第112話:枯れた葉の心
『俺は調査に向かう必要がありますから、その間はベルタに守って頂くということになります』
それが結論であり、決定事項だったが、その前に少しだけ休息を葵も取らねばならない……というのは建前だ。最低でも不満を明確に抱いてる人間のうちの片方だけでも話を聞いておこうと思ったのだ。
無論、アーリアの件は話すべきだが、あれは十分な脅しにもなれば、既にいくつか手を打っている以上は、彼女もそれで逃げ出しは出来ない。
それだけに、少しでも早めに感情をまとめて欲しい2人のどちらかに絞ったのだ。相手なりの理由で葵に対して何かあるのならば、出来る限りの譲歩はしたい、出来た方が円滑に事は進む。そうじゃなければ葵の感情的にも普通に飲み込みづらいものがある。なにより、それで外に出る事に少しでも妥協が得られるのならばもっと良い。
葵が一時帰還したからと、皆もそれぞれのやることの(大半は1人で思考をまとめる)為に少しの解散をしている今は、丁度良い。使い魔の目の感度があるから、この状況でも異常を見逃すことはない。
魚人の血を拭きながら、まずは葵にとって理由がより分かりにくい方に接触する事にした。
「若葉さん。ちょっといい?」
「え、嫌だけど」
若葉はベルタほどではなくとも、表情が少ない人間だ。しかし、葵の姿が見えると微かに眉が寄る。訳も分からないのに嫌悪される、まるで学校にいる時だといっそ懐かしく思いながらも、葵は笑顔を保つ。
「若葉さんが俺の方針に反対だった様だし、あと君には避けられてるようだし、丁度良いから何でかなって聞いておきたいんだ」
「……それ、私が性格悪いからで終わりじゃん。わざわざ話し合いとか、先生じゃないんだし」
「聞いておかないと君をイライラさせてしまうし、知らず知らずのうちに君に嫌な思いをさせたくない。深入りするのは良くないと思っていたけど、状況が変わったからね」
「……聞いてもさ、絶対ムカついて終わりだと思うけど。得ある?関係ないのに」
「得はあるよ、さっき言った通り君には得があると思うし、それにこれぐらいでムカついてられないよ。有事だし、俺はそもそも殺意まで向けられたし」
「……ヘラヘラして言うの?キモいかな、流石に」
劇場の影になってる場所で、日向が近くにいる場所ではなくこんな場所を選んでいた辺り、若葉にとっても今は葛藤の時なのだろう。
日向の安全な為だという事を分かってもらえたら若葉もまた肯定的になってくれるかと思ったが、日向が反対の意見の側に回った事にこれだけダメージを受けている様子を見ると、そう単純でもないらしい。
ため息を吐いたあと、葵をじろりと見ていた。不審物を持ってないか確かめるかの様な、探る様な目線を全身に送った後、無理やり口の端を上げて嫌な笑みを浮かべる。
「話しても良いけど」
「いいのかい!」
「条件がある」
「条件?俺に出来る事なら」
「簡単。私、男って嫌い。滅茶苦茶嫌い。でも、貴方は見た目だけなら全然男に見えない、制服が男子制服だから、そう見えるだけってくらいには。身体も貧相な様だし」
「……よく言われるよ」
若葉が思っているよりも、これまでの言葉の中で葵に1番ダメージを与える言葉だったが、葵も少し引きつった笑みを浮かべるだけで済ませる。この言葉は若葉からすればそこそこ評価している言葉なのだろうから。なにより、言った通りよく言われている事だから──
「じゃあさ、私の予備貸したげるから女性の格好でなら話してあげる」
「──ぇ」
「男性恐怖症ではなくて、私は嫌いなだけ。だから、特徴として男性じゃないなら、少しは我慢もして良い。言っとくけど、貴方以外のここの男が女装してもこんな譲歩はできない。彼等と普通に話すのは、シンプルに彼等が少しは良い人に見えてるから。でも、貴方は怪しいから無理なの。たったこれだけの事で譲歩してあげられるんだけど」
葵の頭の中がうるさかった。記憶が整理され始めてからの頭痛と数多の声でずっとうるさかったが、そこに加えて掘り出される記憶。葵のコンプレックスの元がほじくり返される。
無意識に自分の首に爪を立てながら、笑顔のまま硬直した表情は、歪だった。冷や汗が止まらない、感情がやたらと動き出そうとしてうるさいのだ。
「私と話したいんだよね?私に信用されたいんでしょ?ちょっと込み入った話を私はしなきゃいけないし、どうせ私に意見を曲げて欲しいから来たんだろうし、その程度が出来ないなら私から言う事はない」
「あ……あぁ、あぁ。なる、ほどね。なるほど、そういうことか」
姉と瓜二つの顔、姉にくくってもらった髪。ついた呼び方は葵“ちゃん”。小学生から高校生まで引っ張られ続けてる共通のあるあるネタ。彼が女顔というだけで笑えるスナックのような感覚の軽いネタ。髪を切らない事すらも何らかの思想と結び付けられて変な同情をする人もいた。回覧板を渡しに行った時にお隣さんから悪気なく、「お姉ちゃんの方かと思ったよ」と笑われ、その後も姉妹みたいだと褒め言葉のつもりで言われた。いっそ顔に大怪我でも負ってやろうかと、温度を上げてる途中の油を眺めていた事もあった。
異世界に来てから色んな境遇の人がいて、その人達が皆違って皆過酷であったからこそ、葵もこれぐらいはただのコンプレックスに過ぎないのだと押し込めてる事が出来た部分はあったが、根深いそれは消えない。まさか、葵のコンプレックスを知らない彼女から、こんな時に引き出されるとは思わなかったが。
「まぁ、無理だよね。普通は無理だよ。なら、話はおしまい。ここから出なくても、世界から見たらほんの一部の命が失われるだけなら、損失ですらないし、貴方も固執するほどの縁がないんだから、そんな必死こく必要、ないから」
しばし、言葉を失っていた葵だったが、続く言葉に急激に頭の中が冷える。
「分かった。君の望むままに」
「──は?」
嫌そうにしていたのは若葉でも感じていた。普通に考えたらこんな事を強制されるなど、誰だって嫌だと思うから、それに対して不快感はなく、ようやく人間っぽいボロが出たなという事と、自分の話を終わらせる良い口実になったと安堵していたのだが、途端に肯定したのだ。苦々しくや、怒りながらではなく、とにかく感情が読めない風に。若葉は極めて不気味に感じていた。
(そうだ、俺は人々の命を守る為に、救う為にここにいるんだ。その為に殺しだってやった、殺してきたじゃないか。なら、俺の私情なんかが何の意味がある?死んでいった人、殺した人、今をこれからを生きる人達の事を思えば、俺1人のこだわりで彼等が実質的な死を選ぶ事を容認するなど違う、それはあってはならない)
ガリガリと小さい動きだが首を掻きながら、葵の思考は無理やりに制御し、無理やりに納得させた。人命と比べたら些細な事なのは、確かに事実かもしれない。しかし、手の動作だけは止まらない。本音が消えるわけではないのだから。
「そしたら話してくれるね?」
「ぇ、う、うん。そういう、条件だから」
「俺の話も聞いてくれるね?」
「そ、そうだけど」
「なら、易い条件じゃないか」
若葉は、自分が選択を間違えたのだと感じた。彼の事が正直言って嫌いだが、自分の中にタブーがある様に、相手にもそれがあって、絶妙に今回提示したものがそうだった。しかし、彼の中の優先度によってそのタブーへの感情を抑圧させた結果、何かおかしな方に捻じ曲げたのでは、という恐怖があった。
やはり不気味だったのだ。若葉は思わず握り拳を強く握り込んでいた。殴る為だとか防御的本能ではなく、処理の仕方の分からない感情を処理するための動作として。
「………………いい」
「え?」
「…………やっぱいい」
「何故?」
「覚悟を試しただけ、っていうとなんか大層だし偉そうか。ちょっと意地悪したくなっただけ」
「そうなの?君にとって土足で踏み込まれるのってすごく嫌な事だろうし、ましてや見知らぬ男の俺に話すなんてって考えたら、その程度だと意地悪にもなってないと思うよ。無理を言ってるのは俺の方なんだ」
相手の罪悪感を利用して畳み掛け、責め立てているわけでもなく、本当に困った顔を浮かべながらそう並べていく葵を見て、結果的に逃げ道を塞いでしまったらしいと気付く。
同じ年頃の人間の危うさなど、取るに足りないものだと切り捨てて考えていたが、今回はそれが出来そうにない。恐らく彼が悪性の人間ではない事、善くあろうとしている事だけは分かるからこそ。
「……そりゃ、嫌だけど。まぁ、別に。忙しい時に変な時間の取らせ方するの、良くないし。私的にちょっと重めな話だから、ドン引きされてもかったるいって、それだけだったから」
突然の彼女の変化に葵は戸惑いながら瞬きしていたが、若葉は今のやり取りだけで1日分の会話をやりきったような疲労が蓄積した気分だった。
試し行為をするにしても、相手がどれだけ嫌いでも、ざまぁみろと思えるほどに個人的な恨みの溜まってない相手が明らかに自分のせいでおかしくなる瞬間を見ては、条件などどうでもよくなる。それを割り切って笑える程に、腐ることすら出来ない半端者ぶりに自分で呆れていた。
「で、何だっけ?」
「えっ、あぁ、外に出る事を反対する理由と、俺を避ける理由かな」
「外に出たくない理由ね。それは日向の近くで、安全で静かで、他の邪魔な奴らの機嫌を伺って生きなくて良い場所だから」
「外は、君にとって色んな意味で怖い?」
「怖く、はないけど、元の生活に戻っても、外に出ても、鬱陶しい奴等はどこかしらにいて、それが嫌い。ウザい。将来とかどうでも良いし、将来の幸福の保証ゼロって感じがしてきてへこむし。私は日向といられたら良いし、日向もどこにも行かなくて良いから、ここが良い」
「そんなに嫌いなんだね、沢山のことが……色々、大変だったのかな」
「同情とか、やめてよ。ちゃんと話すって言っても、腹立つ反応されると萎えはするから」
「ごめん、確かに失礼だった。安易な反応をした事を許してくれ」
「……大変では、あるけど。普通レベルじゃ、ないかなって感じ。中学生までは普通に男性と接する事も出来たし、異性の友達もいて、幼馴染の日向がいて、滅茶苦茶友達いた」
「じゃあ、どうして」
「私、社会人の姉がいて、姉さんは独り暮らししてたんだけど、週3で会いに行くぐらいには仲良くて、姉さんであり、友達みたいな感じだった。日向とよく似た性格で、明るくて、優しくて、気配り上手で、1人になる人を作らない感じの人。一緒に住んでた頃とか、買い物絶対一緒だったし、2人で旅行とか行ってた……それでもまぁ、彼氏、出来たんだけどね」
「それは、良い事……ではなかったみたいだね?」
「……うん」
*
若葉は姉の彼氏に1回だけ会ったが、若葉の目には遊び慣れてそうな雰囲気な人に映った。プリン頭にサングラス、姉の香りのする部屋でタバコの煙を蔓延させている男は、まるで家の中に靴のまま入ってきた様にすら思えた。姉にベッタリだったからそうしたバイアスがかかっているかもしれない、これではシスコンが過ぎると冗談めかして考え、自制したが──
「杏菜ちゃんだよね?君のお姉ちゃんからよく聞いてるよ。でも、聞いてるより美人さんだねぇ!大きくなったら君のお姉ちゃんみたいになりそうだ!よろしく!」
姉の家で遭遇したばかりの男の挨拶としては、若葉の印象は悪く、微かな不安を抱いた。加えて、その後に知った事だが、どうやら既に同棲を始めていて、それを姉は口止めされていたらしい。そう聞いて若葉はさらに不信感を持った。両親もその話を聞いて姉を心配したが、社会人で独り立ちした姉の人生に関する事で口出しするのも間違っているかと、2人の幸せを見守ろうという事になった。
しかし、若葉はそれでも姉が心配で、定期的に携帯で連絡を取っていた。家に前の様に行って迷惑をかけたくなかったのと、あの彼氏に会うのが妙に嫌だったため、それに留めたという方が正確だったが。
「お姉ちゃん大丈夫?最近変な事とか起きてない?」
「杏菜ちゃんたら、私ももう大人よ?防犯とかもバッチリ!ゴキブリも見た事ないぐらい!」
「いやゴキブリはどうでも良いけど、いや……良い家だね」
「でしょ〜虫嫌いな杏菜ちゃんもここに住んでたら平和だったのに」
「例の一緒に住む計画はね、流石に……彼氏が、いるんじゃ無理だからね」
「そうねぇ、お互いに気を遣わせる生活は息苦しそうで悪いしもの。でも、私も彼も邪険にする気はないのよ」
彼氏に苦手意識を持っている事がバレていたのかと、一瞬肝が冷えたが、姉の声色はそういう時ならむしろ申し訳なさそうにするから、明るい声色に違うことはよく分かった。
「だって彼、杏菜ちゃんは礼儀正しい立派な妹さんだって言ってたのよ」
「えっ、あの人が?」
「うん、ご両親の教育と、本人のしっかりした性格の賜物なんだろうなって。お陰で彼も、もっとしっかりした男に見える様に頑張らないとって張り切っちゃって。髪も真っ黒に染めたり、タバコもやめたのよ!」
「──そう」
あまりの意外さに電話越しに目をまん丸にしていた。
見かけと挨拶の段階で判断するには十分に足りると思っていたが、アッパー系のあがり症の類かと思い、この時の若葉はそれで納得出来た。そんな風に人に対して良い解釈をする事も出来た。
そこから1年後、若葉が高校受験の時期に入った頃。勉強で忙しくなり、自分から姉に連絡する頻度が以前よりは減り、向こうからも連絡はほとんど入らず、あってもメールのみで声を聞く事はほとんどなくなった。
(こんな風に自然に、お互いがいない事が当たり前になるのかな)
勉強机に向かい、シャーペンを手元で回しながらぼんやりとそう考えていた。今も、姉からの連絡が来たらすぐ取れる様に近くに携帯を置いてこそいるが、携帯が震えなくともそういう物だと受け入れているのだ。連絡を期待しているというよりも、これでいつでも話せるから平気になるおまじないの様になっている。
それが寂しい様で、寂しくてもこんな日々が平気になっていくのならば、大抵のことが平気になっていける気がした。何が起きてもあまり慌てない自分になれる気がした。
(これって成長なのかな。大人になっていくって、こんな感じなのかな。でも、皆大人になった瞬間が訪れて大人になるわけじゃないし、そうとも限らないかな)
勉強から徐々に脱線し始めた思考、そこに携帯の着信音が聞こえればすぐにそこに手が伸びたのだから、成長したか否かは、事実として不明だろう。
「お姉……」
『杏菜〜!!勉強どう?捗ってる?』
そして、かけてきたのは幼馴染の少女日向だった。姉のつもりで飛びついた自分が無性に恥ずかしくなり、熱くなった顔を冷ます為に、あるいは誤魔化す為に窓を開けた。
「まぁ、そこそこ」
『本当?考え事とかしてて手が止まってたんじゃないの〜?』
「な、何で分かったの……?」
『ふははは!かかったなぁ!当てずっぽうだよ、最近学校でもボンヤリしてる事あるから、まさかな〜って思って』
「──日向はよく見てるんだね」
『ウチら幼稚園の時から一緒じゃん、ほぼ姉妹みたいなもんだから分かる分かる!でもさ、杏菜が滅茶苦茶困った〜ってなったら言ってよね。言うんだよ!ボンヤリしすぎて受験超大変ってならない様にね!』
「え〜日向じゃあるまいし、私は受験で失敗はしないかな」
『えっっっ失礼極まる!!この前ウチがテストで13点取ったからって!』
「いや、それがあったから言ってるんだけど……ふふっ、でもありがとう。そんな深刻な事じゃなくて、なんだろ……私の気持ちの問題っていうか、そういう感じだから」
『そう?そっか……杏菜、ウチ勉強飽きちゃった。オチとかいらないから何でも雑多に話さない?眠くなるまでさ』
「日向……」
『同じ高校に行く為に杏菜の受験勉強を妨害する怪人モードなのである!』
「……そうだね。それも良いかもしれないね」
胸の内を話したり、時には関係のない話をしたり、明日の授業はどうだとか、来年の話をしたりとか、まるで隣にいる様に好きなだけ話した。
姉との時間が減った分だけ、学校外の時間は口数も以前よりは減っていた反動なのか、ただ、ただ、誰かと話をしたくなっていた。日向から誘った事だが、途中から若葉の方がいっぱい喋っていたほどに。
姉は今日もどこかで元気で、天気の良い夜は虫の声と車の音が命を奏でて、日向の声が照らして、両親の生活音が時折聞こえる、なんて事ない日を詰め込んだ様なその時間が、若葉は不思議と贅沢な事にすら思えた。
こんな日々が続いて、お姉ちゃんがまた若葉の頭を撫でて、子供の頃はお姉ちゃんにベッタリだったねと親に掘り返されて、恥ずかしくなる様な穏やかな日が訪れる未来。そんな未来を予約出来るのならば、勉強だって家の手伝いだって、簡単すぎるほどだ。そうなれば良いと若葉は思っていた。
しかし、邪神とは関係のない、ただの人間同士の歪みであっても、それは大きなうねりを起こしてしまう。少なくとも、当事者の人生にとっては──




