第117話:まだ終わりではない
喉の奥が変な音を立てるしか出来ず、乾燥して張り付いてしまった様に声が出なかった。せめて少しでも表面の動揺を抑える為に口元を手で覆うが、眉や目元が動く事だけはどうしようもない。
舗装された根拠が恨めしかった。ならば、家族はどうなった?家族も皆既に死んでいるか、この世界に実は来ていて魔物か異形に襲われたか?ひたすらに湧き上がる不安と恐怖、その次にどんどん葵にとって縁のある顔が浮かぶ。父方の祖父母、毎朝顔を合わせる度に挨拶するご近所さん、様々な顔が浮かぶ。
(俺のよく知る人達が、誰かにとってのよく知る人達が、皆……?)
そして、彼が口を割りたくなかった理由にも察しがついた。それを希望の象徴たる勇者が知る事の弊害、勇者が知る事で戦意喪失してしまえばどうなるか。先代が去った後は後継者が現れる事が分かっていた状態だったから何とかなったが、そうでない今はノアの士気低下に繋がるそれは真の意味での人類の滅亡に繋がりかねない。
ニントは諦めている男ではあるが、だから皆に死ねと言い切ることは出来ない。ここから出る事に反対し続けるのは、現状を思えば実質的な心中に付き合わせることに他ならず、言ってないだけに過ぎないのが事実だろう。
「……皆といた時には、いつもみてぇに結局なんとかなって、目を覚ました後に口うるさい女が居たなって思う日が来ると思ってた、正直よ。オレが何かしなくてもオレより偉い奴が大きなことを動かすからよ、案外普通にその日が訪れると思ってた」
前線で戦うわけでもなく、少しだけ危険は伴うが毎日調査、観測、その記録を取ったり、時には採取等もしたり、そんな日々の中で培ったのは何かに貢献出来てるという実感。調査隊に属することは、無力で情けない自負のあるニントにはこれ以上ないリハビリになっていたのだ。
その中でニントが迷惑をかける対象でしかなかった周囲の存在も、そうではないものに変わっていった。ただ意地悪で相手がニントに冷たかったのではなく、ニント自身が悪くて、それを込みにして苦言を呈する事もあれど、しっかりと仲間だと言ってくれて、対等に接してくれた良い友人達。
「そうだよ、オレは勇者なら姐さん達を救ってくれるって、皆を帰してくれるって信じてたんだ。結局はよ。オレと違って、アイツらは元の世界にちゃんと帰れなけりゃ、ちゃんと報われなけりゃいけねぇ。先代はいなくとも、次代がいるならきっと報われる。きっと救われる。それまで、死ぬ気で頑張ればいつか……なんて思ってたさ」
「……」
「でも次代も中々現れねぇ不安はオレだけじゃなく、皆もそうだったろうよ。勇者がいなけりゃオレ達は助からねぇし、勇者がいてこそオレ達は成立してる。そんな中で見たのが、あのクソみてぇな様子だ」
この世界の中ではどれだけの時間、あるいは何ヶ月、あるいは何年、人々は希望を待ったのだろう。残された祈りは邪なる者に捧げられる供物のみ、縋るものは名前だけでしか知らず、最早それは蜃気楼。
時間が経つにつれ、先代は後継を残したという事よりも、何故先代は皆を残して姿を消したのかという当たり前の疑問に置換される。先代勇者の成した事は伝えられはしても、直に見た者はごく僅か。残るのは元の世界へ帰還させるという目標が達せられる事がないままに逃げ出したのだという不信。
「オレ達は無力なんだ。邪神から地球を守る事も、邪神を倒す事も、この世界で生きていく事さえも……勇者の力に頼らないと、生きていけない……ああ、馬鹿みてぇな話だよな……クソだよな!?」
「葵ッ」
ニントに胸ぐらを掴まれるが、葵はベルタに向けて首を横に振る。受け止める義理はないが、受け止める義務が、葵の中には少なくともあったから。
「その時楽が出来たら良い、苦しい事もやってらんねぇ、一時の悦楽の為なら法もちょっと破ったりもしたオレが!世の中に唾吐いてたオレが!法と、文明で出来ている世界にオレは、オレは守られてたって理解しちまった!」
時には、空を飛べる魔物に捕縛され、ゴムボールで遊ぶ様に高所から落とされて死ぬ者もいる。生きたまま貪られる者もいる。言葉として並べればいっそ冗談ではないかと笑われそうな死に方が、幾つもこの世界の足跡に刻まれていた。
それを見ずにここまで生き残れてる者もいるが、ニントはノアに拾われるまでに見ていた。ガタガタと大の男が震えて、時には自分以外が獲物になった事に安堵もしながら。
「異形?魔物?邪神?何だよそれ、理不尽がこっちの事情も知らねぇのに死ねとオレに言いやがる!ふざけんな!!何が異世界だ!!オレに死ねって望みやがって!オレみてぇなのと違って、良い奴だったアイツらを殺しやがって!」
葵もその点に関しては同意だった。人は死ぬ生き物だが、こんな理不尽に、こんな災いに殺されて良い理由などない。悲しみも苦しみも痛みも、死すらも餌として貪るなどという冒涜。そんな事あってはならない、葵も心からそう思っている。
「なぁ!?そんなクソみてぇな世界から皆を元の世界に帰してくれるんじゃなかったのかよ!?こんなになるまでどこに居たんだよ!?どこに行ってたんだよ!?」
「──」
「皆待ってたんだ!皆その日が来るのを待ってた!地球が救われるとか以前に、帰る日をよ!!なのに、テメェが来たのは今ようやくだ!手遅れだ!全部手遅れだ!!勇者、勇者!アンタだけが希望だったんだぜ!?」
「──……」
「もっと早く現れろよ!!もっと早く救ってくれよ!!この役立たず!!邪神の方が活発で、勇者は怠け者ってのかよ!!何でいつもいつもクソみてぇな出来事の方が有利に進むんだよ!オレ達は敗北したんだよ!!ふざけやがって!!」
葵に対する軽蔑ではなく、彼はずっと勇者に対する軽蔑をしていたのだった。全ての原因、黒幕、そんな邪神よりも、身近な勇者という存在が、自分達を救ってくれるかもしれなかった勇者が間に合っていなかった事の方が許せなかったのだ。
「もう、もうアイツらは、アイツらは……いないのに……」
消え入りそうな声、彼が救って欲しかったのは世界や多くの人々なんて、全貌を見た事がないものではなく、その中で生きていくはずだった仲間だった。それが彼の世界だった。
胸ぐらを掴む手に込められた力は、邪神どころか、魔王や使徒も無論、魔物、異形相手にすら打撃に慣れない程度の力。自分がいかに無益な八つ当たりをしているのかを理解していたから。先代とは違う人間なのは分かっている、先代とは会った事もなければ、見た事すらないが、先代はいなくなったと聞いてる以上は目の前の少年は先代と異なる人間だということは分かった。
だが、勇者という括りで言えば彼等は同一の存在で、同一の責任を持つ立場。今のニントの目には同一の存在がいるに等しい。
「なら、せめて、怖い思いもせずに、死の恐怖も忘れて、ただ静かに最期の日を待つ事を、誰が責められるって言うんだ……希望を持った末に、絶望する事が、どれだけ残酷か、お前なんかに分かられてたまるかよ……」
行き場のない怒りも、後悔も、ぶつけられる相手が目の前にいる彼しかおらず、女々しくも弱々しくも、情けなさを自覚しながら葵にぶつけるしかなかったのだ。
(リンドの夢で言われた俺の大罪ってこの事だったのか……)
使命を成し遂げられず、地球も救えなければその後に残される結果は、今生き延びてる人達が死ぬという事実と、死んで行った人達も、殺した人達も、勇者が救えなかった命という事になるのだ。数多の屍が勇者の背に降り注ぎ、その様子を、屍を嘲笑い、弄びながら邪神は含まれる恨み辛みも食す。
屍はどんな顔をしているか、屍はどんな顔の人達か、知ってる人、知らない人、葵にとってどちらであったとしても、例え嫌いだと思った人だとしても、想像しただけで吐いてしまいそうだった。むしろ、吐いてしまいそうで済んでる時点で、まだニントの言った事に疑念があるのか、あるいは……人の死に慣れてしまったのだろうか?
「なんとか言ってみろよ、おい!!」
言葉が出なかった。いや、出せなかった。嘆きたい、叫びたい、多くの人に謝りたい、そのはずなのに、葵の頭の中ではこの事実に対する感情の動きに支配されてるべき脳が、異なる思考で動いてる部分があるのだ。
つまり、嘆きも叫びも、謝罪もまだ早いのではないか?という思考が。
「まだ」
「あぁ!?」
「まだ、敗北は確定していない」
「ッ……」
今度はニントが言葉を失った。葵の顔にはまだ動揺の色が濃く残ったままだ。落ち着きのない脈、吐息すらも雷に怯える子供の様に震え、地球が滅亡したという事実を聞いた時から変化は起きていないのに、放たれた言葉には逃避じみたものを一切感じられないのだ。ニントの中で芽生えた理屈のない確信は、初めて見る生物と遭遇した時の言いようのない警戒心や緊張感に似ていた。違う生物を見てる様に思えたのだ。
なのに、諦めた身で、彼を責めたてた後にも関わらず、ニントは彼のそれに縋りたい気持ちも湧いていた──
「な……何で、何でそう言えんだよ」
「地球の掌握は邪神の念願、目下の1番の目的。しかし、いまだに邪神はコソコソと暗躍するしか出来ていません。地球の掌握が出来る日は、奴が目覚める日、それにしてはこの異世界はまだ静かなものだと思いませんか?」
「手中にあるから泳がせてんじゃねぇのかよ」
「否定。愉悦が故にという点こそあれど、泳がせておくには不都合過ぎる点が多い。目的の達成を不可能にする要素が多くある」
「勇者か」
「肯定。加えて、貴方達が魔物呼ぶ者は信者。泳がせる事で、信者が各地でただ減っていく一方なのは、神と呼ばれる存在においては痛手。彼等は言わば現地人、無尽蔵ではない」
彼女がやけに詳しい事に対して疑問に思われたらどう誤魔化すかが難しかったかもしれないが、ニントは葵の根拠について考える事で忙しかった。ここで使徒と一時的にとは言え手を組んでるなどと知られては、きっと話が拗れた事だろう、
ベルタも相手がノアの人間である事が分かっているからか、一部を曖昧にしている。あくまで異世界の知識の1つでしかない様な口ぶりで。そうする事で葵と同じく、ニント達が知らない間に増えた人員という事で相手も解釈してくれるだろうから。
ニントの興味をより葵の方に向けるために葵がベルタに向けて頷いた後に続いて口を開いた。
「なにより、滅亡しているのならば地球で眠る貴方達の肉体が既に無事ではなくなっているでしょう。邪神の覚醒によってどんな影響が出るかは分かりませんが、眠ったままの貴方達の命を繋げ続けるには保護してる場所が正常に動けている状況でなければ成立しません」
「生かされてるだけかもしれないだろ!?ヤツはそういう事が出来るんだ!」
「ならこう考えましょう。それによって反撃の手を相手は残したのだと」
ベルタに聞かれるから言えない事とはいえ、その根拠の1つとして、邪神が必死に探している物がある。既に送り込んであるはずの眷属すらもそれをまだ獲得出来ておらず、眷属……ベルタの言っていた信者たる魚人達を追加の人員として送ってきた以上は思い通りには言ってないことも間違いない。
勇者、心器、船、魔王、使徒。この異世界にある物の全てが邪神の観劇のための茶番だと断ずるよりも、それは何かに与えられた可能性だと考えた方が葵にとっては筋が通る。なにより、リンドという存在はどうあっても邪神にとっての大きなイレギュラー。彼女を手に入れなければ地球と異世界を完全に融合させる事は出来ず、彼女を手中に収めようとしている。
(離れていても感じている、リンドは今も無事だ。それなら俺達が敗北してるなどと、誰が言える?)
全てを無駄だと、本当は敗北してるなどと、今は既に蛇足の段階に入っているなどと、それを完全に証明する事もまた出来ないのならば、戦い続けない理由の方がない。
負け惜しみではない。勇者の勝利を願う多くの人がまだ葵の背後にはいるというのに。ノアで待つ人々、遺跡の中で怯える人々、まだ見ぬ異世界に落とされた人々、そして安否の分からない地球の人々。彼等は待っている。葵の脳内でとある声が響き渡る──
解放せよ、解放せよ、解放せよ、解放せよ、解放せよ!!
急かす様にも聞こえる言葉がそうではないのだと葵には分かる。彼等は異世界に対してそう叫んでいる。異世界への怒号、転じて勇者への激励、己に対する鼓舞。
この声を葵だけは裏切るわけにはいかない。罪のない者も無論、罪を持つ者も地球の常識の埒外にある場所、あるいは存在によって、命を落とす事が正しい罰になるわけではない。既に取り落とした命は多くあり、これからも全てを生存させる事は出来ないかもしれない。しかし、足を止めるわけにはいかず、1人でも多くの人が地球に帰って、元通りにならなければならない。皆を帰す、その為に葵はここにいる。諦めは裏切りになり、屈する事もまた裏切り。葵のやるべき事は変わらない。使徒を倒す、魔王も倒す、その末に邪神に勝利する、何ひとつ変わらない。
まずは遺跡でこの魔石という記録を持ち帰り、ここの人達を救出する。ニントから聞いた情報は重要な物だが、それが葵の今後の方針を左右するものではない。その情報を元に動くにしても、エレンに情報を持ち帰ってからのことだ。
ニントの手を掴み返し、葵の双眸は力強く彼の方を見る。
「貴方が諦める事も止められない。貴方が罪悪感に苦しむ事も、俺を恨む事も止められはしない。いや、むしろ恨むという激情がこの時の貴方を繋ぎ止めるのならば、それで良い」
「あ、あぁ……?」
「そして生きるんです。せめて帰るまで生きていくんです。それまでに俺は邪神に勝ちます」
「ありえねぇよ……先代とやらですら出来なかったんだぞ?」
「そうかもしれません。だが、俺が出来る様に沢山の物を残した。眠れなくても、空を睨んでも、時間は動くし日は昇るように、俺は勝つ。貴方や、諦めてしまった人達の意思に関わらず、必ず決着の日は訪れる」
これまでに様々な形で葵を心身共にわざわざ使徒という形で苦しめてきた邪神が、葵を完全に放置する事など出来ない。遺跡の出来事の様に、異世界も何かが動き始めている。使徒達が動き出した事と同じ様に、使徒すらも戸惑う様に。
「貴方との約束は継続している。ここの人達を死なせはしない。その為にも、俺の邪魔をしないでもらえたらそれで良い」
「……もし、邪魔をするなら?」
「邪魔をする気力が、まだ残っていると?」
それすらも、貴方にはまだ気力が残っているという事かという確認に変換されるものだから、ニントは首を横に振るしかなかった。彼をそれでも否定しきれる程に自分の持てる情報も激情も足りず、降参以外に選べるものはなかった。葵の熱意を信じたくなっただとか、そんな爽やかさはここには不釣り合いで、事実としてニントにそれはない。
だが、勇者の断言したそれは甘言めいて聞こえ、ニントにとって特に甘く聞こえるものだった。諦めたままでも構わない、それでも勇者は世界の夜明けを取り戻すと言ったのだから。今の彼にはこれ以上ない話だ。救われなければ良いと思ったわけではなく、救われるのなら、邪神の脅威がなくなるのならば、それが1番なの間違いない。ましてや、ニントでは出来ない仲間の仇討ちをしてくれるに等しいのだから。
「…………はぁ」
しかし、大切だと思い、信頼を感じていた人達の仇討ちすらも他人任せなのだから染みついた物はどうしようもない。
自嘲と共に力は抜け、葵の胸ぐらから手を離す。お手上げ。これで、彼に関しては最早葵が心配する必要はないだろう。
(起きた事、見た事を考えたら、自ら命を断ちかねないけれど、彼はそれが出来ない。出来ないから、ここで黙って生きるしか出来なかった……それもそうだ。死ぬことは怖いし、ましてや自分で断つなんて──)
使徒に殺された仲間、人々、アダムから聞いた人の死に方を思い出し、死に方すらも選べなかった人達。若葉の姉、椎菜の様に死を選んでしまった人達。様々な人を見たり、人の話を聞いたりした。それで全てが分かったわけでもないし、それで統計が取れたなどと言うわけでもないが、ニントはその点は心配がない事が分かった。
無論、葵は彼を惑わせる為や、実行出来ない事を口にして説得しようとしたわけではない。そんな器用な真似はそもそも彼は出来ない。少なくとも彼自身の認識としては。
「ちょっと!何かあったの!?」
そして、この騒ぎの中で誰も気付けないわけもなく、髪を乱し、息を切らしながらアーリアが姿を現す。
「アーリアさん」
「げ、アーリア」
この状況の説明面倒だとニントが目を逸らす中、彼女は葵とニントの間に入る様に歩いて来た。ニントの態度を見ていれば、過ごした時間は置いたとして、何か起こすのは彼の方だとすぐに理解出来た。
「ニント!子供みたいな事はやめなさい!貴方はここの年長者よ、規範になれとまでは言わないけれど、格好悪い所ばかり晒して迷惑をかけたり、自己を貶めるなんて美しくないわよ!」
「で、でもよ、話もまとまったし。今はいいじゃねぇかよ……オレの言い分だって聞いてくれてもよ」
「彼の首の傷が開いてるのに?よく言えるわね、年下の子供の怪我の状態にも気遣いが出来ない様で、言い分なんて通らないわ」
「流石に悪いとは思ってるがよ、思ってるが……なんだ、やけに気にかけるじゃねぇか」
「責任も感じてるのよ。エーデルさんの死に関わらせて、そこから始まったいざこざも……全部、彼任せにしてきたのだからね」
「そ、そうだけどよ」
「はぁ、まったく。若い人に絡んでないで、ちゃんと寝なさい。ベルタ、貴方もよ?勝手に抜け出したりして、心配したのよ」
「俺が彼女に手を貸す様にお願いしていたんです。すみません……」
「そう?ダメよ、レディの睡眠時間は大切なんだから」
「訂正。男性にも睡眠時間は必要」
「そんなひっかけ問題みたいに」
「それもそうね。でも、タキザワ君には少し用事があるの。時間はかけないから、良い?」
2人は部屋に戻るのよ、と付け加えるアーリア。ニントは気怠げな返事をするが、ベルタは首を傾げて葵の方に視線を向ける。当の葵はそうなる事を想定していたのか、意外そうな反応は一切なかった。
何故なら──
「例の物の件ですか?」
葵が1人になった時、ニントかアーリアが来ると考えていたから。




