第100話 はじめてのお出かけ
月曜日。
柚月は、待ち合わせ時間の二十分前に中央駅へ着いた。
「……早すぎたかな」
駅の改札を抜けたところで、スマートフォンの時刻を確認する。
電車を一本遅らせても十分に間に合った。
わかっていた。
わかっていたけれど、家にいても落ち着かなかったのだ。
服は、昨日美鈴に選んでもらったもの。
淡い色のブラウスに、落ち着いた色のスカート。薄手のカーディガンも羽織っている。
髪は迷った末に、軽くまとめた。
出かける直前にも一度だけ写真を送ったところ、美鈴からは、
『それでいいから、そのまま家を出て』
と返ってきた。
どうやら、着替え直そうとしていることまで見抜かれていたらしい。
駅ビルのガラスに映った自分を、さりげなく確認する。
変ではない。
たぶん。
美鈴も大丈夫だと言っていた。
「……大丈夫」
小さく呟いて、待ち合わせ場所へ向かう。
待ち合わせは、駅ビル一階にある大きな時計の前。
上映時間の三十分前に集合することになっている。
これだけ早ければ、先に着いて春野さんを待てる。
そう思いながら時計へ近づき――柚月は足を止めた。
春野さんは、もうそこにいた。
「……え」
思わず、小さな声が出る。
大きな時計の下に立つ春野さんは、仕事の時とは違う私服姿だった。
薄いグレーのニットに、黒のパンツ。肩には小さな鞄を掛けている。
髪もいつものようにきっちりとまとめてはおらず、少し低い位置で結ばれていた。
派手な服ではない。
春野さんらしい、落ち着いた格好。
それなのに、いつもとはずいぶん違って見えた。
家事代行に来てくれる春野さんではなく、休日に待ち合わせをしている春野さん。
同じ人のはずなのに、声をかけるのに少しだけ勇気が必要だった。
柚月が立ち止まっていると、春野さんがこちらを向いた。
目が合う。
春野さんは、わずかに表情をやわらげた。
「高山さん。おはようございます」
「お、おはようございます」
柚月は慌てて近づいた。
「すみません。お待たせしましたか?」
「いいえ。私も今来たところです」
春野さんが答える。
柚月は時計を見上げた。
「……春野さんも、早いですね」
「高山さんもですね」
「私は、その……電車がちょうどよくて」
「私も、少し余裕を持って出ました」
二人で時計を見上げる。
少しだけ間が空いたあと、柚月は小さく笑った。
春野さんの口元も、ほんの少しだけ緩んだ。
お互い、同じようなことを考えていたのかもしれない。
「それから」
春野さんが、柚月の姿を見る。
視線を向けられた瞬間、柚月の背筋が伸びた。
「今日のお洋服、とてもお似合いです」
「……っ」
昨日から何度も悩んだことが、一瞬で報われた気がした。
「ありがとうございます。美鈴に選んでもらいました」
「名取さんに?」
「はい。自分では全然決められなくて」
「とてもよくお似合いです」
もう一度言われて、柚月はまともに顔を見られなくなった。
カーディガンの袖口を、指先でつまむ。
「春野さんも」
「はい?」
「その……今日の服、似合っています」
声が少し小さくなった。
けれど、きちんと届いたらしい。
春野さんは少し意外そうに瞬きをしたあと、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いつもと違うので、少しびっくりしました」
「そうですね。仕事の時とは、服装も違いますから」
「はい」
「私も、何を着るか少し迷いました」
「春野さんもですか?」
思わず聞き返してしまう。
春野さんは、少しだけ困ったように笑った。
「仕事ではありませんので」
その言葉に、柚月の胸が小さく跳ねた。
仕事ではない。
今日は、家事代行の日ではない。
二人で映画を観るために、ここへ来た。
「……そうですね」
柚月は照れを隠すように、駅ビルの案内板へ目を向けた。
「映画館、上の階でしたよね」
「はい。確か、八階です」
春野さんも案内板を確認する。
そこには、映画館の名前と、上の階へ向かうための矢印が表示されていた。
「では、行きましょうか」
「はい」
春野さんが歩き出す。
柚月もその後ろについていこうとして――すぐに足を止めた。
案内板の矢印は、右を指している。
けれど春野さんは、迷いなく左へ歩いていた。
「春野さん」
「はい」
「そっちじゃないです」
春野さんの足が止まる。
振り返り、案内板を見る。
もう一度、自分が進もうとしていた方向を見る。
「……反対でしたか」
「はい。こっちです」
「矢印を確認したつもりだったのですが」
春野さんは、少しだけ眉を下げた。
仕事中にはあまり見ない表情だった。
柚月は思わず笑いそうになり、慌てて口元を押さえる。
「すみません」
「いえ。笑っていただいて構いません」
「笑ってないです」
「少し笑っています」
「……少しだけ」
春野さんは小さく息を吐いた。
怒ってはいない。
むしろ自分でも、少しおかしかったらしい。
柚月は右側の通路を指した。
「こっちです」
「では、お願いします」
「はい。任せてください」
言ってから、少しだけ不安になって案内板をもう一度確認する。
大丈夫。
柚月は、春野さんのほんの半歩前を歩き始めた。
普段はいつも、春野さんに助けてもらっている。
部屋を片付けてもらい、食事を作ってもらい、生活が崩れないように支えてもらっている。
けれど今日は、自分が映画館まで案内する。
たったそれだけのことなのに、少しだけ嬉しかった。
エスカレーターへ向かいながら、ときどき後ろを確認する。
春野さんはきちんとついてきていた。
そのことが、柚月には少しくすぐったかった。
八階まで上がると、映画館の看板が見えてきた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ。これくらいは」
そう答えながら、柚月は少しだけ胸を張った。
いつも助けてもらっている自分が、今日は少しだけ春野さんの役に立てた。
それだけでも、来てよかったと思えた。
館内には平日の昼間らしい、落ち着いた空気が流れていた。
それでも話題作の上映前だからか、チケット売り場や売店には何組かの客が並んでいる。
柚月はスマートフォンを取り出し、予約画面を開いた。
「予約番号、これで合ってるはずです」
「ありがとうございます」
二人で発券機の前に立つ。
前日にLINEで相談しながら選んだ、隣同士の席。
画面の案内に従い、二枚のチケットを発券する。
出てきたチケットを一枚、春野さんへ渡した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
春野さんはチケットを受け取ると、映画のタイトルと座席番号を確認した。
「本当に長い映画ですね」
「三時間近くありますからね」
「途中で寝ないようにしないと」
「高山さん、最近はきちんと眠れていますか?」
「大丈夫です。昨日はちゃんと寝ました」
服を決めたあと、当日のことを考えて少し眠れなかった時間はあった。
けれど、それを言う必要はない。
「それならよかったです」
春野さんが頷く。
「お飲み物はどうされますか?」
「買おうと思ってます。春野さんは?」
「私も何か買います」
二人で売店の列に並ぶ。
柚月はメニューを見上げ、小さめの飲み物を選んだ。
春野さんも、同じくらいの大きさの飲み物を注文する。
受け取ったあと、春野さんが館内の時計を確認した。
「上映までは、まだ少し時間がありますね」
「はい」
「高山さん、お手洗いは大丈夫ですか。上映時間が長いので、先に済ませておいた方が――」
そこまで言って、春野さんが止まった。
「……すみません」
「どうして謝るんですか?」
「つい、仕事の時のように確認してしまいました」
春野さんは、少し気まずそうに視線を下げた。
「今日は仕事ではないのに」
「大丈夫です」
柚月はすぐに答えた。
「むしろ、春野さんに言われると、ちゃんと行っておこうって思えるので」
「そうですか?」
「はい。私、忘れそうなので」
春野さんの表情が、少しだけやわらかくなる。
「では、私も行っておきます」
「じゃあ、私も行ってきます」
「はい」
仕事ではなくても、春野さんは春野さんだった。
いつも通りの春野さんが少し見えたことで、柚月の緊張も和らいだ。
上映時刻が近づき、二人は劇場へ向かった。
入り口でチケットを見せ、薄暗い通路を進む。
座席番号を確認しながら、自分たちの席を探した。
「あ、ここです」
柚月が先に席を見つける。
前日に画面で見た通り、中央より少し後ろの二席。
スクリーンも見やすそうだった。
「高山さんは、こちらで大丈夫ですか?」
「はい。春野さんは?」
「大丈夫です」
二人で並んで座る。
飲み物をカップホルダーに置き、鞄を足元へ収める。
座ってしまうと、急に話すことがなくなった。
家の中なら、沈黙はそれほど気にならない。
春野さんが家事をしていて、柚月が作業をしている。
同じ部屋にいても、それぞれ別のことをしている時間は多かった。
けれど今は、二人とも映画が始まるのを待っている。
何か話した方がいいのだろうか。
今日の服の話はした。
映画館までも無事に来られた。
飲み物も買った。
他には何を話せばいいのか。
柚月が考えていると、隣から春野さんの声がした。
「高山さん」
「はい」
「今日は誘ってくださって、ありがとうございます」
柚月は春野さんを見る。
暗い劇場の中でも、その表情が穏やかなことはわかった。
「いえ。私の方こそ、来てくれてありがとうございます」
「私も、楽しみにしていました」
LINEでも見た言葉。
けれど、直接聞くと少し違った。
文字で読んだ時よりも、ずっと近くに感じる。
「……私もです」
柚月は小さな声で答えた。
「すごく、楽しみにしてました」
少し言いすぎたかもしれない。
「はい」
春野さんは、ただ静かに頷いてくれた。
劇場の照明が、ゆっくりと暗くなっていく。
周囲の話し声も小さくなり、スクリーンに予告映像が映し出された。
いつもなら、春野さんがいるのは自分の部屋の中だった。
家事をしてもらう時間。
作ってもらった食事を食べる時間。
生活を支えてもらう時間。
けれど今日は違う。
同じ映画を観るために、隣に座っている。
仕事ではなく。
約束をして、同じ場所へ来た。
友達としての、初めてのお出かけ。
始まったばかりのその時間を、柚月は大切に味わいたいと思った。
やがて予告が終わり、劇場がさらに暗くなる。
隣には、春野さんがいる。
それを確かめるように、柚月は小さく息を吐いた。
長い映画が、静かに始まった。
最新話までお読みいただきありがとうございます。
今回でついに100話となりました。
途中で更新が空いた時期もありましたが、ここまで続けてこられたのは、読んでくださっている皆さまのおかげです。本当にありがとうございます。
100話記念ということで、普段はあまりしないお願いを少しだけ。
この機会に★を付けていただけると嬉しいです。100話のお祝い代わりに残していただけると、作者がとても喜びます。
これからも、透子や柚月たちの日常にお付き合いいただけましたら幸いです。
今後ともよろしくお願いします。




