第93話 新しい距離
「じゃあその……映画の上映時間とか、私のほうでゆっくり調べてみます」
「ええ。無理のない範囲でお願いします」
「はい。それで、その……」
そこまで言って、柚月は言葉を飲み込む。視線がきゅっとテーブルの一点に落ちたまま、指先だけがそわそわと動く。何かを言い淀んでいる時の、彼女の癖だ。
「どうかされましたか?」
透子が静かに問いかけると、柚月は意を決したように顔を上げた。
「あの……もしよかったら、なんですけど」
「はい」
「映画のこととか、時間の相談をしやすいように……その……連絡先、聞いてもいいですか?LINEとか……」
最後の単語が、かすかに小さくなる。
透子の胸の内で、さっきとは別の波が小さく立った。
(連絡先を……)
家事代行の仕事は、あくまで会社を通してのやり取りが基本だ。これまで、個人的な連絡先を交換したことは一度もない。
それでも今、差し出されているのは、依頼人としてではなく、友達としての手だ。
「その……せっかくお友達になれたので、映画の相談とか、普通のお話とか……できたらいいなって」
柚月は少し顔を赤くして、上目遣いで透子を見る。
「迷惑かなって思うんです……でも、繋がっていたいなって思って」
その率直な言葉が、かえって本気さを物語っていた。
(境界線を、超える)
ほんの数秒の沈黙のあいだに、自分の中で問いと答えを往復させる。
会社のルールから逸れないこと。プロとしての自分を守ること。そして、友達として差し出された好意を、ないものにしないこと。
「……そうですね。お友達なら、連絡先くらい知らないと、待ち合わせもできませんから」
静かに微笑みながら、透子は口を開いた。
「ありがとうございます!」
「ただ、すぐに返信できないこともあるかもしれません。その点だけ、ご理解いただけると助かります」
「もちろんです! むしろ、既読スルーでも全然大丈夫なので……!」
思わず笑ってしまいそうになるような極端な言い方だった。
「では……」
透子はスマートフォンを取り出し、アプリを起動してQRコードを表示させ、画面を柚月の方へそっと差し出した。柚月は自分のスマホを構え、カメラを起動する。
『ピコン』
静かな部屋に、軽快な電子音が響く。それが、二人の間の壁を一枚、壊した音のように聞こえた。
数秒後、透子のスマートフォンが小さく震えた。
『高山柚月です。本日はお仕事中にすみません。また、映画の件で連絡させていただきます』
短く、かしこまった文章が表示されている。
透子は、指先でゆっくりと文字を打ち込んだ。
『春野透子です。ご連絡ありがとうございます。映画、楽しみにしています』
送信ボタンを押すと、画面の中で吹き出しが並んだ。
同じ画面に、自分と推しの名前が並んでいる。その事実だけで、胸の奥の温度が少しだけ上がる。
「登録、できました!」
顔を上げた柚月の表情は、隠しきれない嬉しさでいっぱいだった。
「ありがとうございます。これで、日程調整の連絡ができます」
「はい。高山さんのペースで、無理なく、お願いします」
言葉はあくまで穏やかに。それでも、画面に灯った新しい名前を意識しないようにするには、もう少し時間がかかりそうだった。
こうして、友達としての約束に、連絡先という実感が添えられたのだった。
LINEの登録を終えると、キッチンの空気は、さっきまでよりもほんの少しだけ柔らかくなっていた。
「じゃあその……空いてる日にち、調べてみます。候補日がまとまったらLINEしますね。」
「わかりました。高山さんのご都合を優先してくださいね」
「はい!」
返事の声が、いつもより少しだけ弾んでいる。その響きが、透子の胸の奥にも、小さな余韻を残した。
そのあともしばらく、柚月は「なに着ていこうかな」とか、「映画館のポップコーンって、匂いだけで幸せになりますよね」とか、細かな話題をぽつぽつと投げてくる。言葉の端々に、「友達として一緒に行く」未来を何度も確かめているような、くすぐったい期待が混ざっていた。
透子は鍋の様子を確かめながら、一つ一つに穏やかに相づちを打つ。
境界線は、確かに越えた。でも、それは乱暴に踏み越えたのではなく、自分の意思を確かめながら、しっかり踏みしめ進めた一歩だ。
(……一緒に、映画)
ゆらゆらと湯気の立つ鍋を見つめながら、胸の中にも、ひとつ小さな光が灯るのを感じた。
やがて食事の支度が整い、テーブルに皿を並べる頃には、柚月の表情はすっかり、いつものご飯を楽しみにしている顔になっていた。
「いただきます!」
両手を合わせる声が、テーブルの上に弾む。
いつも通りの食事。いつも通りの会話。その底のほうに、まだ形にならない「今度」という約束と、スマートフォンの中に増えた新しい連絡先が静かに沈んでいる。
プロとしての自分と、新しく生まれた「友達」としての自分。その境界線を行き来する心地よい戸惑いを胸に秘め、透子は目の前の仕事へと静かに意識を切り替えた。




