第70話 失敗
無数の蛇が、まるで黒い波のように森の中をうねりながら高速で移動していた。
その大きさはまちまちで、一般的な細身の蛇から、樹木のように高さ3メートルを超える巨大なものまでが、ざらついた鱗をこすり合わせる音を立てて蠢いている。
その中の1匹が、漆黒の口を大きく裂いて私に飛びかかってくる。
私は冥界神から与えられた加護『拒絶』を発動し、大蛇の攻撃エネルギーをそのまま透明な壁のように跳ね返した。
空気を震わせる衝撃音と共に、巨大なモンスターは弾き飛ばされ、鈍い音を立てて地面に叩きつけられる。
『拒絶』は、私に敵意を持った相手からの攻撃を、そのまま相手に跳ね返せる能力だ。この力で巨大な大蛇を退治できたが、代償として心が削られる。
私の『存在の力』をエネルギーにして発動しているからだ。
私と心が繋がっている死神のディーによると、『拒絶』は比較的少ないエネルギーで行使できるらしい。
私のもう一つの能力、人を自在に動かせる『支配』はエネルギー消費が激しいため、使うなと言われている。
大蛇を倒すには『拒絶』を使うと決めていたが、エネルギー消費が少ないとはいえ、巨大な大蛇の体当たりを跳ね返すには相応の力が必要だったようだ。
胸の奥から、冷たい水が流れ出すように何かがごっそりと抜き取られる感覚。
魂の薄皮が剥がれていくような、確かな痛みが走る。
心から何かが削られたのがはっきりと分かった。
***
私は失敗した。
今立っている森の周囲には、無数の巨大な大蛇がしゅうしゅうと舌を鳴らし、私に狙いを定めて襲いかかろうと虎視眈々と狙っている。
彼らの冷たい瞳が、闇の中でぎらぎらと光る。
その視線が、まるで獲物を追い詰める捕食者のように、私を絡めとる。
なぜこんなことになったのかというと、私が失敗したからだ。
今回の旅は途中まではうまくいっていたのに、最後の最後で判断ミスをしてしまった。
旅の始まりは、神殿から手紙が来たことだった。
内容は、神様へ祈りを捧げてほしいという依頼で、私に王都への移動と滞在の話が持ち上がった。
ライザさんから王都には美味しい料理屋さんがたくさんあると聞いていたので、行くことにした。
私が下見をして、お店の味や雰囲気を確かめてから、将来アレス様と一緒に店巡りをする。そんな壮大な計画を胸に秘め、王都行きを決意したのだ。
王都行きは成功だった。
護衛の皆とも仲良くなれたし、新しい友達もできたし、お店の料理も美味しかった。食べ過ぎて太ってしまうのではないかという心配も、リリムと料理を半分こしながら計画的に食べることで回避できた。
食事のスケジュール管理をゼニアスさんとライザさんに任せたので、失敗はなかった。
神殿ではちゃんと神様にお祈りできたし、私が聖女だという誤解もしっかり解いておいた。やるべきことと、やりたいことはちゃんとできた。
なぜか私を殺そうとしていた人たちもいたが、まったく怖くはなかった。
攻撃される前にディーが教えてくれたし、私自身も人の悪意には敏感だ。
攻撃は『拒絶』を使って簡単に跳ね返せた。
3人の人間の攻撃を跳ね返すくらいなら、ほとんどエネルギーも使わない。
その後で神様に日頃の感謝をお祈りして、私は役割を果たした。
それから、友達になったリィクララ様やローレイン様のお父様たちから、ぜひ領地に来てほしいと招待された。
人から必要とされたことが嬉しくて、私は二つ返事で「いいですよ」と承諾した。
承諾してから、アレス様と合流して食べ歩きをするのが少し後になってしまうと気づいたが、もう引き受けた後なので仕方がないと諦めた。
お店屋さんが逃げたりはしないだろうし、焦ることはない。
***
リィクララ様のお父様が、私を亡き者にしようとしていたことには驚いた。
ルーズベリル公爵から悪意や憎悪はまったく感じなかったので意外だった。
しかし、リィクララ様がその計画を未然に防いでくれたので助かった。
流石はリーズラグドの叡智、持つべきものは優しくて賢い友達だ。
訪問先のルーズベリル領で、リィクララ様と一緒に偉い人に挨拶をして回った後、防衛戦争を戦った兵士たちの前で挨拶と感謝を述べ、彼らの武勇を称えた。
そこまでは何事もなく進んでいたのだが、私が慰問した先の国境付近の駐屯地に緊急の伝令がやって来た。
伝令兵の顔は土気色に染まり、全身から汗を滴らせていた。
魔物の大軍がルーズベリル領に押し寄せているというのだ。
***
魔物の大軍はルーズベリル領の西から向かってきていた。
迫りくる魔物の群れは、メデゥーサ率いる大蛇の群れだ。
ルーズベリルの西にはレトナーク平原が広がっている。
レトナーク平原は広大で、その中に中小合わせて9つの国がひしめいている。
レトナーク平原のさらに西に、大国のチャルズコートがある。
メデゥーサが率いる大蛇の群れは、レトナーク平原にある都市を一つと、そこからここまでの村と町をことごとく滅ぼして、まっすぐルーズベリルに向かってきているらしい。
大規模魔物災害――
大型の魔物は街を滅ぼした後、聖女の結界へ向かう。
本来ならメデゥーサの群れは、西の大国チャルズコートか、その北にある北方の大国へと向かうはずだった。
しかし魔物の群れは、聖女保有国へは向かわず、聖女の結界がないリーズラグドを目指している。
おそらく何者かが、こちらへと誘導しているのだろうという話だった。
***
「これが、お父様の策略――」
リィクララ様が犯人を特定した。
その声は、苦しげに震えていた。
彼女の表情には、悲痛な色が浮かんでいる。
だが、リィクララ様のお父様はとてもいい人だった。
私のことを殺そうとしていたらしいが、私が死ぬような事故は一向に起こらない。
きっと、自分の娘と友達になった私を殺さないでおこうと思い直してくれたのだ。
そう思っていた。
それなのに、なぜこんなことを――?
***
――そうか!
この魔物の襲撃が、私を殺すための策略なんだわ!
でもそのため自分の領地や娘までも犠牲にするなんて、そんな悲しいことをさせてはいけない。私は拳をぎゅっと握りしめ、唇を噛んだ。
私は決めた。
メデゥーサとは私が戦う。
ディーに確認すると、私の存在の力の半分で勝てるだろうと言っていた。
……半分くらいなら、いいだろう。
「その魔物の群れは、私が退治します! 心配はいりません、私には神様の加護があるのです」
そして、反対した人を説得して押し切り、魔物を退治してやろうと、一人でこんなところにやって来てしまった。
一緒に来ようとしてくれた人たちを押し留め、「一人で大丈夫ですから」と大見得を切って――
***
私は、格好をつけたかったのだ。
友達に良いところを見せたかった。
「半分くらいなら、きっと大丈夫」と、軽く考えていた。
その結果――
襲い来る大蛇と戦うことになり、少しずつではあるが、自分の存在が減っていく。
それを実感すると、全身の血が冷えるような怖くて仕方がない感覚に襲われた。
心の奥底から湧き上がる、耐え難い喪失感。
このままでは、私が私でなくなってしまうような気がした。
暗殺者に襲われても、まったく怖いと感じなかった。
リィクララ様やローレイン様のような叡智の人たちから「すごい」と褒めてもらえて、図に乗ってしまっていた。
スザンヌさんのようなしっかりした人から「ソフィ様ほどの聡明な方が大丈夫と仰るのですから、心配はありません」なんて太鼓判を押され、得意になっていたのだ。
皆に「すごい」と言われて、自分だったら魔物の群れもどうにかできると軽く考えた。
だから私は――
失敗した。
この、どうしようもない恐怖こそが、私の未熟さの証拠だ。
***
迫りくる大蛇に対して、『拒絶』の発動が遅れた。
心を削られていく恐怖に、ほんの一瞬、躊躇が生まれたのだ。
どれだけ強力な能力を持っていようと、それを扱う人間が使いこなせなければ意味はない。
私の目前に、巨大な影が迫る。
腐敗した土と蛇の生臭い匂いが鼻腔を衝き、鋭い牙が、光を反射してきらめいた。
次の瞬間、私は自分の意思とは無関係に、空を舞っていた。
私の身体は、風を切り裂き宙を飛んでいる。
アレス様の腕に抱かれて――。
大蛇に丸呑みにされる直前に、一陣の風のように駆けつけたアレス様が私を抱き上げて跳躍し、まるで空を走るように飛んでいる。
私はアレス様に、片腕で「お姫様抱っこ」されていた。
彼の腕の筋肉が、強く、しかし優しく私を支えているのがわかる。
彼の胸からは、太陽のような温かさと、心地よい安心感が伝わってくる。
そして、アレス様のもう片方の手には、銀色の光を放つ、見慣れた剣が握られている。
着地と同時に襲いくる、大中小のさまざまなサイズの蛇たち――
アレス様は片腕で剣を振るい、その全てを一振りで蹴散らしていく。
大蛇の巨体が、まるで紙切れのように吹き飛び、肉と骨が砕けるような鈍い音が響いた。あの大きな蛇を、よく一回で斬れるなぁと、私は感心してしまった。
感心している場合ではない。
ピンチに駆けつけてくれたアレス様に、私は無茶をしたことを謝ろうとしたけれど、咄嗟に言葉が出なかった。
――なんて謝れば、いいのだろう?
久しぶりに会ったのだから、その嬉しさを伝えるのが先だろうか?
どちらが正解なのか分からずに、私の口からは何も言葉が出てこない。
こんな時でも、私は相変わらず間抜けなことしか考えられない。
やっぱりな――
前々からうっすらと、そうではないかと思っていたが、今、確信した。
私は頭が悪いのだ。
ローレイン様は私のことを「底が知れませんね」なんて言って褒めてくれていたけれど、それは、ただ頭が悪くて、底が浅すぎてよく見えなかっただけなのだ。
馬鹿な私が、アレス様になんて声をかけるか迷っていると――
アレス様から優しく――
「遅くなって済まない。怪我はないか、ソフィ――?」
そう言って、気遣ってくれた。
その声は、森の喧騒の中でもはっきりと、優しく響いた。
私の名を呼ぶ声が、凍り付いていた心をゆっくりと溶かしていく。
だから、私は――
「……はい」
というだけで、よかった。
アレス様にこうして抱きしめられていると、心に力が湧いてくる気がする。
大きな蛇を吹き飛ばすのに使った分の力が、あっという間に回復した気がする。
不思議だなぁ、と思った。
まるでアレス様が、私の中の減ってしまった部分を埋めてくれるみたいだ。
それから――
私のことをじっと見つめるアレス様から目を逸らして、その胸に顔を押し付けた。
なんだか知らないが、ちょっと照れ臭かったのだ。
アレス様の体温がじんわりと伝わってきて、彼の心臓の鼓動が耳に心地よく響く。
辺りには相変わらず大きな蛇がたくさんいて、この先には親玉のメデゥーサがいるのだが、こうしてアレス様に抱かれていると、不思議ともう怖くはなかった。
まるで、世界で一番安全な場所にいるような気がした。
彼の腕の中では、どんな巨大な魔物も、私には届かない。




