第107話:彼の呼び声
地面に半ばまで埋まったビルの残骸の中で、少女は膝を抱えながら、窓から見える空を眺めていた。黄昏色から極彩色に変わる空、太陽に見える二重の月。元の世界にいた頃とはかけ離れた光景を、少女はどこか他人事のような目で見ていた。
少女は孤独だった。元の世界にいた頃も、自分を繋いでくれる人間は悉くいなくなっていった。異世界の方が簡単に人が死に、衣食住も安定しないのだから、こちらの方が良いってわけでは無論なかったが、元より居場所を持てなくなった少女にとって、どこであっても大きくは変わらなかった。
「眠れない?」
だが、そんな少女を守る存在が側に居た。血の臭いがいつでも付きまとう者だったが、この世界でそれを知る者ならば、誰もが彼の隣が1番の安全地帯だと思うだろう。
「……勇者様。いいえ、大丈夫です。少し考え事をしていただけなので、目をつぶればきっとすぐにでも眠れますよ」
勇者と呼ばれている少年は、この世界の中にあってもなお、少女にも安心感を与えていた。彼の実力は助けられた時に目の前で既に見ているだけに、疑いもなければ不安もない。
「考え事か。考える事を止めないのは素晴らしい。だが、自分を苦しめる様な考え事のみを繰り返すのは良い傾向ではない」
「……そもそも、眠る必要すら私には分かりません。私、何でまだ、しがみついてるんでしょうか。生に」
膝に爪を立て、下唇を小さく噛む程に、血の代わりに後悔の記憶が滲む。もっと強ければ母を支えて生きていけた。もっと強ければ兄に2度目の死を味合わせる事などなかった。
故に、生まれた生への諦観と死への羨望。しかし、彼女が口にした様な疑問を抱きながらも、少女は彼が近くにいる事に安心感を覚えているのは何故か。それもやはり、彼は強いのだと確信していたから。彼は突然いなくなる事も、死んでしまう事もきっとない。そう思わせるだけの強い使命感と純粋な力の2つがあったからだ。
それ故に、内容に反してその言葉は彼女なりの甘えがあったのかもしれない。思わず投げかけた疑問に言った本人が口をつぐみ、出来れば聞かなかった事にしてほしいのか、俯いてしまう。
しかし、少年はそんな様子を見たからか、彼女の前で腰を下ろして視線を合わせる。
「複合的な理由があるのは察せる。この世界の環境、元の世界の環境、人との縁、体質。一種の呪いの様に、生への諦観を引きずり出す」
「分かっています。そんな考え方しちゃダメって言いたいのでしょう?」
「──人による」
「ふふ、否定なさらないんですね」
「俺は他者に生きろと言葉をかけたい。だが、どうすれば生きていきたいと思えるか、そこを俺が無責任に口にして良い場所ではないだろうから」
「なら、放っておけば良いのに。貴方にはやるべき事が大量にあるのでしょう?」
「そんな顔をした君を1人放って行くのは、勇者のあるべき姿ではない」
「……」
「加えるならば、君を生かそうとした者、楠木誠也の遺志を守ってやらねばならない。君もそう感じているのではないか?」
楠木誠也、その名前を出された瞬間に、少女の表情はまた強張る。
「だって、私にとってあの人は小さい時の、記憶も曖昧な頃の人だったのに、私の為に命を賭けたんですよ。せめて、覚えていなきゃ、私ぐらい知っていなきゃ、報われないじゃないですか……ッ」
少女の震える声は徐々に激情に押し負け、啜り泣く声だけに変わってしまう。声をあげて泣くのではなく、それが彼女の理性であり、それが今の彼女の限界だった。外の化け物達に気付かれないように、勇者に手間をかけさせないように泣く事すらも出来る限り抑制しないといけない。
そんな彼女を見ながら、勇者はただただ不憫だと思った。感情すらもこの世界の中では、自由にさせてもらえず、生命と秤にかけなければいけない。これを理不尽とせずして、何を理不尽と思うべきなのか。
彼女が声をあげて泣けるくらいに頼ってもらえたら良かったが、彼の実力を信頼していても、彼女の性格がそれを許さなかったのだろう。ある種の律儀さなのか、あるいは彼もまたあくまで人間だと考えてくれているのか。
「兄さん……誠也兄さん……ッ!」
勇者はただ少女の隣に腰を下ろす。今はそれしか出来る気がしなかったのだ。言葉で伝え、時には解放し、与えられる事は多くあるが、この場合だと言葉の力に頼ることは出来なかった。
「俺は死なない。いや、死ねない。だから、少なくとも今は安心して泣くと良い、ミア」
*
(そうだ、何故忘れていたのだろう)
ミアから兄の話を聞いた時も、当時の葵には本当に知らない人だったが、今ではそれが嘘の様に聞いた当時の情報が脳内で掘り起こされる。
彼の中で今掘り起こされた記憶は確かに|葵のものであり、彼自身の物になった。《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》
「あ、あのぅ。滝沢さん?」
怪訝そうな顔を浮かべながら、葵の名前を呼ぶルイ。葵が気付いていなかっただけで、これで3度目ぐらいは呼んでいた様だが、今ようやく気がついた葵は彼に視線を向ける。
「少し懐かしい気持ちになってただけです」
「はぁ……」
「しかし、何故彼がわざわざ俺に?」
「中を見たら分かるんじゃないですか?」
それもそうだと手記を開く。予想していた事とはいえ、中のページはまばらで、辛うじて面影だけでも残してる箇所も引き裂かれた跡がある。何か不都合があったのか、ただ異形や魔物に運悪く目をつけられたのかまでは分からない。
それでも、葵は読める範囲から情報を得なければならない。あるいは、パズルのピースの様な物なのだと思えば、情報の引き出し方の手はいくらでもある。
「読めそうですか?」
「この世界に来てからの日記みたいな感じの様ですね。途切れ途切れではあれど、気になる事を書いてます」
「どれど……いえ、やっぱり見るのはやめておきます」
魔導書と違って、呼んだ瞬間卒倒する様な物でもなく、本当にただの手記なのだが、ルイからしたら一括で得体の知れない物という判定になったらしい。
アマゾンの中で見た事のない生物に噛まれて生死の境を彷徨った後に、大蛇の扮装をした人間が突如として前に飛び出て来れば、いやでも警戒してしまう様に。もっとも、アマゾンでなくともそれは警戒して然るべきだが。
ともあれ、これで大丈夫だと言っても不安は拭い切れないだろう。葵が現れ、葵に渡すまではメモの意味もいまいち分からなかったはずなのに、手記の中身を見なかったのは律儀さの中に、その得体の知れなさに対する不安があったのは間違いない。
葵はそれ以上言及せずに、書物の中身に視線を落とす。葵が言った気になる内容についてだ。途切れ途切れであれど、ある程度前後は補完が可能な部分なのが幸いだった。
『ミアにとって自分は幼くして亡くなった兄らしい。自分にとっては、記憶の中と変わらない妹だった。間違えるわけがない、ミアはミアだ。大人しくて、優しいけれど頑固な妹だ。なのに、彼女にとって自分は本物とは言い難い存在らしい。何が起きている?この世界はどうなっている?世界よ、我儘を言わないで、ミアをちゃんと家に帰してやってほしい。そこにミアの兄がいなくとも──』
(先代であるか、俺であるかの食い違いならよくあったけれど、この食い違いは明らかにおかしい……)
誠也の勘違いではない事は先程思い出した記憶、その中にあったミアの反応から見ても証明されている。
だが、他にも死んだはずの人間が死んでいない状態で姿を現す事例をまだ見た事がない。例外が働いたという可能性もゼロではないが、先代の頃に起きている事例である点も何か大きな意味があるだろう。
(先代の頃……多くの人が魔石となって船の核になる前か。先代の時代とその後で人を分ける要素にもなるか)
手記の主である楠木誠也の証言から考えた時、そうとも考えられるという域は既に超えている。加えて、この事を含めた彼の身に起きたことをわざわざ勇者に伝える意味を思えば尚更に。ミアの兄であったのならば、虚言ではないことも確かだ。少なくとも、葵からすればそれだけで信じるに足るだろう。
(世界と世界を繋ぐ、そんな事が出来るリンドの例があるから、異なる時空があるとかって話もあるのかな?壮大な事だけど……でも、それを俺が把握する事でどんな関連が──)
そう考えながら、ふとメモと目が合う。誠也自身の書いた物だとしても、それがミアの手にあるのではなく、ここにあるという事は誠也がどこかのタイミングでこれを置いていったという事になるだろう。それも、ミアが知らない時に。そうでなければ、彼女自身の手で彼の遺品を必ず葵の手に渡そうとしていただろうから。
故に、湧いた疑問がある。
「ルイさん、この本はどこから見つかったんですか?」
「これは調査隊という方々が持ってたらしく、その方々のご遺体からミゲルさんが──」
「調査隊!?」
「は、はい!お知り合いなんですか?」
「仲間、なんです。俺自体ちゃんと顔を合わせた事もないんですが、生きていたら……良いなと思っていたんです……」
しかし、遺体から回収したということは、そういう事なのだ。葵は自分の目の前で自害した調査員の事を思い出し、痛みを我慢する様に目を閉じ、しばしの沈黙をしたが、それは自然と黙祷の様になっていた。記憶がどうであろうと、立場がどうなろうと、人の死には悼みが自然と出てくるのは、葵には確かな故郷の積み重ねがある証拠だった。
ルイはその様子を見ながら、葵にとって決して軽いことではないのはすぐに理解出来た。それだけに、自分から出せる情報が多くないことが少し申し訳なく感じ、眉を下げる。死んだ誰かに報いる方法も、自分達を守ろうとしている少年に対する礼も、先にここにいる人間として出せる情報こそが全てであろうから。
「……すみません」
「え?」
「あまりお力になれないものですから」
「いいえ、ルイさんが謝る事では。むしろ、これをわざわざ渡しに来て下さったんでしょう?その時点で俺にとってはすごく力になってます。感謝しかありませんよ」
「そう言って頂けたら幸いなのですがね。日向さんもきっとそうだったと思うんですが、僕だってバツの悪さを感じていますから。年下の子が自他の命に気を張り続けないといけないなんて……なんか、不健全な状況じゃないですか」
「そう思ってくれる人がいるってだけで、俺はまず十分ですよ。確かに不健全な状況かもしれませんが、誰かがやれないといけない事です。今はそういう時で、俺が持つ事の出来る重荷というなら、俺はそれが良い」
「それで良いじゃなく、それ“が”?」
「はい。俺みたいなのが人の力になれるって事が嬉しいので」
「はぁ……」
「それに、皆さんの身に何かあってほしくないが俺の本音ですから!」
「さ、最近の高校生のメンタルどうなってるんですか……」
「まぁ、つまり俺は大丈夫なので、ルイさんはルイさんでしっかり心身を休めて下さいね。そうする事に罪悪感を覚える必要はありません。あんな事が起きた後なんですから」
「ありがとうございます。でもそれは滝沢君もですからね。目を離した隙に誰か死ぬ、なんてすぐに何度も起きてたまるかって事ですから」
そう言い、腕にかけていた布も畳んで差し出す。葵がそれを受け取ると、ふわりと花の香りがして目を丸くする。
「アーリアさんからです。貴方に渡しておいてほしいって、身体を冷やさない様にと仰ってました」
「アーリアさん……出来れば俺自身からもお礼を言いたいですが、感謝していたとお伝えして頂けますか?」
「お任せ下さい。それぐらい軽いものですから!では、自分もそろそろこれくらいで。話し込んでは警戒するのもし辛いでしょうから」
「何から何までありがとうございます。出来る限りしっかり休んでください」
返事の代わりに小さく手を上げ、ルイはその場から立ち去る。彼と話していた時間以上に、経過した時間を多く感じた。手記の影響か、この場所の影響か、それが何か葵の中で共鳴したからなのか。
どうあれ、自分がここに来た意味がより明確になった事が何よりもの成果だろう。勇者の滝沢葵を構成する上で必要なものがまだ欠けている。ここではそれを取り戻す、あるいは葵というデータでロードし直す様なものだろう。
(大丈夫ではない感じが、妙な不安があるけれど、今更やっぱりナシなんて出来ないし、リンドの夢の真相もそれじゃ分からないままだ)
こんな不安は初めてではない、早々に勇者だと言われた時も、先代と重ねて見られた時も、同じ不安はあった。だが、自分の望む形など、成すべき事と比べれば葵からすれば些事だった。1番手元にある、捨てやすい物は彼からすれば私情なのだ。
故に、これも困るほどの事ではないと一旦置いておき、この場所における問題に目を向ける。当然、殺人が起きた後となればすぐに尻尾を出すわけも、活動するわけもない。
「人に化けて、人の中で生きる。つまり人間に対する敵意や殺意をコントロール出来るなんて、そんな事があるのか?」
これまで遭遇した魔物は使徒達の指示に従うが、紛れるという習性はなく、自我らしい自我を感じられなかった。この世界に住む生物だとかに近く、人間じみた知性とはまた別のところにあったように思えた。
ここで、疑問となるのはベルタから聞いた眷属という文言。異世界に住む現地の生物たる魔物も、元人間の変異体の異形とはまた異なるものに思える存在。邪神の眷属、側で仕える者。それがどんな思考をしているのか、想像出来ない。出来ないからこそ恐ろしい。また後手に回る可能性があるのでは、と。
「だけど、俺が来た事で動き出した。勇者がいる事で動き出したと考えれば、俺の精神的な打撃を与えたいなら周囲から殺すし、そうでなく俺という障害を減らしたいなら俺を狙う。でもどちらかはまだ絞れない──」
ならば、絞る手段を用意したら良い。葵と眷属、両者共にここに来た理由になる重要な物があって、それの入手と、それそのものの有無がまだ判明していない物がある。あとは流言を上手い事撒く方法だが、葵よりは女性である事からか警戒されていないベルタに頼る手がある。
無論、彼女もまた同様に例の物を探している様だが、葵がそれの正体すら分かっていない事は既に彼女は知っている。それを考えれば、彼女に頼る事でまずいことは起きない。強いて言うなら、困った時にただ頼る様な図式になるのは、葵的に申し訳なく、格好悪さを感じるのが難点か。
敵対する立場で、彼女の望む事が達成されると陣営的に良くないのは前提として、彼女に対して葵が出来る範囲の恩返しはしたいと感じていた。
彼女がとにかく口にし、行動しているのは葵への無償の奉仕と信頼と、愛情。ハニートラップにしては彼女のそれに性の色はなく、自分の思うままの感情を伝われ伝われと必死に伝えている様な、幼さも思わせる純粋さがあるのだ。そこの情に頼る以上は不誠実なことは避けたかった。使徒である前に、彼女は人なのだから。
「うん?」
そう考え事をしていた時、視線を上げると誰かが階段を上がっていく様子が見えた。眠れない誰かが気晴らしに散歩でもしているのかと思ったが、葵に会いに来る以外では事件の後なのもあって、部屋周辺から離れる様子は見られなかった。
だからこそ、普通に見える行動がやけに目についたのだ。周囲に、そして相手に気取られない様に転移を介しつつ身を低くして接近する。
(背が低い……?誰だ?)
ミゲルやルイやアーリアは葵より背が高く、ニントは姿勢が悪いが葵と同じくらい。日向と若葉は日本の女性の平均身長より少しだけ上ぐらいで、ベルタもそれくらいに見える。
しかし、葵が見ている相手はそれらと比べて遥かに背が低い。まるで、歳を取り、腰の丸まった老人の様な──
(老人?)
1人だけ、1人だけ思い当たるが、最もあり得ないから除外したはずの人間だ。
しかし、そう考えてみるとシルエットが一致するのだ。そうだ、あれではまるで老婆ではないか。
「っ……──!?」
思わず出そうになった声を堪えて、その相手の出方を伺った。
気付けば、老婆の首はぐるりと葵の方を真っ直ぐ捉えていた。そして、目が合えば確信に変わる。エーデルだ。あの老婆はエーデルなのだ。
「なっ!?」
「ここに安寧はない、待つのは残酷な死のみ」
「貴方は、貴方は何者だ!?」
「運命じゃ、運命を受け入れるのじゃ!地上へ逃げた男の様に!!」
「!!」
「ひゃは、ひゃははははははは!!」
そして、鬼ごっこでもするかの様にいっそ無邪気な笑い声を高らかにあげながらエーデルは走り抜けていく。
「エーデルさん待っ──」
「う、うわあ゛あ゛あ゛ああぁぁぁ!!!」
エーデルを追いかけようとした途端に、今度はこの異常に連鎖するように悲鳴が東部屋から放たれたのだ。恐らくこの声はニントだろうか。部屋の外にまだいたルイや日向は怯えた様にその場に立ち止まっている。
思わず足を止める葵、しかしその隙を見てどこかへと走り抜けていく老婆。葵は視線を老婆と部屋の方で交互に向けたが、彼等の身に何か起きてしまってからでは遅い。まだ間に合う可能性を考えて、葵は東部屋の方に駆けていくしかなかった。
(くそっ、くそ!!何が起きてる!?何がどうなって、死体のはずのエーデルさんが動き回ってる!?)
葵の脳内で笑い声がこだまする。老婆の呪いの様な笑い声なのか、あるいは邪神の嘲笑なのか、この時には分かるはずもなかった。




