第121話:繋がれ、意思よ
「教授のノートについて?何だ、今になって」
男の低い声が聞こえる。視線を上げた先では、その声の主が返り血を拭いながら、不思議そうにこちらを見ている。
記憶とはあくまで映像のはずなのに、VRの機械でも使っているかの様に視線だけが確かに主体的に動いていた。この記憶は、魔石からなる物であるのだと考えれば、再生というよりも、再認と言う方が正しいだろうか。
「そうだな、確かに今回関わっている奴と無関係ではないだろう。教授の邸宅の近くは海だ、奴等にとった神聖な場所にして、始まりの場所」
男にとって、海はすっかり恐ろしい場所に変わってしまった。邪神の支配すら終わっていないのに、あの化け物が、友人達を無惨に殺した化け物達が、住処にしているのだと知ってしまっては、海の全てが死を呼び込む呪われた場所に思えてしまうのだ。
しかし、異世界での彼は足がすくむ事もなければ、恐れも見えない。彼自身、海に潜って戦いに行けと言われれば躊躇なく飛び込める程度には。
「とあるボートが嵐に巻き込まれた時の話だ。それに乗っていた人間は幸運な事にも生きてとある場所に辿り着いた。だが、その辿り着いた先では奇妙な紋様が描かれていた。何の為の、何の意味を持っている物かなど、偶然流れ着いた者には分かるはずもなかった。確かだったのは、謎の紋様と、その紋様の上から塗り潰すように描かれたもう1つの紋様があったと言う事だ」
男は記憶を手繰りながら、足元の砂地に指でそれを再現して描く。描いて悪影響はないのかと少年は焦ったが、ただ描いただけで応える程に奴等も暇ではなければ、簡単な生物ではないと男は苦笑を浮かべる。
「──その紋様が描かれていた場所はひどい悪臭だったらしい、生臭いという言葉では生優しい程のな。教授の資料を見た中から近い特性を持つのは、半魚人だった。そう、お前の脳内で想像したであろう生物だ。その臭気がする他の場所で似た紋様が見つかった事があるらしく、その周辺では大量の変死事件が起きた。生存者も頭がやられていたそうでな」
全く地球での日々の中で、邪神に関わる存在の影も予兆すら感じた事もなかったが、そんな大事になっていたなどと、少年は自分の帰りたい平和な日々の根底が覆る様な不安を覚えていた。
「その時に見つかった紋様には上に被さる様に描かれた物はなかったらしい。なら、そこにどんな差異があったか──」
それを聞いている少年は難しい顔をしていた事に気付き、男はかぶりを振る。
「訳が分からないと言いたいのだろう?だから、ここからはその証言を見た教授の考察と、私の考察を含めた物だ。故に、それを妄言と捉えるも、知識の1つとして覚えておくも自由だ」
身に余る知識と、その代償の様に経験した事件の数々によって正気を失ってる久しい男は、この世界では正常に心身共に動かせている事に対しても、これが正常であるという保証はないと考えている。
だから、少なくとも狂気に落ちてはいない少年の状態から、客観的かつ自主的に判断と取捨選択を行なってほしいのが本音だ。それを少年も分かってか、それも含めて首を縦に振る。
「思うに、その紋様は現象か、あるいは生物か、どちらにせよ人類にとっては極めて迷惑な何かを発生させる為の陣で、それが役割を成した場所か否かの差異ではないかと考える。その漂流者は無事に帰還しているそうでな、事件のあった場所と同じならば、少なくとも無事の帰還とはならなかったはずだ。奴等にとって海に囲まれた孤島など庭に等しく、丁度良く無防備な餌が転がっていたらどんな形であれ、見逃す程に優しくはないのだから」
ならば、何故紋様がその場所では役割を成す事がなかったのか、最早答えを言っているに等しいだけに、少年が男の方を見た時には男も頷いていた。想像した通りだと。
「そうだ、奴等にとって近付けない、出現も出来ない結界の様な物がそこにはあった。それが被せてあったもう1つの紋様、アレは反転、あるいは本当に結界だった可能性が高い。教授が研究の為にそこへ訪れた時も、何も起きなかったらしいからな」
表沙汰にもなっていない様な事件や、出来事に対して、その様に適切な対処が出来る存在とは逆に何なのか、少年はそれも気になりはしたが、男はそればかりは知らないらしく、あえて触れる事はない。
世界を破滅させようとする者もいる分、世界を守ろうとする超常的な者もいるのかもしれない。なんて、都合の良い期待を微かに込めて少年の中で結論付けた。
「私はそれが本当に有効かは試した事はない。知りたいと思ってはいたが、実際にやる事は出来なかった。単なる恐れのせいでな。だから、実例はその記録のみ」
その実用性の有無も、どの様に作用して効果が得られるのかも未知数。少なくとも、異世界でもないのに超常に対して対抗出来る物は超常的な力しか有り得ない。それが本当に見様見真似でやれて、手に負える物なのかどうか。
少年は男の描いた2種の紋様を凝視する、必ずこの知識が役に立つ時は訪れる。心強いと思ったのか、純粋な知識欲や好奇心が満たされたからなのか、少年はきっと笑っていた。
「……」
反して、男は目を細めていた。
「知らなければ、知らない物であれば良かったという時期はとうに過ぎている」
それは決して、男にとって喜ばしい事ではない。自分の周囲に多くの不幸を呼んだ物を、それに連なる力も、知って幸福を得られた事はなかった。この世ならざるものとの接触から、必要に駆られて手に入れた知識ではあるから、これは確かに正しい使われ方なのかもしれないが。
世界の安全、人々の生存、それ比べたら天秤としては瑣末かもしれない。それでも老婆心から大人として、男は付け加える。
「しかして、知識という物はただ存在する情報であり、それが必ずしも幸福を届けてくれるわけではない。知識は道具と同じで、使い方を誤れば牙を剥いてくる。悪意、善意、どちらの形にも歪められ、自分の想像だにしない形でも歪む。だから、過信せずに、使いどきを見極め、舵を取れ。お前ならそれが出来ると私は思っている」
少年はこの話を聞いた時、牙を剥いてくるとどの様になるのか、牙を剥くとは何なのかまでは、まだ知らなかった。心器の能力とその身のみで対処してきたから。
「そして、舵を取るのが難しい時には、己の錨を忘れるな。その導がある限り、お前の道は歪まずにそこにある。あるいは、それが力になってくれる」
だが、その後を思えば男は正しく託せたのだと言えるだろう。少年がその記憶に焦点を当てる時間が終わる。多くの記憶の中に男の声は遠のいていった。
*
意識とその外、相対的な時間の差はどれほどだったか。まるで記憶を掘り起こしていた時間だけはタイムスリップでもしていて、終わった瞬間に現在時間にでも戻ってきた様な感覚だ。
「──ベルタ、手がある!」
「了解、その手段にわたしの助力はどの様に必要か」
ベルタは魚人達について分かっていた。ここで手段を堂々と話せば、彼等はそれを理解した上で妨害してくる。だから、具体的に何をするかを話すのではなく、役割だけを互いに伝達する必要がある。
そして、幸いな事にその指令の内容は至ってシンプルで、魚人達に先読みされる可能性も低かった。
「変わらない、1体でも多くの魚人を倒してくれ!ただし、儀式を行おうとしている個体を最優先!」
「了解」
言うや否や、葵との合流よりも中央に集まろうとしている魚人達に向かう。魚人がひしめく混沌の中、滑る様な足取りで、儀式を作る個体を見極め、飛び込む。他者が彼女を見て、動いたと認識した瞬間には魚人の首はなくなっていた。
そして、手元で鎌を回したと思えば、先端が鋭利な匙が姿を見せる。匙を地面に突き立てるとら彼女の周囲に何か質量のある物が、落下したと言う結果のみが発生する。それを受けた魚人達は該当の部位を砕かれ、中には頭を砕かれる者もいた。
(アレが、彼女の心器の能力なのか……?)
どんな能力なのかは知っておかねばならないものだが、今は彼女に時間を稼いでもらっている以上、気を取られてる余裕はない。刀を構え、自分の真上に来ている魚人達に向けて刃を一斉掃射し、軌道を逸らす。真上から降って来る彼等の血は気分の良い物ではないが、儀式場となる陣の中に落ちるよりは状況的には良い。
方法としてはこうだ、魔石を操作し、遺跡全体を使って陣の形状を生成する。召喚を妨害する為の大きな結界を作り出すのだ。パイプ状にした時の経験から、形自体には大きな制約はなく、円や線を作り出す事ぐらいは出来る。その分、塊になっていた所は質量が減る事になる。補う為、移籍を維持する為にもその残りの質量をどこに動かすかを考えなければならない。
それは魔の物の召喚を抑制する為の物であり、避難所で行われる退散の術式を妨害する事にはならない。向こうとのタイミングを合わせる必要はなく、むしろ安全の為には葵の方は早ければ早い方が良い。
(確か、記憶ではこの形になっていた。枠になる円、その中の図形、星座の様に散りばめられた点。恐らく点の位置のズレは許されない)
いつもの防護と違い、魔力の操作と詠唱による認識、発動の流れだけではこれは成立しない。周囲の環境を受けて発動のし易さや、出力が上下するのはこの世界の魔術の鉄則であり、この結界は言わば異世界という邪神のフィールドに反した力。発動を促進させるというよりも、むしろ抵抗をいかに突破するかが肝となる。
その突破の為に使う思いの力を乗せるには、邪を払うという意識が必要で、対抗する為の基盤を要する。無論、葵は聖者ではない。彼の中にある信仰は現代日本で過ごした、お天道様や八百万の神々や、近くに在って近くに在らず、しかして見守ってくれている様な、日々の中に息衝く存在で、善くある為の指標。邪を払うという感覚は、まだ彼の中には養われていない。
ならば、善の意思を邪の反対に位置すると仮に定義すればどうか?いや、それも葵は葵自身を善や正義と決して定義出来ない。地球で何も知らず過ごしていた頃から変わらない。
さて、どう世界からの抵抗に抗うというのか?
(こうなる事を想定して話してくれたのかもしれない。己の錨、導)
お陰でそこも含めてで対策を考える事が出来た。この世界の意思に一切のこちらからの抵抗が効かず、ただ破滅を受け入れるしかないのならば、ここまで生きてこれはしなかった。
(今、避難所の皆が頑張っている。諦めかけてた人達も、今を生き延びる為に、命を賭けて生きようとしている。そんな彼等を守りたいと思っている俺の為にベルタも頑張っている)
彼等の生成しつつある陣の中央に飛び込む葵、すれ違う様にベルタは葵の横を通り抜け、彼の背を守る。
守り、守られながら、葵は要となる物を見出す。結界の出力を後押しする物。
(俺1人の力ではない、生きようとする気持ち、前に進む気持ちは。それは、帰りたい、自分達の知る地球に帰還したいと言う何よりものこの世界に対して抵抗する意思!!)
そして、それはこの魔石の中に込められた多くの記憶の断片の中にも存在する気持ち。葵自身も叶う叶わないは置くとしても、その願いは変わらない。あの家が懐かしいと思う気持ちはずっと。だからその全てを使う。今この時を生き延びる為に。
刀を地面に突き立てて自分が結界の中に浮かぶ星座、その星の一部となるイメージを描く。無論、物理的な抵抗も尽きず、魚人の攻勢は終わらない。防護を張る余裕もなければ、大きく避けて位置をズラすわけにもいかない。
耐える、ただ耐える。これまで何度もそうした様に。
「生きる意思という糸を束ねよう、地球への慕情も糧にしよう、その全てを合わせた物が力となり、悪しきを阻む。そうだ、俺は当たり前が好きだ、普通の日々が好きだ、天を見上げて季節を想う瞬間が好きだ。お前達には分かるまい。なのに外から来といて好き勝手しやがって、ここからは俺達星の原住民の領地。通行手形を持たないならばお引き取りを!さぁ、“白の結界”よ!奴等の道を断ってくれ!」
葵の思いのまま詠んだ言葉に応え、陣に対抗する結界は、それを生成する為の結界の陣となっている魔石は光を放ち始める。視覚を普通に利用する魚人達はその光に目を細め、一瞬動きを止めるが、ベルタはその隙を待っていた。
陣を描こうとする魚人を優先して刈り取っていたベルタが、急激に身を翻して少し離れた位置の魚人喉に匙を突き立てたのだ。
「貴方達が例え我等の主を崇める者であったとしても、召喚の条件がただ陣を描き、ただ血肉を捧げるだけで力を貸してもらえるわけもない。必然、呼び出す為の詠唱を要する。儀式の中心、行使する者。ようやく見つけた」
「〜〜〜!?!?!?」
彼等が葵を妨害しようとする理由と同じで、こちらも詠唱を務める中心の存在を仕留める事は手早い妨害になる。ただ、魚人の数が多いだけに、恐らく代わりが用意されているから、狙うにしてもその存在が実質的に無意味に出来る瞬間でなければならなかった。
そして、魚人達の作った血の召喚陣の上に焼き付く様に葵の生成した陣が被さる。思った効果のものに出来てるか、確信が持てたのはおかしな挙動をしていた魚人達が一斉に飛び掛かってきた時だった。
(後はあっちの解読と、昏倒の時間分と完成まで相手し続けなければ。踏ん張れるか?なんか頭の中スプーンで雑にかき混ぜられてる感じだし、口元が痒いから多分血垂れてるし、視界もブレブレでもう滅茶苦茶だけど)
しかし、それでもやるしかない。自分が戦わなければ死ぬ人の数と比べれば、戦えない理由など何であってもないに等しい。
刀を握り直し、正面の敵の数々を見据える。
*
その頃、避難所──
「っは!?あれ、ウチ、何で……」
「日向!大丈夫!?」
「杏菜……?えぇ、めっちゃ慌ててるじゃん。どうし──」
よく眠れた日の起き抜けの様にふわふわとした感覚から、慌てる若葉の顔を見て急激に意識が覚醒した日向はバネでも使ったかの様に起き上がる。
「いだっ!!」
「ご、ごめんごめん杏菜!でも、そうだ!ウチ等は本を読んだんだ!」
「そうだよ、日向が1番最後。皆はもう起きてる」
咄嗟に辺りの時計を探すが、どれだけ時間が経過したのかを確認する媒体もなければ、そもそもこの世界における正確な時間自体が判明していない。
周囲の皆の顔に視線を向けて、焦りと申し訳なさから眉を下げる日向にルイは笑みを返す。
「おはようございます。と言っても僕達も先程起きたばかりですよ」
「今は擦り合わせ中ってやつだ、ミゲルみてぇに解読が完璧とはいかない奴もいるからな」
「落ち込む事はないよ!いつ起きるのかの調整が効くのなら苦労はしないからね!レディの寝顔をまじまじと見てしまうのは紳士ではないから、無論見て」
「ミゲルの妄言は置いといて。そういう事だから日向も参加。貴方の情報もあるとすごく助かる」
「う、うん!そうする!えっと、今どこまで話し合い進んでる感じ?」
「んじゃ、オレから説明するぜ」
退散の呪文の全文を把握出来た者はおらず、文節毎に分けて6つの文で構成されているとした場合、ニントは1と4、ミゲルは2、ルイは2と3、若葉は3、5を把握している形になっていた。互いにその文が正確なものである確信を持つ為にも、被りがある事自体はありがたい事ではあったが、まだ5に当たる部分だけが未知の状態だった。
5つで構成されている事は分かっても、その5つ目は分からない。後は日向がどこを読めているか、葵の様に全文が読めているという可能性はないかに賭けるしかなかった。
(もしもヒナタも違えば全員揃って解読のし直し、2度目で多少免疫が出来ていたとしても普通に本を読むのとは違う。そしたら……)
そしたら、葵とベルタの負担が大きくなるのでは、と胸中であっても言い切れなかった。勇者である葵。何者かは分からないが、同じ空間にいるだけで妙な威圧感を覚えるベルタ。あの2人はきっと自分とは違う所にいる人間だから、もしかしたら殲滅して戻ってくるかもしれない。そうでなくともおよそ半日かかっても耐えるかもしれない。そう思うところもあった。
かぶりを振る。それは楽観視に過ぎない。酒に酔っていない今だからこそ、歪んだ見え方も甘い考え方も今は切り離さなければいけない。唯一外を知っているノアの人間として。
「──そういう事だ、ヒナタ。お前の知ってるのはどこに該当する」
「……」
「日向?どうしたの?」
ニントの説明を受ける毎に、皆から聞いた詠唱文を聞きながら、徐々に日向の表情に陰りが生まれる。その顔を見て、彼女を安心させ、その上で少しでも早く情報共有をしてくれる様にと、若葉が肩に手をかける。
一方で、皆より先に読んでいたミゲルが目を伏せ、ニントは眉を寄せる。
「う、ウチは……どうしよう、4だけ」
嫌な予感ほどよく当たる。当たったら困る事態になるから嫌な予感だけは当たってる様に感じるのか、本当に当たりやすい様に賽の目が弄られているのか。
ニント達はそれを顔に出さない様にするので精一杯だった。彼女は何も悪くないというのに、空気が重くなる雰囲気だけは隠せない。
「じゃあ、僕達も解読をやり直しましょう」
「皆、ごめん……ウチが上手く読めなかったから」
「誰か1人でも引っかかってないんだから、責任の所在は相当行方不明だよ、ヒナタ!」
必死に励ますミゲル、その横で本を手に頭を掻くニント。
(どうする、解読たって本を読むというよりも本から直接ぶち込まれる情報。本当に思った様に再解読が出来るのか!?いや、やるしか──)
「ねぇ」
その時、これまで黙していた者が口を開く。避難所の仲間、いや、邪神の手先であるはずの人間、アーリアが。
「全文、知ってるわよ」




