第2話:命、剥き出しの肌、髪を切る音は潔く
「突撃! お前が晩御飯!」
雨上がりの森に、少女の裂帛の気合いが響いた。
ギルガルド伯爵令嬢メリュジーヌの名は、あの屋敷に置いてきた。
今の私は、ただのメリーだ。
ターゲットは、木々の間で草を食んでいた大鹿。
メリーは泥を蹴り、真正面から突っ込んだ。
戦術などない。ただの飢餓感に突き動かされた特攻。
驚いた鹿が逃げようと身を翻すより早く、彼女の右手に『蒼紫の炎』の爪が形成される。
一閃。
狙いなど定めていない。
ただ、目前の「肉」に向かって力任せに振るっただけだ。
それでも、触れるものすべてを焼き斬る理不尽な熱量は、鹿の太い首を容易く両断した。
ドサリ、と巨体が泥に沈む。
「……はぁ、はぁ。……やった! お肉!」
メリーは肩で息をしながら、ガッツポーズを作る。
目の前には、湯気を立てる命の塊。
これで飢え死にはない。そう思った。
だが、現実は甘くなかった。
「……重っ……!」
動かない。
安全な場所へ運ぼうと脚を掴んで引っ張るが、九歳の細腕では、巨大な鹿の死体は岩のように微動だにしなかった。
仕方なく、その場での解体を決意する。
ドレスの裾をまくり上げ、ベルトからナイフを抜く。
見よう見まねで刃を突き立てる。
「……硬っ! なにこれ、全然切れない!」
皮が厚い。
脂が滑る。
力を込めても、刃は表面を滑るだけで、なかなか肉まで届かない。
悪戦苦闘の末、ようやく皮を裂くことに成功したが、勢い余って内臓まで傷つけてしまった。
プシュッ、と嫌な音と共に、強烈な腐臭が鼻を突く。
「うぇっ……くさ……」
胃の内容物と血が混ざり合い、ドレスを汚す。
吐き気をこらえ、涙目で肉を削ぎ落とす。
綺麗に切り分けることなど不可能だ。ただ、食えそうな部分を惨たらしく毟り取るだけの作業。
手も顔も、ピンクブロンドの髪も、赤黒い血と緑色の汚物にまみれていく。
次は火だ。
生肉を食うわけにはいかない。
湿った枝を集め、火打ち石を叩く。
カチ、カチ、カチ。
火花は散るが、雨を含んだ木々は煙を上げるだけで、一向に燃え上がらない。
「……つかない。なんでよ……」
指先がかじかみ、感覚がなくなっていく。
焦りと空腹で視界が歪む。
ふと、メリーは自分の右手を見た。
火なら、あるじゃないか。
人を殺し、物を壊すための炎。けれど、燃やすことには変わりない。
「……燃えなさいよ」
彼女は薪の山に指を突きつけ、小さな炎を放った。
ボッ!
爆発的な着火。
湿気などものともせず、薪が一瞬で紫色の炎に包まれた。
パチパチと爆ぜる音。
だが、その色は不吉な蒼紫。
暖かさよりも、触れれば消し飛ぶような恐怖を感じさせる焚き火。
「……ま、色はあれだけど、火は火よね。焼ければ同じだし」
メリーは毟り取った肉片を枝に刺し、恐る恐るその炎へ近づけた。
加減がわからない。
近づけすぎれば黒炭になり、遠すぎれば焼けない。
何度か肉を炭にした末、ようやく「焦げているが生焼けではない」状態のものを作り出した。
「……いただきます」
ガリッという炭の音と、硬い肉の感触。
血生臭さと焦げ臭さが口いっぱいに広がる。
味付けもない。ただの焼けた筋肉。
「……まっず……」
吐き出したい。
けれど、喉が、胃袋が、栄養を求めて痙攣している。
彼女は涙を流しながら、無理やりそれを飲み込んだ。
美味しくない。
楽しくない。
ただ、惨めなだけだ。
──────
夜の森は、絶対的な闇だった。
蒼紫の焚き火は、薪が尽きると共に儚く消えた。
後に残ったのは、普通の炭の赤熱だけ。
岩陰に身を潜め、血と泥で固まったドレスにくるまって震える。
遠くで獣の遠吠えが聞こえるたび、体が強張る。
「……寒い」
歯の根が合わない。
満腹になれば眠くなるはずだった。
けれど、押し寄せてきたのは睡魔ではなく、圧倒的な孤独だった。
昨日までは、ふかふかのベッドがあった。
嫌味な継母や異母姉弟はいても、屋根と壁があった。
今は、何もない。
「……おうちに、帰りたい」
ぽつりと、本音が漏れた。
一度口にすると、堰を切ったように弱音が溢れ出す。
お風呂に入りたい。
スープが飲みたい。
お父様に頭を撫でてほしい。
「うっ、うぅ……ひっ、ぐすっ……」
膝を抱え、九歳の少女は声を殺して泣いた。
貴族の矜持も、絶対に生き延びてやるという意地も、夜の闇の前では無力だった。
ただの迷子のように泣きじゃくり、やがて疲れて意識を手放した。
──────
白々と夜が明ける。
鳥のさえずりが、生きて朝を迎えたことを告げていた。
メリーは強張った体を動かし、ふらふらと立ち上がる。
目が腫れぼったい。
喉が渇いている。
全身が痒い。
臭い。
血と脂、泥と汚物。
それらが乾燥して肌に張り付き、不快感の極みだった。
水音が聞こえる。
彼女は引き寄せられるように茂みを抜け、渓流へと出た。
迷わずドレスを脱ぎ捨てる。
氷のように冷たい水の中へ、汚れた体を沈めた。
「ひゃっ……! つ、冷たっ……!」
心臓が止まりそうな冷気。
だが、それが逆に意識を覚醒させた。
昨夜の涙も、惨めな弱音も、冷水が物理的に洗い流していく。
ごしごしと肌を擦る。
こびりついた汚れが流れ、白い肌が戻ってくる。
「……よし。泣いてもしょうがない」
水から上がり、濡れた髪を絞る。
長く伸びたピンクブロンドの髪は、水を含んで重く、泥汚れが落ちきっていない。
毛先が絡まり、指が通らない。
「……邪魔」
昨日の解体作業でも、寝ている間も、この髪はずっと邪魔だった。
手入れもできない。
洗うのも手間だ。
こんなもの、今の生活には何の意味もない。
メリーはナイフを手に取ると、躊躇なく刃を当てた。
ジョリ……ジョリ……。
鈍い音と共に、髪の束が足元の石に落ちる。
一度では切れない。
何度も刃を入れ、乱暴に切り落としていく。
「こんなの、いらない」
ボトボトと髪が落ちる。
最後に残ったのは、顎のラインで切りそろえられた、不揃いなショートヘア。
水面に映る自分を見る。
――酷い顔だ。
目の下には隈があり、髪はガタガタ。
けれど、昨日までの頼りないお嬢様の顔ではなかった。
「……よし。さっぱりした」
メリーは短くなった髪を乱暴にかき上げ、濡れたドレスを再び纏う。
冷たい。
臭い。
でも、構わない。
彼女は、山を見上げた。
生き延びる。
泥を啜ってでも。
少女の瞳に、獣のような光が宿った。




