第95話 報告会
その夜。
いつもなら配信準備のために机へ向かう時間だったが、柚月はしばらくソファから動けずにいた。
スマートフォンの画面を開いては閉じ、また開く。
表示されているのは、さきほど登録したばかりの連絡先。
『春野透子』
ただそれだけの名前なのに、画面を見るたびに口元が緩んでしまう。
「……やばい」
自分で呟いて、クッションに顔を埋めた。
友達。
春野さんが、そう言ってくれた。
映画に一緒に行ってくれることになった。
そして、LINEまで交換した。
ひとつひとつを思い返すだけで、胸の奥が落ち着かない。じっとしていると、余計にそわそわしてしまう。
「……これは、報告しないと」
柚月はスマホを操作し、慣れた手つきで通話アプリを開いた。
相手はもちろん、名取美鈴。
数回のコール音のあと、すぐに明るい声が返ってきた。
「はいはーい。どうした、ゆず」
「……別に」
「わざわざ電話してきて別にって、なんかあった?」
「……まあ、ちょっと」
「そのちょっとの言い方、絶対ちょっとじゃないやつじゃん」
「うるさい」
「はいはい。で、なにがあったの?」
美鈴の声は楽しげだった。完全に面白がっている時の声だ。
柚月はクッションを抱きしめたまま、少しだけ視線を逸らす。
「……映画、誘えた」
「おお」
「一緒に行ってくれるって」
「よかったじゃん!」
思ったよりも真っ直ぐな祝福の声が返ってきて、柚月は胸の奥がむずむずした。
「……うん」
「えらいえらい。ちゃんと言えたんだ」
「言えた……と思う。途中、すごい変な感じになったけど」
「あー、目に浮かぶ。ゆず、変に遠慮しすぎて話が遠回りになるからね」
「否定できないのが悔しい」
柚月はクッションの端を指先でいじる。
「それで……その、映画だけじゃなくて」
「ん?」
ここからが、いちばん言うのに勇気がいる。
けれど、言いたくて仕方なかった。
「友達として、って言ったら……春野さんも、友達として行くって言ってくれた」
通話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
次の瞬間。
「え、なにそれ。めっちゃいいじゃん」
いつもの茶化すような声ではなかった。少しだけ驚きと、ちゃんとした喜びが混じっている。
その反応に、柚月の胸がまたむずむずした。
「……うん」
「よかったね、ゆず」
「うん……」
柚月は膝の上でクッションをぎゅっと抱きしめる。
「しかも、LINEも交換した」
「LINEも?」
「うん」
「映画誘えて、友達って言えて、LINEまで交換したの? 今日だけで進みすぎじゃない?」
「そんなことないし」
「いや、もう三段跳びって感じ。そのまま初デートだね」
「違う!」
反射的に大きな声が出た。
自分でもびっくりして、柚月は慌てて口を押さえる。
「違うってば。友達としてだし」
「はいはい、友達としてね」
「ほんとにそうだから」
「わかってるって。そんな全力で否定しなくても」
「だって美鈴が変な言い方するから」
「変じゃないよ。普通の感想」
「普通じゃない」
柚月は頬を膨らませる。電話越しで見えていないのに、きっと美鈴には伝わっている気がした。
「で、最初なんて送ったの?」
「……え?」
「LINE。最初のメッセージ」
聞かれると思っていなかった柚月は、スマホの画面をもう一度開いた。
そこには、何度見ても硬い文章が並んでいる。
『高山柚月です。本日はお仕事中にすみません。映画の件で連絡させていただきます』
改めて読むと、やっぱり硬い。
「……言いたくない」
「なにそれ。絶対おもしろいやつじゃん」
「おもしろくない」
「じゃあ当てるわ。『高山柚月です。本日はお忙しいところ失礼いたします』みたいな感じ?」
「なんでほぼ当たるの!?」
思わず叫んでしまった。
通話の向こうで、美鈴が吹き出す。
「あはははは! やっぱり! ゆず、そういうとこあるよね。肝心なところで急にビジネスメールになる」
「だって緊張したんだもん……」
「かわいいなあ」
「かわいくない」
「春野さんはなんて返してくれたの?」
柚月は少しだけ声を落として、画面の文字を読み上げる。
「『春野透子です。ご連絡ありがとうございます。映画の件、楽しみにしています』って」
「あー……春野さんだ」
「でしょ」
柚月は思わず笑った。
硬い。丁寧。少し距離がある。
でも、そこが春野さんらしくて、とても嬉しかった。
「なんか、ふたりとも不器用すぎて逆にいいね」
「不器用って言わないで」
「いや、褒めてる褒めてる」
「絶対褒めてない」
「まぁまぁ」
「美鈴」
「ごめんって」
軽い笑い声のあと、美鈴の声が少しだけ落ち着いた。
「でもさ、ゆず」
「ん?」
「嬉しいのはわかるけど、春野さんって、たぶんすごく真面目に考えて受けてくれたと思うんだよね」
「……うん」
「だから、浮かれすぎて困らせないようにだけ気をつけなよ。春野さん、優しいからって、なんでも軽く頼んでいい人ってわけじゃないし」
その言葉に、柚月は黙った。
美鈴の声は優しい。けれど、茶化しではなかった。
「仕事の時は仕事だし、友達として会う時は友達。そこ、ゆずもちゃんと大事にしなよ」
「……わかってる」
「ならよし」
「私も、春野さんに迷惑かけたいわけじゃないし。困らせたいわけでもない」
「うん」
「ただ……」
柚月は、スマホの画面に表示された春野透子の名前を見つめる。
「嬉しかったんだよね。友達って言ってもらえたの」
言葉にすると、また胸がいっぱいになった。
美鈴は少しだけ間を置いてから、柔らかく笑う。
「それは、よかったね」
「うん」
「春野さん、いい人だもんね」
「うん。すごく」
少しの沈黙が落ちる。
けれど、それは気まずいものではなかった。
嬉しさをちゃんと受け止めてもらえたことで、胸の奥の熱がゆっくり落ち着いていく。
「で、映画の候補日は?」
「これから。上映時間長いから、昼の回がいいかなって思ってる」
「うん、その方がいいかもね。夜遅いと疲れるし」
「あ、そういえば春野さん、前に人混みはあんまり得意じゃないって言ってた気がする」
「え、そうなの?」
「うん。音とか人の流れで疲れやすいって。だから、混みにくそうな時間の方がいいかも。平日の昼とか」
「わかった。教えてくれてありがと」
春野さんが自分の部屋を整えてくれるように。
今度は、自分が春野さんにとって無理のない時間を考えたい。
そう思えたことが、少しだけ誇らしかった。
「でも、映画館って……何着ていけばいいんだろ」
何気なく漏らした一言に、美鈴がすぐ反応した。
「出た出た」
「なにが」
「デート前の服悩み」
「デートじゃなくても普通に悩むでしょ」
「まあ、悩むね。春野さんの私服も見られるわけだし」
その一言で、柚月の思考が止まった。
春野さんの私服。
いつもは仕事用のきちんとした格好しか見ていない。
映画館で、隣に座る春野さん。
仕事ではない服装の、春野さん。
「……どうしよう」
「なにが」
「私、何着ていけばいい?」
「はいはい。じゃあ候補送って。見てあげるから」
「……送る」
「素直でよろしい」
美鈴の軽い声に、柚月もつられて笑ってしまった。
さっきまで胸の奥にあった緊張が、少しずつほどけていく。
嬉しいことを、嬉しいと言える相手がいる。
浮かれすぎた時に、ちゃんと止めてくれる相手がいる。
それがどれだけありがたいことか、柚月は改めて感じていた。
「美鈴」
「ん?」
「ありがとね。背中押してくれて」
「どういたしまして。ちゃんと楽しんできな」
「うん」
「で、感想は全部報告すること」
「それはもちろん」
「写真も」
「撮れたらね」
「あと春野さんの私服の感想も」
「そこは報告しません」
「えー」
軽いやり取りを続けながら、柚月はスマホを胸に抱いた。
画面の中には、美鈴との通話表示。
そして、その裏に確かに存在している、春野透子という新しい連絡先。
今まで少しずつ整ってきた部屋の空気が、今日はいつもより柔らかく感じる。
まだ映画の日は決まっていない。
けれど、その日へ向かう時間は、もう始まっていた。




