槍が、微かな共鳴音を立てた。


「それは……」


「冗談だ。お前たちは王国の救世主だ。いまさら反逆罪に問えるわけがない。セレスタイン公爵家を再興できたら、その時こそ私たちの決着をつける時だ」


 ヴォルガンの瞳には、深い疲労と、それ以上の期待が混在していた。

 それは、誰にも理解されない孤独な巡礼のようでもあった。


「ああ、メリーから聞いている。そんなに俺に討たれたいのか?」


 アルベルトの問いに、ヴォルガンは初めて微かな笑みを浮かべた。

 それは、かつて幼い頃に訓練場で剣を交えた時のような、どこか懐かしい響きを伴っていた。


「討たれたいわけじゃない。だが、私は王国の『今』を守る王、お前は王国の『未来』を創る王だ。これからの王国に必要なのはお前だよ。私ではない」


 王の独白は、重厚な石壁に染み込み、消えていく。

 現在の平穏を、自らの血と汚れで守り抜く男。

 そして、その上に未来を築く男。

 二人の王の正義が、互いを認め合いながらも、決して交わることのない平行線を描いている。


「お前はそれで納得できるのか?」


「納得できるわけがない。誰が好き好んで討たれたがるか。国王の座を譲ることに抵抗がないわけがないだろう」


 ヴォルガンは吐き捨てるように言い、空になった胃を不快そうに摩った。

 権力への執着も、一国の王としてのプライドも、彼は捨ててはいない。

 ただ、それ以上に「王国という器」を愛しているがゆえの、不器用な選択であった。


「……そうだよな。俺もお前からすんなり国王の座を譲ってもらえるとは思っていない」


 アルベルトは静かに頷いた。

 二人の間に流れるのは、言葉を超えた確信であった。

 決着は、血を流さずには成し得ない。

 そして、その犠牲を払う覚悟は、二人とも既に持っていた。


「なんにせよ先の話だ」


「一年、二年後くらいか?」


「そうだ。飢饉を脱する、ガーディスを駆逐する、公爵家を再興させる。これらが全て成し遂げられないと話にならない」


 ヴォルガンは指を一本ずつ折り、目の前の高い壁を数え上げた。

 王国に巣食う闇を払い、飢えに喘ぐ民を救う。

 その壮大な事業の果てにしか、彼らの終着点は存在しない。


「そうだな。足元を固めなければ、未来の話は意味がない。……わかった、最善を尽くそう」


 アルベルトの宣言と共に、場の空気がわずかに和らいだ。

 戦略的な同盟が、この冷え切った食堂で正式に結ばれた瞬間であった。


「話は変わるが、男の子はできたのか?」


 不意にヴォルガンの声が和らぎ、世俗的な世間話へと移行した。

 王という重い外套を一時的に脱ぎ捨てた、一人の叔父としての顔。


「ああ、二人目は男の子だった」


「良くやった。これで跡継ぎ問題は解決だな。大切に育てろよ」


 ヴォルガンは満足げに頷き、その大きな掌をテーブルに置いた。

 王家の血筋が絶えることへの焦燥が、彼の中で一つ消えたようだった。


「ああ、努力する。辺境伯領も協力してくれるしな」


「うむ、だがまだ足りないな。メリーちゃんと子供を作るっていうのはないのか?」


 ヴォルガンの奔放な問いかけが放たれた瞬間、食堂にいた全員の動きが止まった。


「ないわよ!」


 メリーが即座に、鋭い一喝でそれを否定した。

 彼女の頬がわずかに紅潮し、怒りと呆れが入り混じった眼差しが王を射抜く。


「趣味の問題か? どんな男が好みなんだ?」


 ヴォルガンは愉しそうに目を細め、さらに追及を重ねる。

 それは、死線を潜り抜けてきた者たちに許された、束の間の滑稽なやり取りであった。


「……そういう問題じゃないわよ。でも、あえて言うなら、背が高くて足が長くて、シュッとした理知的なイイ男、かしら?」


 メリーは視線を泳がせ、不機嫌そうに言葉を絞り出した。

 それは、理想というよりは、現状の鬱屈した状況から最も遠い存在を挙げただけのようにも聞こえた。


「……照れますな」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ジャックがすっと背筋を伸ばした。

 彼は胸に右手を当て、優雅な角度で目を伏せる。

 暖炉の火が彼の銀髪を照らし、その端正な横顔を劇的な陰影で彩っていた。

 確かに、ジャックは背も高く足も長く、外見だけを見ればシュッとした理知的なイイ男であったが。


「お前じゃねーだろ!」

「年齢を考えろ!」

「まだ枯れてねーのか!」


 怒号のような非難が、全方位から降り注いだ。

 近衛兵たちですら、あまりの自意識の高さに表情を崩しそうになっていた。


 ジャックはそれらの罵声を、最高級の称賛であるかのように涼しい顔で受け流し、再び影の中へと身を引いた。

 その滑稽な狂騒が、デムハイトの凍てつく夜を、わずかばかりの熱で溶かしていった。


この後、エーベルハルトとベルンとの会話もあるんですが、文字数的に次話に回しました

中途半端に感じたのであれば、原因はそれです

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