第101話 映画の感想をあなたと
映画が終わっても、柚月はすぐには動けなかった。
スクリーンから映像が消え、暗かった劇場にゆっくりと明かりが戻ってくる。
周囲では席を立つ音や、抑えた話し声が聞こえ始めていた。
長い映画だったはずなのに、終わってみれば短く感じる。
ずっと同じ姿勢で座っていた体は少し重いのに、頭の中だけはまだ映画の中に取り残されているようだった。
「……終わりましたね」
隣から、春野さんの声がした。
「はい」
柚月はそう返しながら、何も映っていないスクリーンを見つめる。
最後の場面。
主人公の表情。
舞台の上に立つ姿。
どう受け取ればいいのか、まだうまく言葉にはできない。
ただ、何かが胸の奥に残っていた。
「高山さん、大丈夫ですか?」
「え?」
「少し、ぼんやりされているようでしたので」
「あ……大丈夫です。ちょっと、まだ戻ってこられてないだけで」
そう言うと、春野さんは小さく頷いた。
「わかります」
その一言が、少し嬉しかった。
周囲の人たちが出口へ向かい始める。
二人も荷物と飲み物を手に取り、ゆっくりと席を立った。
薄暗い通路を歩きながらも、柚月の頭にはいくつもの場面が浮かんでは消えていく。
聞きたいことがある。
話したいこともある。
けれど、春野さんが楽しめたのかだけは、先に確かめたかった。
劇場の外へ出たところで、柚月は足を少し緩めた。
「……春野さん」
「はい」
「どうでしたか?」
聞いた直後、自分の声が思っていたより不安そうだったことに気づく。
誘ったのは自分だ。
春野さんは原作を読んでいる。
映像になることで、かえって気になる部分があったかもしれない。
そんなことを考えていると、春野さんは少しだけ目を伏せた。
言葉を選んでいるようだった。
「とてもよかったです」
「本当ですか?」
「はい」
迷いのない声だった。
「原作を読んだ時とは、少し違う印象を受けました。文章で想像していたものが、実際の音や動きになると、同じ場面でも見え方が変わりますね」
「やっぱり、違うんですか?」
「違う部分はありました。ただ、どちらがよいということではなくて」
春野さんは、少し考えてから続けた。
「映画を観たことで、原作を読んだ時には気づかなかったこともあった気がします」
「へえ……」
柚月は思わず声を漏らした。
原作を読んでいる人なら、映画との違いばかりが気になるのではないかと思っていた。
けれど、春野さんは映画から新しく受け取ったものもあったらしい。
「高山さんは、どうでしたか?」
「私は……」
聞かれて、言葉に詰まる。
面白かった。
それは間違いない。
けれど、その一言だけでは足りない気がした。
「すごかったです」
「はい」
「すごかったんですけど……何がすごかったのか、まだちゃんと言えなくて」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
春野さんは急かさず、隣を歩いてくれる。
柚月は、頭の中に残っているものを一つずつ探した。
「最初は、もっと成功していく話なのかなと思ってました」
「そうですね」
「でも、うまくいっている時も、ずっと苦しそうで」
認められること。
誰かよりも先へ進むこと。
自分にしかできないものを手に入れること。
そのたびに、同じくらい大切なものが遠ざかっていく。
それなのに、主人公は立ち止まろうとしなかった。
「最後も……あれでよかったのか、少しわからないです」
柚月は小さく呟いた。
「幸せだったのかなって」
春野さんはすぐには答えなかった。
駅ビルの通路を歩く人たちの声が、二人の間を通り過ぎていく。
「私は」
やがて、春野さんが口を開いた。
「幸せだったかどうかは、わかりません」
「……はい」
「ただ、最後まで、自分が選んだものから逃げなかったのだとは思います」
「逃げなかった……」
「ほかの生き方ができなかった、と言った方が近いのかもしれません」
柚月は、さっきまで見ていた最後の場面を思い出す。
自分には、何かを手に入れた人の顔にも見えた。
同時に、すべてを置いてきた人の顔にも見えた。
「春野さんは、そう見たんですね」
「はい。高山さんには、どのように見えましたか?」
「私は……」
考える。
「少し、安心しているように見えました」
「安心、ですか」
「はい。やっとここまで来た、みたいな」
言葉にしてから、本当にそうだったのか不安になる。
「変ですか?」
「いいえ」
春野さんは静かに首を振った。
「私は、そこまでは考えていませんでした」
「そうなんですか?」
「はい。高山さんの感想を聞いて、もう一度最後の場面を見たくなりました」
その言葉に、柚月の胸が小さく弾んだ。
自分の感想が、春野さんの見方を少しだけ変えた。
正解を言えたわけではない。
ただ、自分にはこう見えたと話しただけだ。
それなのに、春野さんはきちんと受け取ってくれた。
「原作でも、最後は同じなんですか?」
「大きな流れは同じです。ただ、文章で読むと、もう少し本人の内側を想像できるように感じました」
「心の中が書いてあるんですか?」
「すべて説明されているわけではありません。ですが、そこまでに積み重なっているものが、映画とは少し違う形で残るというか」
「難しいですね」
「すみません。うまく説明できなくて」
「いえ。なんとなくわかります」
映像は、表情や声が見える。
文章は、自分の中で声や姿を作りながら読む。
同じ話でも、受け取るものが違う。
それは少し不思議だった。
「原作、読んでみたくなりました」
柚月がそう言うと、春野さんがこちらを見た。
「よろしければ、お貸ししましょうか」
「いいんですか?」
「はい。家にありますので」
「読みたいです」
ほとんど考えずに答えていた。
けれど、すぐに自分の読書速度を思い出す。
「……かなり長いですか?」
「上下巻あるので、短くはありません」
「やっぱり」
「急がなくて大丈夫です。高山さんのペースで読んでください」
「途中で止まっても怒らないですか?」
「怒りません」
「返すのが遅くなっても?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当です」
春野さんの返事は変わらない。
柚月は少し安心してから、もう一度頷いた。
「じゃあ、お借りしたいです」
「次に伺う時にお持ちしますね」
「ありがとうございます」
次に春野さんが家へ来る日。
いつも通りの家事代行の日に、今日の映画の続きを受け取る。
そう考えると、今日のお出かけがそこで終わらず、いつもの生活へつながっていくように思えた。
それからも、映画の話は途切れなかった。
あの場面が好きだった。
同じ言葉なのに、最初と最後では意味が変わって聞こえた。
舞台の上に立つ主人公が、場面ごとにまるで違う人に見えた。
柚月が思いついたことを口にすると、春野さんはときどき頷き、原作を読んだ時の印象や、映画を観て感じたことを返してくれる。
話しているうちに、言いたいことが次々と増えていった。
「あ……すみません」
「どうされましたか?」
「気づいたら、私ばかり話していました」
配信なら、話し続けることは仕事の一部だ。
けれど今日は違う。
目の前にいる一人へ向けて、自分が思ったことを次々に話している。
「大丈夫です」
春野さんはそう答えた。
「私も、高山さんがどのように観ていたのか聞けて楽しいです」
「楽しいですか?」
「はい」
その返事に、柚月は少しだけ目を伏せた。
嬉しい。
配信で大勢から反応をもらうのとは違う。
春野さん一人が、自分の話を聞いてくれている。
それだけで、話した言葉がいつもより大切なものに思えた。
「もう少し、話してもいいですか?」
「もちろんです」
春野さんの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
同じ物語を観たはずなのに、二人に見えていたものは少しずつ違う。
けれど、その違いがむしろ面白かった。
春野さんにはそう見えたのだと知るたびに、映画の中に新しい見え方が増えていくようだった。
「原作を読んだら、また感想が変わるかもしれません」
「そうですね」
「その時も、聞いてもらえますか?」
口にしてから、少しだけ恥ずかしくなる。
けれど春野さんは、自然に頷いた。
「はい。ぜひ聞かせてください」
「……ありがとうございます」
春野さんは館内の時計を確認してから、柚月へ視線を戻した。
「高山さん、お疲れではありませんか?」
「大丈夫です」
柚月はすぐに答える。
「あの、プリンのお店にも行きたいです」
「では、寄っていきましょうか」
「はい」
二人はエスカレーターで下の階へ向かった。
映画の話は、そこでも途切れなかった。
エスカレーターを降りると、新しくできた店が並ぶ一角が見えてきた。
その中に、目的の店がある。
ガラス張りの店内。
明るい照明。
ショーケースには、小さな瓶に入ったプリンがいくつも並んでいる。
「あそこですね」
春野さんが店を指した。
「はい」
柚月も頷く。
店の前には、数組の客が並んでいた。
「人気なんですね」
「新しくできたばかりですから」
「少し並びますか?」
「高山さんがお疲れでなければ」
「大丈夫です」
柚月はすぐに答えた。
「まだ、映画の話もしたいので」
春野さんの表情が、少しだけやわらかくなる。
「では、並びましょうか」
「はい」
二人で列の最後へ並ぶ。
店の前に置かれたメニューには、いくつものプリンの写真が載っていた。
固めのもの。
とろりとしたもの。
カラメルが濃いもの。
季節限定の味。
「……思っていたより、種類がありますね」
「そうなんです。以前いただいた時も、どれを選ぶか迷いました」
「春野さんは、どれを食べたんですか?」
「その時は、じゃんけんで最後に残ったプレーンを食べました」
「じゃんけんだったんですか?」
「はい。職場のみんなで、選ぶ順番をじゃんけんで決めました」
柚月は思わず笑った。
プリンを前にして、職場の人たちとじゃんけんをする春野さん。
少し想像しにくい。
でも、見てみたかった気もする。
「今日は、じゃんけんしなくていいですね」
「はい。好きなものを選べます」
「……迷いそうです」
「ゆっくり選びましょう」
映画は、もう終わった。
けれど、春野さんと話したいことは、まだいくつも残っている。
その続きを話すための時間も、これから始まる。
列が進み、二人は並んでメニューを覗き込んだ。




