第99話 何を着ていけばいいですか
「……何、着ていけばいいんだろう」
その問題に気づいた瞬間、柚月の中で月曜日が急に現実味を帯びた。
映画に行く。
春野さんと。
友達として。
そこまでは、嬉しい予定として何度も頭の中で繰り返していた。
けれど、服。
服装。
当日、自分が何を着て、春野さんの前に立つのか。
そう考えた途端、胸の奥が別の意味でざわざわし始めた。
「……友達として、だよね」
柚月は自分に言い聞かせるように呟いた。
友達として映画に行く。
だから、気合いを入れすぎるのは違う。
でも、適当でいいわけではない。
春野さんは、いつもきちんとしている。
仕事中の服装はもちろん、髪も、立ち居振る舞いも、持ち物の扱いまで整っている。
そんな春野さんの隣に、自分が立つ。
「…………無理では?」
小さく弱音が出た。
柚月はベッドから立ち上がり、クローゼットの前に移動した。
扉を開ける。
お出かけ用に見栄えのいい服。
外出用の服。
近所に出るだけの服。
なんとなく分けているつもりではあるが、いざ選ぶとなると、どれも正解に見えない。
まず、淡い色のワンピースを取り出してみる。
鏡の前で体に当てる。
「……可愛い、けど」
可愛すぎる。
映画に行くだけなのに、気合いが入りすぎている気がする。
戻す。
次に、ブラウスとスカート。
悪くない。
悪くないけれど、少しきちんとしすぎている気もする。
戻す。
ゆるめのカットソー。
楽そう。
ただ、春野さんの隣に立つと思うと、少し気が抜けすぎている気がする。
戻す。
別のワンピース。
これはどう見てもデートっぽい。
「違う。友達。友達として」
柚月は一人で首を振り、また服を戻した。
部屋の床に、いくつかの服が広がっていく。
映画館は寒いかもしれない。
中央駅は人が多い。
長い映画だから、座っていて楽な服の方がいい。
終わったあと、少し寄り道するかもしれない。
歩きにくい靴は避けたい。
でも、春野さんと並ぶなら、少しはちゃんとしたい。
「……わからない」
柚月はスマートフォンを手に取った。
こういう時、頼れる相手は一人しかいない。
美鈴だ。
まず、一着目を着て、姿見の前で写真を撮る。
送る。
『これ変じゃない?』
送信してから、別の組み合わせが気になった。
二着目に着替える。
写真を撮る。
送る。
『こっちは?』
三着目。
『これは気合い入りすぎ?』
四着目。
『映画館寒いかな』
五着目。
『これだと近所すぎる?』
六着目を撮ったところで、美鈴から返信が来た。
『通知が止まらないんだけど』
柚月はすぐに返信する。
『ごめん』
そして、七着目の写真を送った。
『謝りながら送るな』
スマートフォンの画面に表示された文字を見て、柚月はぴたりと固まった。
たしかに。
たしかに、今のはよくなかった。
『一回止まって』
『はい』
柚月は床に座り込んだ。
周囲には服が散らばっている。
数秒後、今度は美鈴から通話がかかってきた。
柚月はおそるおそる応答する。
「……もしもし」
「もしもしじゃないよ。なに、一人でファッションショーしてるの?」
「してない」
「してるよ。写真が証拠として七枚届いてる」
「……まだ七枚だから」
「その発想がもう危ない」
美鈴の声は呆れている。
けれど、本気で怒っているわけではない。
柚月は少しだけほっとしながら、膝の上に置いた服を見下ろした。
「で、春野さんと映画に着ていく服?」
「……友達としてだから」
「まだ何も言ってないんだけど」
「言いそうだったから」
「言うけど」
「言わないで」
「はいはい。友達と映画ね」
「友達です」
「わかってる。で、その友達と映画に着ていく服で、こんなに悩んでるわけね」
美鈴の声には、からかい半分、呆れ半分。
でも、ちゃんと聞く気はある。
柚月はスマートフォンを耳に当てたまま、少しだけ肩の力を抜いた。
「……変じゃないのがいいの」
「うん」
「気合い入りすぎてるのも変だし、適当すぎるのも嫌で」
「うん」
「映画館だし、中央駅だし、人も多いし……終わったあと少し寄り道するかもしれないし」
「じゃあ、歩きにくいのはなしだね」
「うん」
「映画館なら、寒かった時に羽織れるものも欲しい」
「やっぱり?」
「映画館、たまに寒いから」
美鈴の返事はあっさりしていた。
説明しすぎず、でも必要なところだけ拾ってくれる。
それがありがたかった。
「あと」
「うん」
「春野さんの隣で、変に見えないやつがいい」
言ってから、柚月は自分の言葉に顔が熱くなった。
春野さんの隣。
口に出すと、思っていたよりずっと恥ずかしい。
通話口の向こうで、美鈴が少し黙る。
「……美鈴?」
「いや、ごめん。思ったより真剣だったから、今ちょっと茶化すのやめてた」
「最初からやめて」
「無理」
「美鈴」
「はいはい。じゃあ真面目に見る」
美鈴が写真を確認しているのか、少し間が空いた。
柚月はその間、床に広がった服を一枚ずつ見つめる。
どれも自分の服なのに、今日は全部知らないものみたいだった。
「まず、一枚目」
「うん」
「可愛い。でも今日は違う気がする」
「やっぱり?」
「うん。写真ではいいけど、映画には少し強い」
「強い……」
「服が主役になる感じ」
「なるほど」
「二枚目は無難。悪くないけど、ちょっと固い」
「固い」
「映画より面談っぽい」
「面談……」
「でしょ」
柚月は思わず笑ってしまった。
少しだけ、緊張がほどける。
「三枚目は可愛い。でも長い映画だとちょっと気を遣いそう」
「あ、それはあるかも」
「せっかく観に行くなら、服のこと忘れて座ってられる方がいいよ」
「たしかに」
「四枚目は近所」
「近所……」
「コンビニとスーパーならいい。中央駅は違う」
「はい」
「五枚目は悪くないけど、ちょっと暗いかな」
「暗い?」
「色がね。柚月が着ると悪くないけど、今日の目的には少し守りすぎてる感じ」
美鈴は一枚ずつ、ちゃんと見てくれていた。
茶化しているようで、判断はかなり具体的だ。
「じゃあ、どれがいい?」
「七枚目」
「七枚目?」
柚月は慌ててラインの画面を開く。
七枚目。
淡い色のブラウスに、落ち着いたスカート。
上から薄手のカーディガンを羽織った組み合わせ。
派手ではない。
でも、地味すぎもしない。
そしてそれは、今まさに自分が着ている服だった。
「……これ?」
「それ」
「気合い入りすぎてない?」
「入ってる」
「え」
「でも、ちょうどいい」
「ちょうどいい気合いって何」
「今日の柚月に必要なやつ」
その言い方に、柚月は何も返せなくなった。
美鈴は続ける。
「映画館でも寒くなさそうだし、歩きにくくもなさそう。ちゃんと可愛い。でも頑張りすぎてない」
「春野さんの隣でも、変じゃない?」
「変じゃない」
「……ほんと?」
「ほんと」
「子どもっぽくない?」
「ない」
「頑張りすぎじゃない?」
「頑張ってるけど、可愛い範囲」
「春野さんに変って思われない?」
「思われない」
即答だった。
その早さに、少しだけ救われる。
「というか、春野さんはたぶん、柚月がちゃんと楽しみにしてきたことを、変とは思わないと思うよ」
「……そうかな」
「そうだよ」
美鈴の声は、今度は茶化していなかった。
柚月は膝の上の服に視線を落とす。
春野さんがどう思うかは、わからない。
けれど、春野さんならきっと、変だと笑ったりはしない。
そう思えるくらいには、柚月の中で春野さんへの信頼が積み重なっていた。
「……じゃあ、これにする」
「うん。それがいい」
「ありがとう」
「どういたしまして。次から服相談は三枚までね」
「三枚は少なくない?」
「普通は一枚で聞くんだよ」
「そうなの?」
「そうなの」
柚月は床に広がった服を見回した。
たしかに、一枚で聞く人は、こんな状態にはならないのかもしれない。
「あと、当日になって急に別の服に変えないこと」
「なんでわかるの」
「やりそうだから」
「……やらないようにします」
「断言しなよ」
「やりません」
「よろしい」
美鈴の声が少し笑う。
柚月もつられて笑った。
服が決まった。
ただそれだけなのに、胸の中でぐるぐるしていた不安が少し落ち着いた気がする。
「髪は?」
「髪?」
「髪型。考えてる?」
柚月は固まった。
考えていなかった。
完全に服だけで頭がいっぱいだった。
「……まだ」
「だと思った」
「美鈴」
「迷ったらハーフアップ。下ろしてもいいけど、映画館で邪魔になったら気になるでしょ」
「なるほど」
「でも、それは当日決めてもいい。今日は服を片付けて寝な」
「はい」
「本当に片付けなよ」
「……はい」
「今の間は何?」
「片付けます」
「よろしい」
通話の向こうで、美鈴が小さく息を吐く。
「楽しんでおいで」
最後に、そう言った。
柚月は少しだけ目を伏せる。
「うん」
「友達として」
「……友達として」
「そこ噛みしめるんだ」
「切るね」
「照れた」
「切るね」
「はいはい。おやすみ、柚月」
「おやすみ、美鈴」
通話が切れた。
部屋の中に、静けさが戻る。
柚月はしばらくスマートフォンを見つめてから、着ていた服をハンガーにかけて、クローゼットの外に出しておく。
月曜日に着る服。
そう思うだけで、ただのブラウスとスカートが、少し特別なものに見えた。
床に広げた他の服も、ちゃんと畳んで戻していく。
少し前の自分なら、そのままベッドの端に積んでいたかもしれない。
でも今は、片付けようと思えた。
春野さんが来る日ではない。
誰かに見られるわけでもない。
それでも、きちんとしておきたいと思った。
服を戻し終えて、柚月はもう一度、ハンガーにかけた服を見る。
「……変じゃない、よね」
美鈴は大丈夫だと言ってくれた。
ちゃんと可愛い、とも言ってくれた。
それを思い出すと、少しだけ頬が熱くなる。
月曜日。
春野さんと映画。
服が決まっただけなのに、その日が少し近づいた気がした。
柚月は部屋の明かりを落とす前に、スマートフォンのカレンダーを開いた。
予定は変わっていない。
けれど、頭の中にはもう、当日の自分の姿が少しだけ浮かんでいる。
中央駅へ向かう自分。
映画館の前で春野さんを探す自分。
春野さんに会って、最初になんと言えばいいのか迷う自分。
「……普通に、おはようございます、かな」
そこまで考えて、柚月は顔を両手で覆った。
まだ当日でもないのに、もう緊張している。
でも、その緊張は嫌なものではなかった。
少し怖くて、少し恥ずかしくて。
それ以上に、楽しみだった。
柚月はスマートフォンを伏せ、ハンガーにかけた服をもう一度だけ見た。
月曜日まで、あと少し。
ちゃんと寝て、ちゃんと起きて。
いつもの自分で、春野さんに会いに行く。
そう決めて、柚月はようやくベッドに入った。




