第3話:貯金箱、紅茶、水平線は蒼く
「ヒャッハーッ! お前ら、全財産置いてきなさいですわ!」
岩壁に穿たれた、盗賊団の砦。
昼間から弛緩していた空気が、あまりに場違いな絶叫によって凍りついた。
正面から突っ込んでくる、小さな影。
問答無用。躊躇皆無。
彼女は挨拶代わりに地面を蹴り、砲弾のごとき速度で肉薄していた。
「あぁ? なんだこのガキ……」
見張りの男が反応し、手斧を持ち上げようとする。
遅い。
一閃。
すれ違いざま、横薙ぎに振るわれた熱量が、鋼鉄の斧ごと男の胴体を両断した。
切断面から、血の代わりに蒼紫の炎が噴き出す。
悲鳴を上げる間すらない。男は、自身が死んだことさえ理解できぬまま、二つの肉塊となって転がった。
──────
「……あら。これは」
制圧した倉庫の奥。
彼女のエメラルドグリーンの瞳が、宝石を見つけたように輝いた。
乱雑に積まれた木箱の中に、小瓶に詰められた岩塩、胡椒、そして乾燥ハーブの束が鎮座していた。
その隣には、小柄な斥候用と思われる、丈夫な革の旅装一式。
(素晴らしい。あのような不潔な場所に死蔵させておくなど、資源への冒涜ですもの)
彼女にとって、砦の蹂躙は戦闘ではない。
単なる、正当な「物資調達」だ。
その夜。
焚き火の前で、メリュジーヌは新しい旅装に袖を通していた。
動きやすいチュニックに、機能的な革のベルト。ボロボロのドレスは、焚き火の燃料として最後の役目を終え、灰になった。
香草と岩塩で味付けされ、完璧に焼き上げられた鹿肉。
一口齧る。
口内に広がる複雑な香り。塩味が引き立てる肉の旨味。
「……美味しい」
ただの焼肉が、料理へと昇華された瞬間だった。
震えるような吐息が漏れる。文明の味が、荒んだ心に染み渡っていく。
「ふふ。あの方々は、素晴らしい『貯金箱』ですわね。中身が貯まった頃に、また回収に伺いましょう」
パチパチと爆ぜる火を見つめながら、彼女の中で一つの真理が確定した。
この山には、勝手に物資を集め、管理してくれる便利なシステムが存在するのだと。
──────
「……不快指数が、許容値を超えていますわ」
うだるような熱気が、緑鬱とした原生林を満たしていた。
夏。
容赦なく降り注ぐ陽光と、肌にまとわりつく湿気。そして、耳元で絶え間なく鳴り響く羽虫の羽音。
深窓の令嬢にとって、そこは地獄の釜の底にも等しい環境だった。
だが、メリュジーヌの歩みに停滞はない。
彼女は肌の表面に、目に見えない極薄の魔力膜を展開していた。
外気との熱交換を遮断し、自身の周囲数センチだけを常に最適な室温に保つ。いわば、歩く空調設備。
額に汗一つ浮かべることなく、彼女は涼やかな顔で、道なき道を進んでいく。
バサリ。
行く手を阻む蔦をナイフで切断する。
だが、その切断面は瞬時に泥で塗り固められ、足跡は風魔法による塵の再配置によって、数秒後には「獣の踏み荒らした跡」へと偽装される。
お父様の放った追手は、未だ執拗にこの山脈を捜索しているはずだ。
ゆえに、直進はしても、痕跡は残さない。
それは逃亡者の臆病さではなく、捕食者の慎重さだった。
「さて。本日のランチといたしましょう」
渓流のほとり、視界が開けた岩場で彼女は足を止めた。
川面を走る魚影に向け、指先を軽く弾く。
水音すら立てず、蒼い光弾が水面を穿ち、数匹の銀鱗が白い腹を見せて浮き上がった。
手際よく内臓を処理し、春に「回収」した岩塩と乾燥ハーブを腹に詰める。
串を打ち、遠火の強火でじっくりと炙る。
やがて、皮がパリパリと焼け、香ばしい煙が立ち上った。
「いただきます」
一口。
パリッという音と共に、淡白な白身の甘みと、ハーブの清涼感が口いっぱいに広がる。
ただ焼いただけの餌ではない。計算された「料理」の味。
「……ん。悪くありません」
冷たい川水で喉を潤し、彼女は満足げに息を吐く。
ドレスを捨て、旅装に着替えたあの日から、生活の質は劇的に向上していた。
衣食住の安定は、精神の余裕を生む。
彼女は懐から、くしゃくしゃになった羊皮紙を取り出した。どこの誰から奪ったかも覚えていない、雑な地図だ。
現在地と太陽の位置を照合する。
目指すは南西。この果てしない山脈を越えた先にある、大陸の端。
道程は遠い。だが、焦りはない。
今日を優雅に生き延びることの積み重ねだけが、彼女をまだ見ぬ景色へと運んでいく。
──────
木々の緑が色褪せ、燃えるような赤や黄色が山肌を染め始めた頃。
メリュジーヌは、見晴らしの良い尾根に立っていた。
「……ぁ」
視界の果て。
幾重にも重なる稜線の向こうに、真っ赤な夕日が沈もうとしていた。
太陽は西に沈む。
ならば、あの輝きの真下に、目指すべき海がある。
かつて家庭教師が広げた古い地図の記憶と、目の前の光景が合致する。方向は間違っていない。
ただひたすらに、あの太陽を追い続ければいい。
彼女は夕闇に沈みゆく山並みを、瞳に焼き付けるように見つめ続けた。
だが、太陽が姿を隠すと同時に、世界は牙を剥いた。
「……寒っ」
急激な気温の低下。
吹き付ける風が、夏仕様の薄い革鎧を容赦なく突き抜け、体温を奪っていく。
吐く息が白い。
岩肌に霜が降りるほどの冷気が、山の冬の到来を告げていた。
(魔力による断熱も、寝ている間までは維持できませんわね)
彼女は眉をひそめ、冷え切った二の腕をさすった。
現状の装備では、越冬は不可能。
凍死という無粋な結末を避けるためには、新たな資源が必要だ。
彼女の視線が、眼下の山道を捉えた。
商人の荷馬車。それを取り囲むガラの悪い集団。
新たな資源、「歩く貯金箱」が、そこにあった。
──────
「ありがとうございます、『紫の死神』さん!」
「……んん!? なんですか、その、お尻がムズムズするような二つ名は」
返り血を拭いながら、メリュジーヌは顔をしかめた。
商人は命拾いした興奮からか、街まで送らせてほしいとしつこく提案してきたが、こちらは潜伏中の身だ。
目立つ真似はしたくないので、そこは丁重にお断り差し上げた。
「いやぁ、本当に助かりましたよ。こちとら弱小商会ですので、奪われていれば破産するところでした」
「いいわよ、そちらの事情は。お礼ならさっきの品で十分。私はもう行くわ。『稼ぐに追いつく貧乏なし』よ。励みなさい」
それだけ言い残し、彼女は颯爽と踵を返す。
だが、見えなくなるまで歩いたところで、その表情は一変した。
「……ふふ、ふふふっ。大収穫だわ」
腕に抱えているのは、真新しい肌着類一式。
メリュジーヌは手に入れたばかりの戦利品を愛おしそうに抱き、ほくほくとした顔で山に入っていった。
──────
「……聞いたか。近頃、この山脈を徘徊する『紫の死神』の噂を」
季節が巡り、山に慈悲なき冬が訪れた。
凍てつく風鳴りが響く砦の中、男たちは暖炉の残り火にすがりつくようにして声を潜めている。
「ああ。子供の姿をした悪魔だ。金と物資だけを奪い、抵抗する者は気付く間もなく燃やされるとか……」
刹那、轟音が静寂を粉砕した。
堅牢なはずの扉が、枯れ木のように弾け飛び、猛吹雪が室内の熱を一瞬で奪い去る。
「ごきげんよう。ずいぶんと冷えますわね」
白き闇の中から現れたのは、噂の主。
逆巻く風雪を従え、蒼紫の炎を灯りのように浮かべた少女が、淑やかに微笑んでいた。
「暖かそうな毛皮に、上等な寝袋。……それに、その香り。まさか本物の茶葉をお持ちで?」
悲鳴を上げる間すらなかった。
彼女が去った後には、身ぐるみ剥がれて震える男たちと、空っぽになった倉庫だけが残された。
岩穴の拠点に戻ったメリュジーヌは、奪い取った厚手の毛皮コートに包まり、湯気を立てるカップを傾けた。
口の中に広がるのは、いつぞやの不穏な色のハーブティーもどきではない、芳醇な紅茶の香り。
「ふぅ……。やはり、冬はこうでなくては」
貴族の嗜みを思い出す、豊かな香気。
上質な寝袋の温かさに包まれ、彼女は安らかに瞳を閉じた。
外は吹雪。だが、今の彼女の安眠を妨げるものは何もない。
──────
「……痛い」
そして、再び春が来た。
岩場に腰掛けたメリュジーヌは、眉間に深い皺を寄せていた。
不揃いだったショートヘアは肩まで伸び、少女らしい柔らかさを帯び始めている。
だが、今の彼女にとって深刻な問題は、髪型ではなかった。
一年前に奪った革靴が、完全にサイズアウトしていた。
成長の証。だが、機動力を損なう足元の不備は、この山では死に直結する。
「最後の仕上げと参りましょうか」
彼女は慣れた足取りで、眼下の砦へと向かった。
ここへ至る道中、幾度繰り返したか記憶にもない、単なる「資源の回収」作業。
もはや襲撃ですらない。
抵抗する気力すら失い、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う盗賊たちを横目に、彼女は最奥の宝物庫へと足を踏み入れる。
目当ての品はすぐに見つかった。
おそらくは、商会の馬車から略奪され、売り物として厳重に保管されていただろう、最高級の編み上げブーツ。
しなやかな革は足に吸い付くように馴染み、靴底は岩場をも掴むほどに堅牢だ。
「完璧ですわ」
ついでに、大陸全土を記した地図と、当面の路銀となる金貨袋も回収する。
空っぽになった木箱を眺め、彼女は小さく嘆息した。
「最近、盗賊の方々が減っている気がしますわ。狩りすぎたせいかしら? それとも、あの変な二つ名のせい?」
いずれにせよ、この山脈にもう用はない。
メリュジーヌは、物言わぬ屍と化した砦に背を向け、山頂への道を歩き出す。
その足取りは、一年前、雨の中に放り出された無力な子供とは違う。
確かな装備と、生き抜く力を身につけた、冒険者の足音だった。
やがて。
最後の岩壁を越え、視界が一気に開けた。
「……ああ」
白く凍る吐息と共に、感嘆が漏れる。
そこには、これまで見てきた岩肌や深い緑とは隔絶した世界があった。
陽光を反射し、鱗のように煌めく、圧倒的な質量を持った「青」。
水平線。
狭い山岳領地に閉じ込められていた彼女が、物語の中でしか知らなかった景色。
本物の海が、そこにあった。
「なんて……。なんて広くて、美しいのかしら」
しばし、立ち尽くす。
新しいブーツで大地を踏みしめ、風に伸びた髪を遊ばせる。
山での一年。血と泥、そして略奪によって積み上げた日々の果てに、彼女はここに立っている。
眼下には、海岸線にへばりつくように広がる巨大な港町。
無数の家々。停泊する船。人の営みの気配。
行き先は、定まった。
彼女は年相応の、無邪気な笑みを浮かべる。
憧れの海を抱くその街へ向け、下山の一歩を踏み出した。




