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追放令嬢と逃亡王子の王国再建計画  作者: スパイシーシェフ
第3部:西からの風は大陸全土を優しく包み込む
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第59話:委任状、嫁入り、一世一代の勝負

「五日後にデムハイト伯爵邸で会おう。それまでに必要な人物を集めておけ」


 その言葉が、アイゼンハイド侯爵邸の重厚な玄関ホールに落とされた。

 夜明け前の、まだ深い蒼に沈んだ霧が窓の外に停滞している。

 数刻前までの惨劇の残滓を纏った一行を迎え入れた邸内は、静謐というよりは、嵐の前の停滞した空気のような緊張に満たされていた。

 中央に立つヴォルガン国王の声は、疲労を感じさせぬほどに硬質で、石造りの壁に反響して鋭く響く。

 彼の背後に控える近衛兵たちの鎧が、微かな呼吸に合わせて擦れ、低い金属音を立てた。


「私は一度王城へ戻らねばならん。アイゼンハイド侯爵、デムハイト領の保護を頼む。すぐに兵を出せ」


 促されたエーベルハルト・フォン・アイゼンハイドは、常に一点の曇りもなく整えられているはずの執務服の襟元を、無意識に指先でなぞった。

 彼の眼鏡の奥にある理知的な瞳は、眼前の王が提示した「あまりに非合理で、しかし強固な未来図」を必死に処理しようとしている。

 この邸に漂う夜明けの冷気は、彼の脳を活性化させるどころか、計算不能な事態の連続に凍りつかせようとしていた。


「……畏まりました。直ちに私兵の一部を先行させ、デムハイトの要衝を固めます。ガーディスの介入を許さぬよう、網を張っておきましょう」


 その返答を聞き届け、ヴォルガンは視線を傍らの美丈夫へと転じさせた。

 バルカス・ブラッドレイは、長旅と修羅場を経た後であっても、その革靴は旅塵を寄せつけていなかった。

 彼は懐表を一度だけ確認し、すでに動き始めているであろう情報の奔流を確信しているようだった。


「ブラッドレイ子爵、辺境伯領への伝令は?」


「昨夜のうちに、『海鳥』を飛ばしております。アルベルト殿下が動き出すのも、そう時間はかからないでしょう」


 バルカスの声には、揺るぎない確信が宿っていた。

 ヴォルガンは短く頷くと、最後に、退屈そうに柱へ背を預けていた少女を見据えた。

 ピンクブロンドの髪が、差し込み始めた薄明に透けて、毒々しいほど鮮やかに煌めく。

 彼女は爪先で大理石の床を軽く叩き、この場に漂う重圧などどこ吹く風といった風情でいた。


「メリーちゃん、君は一度レグスに戻れ。ベルン殿とフェリシア嬢を連れてこい。私の名前を使え」


 王の口元が、獲物を追い詰めた猛禽のように僅かに吊り上がる。

 それを見たメリーは、面倒そうに鼻を鳴らしたが、そのエメラルドグリーンの瞳には不敵な光が宿っていた。


「姉さまの嫁入りね。いいわよ、とびっきりの美人に仕立てて連れてくるわ」


「……っ」


 エーベルハルトが、まるで見えない刃で突かれたかのように言葉を詰まらせ、おろおろと視線を彷徨わせた。

 西側の安定を、数式のように組み立てる男にとって、フェリシアという嫁候補は、最も計算の立たない未知数であった。

 その狼狽を、ヴォルガンは研ぎ澄まされた刃のような視線で一瞥し、背後の近衛兵へ手を挙げた。


「おい、その箱をブラッドレイ子爵に預けろ」


 王の指示に、近衛兵が一瞬の躊躇を見せた。

 その手には、幾重にも厳重に包まれた、古い皮と布で保護された箱があった。

 近衛兵の革手袋が、その箱を扱う際に微かな摩擦音を立てる。


「……陛下、宜しいのですか? これは、王家の……」


「良い。あれを持つのにふさわしい人物だろう、ブラッドレイ子爵は」


「承知いたしました」


 恭しく差し出された包みから取り出されたのは、上質な紙に刻まれたヴォルガン国王の直筆による署名。

 そして、深く、鮮血のような赤で押し込まれた王国の玉璽。

 それは、一国の命運を他者に委ねるという、極めて重く、呪いに似た委任状であった。

 朝日の光がその赤い印影を照らし、まるで生きているかのように不気味に輝かせる。


「こ、これは……」


 バルカスの指が、その紙に触れた瞬間に僅かに震えた。

 策士として、数多の書状を扱ってきた彼でさえ、そこに込められた覇気の重圧に息を呑んだ。

 その紙一枚に、数万の民の命と、広大な領地の権利が凝縮されていることを、彼は本能で理解した。


「辺境伯領を含む西側全域に指令を出せ。王命だ。西の各領は協力してガーディスから西を守れ。今、レグスが落ちれば王国は立ち行かなくなる。それだけの危機感を持って動け。期待しているぞ、西の総帥」


 ヴォルガンの言葉は、もはや一貴族に対するものではなく、戦場における将帥への号令であった。

 バルカスは深く、深く頭を垂れ、その委任状を胸元に収めた。

 その動作一つにも、彼はこれまでにない厳粛さを纏わせていた。


「承知いたしました。このブラッドレイ、陛下の御意志、確かに」


「よし、ジャックもいいな? 出発するぞ」


「は」


 壁の影に同化していたジャックが、音もなくヴォルガンの傍らへと歩み寄る。

 その無機質な応諾と共に、王の滞在は終わりを告げた。

 彼らが歩き出すたび、硬い靴音がホールに響き渡り、それまで支配していた夜の静寂を完全に踏み潰していった。


 玄関ホールからヴォルガンとジャックが去り、それと入れ替わるように、邸の外からは軍靴の足音と、馬の嘶きが聞こえ始めた。

 夜明けの光が急速に影を追い払い、世界を現実的な色彩で塗り替えていく。

 冷たい霧が朝日に溶け、代わりに立ち上るのは、動き出した軍勢が発する熱気と泥の匂いだった。


 メリーは振り返ることもなく、南へと続く街道へ馬車を進める。

 彼女の背中には、ガーディスの駆逐と、セレスタインという名の重責を引き受ける覚悟が、歪に同居している。


 バルカスは、ダルトン領をはじめ、西の諸侯を束ねるべく、早馬を仕立てさせた。

 ギルガルド、ランツェベルク、ヴォルフスブルク。

 西の各領の領主たちを、今や「王命」という絶対的な名分のもとに飲み込んでいく。


 そして、一人残されたエーベルハルトは、軍備を整える自領の兵たちの騒乱を背に、窓の外を眺めていた。

 デムハイト領へ向かう準備は整いつつある。

 鉄の規律で動く彼の兵たちが、整然と隊列を組み、鈍く光る武器を点検している。


 それぞれの意志が、それぞれの方向へと走り出す。

 アイゼンハイド侯爵邸の周囲に立ち込めていた深い霧は、朝日によって完全に散らされ、そこには剥き出しになった王国の戦意だけが、峻烈な光の中に残されていた。


     ──────


「姉さまはいる? いるわね」


 その声が、夜の帳に包まれたレグス商会本館の静寂を、冷涼な風のように揺らした。

 外の港では、引き潮の唸りが遠く響き、塩の香りと共に、昼間の喧騒を閉じ込めた重い空気が漂っている。

 石造りの廊下を、旅の汚れを纏ったままのメリーが、迷いのない足取りで進んでいく。

 彼女の背後では、影のように付き従う『海鳥』たちが、一糸乱れぬ気配で周囲を威圧していた。

 アイゼンハイド侯爵邸での、あの刺すような緊張感を引きずったままの彼女は、重厚な扉を躊躇いなく押し開いた。


 室内には、蜜蝋の甘い香りと、上質な酒の匂いが混じり合って沈殿していた。

 暖炉の火は穏やかに爆ぜ、琥珀色の光が、高価な絨毯の上に長い影を落としている。

 そこには、白磁の肌と黒髪の対比が目を引く、圧倒的な「質量」を湛えた美女、フェリシアが寛いでいた。


「どうしたの? メリュジーヌ。そんなに血相を変えて」


 フェリシアが、ワイングラスを弄びながら、面白そうに目を細めた。

 その肢体は、十八歳となったメリーが到達した「完成された淑女」としての美しさとはまた異なる、生身の女としての強烈な生命力に溢れている。


「ベルンは? いるわね。二人ともデムハイト領へ行くわ。これは王命よ」


 メリーの言葉は、社交的な彩りを一切排し、剥き出しの意志となって放たれた。

 王命。

 その二文字が室内に落とされた瞬間、ベルンが手にしていた帳面が床へと滑り落ちた。


「王命? ヴォルガン陛下が僕たちを呼んでいるんですか?」


 ベルンの声には、商人としての鋭敏な危機感と、信じがたい事態への戦慄が混ざり合っていた。

 彼はかつて、ヴォルガン国王をレグスの視察に案内するという大役を受けた際に、その「王」としての完成度を誰よりも理解していた。


「そうよ。明日の朝一番でデムハイト領へ向かうわ。準備しなさい」


 メリーは窓際に歩み寄り、夜のレグスを見下ろした。

 彼女の瞳には、ヴォルガンという巨大な「王の器」が描いた、血塗られた再建の図面が焼き付いている。


「ベルンさんはわからなくもないけど、なんで私が?」


 フェリシアが、グラスをテーブルに置き、整った眉を僅かに寄せた。

 彼女にとって、政治や戦争は、金持ちの男を捕まえるための背景に過ぎないはずだった。


「国王の推薦よ。姉さまはとある有力貴族に嫁入りすることになったわ」


 その一言で、部屋の空気が一気に凍りついた。

 フェリシアの瞳に宿っていた享楽的な色が消え、代わりに、抗いようのない運命を見つめるような、乾いた光が宿る。


「……そう、政略結婚ね。しかも国王推薦?」


 彼女は自嘲気味に口角を上げたが、その表情には、どこか腹を括ったような潔さが漂っていた。

 己の美貌が、いつか国家という巨大な天秤にかけられることを、彼女は本能的に予見していたのかもしれない。


「先日、一目会っただけで国王のお眼鏡にかなうなんて、さすがですね。フェリシアさん」


 ベルンが、冷や汗を拭いながら、必死に言葉を絞り出した。

 王がレグスを視察した際、フェリシアの放つ「生命力の塊」のような輝きが、あの隙の無い鋭い眼孔に留まらないわけがなかった。


「でも、それって断ることなんかできないってことじゃない」


 フェリシアの問いに、メリーはゆっくりと振り返った。

 その背後には、月明かりを浴びた『海鳥』たちの眼差しが並んでいる。


「断れないわ、王命よ。断ったら西側は全員反逆罪になるわ。というか、元々私たちは王国への反逆者なんだけどね。王国の役に立っているうちは生かしておいてもらえるみたいよ」


 メリーの声は、もはや姉をいたわる妹のものではなく、王の代弁者としての峻烈さを帯びていた。

 彼女自身、セレスタインという名の呪いを受け入れ、公爵としての重責を引き受ける覚悟を決めたばかりなのだ。


「いいわ。相手を選べる立場じゃないのは百も承知。で? 結婚相手はイイ男? 金持ち?」


 フェリシアは立ち上がり、己の豊かな曲線を描くドレスの裾を払った。

 絶望に沈むのではなく、与えられた盤面でいかに優位に立つか。

 その一点において、彼女は間違いなく西の女であった。


「ちょっと歳がいってるけど、年齢はアルと同じくらいじゃない? シュッとしたイイ男よ。そこは保証するわ。金持ちで爵位持ちよ」


 メリーの脳裏に、アイゼンハイド侯爵の隙のない執務服姿と理知的な眼鏡の奥の鋭い目が浮かんだ。


「あら、いいじゃない。会ってみましょう」


 フェリシアは、獲物を定める猛禽のような笑みを浮かべた。

 金も地位もあり、顔も悪くない。

 それが、一国の王が用意した舞台であるならば、演じきってみせようという傲慢なまでの自負が彼女の肢体に熱を取り戻させた。


「王命である以上、逃げることも引き返すことも不可能よ。腹を括りなさい」


「ええ。拒否権がないのであれば、私の魅力でタジタジにしてやるしかないわね。そこで負けたら女の人生は終わりよ」


 フェリシアは、夜のレグスへと続く窓を力強く見据えた。

 その視線は、もはや女王のそれであった。


「そうね。姉さまなら勝てるわ。『海鳥』、姉さまを王国一の美人に仕上げなさい。これは女にとっての決戦よ」


 メリーの号令と共に、影に潜んでいた『海鳥』の娘たちが音もなく室内へと現れた。

 彼女たちの手には、レグスが誇る最高級の絹布や、秘蔵の化粧品、そしてあらゆる「技術」が握られている。


「気合い入れていくわよ。あなたも同席しなさい」


 フェリシアは、自らの侍従に向かって誇り高く命じた。

 室内には再び嵐のような活気が戻り、夜明けの出陣に向けた奇妙で峻烈な熱気が渦巻き始めた。


「はい。お嬢様の一世一代の勝負、見届けさせていただきます」


 侍従の深く静かな一礼が、これから始まる王国の根幹を揺るがす「縁談」という名の戦争の幕開けを告げていた。


     ──────


「そのわがままボディを、あの男が好き勝手するのは何だか許せないわね。無性に腹が立ってきたわ」


 乳白色の湯気が立ち込める浴場に、メリーのいっそ清々しいまでの毒舌が響き渡った。

 レグス商会の女性用の浴場は、静謐な聖域である。

 天井の高い石造りの空間には異国の香油を混ぜた湯の香りが充満し、肌を刺すような夜風に晒されてきたメリーの身体を芯から解きほぐしていく。

 湯船の縁に顎を乗せ、不機嫌そうに唇を尖らせるメリーの瞳は、揺れる水面と同じエメラルドグリーンの輝きを湛えていた。

 その視線の先には、湯気に濡れた黒髪を『海鳥』の娘に委ね、恍惚とした表情で洗髪を受けている義姉、フェリシアの姿がある。

 白磁の肌に、たっぷりと水分を含んだ豊かな曲線が惜しげもなくさらけ出されていた。

 それは、すでに「女としての完成」を告げる暴力的とも言えるほどの生命力の横溢であった。


「あら、随分な言い草ね。……でも、気になるわ。その男、あなたもよく知っているのでしょう?」


 フェリシアは、自身の背中を流す『海鳥』の柔らかな手つきに身を任せながら、楽しげに目を細めた。


「ええ、私たちが全身全霊をかけて、それこそ命がけで落とした中央の役人よ」


 メリーは湯船から片腕を出し、指先に絡みつく雫を見つめた。

 元王国の軍務局長、エーベルハルト・フォン・アイゼンハイド侯爵。

 常に一点の隙もない執務服を纏い、眼鏡の奥にある知性で世界を論理の積み木のように積み上げていくあの男。

 そして、王国中を襲った大飢饉の最中、西の食糧を中央へと送り届けるための血の滲むような調整の数々。

 それらを共に乗り越えてきた時間は、単なる敵味方の枠を超えた、奇妙な連帯感を彼女の胸に刻んでいた。


「落とした、っていうのは……。西側の協力者になった、ということでいいの?」


 フェリシアの問いに、メリーは小さく鼻を鳴らした。


「そうよ。でも、あの男は西も中央も関係ないみたいね。此度の食糧供給で西と中央を繋いだ功労者よ。……正直に言って、私たち西の手には余るほどの傑物だわ」


 メリーの声には、敬意と、そして同族嫌悪に似た拒絶が混ざり合っていた。

 自分たちと同じように、己の意志を国家という天秤に載せてしまえる男。

 そのあまりに強固な「個」の在り方を、メリーは誰よりも高く評価していた。


「……もしかして。あなたが言っているのは、あのアイゼンハイド侯爵様のこと?」


 フェリシアが、驚きに目を見開いて身を起こした。

 その拍子に、彼女の「質量」が重力に従って大きく揺れ、水面に激しい波紋を広げる。

 西側の社交界においても、その理知的で隙のない佇まいで知られる名門の当主。

 女の噂話にすら、滅多にその名を乗せない「木石」の如き男の顔が、彼女の脳裏に浮かんだ。


「あら、知っていたの? あの男は西側全域を領地として統べる公爵になるわ。……『公』のほうの公爵ね」


 メリーの淡々とした告げ口に、フェリシアは言葉を失った。

 一介の侯爵から、王国の支柱たる公爵へ。

 それは、ヴォルガン国王が描いた、旧体制を根底から塗り替えるための苛烈な設計図の要であった。


「え!? 公爵家に嫁入り? 私が? ……メリュジーヌじゃなくて?」


 フェリシアの声が、広い浴場の壁に反響して震えた。

 当然の疑問であった。

 この西側の実質的な支配者であり、王国の救世主とまで謳われるのは、目の前で不機嫌そうに湯に浸かっているこの少女なのだから。


「あの男が公爵として立つにあたり、最大の障壁となったのが『跡取り』という問題だったわ。でも、私の名前なんて候補にも挙がらなかったわ。……お子様の私は対象外みたいね」


 メリーは、そこそこ育ちはしたが平坦な胸元に視線を落とし、それから意地悪く、フェリシアの豊かな曲線を見比べた。

 それは、自嘲を含んだ冗談のようでもあり、しかし、自らの幼さを盾にしてでも、権力という檻から逃れようとする彼女なりの足掻きのようにも聞こえた。


「そうじゃないでしょ? メリュジーヌ。あなたが最大の功労者であることは誰の目にも明らかなはず。……公爵家に嫁入りするのではなく、あなたが自ら爵位を貰って、相応しい婿を取る立場になるんじゃないの?」


 フェリシアの鋭い指摘に、メリーは苦虫を噛み潰したような顔をして深く湯の中に沈み込んだ。

 鼻先まで湯に浸かり、ぷくぷくと泡を吐き出しながら彼女は重い口を開いた。


「……実は、そうなのよ。せっかくギルガルド伯爵の座から逃げ出したっていうのにね。……私、セレスタイン公爵家の血を引いているのよ。旧セレスタイン領を奪還した後、私はセレスタイン公爵になるわ。ヴォルガンの策略によって……」


 その言葉は、もはや愚痴というにはあまりに重く、昏い輝きを帯びていた。

 かつて王家と双璧を成す権力を持ち、そして謀略に消えた公爵家。

 その再興という美名のもとに、彼女は再び「貴族」という名の鎖で、この大地に繋ぎ止められようとしていた。


「メリュジーヌも、本当に波瀾万丈ね。……でも、あなたの婿になる男の人って、一体どんな人なんでしょうね」


 フェリシアは、妹の背負わされた運命の過酷さに、そっと溜息をついた。

 常に先頭に立ち、返り血を浴びながら道を切り拓いてきた、この小さな背中。

 そこに安らぎを与えることのできる男が、このアステリア王国に存在するのだろうか。


「アルの娘……アルマリアちゃんが立派に育ったら、私はすぐにでもセレスタイン公爵の座を譲るわ。その後は、このレグスに戻って、レグス商会のボスとして生きていくのよ。……婿なんていらないわよ」


 メリーの決意は、鋼のように硬かった。


「……そう。姉として、あなたに『女の幸せ』というものを見せてあげることが、私にできる最後の仕事なのかもしれないわね」


 フェリシアは、洗髪を終えて立ち上がった。

 その肢体から滴る雫が、鏡のような水面を叩き、静かな波紋を広げていく。

 彼女の瞳には、かつてのように自分だけを守ろうとする打算ではなく、守るべき妹を持つ者としての、凛とした覚悟が宿っていた。


「最後って……」


 メリーが顔を上げ、戸惑いを含んだ眼差しを姉に向けた。


「あなたは、いつもみんなの前を歩いてその背中を人に見せるわ。でも、こればっかりは、そうはいかないようね。……私や、アンナマリーさんをよく見ていなさい。あなたなら、きっと何かに気付くはずよ」


 フェリシアの言葉は、予言のように優しく、そして重かった。

 アンナマリー。

 アルベルトの傍らに立つ、もう一人のセレスタインの娘。

 彼女たちが体現する、泥にまみれた政治や戦争とは無縁の場所にある、ひたむきな「生」の輝き。

 それが、メリーにどのような変化をもたらすのか。


「……姉さま」


 メリーはそれ以上、言葉を継ぐことができなかった。

 ただ、自分を包み込む湯の温もりが、少しだけ寂しく感じられた。


 浴場の高い窓からは、雲一つない星空が見える。

 それらを呑み込みながら、レグスの夜は静かに、しかし着実に更けていった。

 明日には、新たな戦いの場であるデムハイト領への旅が始まる。

 「公爵家の血を絶やさぬ」という峻厳な王命の下、一個の淑女としての生涯を国家再興という巨大な天秤へ供する夜明けを前に、二人の姉妹は、束の間の安息を噛み締めるように、立ち昇る湯気の中に身を沈めていた。


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