第113話:臆病なままが良い
時は過ぎ、正月の頃。彼氏が出来てから若葉の姉は初めて帰省したのだ。1年ぶりのことだった。
「ん〜!やっぱり家って落ち着くね」
「本当、すごく久々な気がするわ。仕事忙しかったの?椎菜がいないと杏菜の口数がすごく少なくて寂しそうだったのよ?」
「そうなの!?杏奈ちゃん〜!!」
「ちょ!母さんったら変な事を言わないでよ!あと、姉さん苦しい!!これは抱きしめてるんじゃなくて絞めてる!!」
「杏奈ちゃんそのままでも可愛いのに、寂しいとかそんな、可愛すぎるんだもの〜!よしよし♡」
子供の頃からあまり変わらない姉妹のやり取りに、母は微笑ましそうな顔をしていたが、父は何か言いたげに、それを言い出せずに気まずそうに、眉を寄せて黙り込んでいた。
折角家族が揃ったのに、その話を切り出すのは気が引けた。ましてや、父という立場から切り出すと、娘から煙たがられるのではないかという思いもあった。その結果、機嫌悪そうに黙って、時折鋭い視線を向ける事しか出来なくなっていた。そんな父の様子に若葉も気付いていただけに、板挟みになっている様な気分になっていた。
何故なら、若葉は父がどうしてそんな顔をしているのかを察していたからだ。自分自身も気になっていた事だから。母も本当は聞きたい事があるのだと思うが、こうした時は本人の自主性に委ねる性格だ。それとなくさっき聞いていたのかもしれないが、答えは返ってきていない。
(そりゃそうだよね。同棲の段階なら挨拶に来る義務自体はない、わけだし……でも、私だってお姉ちゃんと直に会ったのは半年以上前の事になるし)
何故家族と距離を置いたのか、なんて考えてしまうのだ。何故しばらく帰ったり、顔を出したり、連絡もしなかったのか、家族としては心配せざるを得ないのだ。
姉も一言だけでも、それに関して触れてくれたのならば、若葉達も納得したと思うが、姉もそこを突かれない様に、自分から関係のない他の話をして誤魔化している節はあった。いつも通りなのに、妙に息苦しくなる空気に若葉は耐えかねた。
適当な返事でも良いから、それでその件を終わらせて、姉のいる一家団欒をただ過ごしたい。それだけの事だから、あえて若葉は口を開いた。
「あのさ、お姉ちゃん」
「うん?なぁに?」
「やっぱり、寂しくはあったかも。以前なら、結構顔を見る機会はあったから」
「……杏菜ちゃんがそんな風に言ってくれるのって珍しいね。嬉しいな」
「喜んでもらえるのは、良いんだけど。でも、それが何でかなって思ってしまうんだ。やっぱり忙しかったのかな……?」
様子を伺う様に、でもハッキリと問いかける。母の様な言い方だと逃げられる事もあるから、情に訴えかけるように、さっきは否定した寂しいという気持ちを強調する。
打算めいた部分は確かにあるが、本音である事も間違いない。これで仮に若葉の中の成長がリセットされる様な気持ちになったとしても構わない。この場所に家族として、心だけでも繋ぎ止める事が出来るのなら。
困った様な笑顔は煙に巻く事が上手く出来なかった名残。両親の視線も、話題の意識も若葉の口にした方向に持っていかれてるのが分かるだけに、逃げきれない予感を覚えていた。
こたつの中に入っている足を気まずそうに擦り合わせてから、若葉から身を離し、代わりにその頭に優しく手を乗せる。
「本当に忙しかっただけよ。でも、何で来れなかったのかとか、そういう話になると理由がそれだけであったとしても、杏菜ちゃんもお母さんもお父さんもそれ以外の理由も想像して心配してしまうでしょ?心配をかけたくなかった。折角家族に会える日になるのに、暗い顔をさせてしまうのが嫌だったの。ただいつも通りに少しでも多くの時間を過ごしたいって思っただけ……でも、逆効果だったみたいだけど」
バツの悪そうな顔の奥にあるまつ毛に微かに隠された瞳は、家族の知る彼女よりも疲れや儚さを感じさせた。やはり何かあったのだろうと簡単に察する事が出来るほどに。
だが、姉が言うならそれで納得するという決まりを自分の中で作っていた若葉は、そこから更に言及する事が出来ずに口をつぐんでしまった。そこで無理にでも聞く事が出来る点が、良好な関係の家族の利点の1つなのかもしれないが、それは互いに言いたくない事もあるという距離感も分かっているから成立している部分もある。若葉はそれ故に、何も言えなくなったのだ。
若葉の頭を撫でる手が、ごめんねと言っていた。そのごめんねの一線が崖の様に深く、越えられない一線を引かれた様な気がした。その崖を飛び越える事も、橋を渡す事も、出来ないと直感的に思ったのだ。
「それが聞けたら、私達もそれで良いよ。ごめんね、ありがとうお姉ちゃん」
家族の総意として語るのは気が引けた。本当はそれで納得出来るわけもなければ、親からすれば 本人の口からSOSを出してもらわなければ何も言えない状況なだけに、若葉という聞きやすい立場から引き出してほしかったところはあるだろう。
それでも、椎菜は困っていたら話してくれるだろうし、頼るのが下手な人間ではなかったから、彼女の言葉と気遣いを信じる他なかった。判断の成否など、この時には知りようもない事だった。
「椎菜、お休みの間はずっとここでゆっくりしてて良いからね。ねぇあなた」
「うるさいぐらいじゃないとな。我が家は僕は口下手だから、母さんと若葉2人じゃ静かすぎる」
「えっやだぁ!私そんなにうるさかった!?何でだろ!?あっっお雑煮の椎茸がでかい!ラッキー!!」
「そういうところじゃないかな、お姉ちゃん……」
ガッツポーズを決める姉に呆れながらも、先程までの空気を無理にでも吹き飛ばす様な明るさに、家族もつられて笑った。いつも通りが楽しくて、安心するから。笑えば姉も楽になって、困ったらこの場所に駆け込めば安心出来ると思ってもらえそうだったから、若葉もいつもより多く笑った。
そして、そこから更に月が経過し、予定の高校に受かって胸を一度撫で下ろし──
「ジャーン!!ウチも受かりました!!高校でもよろしく!!」
もう一度胸を撫で下ろした。日向と同じ高校に行きたいと思っていたから、彼女と同じレベルの高校にするか悩んでいたが、日向の方が頑張って若葉の入りたい高校の方にレベルを合わせて受けてくれたのである。本人曰く、制服がピンクのブラウスがあるとか可愛いし!という名目で頑張ってくれたのだ。
若葉は発表の緊張でくしゃくしゃになったままの紙を手に、日向に自分から抱きついた。
「ありがとう、おめでとう日向……!!私、日向と一緒が良かったから」
「えっ、ちょっ!泣かないでよぉ〜ウチも泣けてきた……えへへっ、これで寂しくないねぇ」
祝福と安心感とで若葉は涙が止まらなかった。姉がいないせいなのか、心から幸福の未来を描けた瞬間だったからなのか、日向に抱きつきながらただ噛み締める様に喜んで、沢山泣いた。
「杏菜!通話でお姉さんに教えようよ!この日なら丁度休みだよね?前杏菜が言ってたし」
「シフトが変わってなかったらだけど……そうだね。今日ぐらいは、成長リセット挟んで良いよね」
「成長リセット?」
「ごめん、私の話」
姉に良い報告が出来る、姉に連絡する口実がある。そのワクワクから通話のボタンを押す手が震えるが、勢いのままに押す。この先に姉が待っている、褒めてもらえる、そんな子供じみた欲求のままに。
正月以来遠慮して連絡も入れていなかっただけに、驚いてくれるだろうかとか、時期的にどんな内容か何となく察してすぐに出てくれるだろうかとか、通話中の画面に切り替わる瞬間を待っていた。
だが──
「……出ないね」
「仕事が入ったりしたのかな。正月の時に合格発表の日は教えてたんだけど」
「1番に教えたかっただろうからちょっと残念だね」
「うん……まぁ、仕方ないよ。慣れてきたし、こういうの」
合格の喜びが少しだけ萎んでしまったが、次に話をする時に良い話題がまだ残っているだけで良しとするかと、モヤモヤを白い息として吐き出す。
「そ、そうだ杏菜!先にメール入ってたんだけど、畠田君とよっしーも合格したみたいだよ!」
「えっ、本当。じゃあ合格した記念に後でファミレスにでも集まろっか?」
「良いねそれ!賛成!ファミレスからカラオケもあり!」
「乗った!」
そんな合格発表の2月。祝福と笑顔に満ちたその1週間後に、姉が部屋で首を吊って自殺していた事を若葉は知った。
*
「自殺……」
「うん。あの男……彼氏のDVに耐えかねてって」
「そうか、そうなんだ……」
「最初のうちは姉も言い返してたみたいなんだけど、だんだん恐怖で何も出来なくなったみたいで。しかも、言う事聞かないと私にも手を出すかもって言ってたみたい……姉さんの携帯のパスワード、私だけは知ってたから、その中に残ってた遺書にそう書かれてて……」
「その彼氏、その男の人は今は」
「懲役……何年か。一度だけ、何でそんなことしたのか確認したくて会った事ある。でも、顔を覆ったり、口では謝りながらも、仕事で疲れててとか、家族関係でのトラウマから、とかすごく自己弁護してた」
生きていた時はお姉ちゃんと呼んでいたのに、今では姉さんとしか呼べなくなったのも、気付けるタイミングもあれば、無理やりにでも助けられるタイミングもあったのに、それが出来なかった自分にはそう呼ぶ資格がないと思っているのだ。姉に甘えていた頃の自分の呼び方、姉を神聖視していたからこそ救えなかった自分の象徴。
「姉さんの信じた男、私も信じようとした男が、最悪の結果を招いた。分かってはいるんだよ、本当は……他の男の人には関係のない話だって事。でも、気持ちが納得出来なくて、違う……ある意味で納得したくて、そういう事にしたかったんだと思うし、そうだと思ってるところがある。本当は男ってどんな顔しても、支配しようとしてきて、死なせても平気な生き物なんだって」
「……」
「そんな私に唯一残されたのは、日向だけ。日向をそんな悪意から守る事だけ。でも、頑張っても悪意や理不尽はやってくるし、何か起きるまでそうとは分からない。日向だって嫌がらせを受けてた事もあるし……だから、元の世界より何のしがらみもないここが良い。知らない人ばかりで、生きることだけに必死な人達、私達なんて気にしない人達。ここなら日向を守れるし、日向と一緒にいて、いつでも見守れる……白紙のここが良い」
これで理由は既に喋り終えたと、若葉は葵に視線だけで訴えかけてくる。彼女の口にした内容は、若葉の性格を考えれば人にはあまり語りたくないものだったのだろう。弱味を見せたくない、憐れまれたくない、知って欲しかったと思われたくもない。
そんな彼女がわざわざこれを口にしたのも、葵が同情しそうで、共感しやすそうで、若葉の望みを優先してくれる可能性が高かったからだ。決して、彼を信頼したからではない。
「──ありがとう、話してくれて」
ともあれ、葵の口から1番最初に言わなければならない事はこれだろう。軽い話だと思っていたわけではないが、身内を嫌な形で亡くしたという話をさせてしまったのだから、礼をせめて言わなければ申し訳が立たない。自分だって、この世界で身近になった相手にすら言ってない事は多いというのに。
どんな気持ちで過ごしていたのだろう。自分の恨むものが、自分の生み出した見えない敵という生物かもしれないと思う日々、それでも虐待された末に自ら命を絶った姉という現実と向き合うと心が壊れそうになるという思い。過去も今も信じられなくなった末に、破滅しか待っていない異世界の方がまだ幸福と思うほどの苦しみ。
感謝の言葉を聞いた若葉は葵の顔色を伺う。礼よりも期待している返事があるからなのだが、どうにも折れてくれそうな気配がない。目を逸らしてくれないから。
「……ありがとうじゃ、なくてさ。だから、貴方の目的に私達を巻き込まないでって事、なんだけど。貴方言わないと分からなそうだし、一応」
「いや、それはほぼ言われてるようなものだから分かったよ。分かりやすく教えてくれてたし……律儀なとこあるよね」
「無理に良い所探ししなくて良い。嫌いな人からそう接されても返してあげられないから、いらない」
「俺が嫌いな理由もよく分かったものだから、つい」
「なに、皮肉?」
「いや、違うよ。なんで嫌なのかとか、なんで不満なのかをちゃんと教えてくれて、しかもそこに乗る理由にそんな出来事があった前提があるのに教えてくれたんだから、俺は分からないといけないなって話」
「…………大げさ。別に、悲劇とかじゃあるまいし」
「悲劇だとか、劇的だとか、俺がどう思ったかは置くとしても、本人が辛かった事にはそんな尺度必要ないと思う。それは辛い話じゃないか」
言ってから、若葉の軽く睨みつけるような目を見て、思わず目を逸らして誤魔化すような笑いを浮かべる。人の身に起きた辛い事に対して、勝っ手に分かったような口を聞いてしまったか、流石に踏み込みすぎたかと、いつもの言わなければ良かったが発動してしまう。
「──ねぇ、これ聞いてどうするの?」
「ああ、そうだ返事をしていなかった……ごめんね」
「謝罪より」
「放っておいてくれ、に対する返事だろ?」
これだけ強固かつ情に出来る限り訴えかけた。相手は同年代の高校生、自分では救ったり励ましきれない手に負えない類の話のはずだと若葉は考えている。
「──でもね、どのみち俺はこの異世界を終わらせるつもりだよ」
しかし、葵は返事を躊躇うことはなかった。
若葉は思わず耳を疑った、突拍子もなければ、あまりに机上の空論だと思える言葉に、文句すら言えずに目を見開くだけだった。
「ご、ごめん、つい端折ってしまったね!いや、だからね……あの、俺の戦う目的はこの異世界を作り出して、地球も支配しようとしてる悪い奴を倒して、この滅茶苦茶な状態を終わらせようとしてるって感じで」
「フィクションとの境を分かってる?」
「まぁ、そう言われるよね……でも、それが俺の目標だから、君がここから出るのを拒もうが否が、この場所も含めてこの異世界はいずれ終わる。俺が終わらせるつもりなんだ」
「……なにそれ、何でそんな」
「この世界では容易く沢山の人が死ぬ。この世界が続いてしまうと、いずれ君もそうだ。死んだ人はさっき言った悪い奴の供物にされる。この異世界だけじゃない……地球の人達が死んだ時だってそうだ。そんな事あってはならない」
帰った時の状況が悪いであろう人は確かにいる。仲間の中でも知ってる限りでライやアダム、死んでしまったエリアや、そういう人は他にもいた。
他にも大変な人がいるからと目の前の相手の身に起きた事を矮小化するつもりはない。それは先程葵が言った通りだ。しかし、その現実から切り離し、守る為に他の帰りたい人やこの世界に耐えられない人達を見捨てる事など有り得ず、葵にはあってはならないことだった。
「ッ!!」
無論、それは若葉にとって納得出来るものではない。彼女の人生の中に入ってこれない、入ってこさせない多くの人達と、日向と自分と両親のこと以外など考えてる余裕はない。彼女の人生という箱の中に、その多くの人という見えない人間を入れる容量はなかった。
何の力もない者同士、ただの高校生の子供、信用ならない男、そう考えてるはずなのに、無自覚に彼が現状維持かここの終わりを告げる者になるかの審判者だと若葉は判断していたのだ。それすらも納得出来ず、衝動的にナイフを取り出して葵の首に向ける。
「ッほんっと、そういう偽善、すごく迷惑なの!!なら、アンタが世界とやらを救うまでここに放っておくぐらい出来るでしょ!ここで死のうが生きようが、アンタには無関係でしょ!」
「いや、無関係じゃない」
「関係ない!アンタの出身すら知らないのに!マトモな会話すらしてないのに!無関係って言うでしょ!?」
「君個人との関わりの深さだけが、君の生死に対して無関係だという事になるというの?」
「無関係でしょ!?だって、貴方にとって姉さんの死だって無関係な事でしょ!それとどう違うの!?私にとっても、貴方の周りで死んだ人は私には関係ないもの!」
「……そうした側面もきっと、あるんだとは思う。本当は」
「ほら、そうでしょ!?なら、私1人、日向と私ぐらい放っておいたって──」
「でも、だ」
眉を寄せながら、葵は若葉のナイフを持つ手に自分の手を添えて自分の首に押し付ける。薄皮を裂き、血がぷつりと出てくるほどの力で。
「ひっ……!?」
若葉は咄嗟にナイフを引っ込めようと手を引きかけたが、それによってむしろ葵の首を明確に、軽く切る事になる。
首元から垂れた血が生温く、切った首がジワジワと痛みの熱に変換されていく。当然だが葵もこれは痛い。痛いものは痛いが、彼女がここまで自暴自棄になる痛みと、そこから自己を守る方法を奪うことを考えれば、これぐらいはむしろ優しい痛みにすら思えた。
「怖いよね?」
「や、あなた、なにを、して……し、しんで、しんでしまっ」
「きっと君は、殺したいほどに憎いかもしれない人、お姉さんの彼氏さん相手でも、こんな風に怖くなるだろう」
「そ、そんなの、いいから……」
「そうして怖がることが出来る人にとって、この世界は怖いことだらけだ。化け物はいるし、その化け物を殺さないと自分は死ぬって事も多いし」
「は、はやく、早く血、ちをとめて」
「まだ怖いと思えるなら、死が身近な世界で日向さんと一緒に怖い思いをして過ごす事もない。少しでも怖くない世界で、出来る限り君らしく生きてくれたら良いなって俺は思う」
「め、めちゃくちゃよ。めちゃくちゃだわ……」
「道理に合わなくても、滅茶苦茶でも構わない。君がこのナイフを持つ事も、人に使う事も、怖いままでいてくれた方が嬉しい。その思いに変わりはないから」
若葉からすれば、そんなに間もないのに親身を超えて異常な精神的な奉仕と思えた。身を犠牲にしてまで自分の為にここまでしている様に思えるのだから。
しかし、葵からすればこの世界で敵を斬る事を割り切れない気持ちもある反面、徐々に慣れていく自身に対する自嘲めいた思いもあった。同じノアの戦闘員が慣れている様に見える事に対して批判的でも、ましてやおかしいと思っているわけでもない。これはただ、まだそんな殺しの経験をしていない人が、自分の様な変化が起きてしまう様な事がなければ良いなという彼自身のエゴなのだ。
ナイフを持つ自分という彼女の攻撃性に対する自認を、実際の彼女の像にちゃんと近付けるにはこうするしか浮かばなかった。成る程、滝沢葵は彼の自認の通りのコミュ障なのやもしれない。
「ごめんね、怖い思いをさせて。あと、勝手に手を触ってごめん……男の人が嫌いだと言ってる君の手を触るのは、すごく怖がらせる行為だと思うから」
ようやく手を離すと、若葉の手から力が抜け、ナイフが乾いた音を立てて地面に落ちる。そこには赤い跡が残り、若葉は視線をそちらに向けられやしなかった。
怯えた表情のまま身体が硬直している若葉は、何かを言おうとしても上手く言えない。だが、こんな状況なのに、彼の言った事は確かに聞こえていた。それは、葵もこの時点では確認のしようもない事だが。
「じゃあ、調査に行かないとだから失礼するね。時間を取らせてごめん」
「ぁ……」
「ちなみに、俺は嫌われるの。結構慣れてるから、罪悪感抱かないでも良いからね」
フォローになっていない言葉と共にその場に残された若葉は、ようやく葵が目の前からいなくなって思考を取り戻していく。
取り戻し、思うことは怖かっただとか、あの男は異常だとか、そうしたあの行動に対する感想が浮かぶのは無論のことだが、それ以外で思う事はまずこうだ。
「…………人を傷つけるって、こんなに痛いんだ」
姉を結果的に死ぬまで追い詰めた男を嫌悪した自分が、彼の様にならない為にも大切な気持ちはこれなのかもしれないと、震える手を自分の手で握り込む。
自分は本当はどうしたいのか、これまでの思いも本当だったからこそ、彼女は戸惑うのだった。




