第60話:王城、『梟』と『海鳥』、王都をも汚染するメリーちゃんの影
「どうだ王城は? 懐かしさとか感じるのか?」
天を衝くアステリア王城の正門が、数世紀の重みに耐えかねたような呻きを上げ、ゆっくりとその口を開いた。
国王ヴォルガンの声は、高い天井に反響し、静謐そのものだった空間に波紋を広げた。
彼の歩みは淀みなく、背後に従う近衛兵たちの鎧が擦れる硬質な音が、儀式めいたリズムを刻んでいる。
その隣を歩く男、ジャックの足音は驚くほどに静かで、まるで石畳の上を滑る影のようであった。
「はい。王城には私の部屋もありましたし、王城生活は長かったので……」
窓から差し込む斜陽が、彼の頬に深い陰影を落とし、かつてこの場所で過ごした膨大な時間を物語っていた。
壁に掛けられた歴代国王の肖像画が、無機質な眼差しで二人の通過を見守っている。
ヴォルガンは前方を見据えたまま、薄く唇を歪めた。
「そうか。お前の部屋は、お前が引き継いだ影務官が使っている。お前が仕込んだだけあって優秀な奴だ」
「そうですか。彼もそろそろ引退してもいい歳でしょう。陛下の側近にしてはいかがですか?」
ジャックは、城内の冷え切った空気を切り裂くように、平然と提案を口にした。
ヴォルガンは足を止めることなく、重い軍靴の音を響かせて進む。
「そうもいかん。後任の影務官の候補はなかなかおらん。 どこもかしこも後継者問題は頭が痛いな」
王の言葉は、回廊の奥へと吸い込まれ、深い残響となって返ってきた。
広大な王国を支えるための柱が、内側から腐食し、崩れ去ろうとしている現状。
その焦燥を、王はただ静かな言葉の中に押し込めていた。
「陛下がそれを言いますか……」
ジャックの呟きに対し、ヴォルガンは不意に立ち止まり、長い回廊の消失点を見据えた。
玉座の間へと続くその道は、果てしなく遠く、孤独な色に染まっている。
「私は跡取り問題の解決法を提示したぞ。アステリア、アイゼンハイド、セレスタイン、この三家があれば問題あるまい」
ヴォルガンの声には、一国の運命を盤上の駒として動かさんとする、苛烈なまでの覇気が宿っていた。
アイゼンハイド、そしてセレスタイン。
王国を支える巨大な柱を、無理やりにでも再建しようとする王の執念が、震える空気となって伝わってくる。
「そうですが……」
ジャックの言葉は、石造りの壁に跳ね返り、空虚に消えた。
ヴォルガンは再び歩き出し、窓の外に広がる王都の街並みへと視線を投げた。
そこには、かつての灰色一色だった風景を塗り替える、異質な色彩が蠢いていた。
「それより、気づいたか? 王都に入ってからここまで、何人もの女性が『メリーちゃん』ブランドのドレスを着ていただろう」
王の声には、理解を超えた現象に対する困惑が滲んでいた。
堅牢な城壁に囲まれた王都に、突如として現れた鮮烈なピンクや薄紫色の飛沫。
高貴な淑女たちが、西側の少女を模した意匠を競うように身に付けている異様な光景を、ヴォルガンは静かな侵略の予兆として捉えていた。
「陛下も気づかれましたか。王都に潜入させた『海鳥』たちに密かに布教させていたものです。さすが王都の女性。お目が高く、着こなしも完璧です」
ジャックの顔に、恍惚とした、それでいて狂信的な光を湛えた笑みが浮かんだ。
その瞳は、もはや目の前の王ではなく、遥か西の港町に君臨する、愛すべき主のみを見つめている。
誇らしげに胸を張るその姿は、かつての男とは決定的に異なる何かを宿している。
「お前は何をやっているんだ!? 隠密部隊を王都に潜入させて、やっていることは『メリーちゃん』ブランドの浸透か? それでいいのか?」
ヴォルガンの呆れ声が回廊に木霊し、整列した近衛兵たちの槍が、微かな共鳴音を立てた。
国家の命運を左右するはずの諜報活動が、少女を崇拝するための広告活動へと変質している事実に、王の理性が悲鳴を上げる。
しかし、ジャックはその指摘を春のそよ風でも受け流すかのように泰然としていた。
「は。気高く高潔なメリー様の美しさを万民に知らしめる。これ以上の名誉な仕事がございますでしょうか」
ジャックの声には、一抹の迷いも、一点の曇りもなかった。
彼にとって、王国の存続も、王の権威も、すでにメリーという唯一無二の光を際立たせるための背景に過ぎない。
その瞳に宿る狂気は、闇を歩む者特有の鋭さを超え、絶対的な救済を見出した巡礼者の熱情へと昇華されていた。
「本気で言ってそうで怖いよ。最終目標はアステリア王国の国旗をあのピンクの旗にすることとか言うんじゃないだろうな」
ヴォルガンが吐き捨てるように放った言葉に対し、ジャックはゆっくりと、しかし力強く頷いた。
差し込む夕日が、ジャックの影を長く歪に引き延ばし、城壁の隅々まで侵食していく。
「その通りでございます。 王国の民すべてに遍く寵愛を与える旗印として、あれほど相応しいものはございません」
ジャックの答えは、揺るぎない断定として突きつけられた。
背後に控える近衛兵たちが、その不敬極まる言葉に息を呑み、動揺した視線をさまよわせる。
鋼の規律によって守られてきたこの城が、一人の少女への狂信という、目に見えぬ暴力によって、音もなく崩壊し始めているかのようだった。
回廊を包む荘厳な静謐が、滑稽なまでのピンク色の妄執に塗り替えられていく幻想的な恐怖が、その場を支配した。
「お前、変わったな……」
ヴォルガンは、天を仰いで大きな溜息を漏らした。
王は再び歩き出したが、その背中は、先ほどよりもわずかに重く、夕闇の中に沈んでいった。
──────
「おかえりなさいませ。陛下」
長い回廊の突き当たり、アステリア王国の権威を象徴する玉座の間の巨大な扉が、重々しい音を立てて左右に開かれた。
広大な空間の奥、一段高く設えられた空の玉座の傍らに、一人の男が彫像のように佇んでいる。
男はヴォルガンの姿を認めるや否や、深々と腰を折り、計算し尽くされた角度で恭しく敬礼を捧げた。
天井から注ぐ柔らかな光が、彼の磨き上げられた靴の先を冷ややかに照らし出している。
「うむ。変わりはなかったか」
ヴォルガンの問いかけは、広大な空間を支配する沈黙を切り裂き、高いドーム状の天井へと吸い込まれていく。
彼は歩みを止めることなく、玉座に向かって真っ直ぐに突き進み、その背後では近衛兵たちが一糸乱れぬ動きで左右に散り、壁際に陣取った。
「は。問題ございません」
宰相ガメルの答えは、淀みなく、そして一切の感情を排したかのように滑らかであった。
彼は顔を上げ、王の隣に立つ見慣れぬ男、ジャックへと視線を向けた。
その瞬間、ガメルの瞳に微かな揺らぎが生じ、整えられた眉が不自然に跳ね上がるのを、ヴォルガンは見逃さなかった。
ヴォルガンは玉座の前で足を止め、傍らに立つガメルを顎で示した。
「ジャック、これがお前たちの標的、ガメルだ」
王の宣言は、まるで死刑宣告のように冷たく、広間に響き渡った。
ジャックは表情を変えることなく、ただ静かにガメルへ向かって一歩踏み出し、洗練された動作で恭しく敬礼を捧げる。
ガメルの顔から急速に血の気が引き、喉の奥で乾いた音が鳴る。
「ジャック!? あの伝説の影務官がなぜ陛下と一緒に?」
ガメルの声は微かに震え、その視線はジャックの足元から頭の先までを、信じがたいものを見るかのように彷徨った。
伝説という言葉が持つ重みが、ガメルの肩にさらなる荷重を加えているかのようであった。
ヴォルガンは薄く笑みを浮かべ、その瞳に鋭い光を宿らせた。
「私が呼んだ。ガメル、『梟』を呼べ。ジャックは王城に潜入させている『海鳥』を集めろ。ガメルが呼んでいるとでもしておけ」
王の命令が下ると同時に、ジャックは無言で頷き、背後に控えていた一人の少女に目配せを送った。
少女は風に舞う花弁のような軽やかさで広間を駆け抜け、漆黒の闇へと消えていく。
広間に漂う緊張感は、期待と恐怖が入り混じった異様な熱量へと変質し、壁に飾られた旗印が微かに震えた。
やがて、音もなく、玉座の間のあちこちから人影が姿を現し始めた。
王城の深部に根を張っていた『梟』たちが、主の呼びかけに応じるように次々と集結していく。
同時に、側面の小扉からは、侍女の制服を纏った者、文官の法衣を身に付けた者、そして清掃作業に当たる下働きの姿をした者たちが、整然とした足取りで現れた。
彼らは一様に、その瞳の奥に鋭い光を隠し持ち、一人の主に対する狂信的な忠誠を全身から放っている。
「近衛兵と『梟』は左手に並べ。ジャックと『海鳥』たちは右手に並べ」
ヴォルガンの号令が、広間に集まった者たちの動きを瞬時に統制した。
左側には、鋼の鎧に身を固めた近衛兵と、闇を纏った『梟』たちが、峻烈な規律を体現するように居並ぶ。
対する右側には、色とりどりの衣装を纏いながらも、その指先には死の匂いを漂わせる『海鳥』たちが、一糸乱れぬ動作で列をなした。
ジャックの護衛として付き従ってきた者を除いても、その数は十人を優に超えている。
ヴォルガンは、整列した『海鳥』たちの顔ぶれを一人一人確認するように視線を走らせ、やがて愉快そうに肩を揺らした。
「……ふ。ふはははは。面白いな。これだけの人数の『海鳥』が王城に潜入しているのに、誰も気づかなかったのか? ガメル」
王の哄笑が、ガメルの背筋を凍りつかせた。
ガメルは額に浮かんだ冷や汗を拭うことも忘れ、ただ呆然と、左右に分かれた異様な軍勢を見つめている。
周囲の近衛兵や『梟』たちもまた、平然と隣り合っていた同僚や侍女たちが、実は敵対勢力の尖兵であったという事実に、隠しきれない動揺を視線に滲ませた。
「は。申し訳ございません」
ガメルは消え入るような声で謝罪を口にし、その膝は目に見えて震えていた。
自らの足元が、知らぬ間に底なしの沼へと変貌していたという事実は、彼から宰相としてのプライドを根こそぎ奪い去った。
ジャックはガメルの狼狽を冷ややかな眼差しで見据え、淡々と言葉を紡ぐ。
「気づかれないからこその潜入・諜報部隊でございますので……」
その声音には、自負というよりも、ただ事実を述べているに過ぎないという乾いた響きがあった。
ヴォルガンは再びジャックへと視線を戻し、試すような問いを投げかける。
「暗殺部隊も混ざっているのだろう? 手を挙げてみろ」
ジャックが微かに顎を引くと、右側に並んだ『海鳥』たちの半数近くが、迷いなくその右手を高く掲げた。
清楚な侍女や、柔和な表情を浮かべていた文官たちの手が、一斉に天を指す光景は、見る者に背筋の凍るような戦慄を植え付ける。
その指先は、いつでも喉元を掻き切る準備ができていることを示していた。
「こ、こんなに……」
列に並んでいた一人の影務官が、堪えきれずに驚愕の声を漏らした。
日々、同じ空気の中に潜みながら、その牙の鋭さに全く気づいていなかったことへの屈辱と恐怖が、彼の表情を歪ませる。
ヴォルガンは、その混乱を愉しむかのように深く頷いた。
「そうだ。我々は生かされていたとも言える。ジャックの指示一つで我々の首は飛んでいた」
王の言葉は、その場にいた者たちに、死がどれほど身近に存在していたかを痛感させた。
近衛兵たちが槍を握る手を強め、鋼の擦れる音が悲鳴のように響く。
ヴォルガンは一歩、震えるガメルの前へと踏み出した。
「そのジャックたちが標的にしているのがガメル、お前だ。ガーディスの親玉の首を獲るそうだぞ」
突きつけられた言葉に、ガメルは崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、混乱に満ちた声を上げた。
「ガーディスの親玉? 私が?」
その問いに答えたのは、ヴォルガンではなく、一歩前に進み出た『海鳥』の一人であった。
彼女はおさげの髪を揺らし、王の許可を求めて静かに挙手する。
「発言よろしいでしょうか」
「よい」
ヴォルガンの許しを得て、少女は端的に答えた。
「宰相はガーディスの親玉ではございません。こう言っては失礼ですが、ガーディスの小間使いかと」
少女の断言は、ガメルの自尊心を完全に粉砕した。
広間にいた者たちの間に、失笑とも驚愕ともつかない奇妙なざわめきが広がる。
ヴォルガンは、その答えを待っていたと言わんばかりに、低く唸るような声を漏らした。
「そうだ。ようやく真実に辿り着いたな。ガメルは私に忠実なだけの小物だ。だが、仕事はできる。ガーディスというだけで消されては困るのだ」
「は」
ジャックの短い応諾が、場の空気を再び引き締めた。
王と影。
二人の間に流れる暗黙の合意が、新たな標的を浮き彫りにしていく。
その時、左側の列から一人の『梟』が進み出た。
「ガーディスの親玉というべき人物は判明しておりませんが、『鉄屑の誓い』という組織がそれであることはわかっております」
その言葉が放たれた瞬間、広間の温度がさらに数度下がったかのような静寂が訪れた。
未知なる深淵。
王国の根幹を蝕む、真の病理の名。
ヴォルガンはその名を噛み締めるように目を細め、広間全体を見渡した。
「その情報を擦り合わせさせるためにジャックたちをここに呼んだ。『梟』と『海鳥』は作戦会議室を使って情報の擦り合わせをしろ。ジャックと近衛兵は残れ。ガーディスの反乱に備える。第一軍を動かすぞ」
「第一軍を、ですか? 第一軍を動かすと帝国に……」
近衛兵の言葉には、国家間の均衡が崩れることへの切実な懸念が籠もっていた。
しかし、ヴォルガンの決意は微塵も揺らぐことはない。
「なに、出兵させるわけじゃない。第一軍は王都の警備と護衛だ。だが、守るべき要所はいくつもある。第一軍以外の配置を決めよう」
「は。各隊の隊長を呼びます」
近衛兵たちは一斉に敬礼し、それぞれの任務を遂行するために散っていった。
ヴォルガンは深く溜息をつき、玉座の肘掛けに置いた自らの手を見つめた。
その掌には、目に見えない無数の責任という名の枷が食い込んでいるかのようであった。
「ジャック、お前たちが軍務局長と将軍を引き抜いたせいで、見ての通り大変だ。少しは手伝え」
王の皮肉混じりの言葉には、かつてのような鋭い棘はなく、どこか親しい友人に泣き言をこぼすような、奇妙な親密さが滲んでいた。
国家の屋台骨を抜かれた王の、乾いた笑い。
ジャックは、その言葉の裏にある重圧を受け止めるかのように、深く、静かに頭を下げた。
「は」
窓の外では、夕闇が王城を完全に包み込み、石造りの回廊は深い影の中に沈んでいった。
──────
「さて、ガメルの問題は片付いた、でいいんだな? ジャック」
玉座に深く背を預けたヴォルガンの声が、広大な大広間に低く、しかし確かな重量感を持って染み渡っていった。
天井から零れる淡い光が、王の眉間に刻まれた深い皺を強調し、その瞳には底知れぬ疲労と、それを上回る強靭な意志が同居している。
彼の視線は、震える膝を隠そうともせず、石畳に這いつくばるように頭を垂れる宰相ガメルを冷ややかに射抜いていた。
玉座の間を包む空気は、まるで氷の薄膜を張ったかのように張り詰め、一筋の風さえも許さぬ静謐が場を支配している。
王の影として寄り添うジャックは、その鋭い眼光を崩すことなく、微かに唇を開いた。
「ギルガルド家の後妻に妹君を送り込んだのはガメル宰相ではないのですか?」
ジャックの問いは、刃のように鋭く、逃げ場のない真実を抉り出す響きを湛えていた。
その声に、ガメルの肩がびくりと跳ね、額から流れる汗が石畳に一滴の音を立てて落ちる。
彼は顔を上げることすらできず、掠れた声を絞り出した。
「それはレイモンド伯爵の指示だ。彼も指示されただけかもしれんが……」
ガメルの弁明は、瓦解しかけた自尊心の残骸を必死に繋ぎ合わせるような、哀れな響きを伴っていた。
その言葉を聞いたジャックは、僅かに顎を引き、ヴォルガンへと視線を戻す。
「承知いたしました。宰相は敵ではない、ブラッドレイ子爵にその旨お伝えいたします」
ジャックの宣告は、ガメルにとっての福音であった。
ヴォルガンは鼻で笑い、その大きな掌で玉座の肘掛けを叩いた。
乾いた音が広間に反響し、壁際に控える近衛兵たちの肩が僅かに揺れる。
「良かったな、ガメル。いや、むしろ討たれていれば大物として歴史に名を残したかもしれんか?」
王の皮肉は、死の縁を歩かされた男への、無慈悲なまでの揶揄であった。
ガメルは這いつくばったまま、酸素を求める魚のように口を震わせる。
「勘弁してください。妹は伯爵家乗っ取りの実行犯として動いたため消された。これは仕方ありません。ですが、私は陛下の忠実な部下としての仕事しかしていない」
その必死の訴えには、ガメルの小物らしい、いかにもな矮小さがあるが、これもいつも通りと言えばいつも通りであった。
ヴォルガンはその光景に、もはや嫌悪すら感じぬほどに擦り切れた感性を露わにし、窓の外に広がる夕闇の底を見据えた。
「うむ、何にせよ、もう済んだのだ。次の議題に移るぞ」
王の言葉と共に、広間の空気は一変し、今度は具体的な血の匂いを伴うような、峻烈な闘争の予感に満たされた。
列の最前列に並ぶ近衛兵の一人が、固唾を呑み、意を決したように問いかける。
「陛下、先ほどガーディスの反乱とおっしゃっていましたが……」
「ああ、旧セレスタイン領、現在のガーディス侯爵領を攻める。ここを全て奪還し、セレスタイン公爵家を復興させる」
ヴォルガンの宣言は、静かな湖面に巨大な岩を投げ込んだかのような衝撃を場にもたらした。
王家と双璧を成す大貴族、セレスタインの名が再び語られることの重みを、その場にいる誰もが肌で感じ取っていた。
近衛兵の視線が、宰相へと向けられる。
「ガーディス侯爵領を攻める? 宰相はそれで良いのですか?」
ガメルは、ようやくその顔を上げた。
その表情には、自らの領地を奪われることへの憤りなど微塵もなく、ただ国王への忠誠のみがある。
「元々、私の領地じゃない。陛下の側近になるにあたり、爵位が必要なのでガーディス侯爵領としただけだ。王国が返せと言うのであれば返すさ」
ガメルの言葉は、かつての権威がいかに脆弱な、借り物の衣装であったかを露呈させていた。
ヴォルガンは立ち上がり、一段高い玉座から、整列した者たちを睥睨する。
「しかし、ガーディスの連中やレイモンド伯爵たちはそうもいかん。なので、武力で制圧することにした」
「なるほど。なので反乱があるかもしれないとおっしゃるのですね」
ヴォルガンは玉座の背後、壁面全体を覆う王土の巨幅な石造レリーフへと視線を投げた。
「そうだ。第一軍は王都から動かせん。それ以外の軍で各所を守らねばならん。そのための配置を決めようと言う話だ」
王が指し示す先、貴石の輝きで刻まれた要衝が、落日の影を孕んで鈍く光る。
そこが幾多の血を吸い込んできた峻烈な戦場であることは、居並ぶ武人たちの強張った表情が何よりも雄弁に物語っていた。
「ガーディス自治区、海の要所ヴェリウス港、中央の玄関口アイゼンハイド侯爵領ですね」
「そうだ。また、帝国に迷惑をかけるわけにはいかん。帝国との国境も対象になるな」
ヴォルガンの言葉には、隣国との危うい均衡を維持しようとする、一国の王としての重圧が滲んでいた。
「王命で領地を取り上げてはいけないのですか?」
「目的は王国に害をなすガーディスの駆逐だ。領地の奪還が主目的ではない」
王の返答は、単なる領土争いではなく、国家という器を浄化するための、峻烈な意志の表れであった。
近衛兵は、王が自らの軍を動かさない理由を、深く探るように問いを重ねる。
「なるほど。国軍で攻め込んではいけないのですか?」
「私もガメルもガーディスだ。国軍を動かせば自作自演に見えるだろう。なので、ここはアルベルトに攻めさせる」
「王兄殿下が!?」
驚愕の声が広間に木霊し、重厚な鎧の擦れる音が悲鳴のように響いた。
かつてのクーデターの相手、そして現在は西側に潜む最強の不確定要素。
その男を、王自らが動かそうという、常軌を逸した策。
「そうだ。アルベルトも国を憂う王族だ。敵ではない。勘違いするなよ」
ヴォルガンの声には、私情という異物を塵ほども混ぜぬ、王としての峻烈な理が宿っていた。
それは、国家という巨大な設計図を完成させるための、迷いなき鋭い筆致を思わせる響きである。
近衛兵たちは、そのあまりに巨大な器としての王の姿に、ただ息を呑むしかなかった。
「は。承知しました」
「明日中に軍の配置を決めろ。私は明後日にはここを立つ。西の重鎮たちがデムハイト伯爵家に集まっているはずだ。そこへ行く。ガメルも同行しろ」
「私もですか?」
不意を突かれたガメルが、滑稽なまでの驚きを顔に浮かべる。
ヴォルガンは、その狼狽を黙殺するように、力強く言い放った。
「そうだ。近衛兵とガメルは明日中に準備をしておけ」
場が解散の空気に包まれようとしたその時、第一軍の隊長が、どうしても抑えきれない好奇心を隠すことなく口を開いた。
「陛下、セレスタイン公爵には誰がなるのですか?」
その問いは、政治的な関心を超えた、ある種の熱狂を孕んで広間を駆け抜けた。
ヴォルガンは、僅かに口角を上げ、その名を口にすることを愉しむかのように、溜めを作ってから答えた。
「……やはり気になるよな。隠しておけるものでもない。……メリーちゃんだ」
「なんと!」
「やはりメリーちゃんだったか!」
「ついに中央にメリーちゃんが降臨するのか!」
「まさか陛下と結婚したりするのか?」
王国の規律を体現していたはずの第一軍の精鋭たちが、その名を耳にした瞬間、一斉にざわめき出した。
彼らの瞳には、恐怖ではなく、狂信的なまでの期待と熱烈な歓喜の光が宿っている。
灰色の城内に、突如として鮮烈なピンク色の熱狂が渦を巻いた。
「するわけないだろう! というか、お前たち、そんなにメリーちゃんが大好きなのか?」
ヴォルガンの呆れたような問いかけに対し、第一軍の隊長が、一歩前に進み出た。
彼の胸甲には王家の紋章が刻まれているが、その下で脈打つ鼓動は、一人の少女への崇拝によって支配されていた。
「はい。国軍に属していなければ、レグスに移り住みたいくらいには大好きです」
その断言は、武人としての魂さえも、ヴェリウスの港から届く「静かな侵略」に染まりきっていることを示していた。
ヴォルガンは、天を仰いで大きな溜息を吐いた。
自らの城、自らの軍。
王権の心臓部さえもが、あの少女が放つ得体の知れない「熱」に侵食されている。
「……王城までメリーちゃんに占領されているとはな。恐るべき娘よ」
王の呟きは、敗北感よりも、むしろ抗いがたい濁流を前にした清々しささえ感じさせた。
その背後で、ジャックは満足げな笑みを浮かべていた。
彼の瞳には、かつての無機質な光はなく、一人の主が王国の中心へと上り詰める様を確信した、狂信者の悦びが湛えられている。
夕闇の底に沈むアステリア王城。
その重厚な石壁の向こう側で、古い秩序の断末魔と、ピンク色の旗印が掲げられる新時代の産声が、不気味に共鳴し合っていた。
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