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第98話 いつもより機嫌のいい柚葉さん

 春野さんからのLINEを見返して、柚月はしばらく動けなかった。


「……えへ」


 小さく声が漏れた。


 慌てて口元を押さえる。


 誰かに聞かれたわけでもないのに、なんだか恥ずかしかった。


 もう一度、画面を見る。


『楽しみにしています』


 春野さんから届いたその短い言葉に、胸の奥がふわふわと浮き上がる。


 仕事の連絡ではない。


 配信の予定でもない。


 友達として、映画に行く約束。


 そのあと、少しだけプリンのお店に寄るかもしれない約束。


 ただそれだけのことなのに、スマートフォンの画面がいつもより明るく見えた。


「……落ち着こ」


 柚月はスマートフォンをベッドの上に置いた。


 そして、三秒後にまた拾った。


 LINEを開く。


 閉じる。


 また開く。


「…………落ち着こ」


 無理だった。


 嬉しい。


 とても嬉しい。


「……だめ。今日は配信」


 柚月はスマートフォンを伏せた。


 配信開始までは、まだ少し時間がある。


 その間に水を用意し、マイクと音量を確認する。


 内容は、久しぶりのマシュマロ読み。


 視聴者から届いた質問や相談を読みながら、のんびり雑談する枠である。


 いつも通りにやればいい。


 いつも通りに。


 そう自分に言い聞かせて、柚月はマイクの前に座った。


「こんばんわー、こんばんわー。朝比奈柚葉です。今日も来てくれてありがとうございます」


 画面の中で、朝比奈柚葉のアバターが小さく手を振る。


 コメント欄も、いつものように流れ始めた。


『こんばんはー』

『マシュマロ回たすかる』

『今日は何個燃えるかな』


「燃えません。今日は平和なマシュマロだけを読みます」


『フラグ』

『柚葉ちゃんの平和判定は信用ならない』

『自分で選んで燃えるタイプ』


「失礼ですね。私だって、ちゃんと選んでます」


 そう言いながら、柚葉は画面の横に開いたマシュマロ一覧へ目を向ける。


 事前に軽く目を通してはある。


 あまりに危ないものは避けている。


 けれど、朝比奈柚葉のリスナーは、妙に距離感が近い。


 悪意ではない。


 ただ、ときどき遠慮がない。


「では一通目。『最近、作業中に飲んでいるものはありますか?』」


 柚葉は少し考えた。


「基本は水です」


『シンプル』

『健康的』

『水なの意外』

『エナドリとか飲んでそう』


「エナドリも飲みます。飲みますけど、作業中に置いておくと危険なんですよね」


『こぼす?』

『キーボード死亡?』

『わかる』


「こぼす危険は水もあります。エナドリは気づいたら全部なくなっています」


『そっちか』

『エナドリの墓場できそう』

『缶が積み上がるやつ』


「消えますよね。あれはよくないです。集中している時ほど、無意識に飲んでしまうので」


『柚葉ちゃん、作業中の記憶なさそう』

『気づいたら朝になってそう』

『水にしとけ』


「なので水です。えらいですね」


『自分で言った』

『えらい』

『水飲めてえらい』


 コメント欄がゆるく流れる。


 柚葉は少し笑ってから、次のマシュマロを開いた。


「次。『最近買ってよかったものはありますか?』」


 これは答えやすい。


 柚葉は少し声を明るくした。


「モニターライトですね」


『お』

『ガジェットだ』

『モニターの上につけるやつ?』

『あれ気になってる』


「そうです。モニターの上に乗せて、手元を照らすライトです。私、部屋は明るい方だと思っていたので、正直いらないかなと思っていたんです。今ってスマホで明るさ測れるの知ってます? そのアプリで測ってみたら思ってたよりずっと暗くて」


『照度計アプリ?』

『そんなのあるんだ』

『思ったより暗いのわかる』

『配信部屋ライト多そうなのに』


「試しに買ってみたら、思ったよりよかったです。画面の明るさと手元の暗さの差が少なくなるというか……気のせいかもしれませんけど、目が疲れにくくなった気がします」


『わかる』

『目に優しいの大事』

『長時間作業民には必要』

『案件?』


「案件ではありません。案件ならもっとちゃんと褒めます」


『今のもまあまあ褒めてた』

『リアルな褒め方』

『目が疲れにくい気がする、ガチ感ある』


「本当に、気がする、くらいです。でも作業環境をちょっと変えるだけで、思ったより快適になるんだなって思いました」


 言いながら、柚葉は自分の机まわりに視線を向けた。


 モニターの上に乗った細長いライト。


 片付いた机。


 必要なものだけが、手の届く場所にある。


 それが地味に、かなり大きい。


『最近作業環境整ってる?』

『机きれいになった?』

『柚葉ちゃんの部屋が進化している』

『家政婦さん効果?』


「すぐそこに結びつけないでください」


 そう言ったものの、声はあまり強くならなかった。


 コメント欄が、少しだけざわつく。


『あれ、怒らない』

『今日やさしい』

『いつもならもうちょい刺してくる』

『機嫌いい?』


「普通です」


『普通じゃない』

『声が丸い』

『なんかいいことあった?』


「ありません。次に行きます」


『絶対ある』

『今の間はある』


 柚葉は流れるコメントを見なかったことにして、次のマシュマロを開いた。


「えー……『いつも部屋が大変なことになっている柚葉さんに質問です。どうしたらそんなに散らかせるんですか?』」


 読み上げた瞬間、コメント欄が一斉に流れた。


『草』

『きた』

『これは燃える』

『怒られるぞ』


 柚葉は画面を見つめる。


「まず、いつもではありません」


『そこ?』

『大変なことは否定しない』


「大変なことになっていた時期も、たしかにありました。ですが、今は違います」


 柚葉は少しだけ胸を張る。


「私には、最強の味方がいるので」


『出た』

『最強の味方』

『家政婦さん!』

『また家政婦さんの話してる』

『声が嬉しそう』


「嬉しそうでは……」


 ない、と言い切ろうとして、柚葉は止まった。


 たぶん、少し嬉しそうなのだろう。


 自分でもわかる。


 春野さんのことを思い浮かべると、自然と声がやわらかくなる。


「……お世話になっているので。感謝はしています」


『素直』

『今日ほんと怒らない』

『家政婦さん強い』

『生活力の化身』


「生活力は強いです。私に足りないものなので」


『切実』

『自覚あるのえらい』

『柚葉ちゃんが成長している』


「成長しています。少しずつですが」


 コメント欄が笑いと拍手の絵文字で流れる。


 いつもなら、もう少しだけ拗ねた返しをしていたかもしれない。


 けれど今日は、不思議と嫌ではなかった。


 部屋のことをからかわれても。


 家政婦さんの話題を拾われても。


 それが春野さんへ繋がっていると思うと、胸の奥がほんのり温かくなる。


「はい、次。そろそろ部屋の話から離れましょう」


『逃げた』

『照れた?』

『部屋回もっと聞きたい』


「離れます」


 柚葉は少しだけ強めに言って、次のマシュマロを開いた。


「次の質問です。『最近おすすめの映画やアニメはありますか? 週末に何か観たいです』」


『普通だ』

『助かった』

『映画アニメ助かる』

『柚葉ちゃんのおすすめ知りたい』


「アニメは、最近だと一話ごとに気持ちよく終われるものが好きです。もちろん重い話も好きなんですけど、今は見終わったあとに、少しほっとできるものがいいですね」


『わかる』

『日常系?』

『癒し求めてる』

『柚葉ちゃん疲れてる?』


「疲れているというより、安心できるものが好きな時期です」


 言ってから、柚葉は少しだけ目を伏せた。


 安心できるもの。


 それは作品だけの話ではなかった。


 整えられた部屋。


 丁寧に置かれた食器。


 それから、来週の月曜日の予定。


 そういうものが、少しずつ増えている。


「映画は……そうですね」


 柚葉は言葉を選ぶ。


「近いうちに、ちょっと長めの映画を観に行く予定があります」


『お』

『映画館?』

『長めの映画』

『話題のやつ?』

『ひとり映画?』


 ひとり映画。


 そのコメントを見て、柚葉は少しだけ口元を緩めた。


 前なら、たぶんそうだった。


 ひとりで観に行くか。


 配信の合間に、家でサブスクを開くか。


 誰かと一緒に映画館へ行く予定なんて、あまり考えなかった。


「今回は」


 言ってから、少しだけ間が空いた。


「今回は、ひとりじゃないです」


 コメント欄が、一拍遅れて流れ出す。


『おお』

『誰かと行くんだ』

『珍しい』

『友達?』

『いいね』


 柚葉はマイクの前で、ほんの少し背筋を伸ばした。


「……友達と、観に行きます」


『友達』

『言い方かわいい』

『声が嬉しそう』

『楽しみなんだね』

『よかったね』


「そんなに声に出ていますか?」


『出てる』

『めちゃくちゃ出てる』

『今日ずっと出てる』

『機嫌いい理由これ?』


「……次のマシュマロに行きます」


『逃げた』

『かわいい』

『楽しんでおいで』

『報告できる範囲でしてね』


 報告できる範囲で。


 柚葉はそのコメントを見て、少しだけ笑った。


 言えることは、きっと多くない。


 春野さんの名前は出せない。


 誰と行くのかも、詳しくは言えない。


 ぷりん会のことも、自分の中にしまっておきたい。


 けれど。


「はい。楽しかったら、話せる範囲で話します」


 それくらいなら、言ってもいい気がした。


 コメント欄に、優しい言葉が流れていく。


『待ってる』

『楽しみあるのいいね』

『柚葉ちゃんが嬉しそうでこっちも嬉しい』

『友達と映画、楽しんで』


 柚葉はそれを見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 配信の中で言えることは、ほんの少しだけ。


 でも、そのほんの少しからでも、嬉しさは漏れてしまうらしい。


「……では、次のマシュマロです」


 そう言って、柚葉は次の質問を開いた。


 その後も配信は、いつも通り続いた。


 おすすめの作業用BGM。


 最近寝落ちしかけた話。


 コンビニでつい買ってしまうもの。


 なんでもない話を、少しずつ拾って、少しずつ返していく。


 けれど、その日のコメント欄には、何度か同じような言葉が流れた。


『今日の柚葉ちゃん、やっぱり機嫌いい』

『怒らない柚葉さん』

『いつもより声が丸い』


「声が丸いって何ですか」


 そう返しながらも、柚葉は強く否定できなかった。


 機嫌がいい。


 たぶん、それは本当だった。


 配信が終わり、画面が暗くなる。


 柚月はヘッドホンを外し、ゆっくり息を吐いた。


 部屋の中は静かだ。


 けれど、さっきまで流れていたコメントの文字が、まだ頭の中に残っている。


『声が嬉しそう』


 柚月は、そっと自分の頬に触れた。


「……そんなに、出てたかな」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 それから、ベッドの上に伏せていたスマートフォンを手に取った。


 LINEを開く。


 春野さんとのやり取りは、最後に見た時と何も変わっていない。


『楽しみにしています』


 短い言葉。


 それだけで、また胸の奥がやわらかく弾んだ。


 配信では言えなかったこと。


 名前を出せなかった人。


 全部を話せない予定。


 それでも、嬉しいものは嬉しい。


 そう思うと、柚月はスマートフォンを握る手に、少しだけ力を込めた。


「……友達と、映画」


 自分で言って、また少し照れる。


 月曜日まで、まだ少しある。


 その間に、決めなければならないこともある。


 たとえば。


「……何、着ていけばいいんだろう」


 新しい問題に気づいて、柚月はゆっくりと顔を上げた。


 嬉しさでふわふわしていた頭が、今度は別の意味で忙しくなり始める。


 月曜日は、まだ先。


 でも、きっとすぐに来る。


 そう思うと、柚月はまたスマートフォンを握りしめていた。


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