第96話 LINEの距離
美鈴との通話を終えたあと、柚月はしばらくスマートフォンを手にしたまま、ソファの上で膝を抱えていた。
胸の中のそわそわは、話を聞いてもらったことで少し落ち着いた。
けれど、完全に消えたわけではない。
むしろ、次にやるべきことがはっきりしたせいで、別の緊張がじわじわと広がっていた。
「……候補日、調べなきゃ」
そう呟いて、映画の公式サイトを開きかけたところで、柚月の指が止まった。
「……あれ?」
そもそも、映画に行くことが決まった時点で、春野さんの休みを聞くべきだったのではないだろうか。
友達として一緒に行く。
そう言ってもらえた嬉しさに頭がいっぱいで、肝心なことを確認していなかった。
「私、浮かれすぎじゃない?」
思い返せば、春野さんもその場では具体的な日程の話まではしなかった。
いつもの春野さんなら、日程の確認くらいすぐにしてくれそうなのに。
そう考えると、もしかしたら春野さんも、少しだけ冷静ではなかったのかもしれない。
その可能性に思い至った瞬間、柚月はクッションに顔を埋めた。
「……いや、何を喜んでるの私」
くぐもった声で呟いてから、すぐに顔を上げる。
駄目だ。今はにやけている場合ではない。
まずは春野さんの都合を聞かなければならない。
柚月は深呼吸して、春野透子のトーク画面を開いた。
画面には、最初に送った自分の文章と、それに続く春野さんの返信が並んでいる。
『高山柚月です。本日はお仕事中にすみません。映画の件で連絡させていただきます』
『春野透子です。ご連絡ありがとうございます。映画の件、楽しみにしています』
改めて見ても、二人とも硬い。
硬いけれど、不思議と嫌ではなかった。
「……よし」
文字を打つ。
『お疲れ様です。映画の候補日についてご連絡いたします』
そこまで打って、固まる。
「硬い」
消す。
『春野さん、映画なんですけど』
少し砕けた。
けれど、なんだか急に距離が近すぎる気もする。
また消す。
「むず……」
友達として送る文章とは、こんなにも難しいものだったのか。
仕事の連絡なら、もっと簡単だ。
用件を整理して、失礼のないように書けばいい。
けれど今は、仕事ではない。
かといって、いきなり馴れ馴れしくしたいわけでもない。
春野さんに気を遣わせたくない。
でも、遠すぎる文面にもしたくない。
「……友達、難しい」
小さく呟いてから、柚月はもう一度文字を打った。
『春野さん、お疲れ様です。映画の件なんですが、春野さんのお休みや、ご都合のいい曜日ってありますか?』
そこまで打って、一度止まる。
丁寧すぎる気もする。
でも、いきなり「いつ空いてますか?」と送るよりは、自分らしい気がした。
続きを打つ。
『上映時間が長いので、できるだけ無理のない日に相談できたら嬉しいです』
何度も読み返す。
硬すぎない。
たぶん。
浮かれすぎてもいない。
たぶん。
「……送る」
自分に言い聞かせるように呟いて、送信ボタンを押す。
画面の上で、自分のメッセージが静かに送られていった。
送った瞬間、急に心臓が忙しくなる。
既読は、まだつかない。
当然だ。春野さんにも生活がある。すぐに返事が来るとは限らない。
そうわかっているのに、スマホをテーブルに置くことができなかった。
その間にも、美鈴の言葉が頭の中を行ったり来たりする。
『音とか人の流れで疲れやすいって。だから、混みにくそうな時間の方がいいかも。平日の昼とか』
美鈴が、そんなふうに言っていた。
自分は知らなかった。
まだ知らないことの方が、きっとずっと多い。
そう思うと、少しだけ胸がきゅっとなる。
でも、知らなかったことを、これから少しずつ知っていけるのなら。
それはきっと、悪いことではない。
友達として。
その言葉を心の中でそっとなぞった時、画面に既読がついた。
「っ」
思わず姿勢を正す。
しばらくして、返信が届いた。
『ご連絡ありがとうございます。基本的には日曜と月曜がお休みです。来週でしたら、月曜日は空いています。高山さんのご都合が合えば、その日にしましょうか』
柚月は、ゆっくりとその文章を読み返した。
日曜と月曜が休み。
来週の月曜日なら空いている。
「月曜日……」
口に出すと、その日が急に特別なもののように思えてくる。
柚月は急いで自分のスケジュールアプリを開いた。
来週の月曜日。
配信を入れるかどうかくらいで、他に予定はない。
映画の公式サイトを改めて開き、上映時間を確認する。
作品名は『国家の宝』。
原作つきの話題作で、上映時間はやはりかなり長い。数字を見ただけで、少しだけ圧を感じる。
「長いなあ……」
夜の回にすると、終わる時間が遅くなりすぎる。
それは避けたい。
昼過ぎから始まり、夕方前には終わる回がある。
早すぎず、遅すぎない。
映画館が入っている商業施設なら、駅からも近い。待ち合わせもしやすいはずだ。
「これなら、大丈夫かな」
自分の都合だけではなく、春野さんの負担も考える。
そんな当たり前のことをしているだけなのに、少しだけ背筋が伸びる気がした。
春野さんが自分の部屋を整えてくれるように。
今度は、自分が春野さんにとって無理のない時間を考えたい。
柚月はもう一度、LINEの画面に戻る。
『ありがとうございます!それなら、来週月曜日のお昼の回はどうでしょうか?昼過ぎからの上映なので、終わるのが夕方前くらいです』
そこまで打って、手が止まった。
夕方前。
映画が終わっても、まだ少し時間はある。
そのあと、どこかでお茶でも。
いや、早めの夜ご飯でも。
そう打ちかけて、柚月は画面を見つめたまま固まった。
「……」
それは、さすがに欲張りすぎな気がした。
映画だけでも、春野さんの休日を使ってもらうことになる。
しかも、上映時間は長い。そのあとさらに食事まで誘うのは、少し違う。
友達として会えることが嬉しいからこそ、春野さんを疲れさせたくはなかった。
打ちかけていた言葉を、そっと消す。
『もし大丈夫そうでしたら、その日でお願いしたいです』
短く付け足して、もう一度読み返す。
映画だけ。
まずは、それでいい。
それ以上は、また次に考えればいい。
「……送信」
メッセージが送られる。
画面の中に、自分の言葉が並ぶ。
夜ご飯のことは、結局書かなかった。
けれど、それでいいと思えた。
春野さんと友達として出かける最初の日。
欲張りすぎず、でも楽しみにしながら。
柚月はスマートフォンを両手で持ったまま、返事を待った。
さっきより少しだけ落ち着いて。
けれど、胸の奥だけは、やっぱり静かに弾んでいた。




