獲物たち
どれほど走ったのか分からない。気が付けば。
最初に集められていた家の場所はもう見えなくなっていた。
住宅街を抜け。細い路地を曲がり。
坂道を駆け上がり。また下る。
とにかく無我夢中だった。
ようやく三人が身を隠したのは、古い民家と倉庫に挟まれた狭い物陰だった。
紗月は壁に背を預けながら呼吸を整える。
隣では美穂が肩で息をしていた。苦しそうではある。
だがしっかり付いてきていた。
中学から社会人までバレーボールを続けていたと言っていたのは本当なのだろう。
二十七歳とは思えない体力だった。
一方で。萌子はその場にしゃがみ込んでいた。
「はぁ……っ……はぁ……っ……」
肩が大きく上下している。顔色も悪い。
「もう……無理……」
絞り出すような声だった。
「ごめん……ちょっと……無理……」
紗月は周囲を確認する。追手はいない。発砲音も聞こえない。
さっきまであれほど響いていた悲鳴も聞こえなくなっていた。
静かだった。あまりにも静かだった。
その静けさが逆に不気味だった。
まるで何もなかったかのように。
風が吹く。電柱の電線が微かに揺れる。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
だが人の気配はない。紗月はゆっくりと顔を上げた。
「二人ともここにいて」
美穂が顔を上げる。
「何するの?」
「少しだけ様子を見てきます」
「危ないよ」
「分かってます」
紗月は即答した。無茶をするつもりはない。
近付くつもりもない。見つかるつもりもない。
ただ。
確認したかった。本当に何が起きたのか。
鬼はどこへ行ったのか。他の参加者はどうなったのか。
美穂は不安そうな顔をした。
「絶対無理しないで」
「はい」
紗月は頷く。
そして音を立てないよう路地の奥へ進んだ。
慎重に。足音を消しながら。角へ近付く。
一歩。また一歩。
息を殺す。視線だけを先に出す。
最初の広場の方向が遠くに見えた。かなり離れている。
だが高低差のおかげで一部だけ確認できる。
未だに煙がまだ少し上がっていて地面には黒い跡の様なものがちらほら見える
紗月は電柱の陰からそっと覗いた。
――静かだった。異様なほどに。
さっきまで悲鳴で満ちていた場所とは思えない。
人影もほとんど見えない。逃げたのか。隠れたのか。
それとも。
そこまで考えて紗月は思考を止めた。
今は確認することが先だ。鬼の姿は見えない。
少なくとも視界に入る範囲にはいない。
だが。だから安全だとは思わなかった。
あの黒い鬼がどこかに潜んでいる可能性は十分ある。
紗月はさらに身を低くする。見つからないこと。
紗月は周囲をもう一度確認した。
道路。建物の屋上。路地の奥。窓の中。
見える範囲を可能な限り見渡す。鬼の姿はない。
少なくとも今この周辺にいる気配は感じられなかった。
それでも警戒を解かないまま、ゆっくりと来た道を戻る。
数分後。
倉庫の陰へ戻ると、美穂と萌子の姿が見えた。
萌子は地面に座り込みながらペットボトルの水を飲んでいた。震える手で何度も口へ運んでいる。
一方、美穂はタオルで顔を拭いていた。額には汗が滲んでいる。
二人とも紗月の姿を見ると少しだけ安心した表情になった。
「紗月ちゃん」
美穂が立ち上がる。
「どうだった?」
萌子も不安そうな目を向けてくる。紗月は周囲を確認してから答えた。
「近くには誰もいないみたいです」
「鬼も?」
「少なくとも見える範囲にはいませんでした」
二人が少しだけ息を吐く。だが安堵には程遠い。
紗月は続けた。
「最初に集められてた場所も見えました」
「本当?」
萌子が聞く。
「人は?」
紗月は首を横に振った。
「誰もいませんでした」
その言葉に空気が重くなる。
誰もいない。その意味を三人とも理解していた。
逃げたのか。隠れたのか。それとも別の場所へ追われたのか。
分からない。何も分からない。
だからこそ怖かった。
萌子は両手でペットボトルを握り締めた。
「なんなの……これ……」
声が震えている。
「鬼ごっこじゃないじゃん……」
目には涙が浮かんでいた。
「本当に殺しに来てるじゃん……」
美穂も唇を噛む。普段なら年上として落ち着いているのだろう。
だが今は違った。恐怖を隠し切れていない。
「さっきまで普通に話してた人たちがいたのに……」
タオルを握る手に力が入る。
「意味分かんないよ……」
その声は弱々しかった。紗月も同じだった。
平静を装っているだけだ。心臓はまだ激しく脈打っている。
頬に付着した血の感触も忘れられない。
あの爆発。あの悲鳴。黒い鬼の姿。
思い出すだけで胃が重くなる。
怖い。逃げ出したい。
だが。それでも。
紗月は深く息を吸った。
「……でも」
二人が顔を上げる。
「これからどうするか考えないと」
沈黙が落ちる。
「怖いのはみんな同じだと思います」
紗月は静かに言った。
「でも何もしなかったら、本当にやられる」
その言葉に美穂が小さく頷いた。
「そうだね……」
しばらく俯いていたが、やがて呟く。
「旦那も……たぶん同じ目に遭ってるんだろうな」
紗月と萌子は何も言わない。
「色が違うから別の場所だろうけど」
美穂は無理やり笑おうとした。
だが上手くいかなかった。
「ちゃんと逃げられてるかな……」
目線が下がる。
「怪我してないかな……」
声が震える。
「会いたいな……」
ぽつりと漏れた言葉だった。
夫婦としてはごく当たり前の願い。
だが今はその当たり前がとても遠い。
「合流できるならしたい」
美穂はそう言った。
「無事かどうかだけでも知りたい」
萌子も小さく頷く。
「私も友達とか探したいけど……」
言いながら視線を落とした。
現実的ではないことも理解しているのだろう。
紗月は腕のスマートウォッチを見る。
「あ……」
紗月が小さく声を漏らした。美穂と萌子が顔を上げる。
「どうしたの?」
「スマートウォッチ」
紗月は腕を見る。
「確か参加者同士でメッセージのやり取りができるって言ってませんでした?」
その言葉に美穂が目を見開いた。
「あっ」
萌子も反応する。
「そうだ!」
「それなら連絡取れるかも!」
美穂は慌ててスマートウォッチを操作し始めた。
「旦那に連絡できるかもしれない」
期待が少しだけ空気を軽くする。紗月も画面を触る。
地図画面。ポイント画面。ポイントで購入できるものの画面。設定画面。
いくつかの項目を開いていく。
そして。
ある画面を開いた瞬間。紗月の指が止まった。表情が固まる。
「……え?」
「どうしたの?」
萌子が聞く。紗月は無言のまま画面を見つめていた。
そこには大きく数字が表示されていた。
【残存参加者 68】
「紗月ちゃん?」
美穂が再び声を掛ける。紗月はゆっくりと画面を二人へ向けた。
「これ……」
二人も画面を見る。そして。
表情が凍り付いた。
「68……?」
萌子の声が震える。
「最初……100人じゃなかった?」
誰も答えない。
少なくとも集められた人数はそれくらいいた。
だが今表示されているのは。
68
3人は無言で数字を見つめる。
嫌な予感しかしなかった。
「これ……」
美穂が口を開く。
だが途中で言葉が止まる。
言いたくなかったのだろう。
それでも。
誰もが同じことを考えていた。
紗月はゆっくりと言った。
「生き残ってる人数……だよね
もう30人ぐらい死んじゃっているってことだよね…」
沈黙。
3人とも分かっていた。
ゲーム開始からまだほとんど時間が経っていないのに。
30人以上が死んだことになる。
風が吹いた。誰も話さない。
数字だけが静かに表示され続けている。
【残存参加者 68】
その無機質な文字が。
先ほどまでの悲鳴よりも恐ろしく見えた。




