第92話 友達
「高山さん」
透子はコンロの火を少し弱め、布巾で手を拭きながら、ゆっくりと柚月のほうへ向き直った。
「はい……」
「お誘い、とても嬉しいです」
「えっ」
驚いたように目を見開く。想定外の返答をもらった子どものような反応に、思わず頬が緩みそうになる。
同時に、胸の奥では、別の感覚がふっと目を覚ましていた。
(――一線を、超える)
仕事としての線引き。家事代行としての距離。そこから、半歩。いや、ひと足ぶん踏み出すことになる。
美鈴に背中を押されてから、ずっと思案していた「境界線」の話が、今まさに現実の形をとって目の前に置かれている。
それでも。
(それでも私は――)
推しと同じ時間を過ごせること。画面の向こうではなく、隣の席で、同じ場面を見て、同じタイミングで息を飲んで、あとで少しだけ感想を交わせること。その光景を想像しただけで、胸の内側がじんわりと熱を帯びる。
それを、なかったことにするほうが、きっと嘘になる。
「もし、お互いの予定が合う日があるようでしたら……一緒に観に行きましょうか」
言葉にしてしまえば、思ったよりも穏やかな音だった。
「……ほ、ほんとに?」
柚月の声が、素直な驚きと喜びでふるえる。
「はい。ただ――」
と言いかけて、透子はふと口をつぐんだ。
仕事としての距離。名取の言葉と、自分で決めた「境界線」が、胸の内側で静かに姿を現す。
(お互いにとって、無理のない形で……)
言葉を探していると、その沈黙を、別の意味に受け取ったのかもしれない。柚月が、あわてたように身を乗り出した。
「あ、あのっ! もちろん、無理そうだったら全然大丈夫ですから! お休みの日まで時間取ってもらうの、申し訳ないなって思ってて……」
「高山さん」
「えっと、その……これはお仕事の延長とかじゃなくて、ですね……」
自分で自分の言葉に足を取られながら、それでも目だけは真っすぐこちらを見ている。
「変な言い方かもしれないんですけど……もしよかったらでいいので……」
一度、小さく息を吸い込んで。
「友達として、一緒に観に行ってもらえたら、すっごくうれしいです」
その一言が、まっすぐに胸の奥に落ちてきた。
(……友達)
推しの口から、自分に向かって差し出されるその言葉をうまく噛み砕くことができない。
思わず指先に力が入る。けれど、表情だけは崩さないように、そっと息を整えた。
「……友達として、ですか」
「は、はい。もちろん、春野さんにとって嫌じゃなかったら、なんですけど……」
柚月は不安そうに、けれど期待を隠しきれない顔でこちらを見つめている。
仕事と個人。そのあいだに引いてきた線が、今、相手の言葉一つであっさり揺らいだ気がした。
(友達になれるのなら――)
自分が守ってきた線を、柚月が一気に飛び越えてきた気がした。受け入れれば「仕事だけ」には戻れなくなるかもしれないとわかっていても、その無邪気な一歩を振り払うことだけは、どうしてもしたくなかった。
「でしたら、その言葉……ありがたく、受け取らせていただきます」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
「当日は、家事代行としてではなく……高山さんの『お友達』として、ご一緒させていただきますね」
「――っ」
柚月の肩が、びくんと小さく震える。
「い、今の、録音したい……。じゃなくて……」
自分で冗談めかして首を振りながらも、頬ははっきりと赤く染まっていた。
「友達って、言ってもらえたの、すごくうれしいです。あの、その……ずっと、そうなれたらいいなって思ってたので」
「私も、です」
胸の奥からせり上がってくる感情を、できるだけ静かな言葉に乗せる。
「高山さんに、友達と言っていただけて……とても、うれしいです」
口調はいつも通りのはずなのに、自分の耳には少しだけ柔らかく響いた。
胸の奥で揺れていた何かが、すとんと静かに落ち着いていく感覚があった。




