第94話 同じ画面
柚月の「いただきます」の声を合図に、いつもの食事がはじまった。
箸を動かすたび、表情がふわりとほころんでいくのが、キッチンからでもわかる。
(……本当に、わかりやすい方ですね)
嬉しいものを前にしたときの、高山さんの顔。
それを思うと、こちらまで頬が緩みそうになる。
けれど、透子は意識して呼吸を整え、流し台に向き直った。
皿を洗い、コンロ周りを拭き、使った調理器具を片づける。手はいつもと同じリズムで動く。
(仕事は、いつも通りに)
そう言い聞かせながらも、さっき交わした言葉が、何度も胸の中で反芻される。
『友達として、一緒に観に行ってもらえたら』
思いがけず飛び越えてこられた線。
そして、それを受け入れてしまった自分。
泡立つ洗剤を見つめながら、口元がふっと緩む。
(……私も、嬉しかった)
その事実だけは、ごまかしようがなかった。
ダイニングテーブルでは、柚月がスマートフォンをちらりと見て、またご飯に戻る、という動作を何度か繰り返している。
画面に、新しく増えた「春野透子」という名前。それが食事の喜びと同じくらい、彼女の表情を明るくしているのが、目を向けずとも伝わってきた。
やがて食事を終えた柚月が、「ごちそうさまでした」と丁寧に頭を下げる。
透子は「ありがとうございます」と微笑み、食器を受け取った。
仕事の手順は、いつもと変わらない。
けれど、何かを確認するたび、ふと頭の片隅に、さきほどのやり取りがひょいと顔を出す。
(高山さんの「友達」として映画に……)
想像した瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びて、思わず視線を落とした。
(いけません。今は仕事中です)
自分にそう言い聞かせ、掃除機のコードをコンセントへ差し込む。
声には出さないその叱咤が、頬に浮かびかけた笑みを、かろうじて飲み込ませた。
ひと通りの家事を終える頃には、窓の外はすっかり夕方の色に変わっていた。
所定の位置に掃除機を戻し、エプロンの皺を軽く整える。
「本日は、以上になります」
いつものように、玄関の前でそう告げる。
「あ……はい。今日もありがとうございました」
柚月は名残惜しそうに、けれどきちんと笑顔を作って見上げてくる。
その手には、さっきまで触れていたスマートフォンが、ぎゅっと握られたままだ。
「また、次回もよろしくお願いいたします」
「こちらこそ……あの、気をつけて帰ってくださいね」
「はい。失礼いたします」
軽くお辞儀をしてドアを開ける。
廊下の空気は少しひんやりしていて、さっきまでいた部屋の温度が遠ざかっていく。
透子を見送ったあとの静かなリビングで、柚月はソファに突っ伏していた。
クッションに顔を埋めたまま、足をバタバタとさせている。
「……送っちゃった……」
片手を伸ばしてスマホをたぐり寄せ、ロックを外す。
画面には、さきほどのやり取りがそのまま残っていた。
『高山柚月です。本日はお仕事中にすみません。映画の件で連絡させていただきます』
自分で送ったその文章を読み返して、柚月は「うあぁぁ」とくぐもった声を漏らす。
「硬い……! 硬すぎるよ私……! 友達って言った直後にこれって、就活生か何かなの!?」
もっとこう、「よろしくお願いします!」とか、可愛いスタンプとか、他にも選択肢はあったはずだ。
なのに、緊張のあまり、きっちりしたビジネスメールのような文面になってしまった自分が恨めしい。
でも。
その下に続く、春野さんからの返信。
『春野透子です。ご連絡ありがとうございます。映画の件、楽しみにしています』
こちらもまた、丁寧で、真面目で、いかにも春野さんらしい文章。
それを見つめていると、恥ずかしさよりも、じわじわと温かいものが込み上げてくる。
「……お揃い、みたい」
硬い文章同士。不器用な距離感同士。
それがなんだか、今の二人らしくて、愛おしい。
柚月は体勢を変えて仰向けになり、スマホを胸の上に持ち上げた。
画面の中で光る「春野透子」という名前。アイコンに設定された、控えめで上品な花の写真。
「友達、かぁ……」
ふふっ、と自然に笑みがこぼれる。
映画館でポップコーンを抱えながら、隣の席で同じシーンを観ている春野さん。
横顔を盗み見て、一緒に笑ったり、驚いたりする時間。
ほんの少し前までは、仕事の時間だけ会える、少し遠い人だった。
それが今は、「友達」という言葉をまとって、隣に座る未来として胸の中に浮かんでいる。
「……がんばろ」
ぽつりと漏れた声は、自分自身への小さなエールだった。
次の配信の準備も、面倒で後回しにしがちな雑用も。
この画面の向こうに、新しくつながった「友達」がいると思えば、きっと今までより少しだけ前向きになれる。
スマホを胸の上にそっと乗せ、天井を見上げる。
静かなリビングに、さっきまでの食卓の温度と、スマホの小さな光の余韻だけが、いつまでも柔らかく残っていた。




