クロヴィス・グレゴワール
「お湯沸かしますか!? お茶淹れましょうか! 薪は足りますかっ!?」
環境が変わった興奮のせいか、休めと何度言ってもせかせか動き回っていたラピスをようやく湯浴みさせたクロヴィスは、ふう、と大きく息を吐き出した。
クロヴィスは普段、日常生活にあまり魔法を使わない。
だが風邪をひかせたくないので、ラピスの濡れた巻毛に温風を送って、手早く乾かしてやった。その頃にはラピスも、こっくりこっくり舟をこいで、魔法を使われていることに気づいていなかったが。
清潔に整えて暖炉のそばに置いた寝椅子に落ち着かせると、あっという間に眠りに落ちた。疲れていないはずがないのだ。
しかし、子供の体力の凄まじさを目の当たりにした日でもあった。
自分にもこんな時期があったろうかと記憶を辿っても……
(俺は昔からひねくれてたな)
そんなことしか思い浮かばない。
――森でラピスが手をつないできたとき、内心、ものすごく驚いた。
彼の手が見た目以上に荒れていることに、ドキリとしたせいもあるが……もうひとつ、理由がある。
クロヴィスには子供のときですら、誰かと手をつないだ記憶がない。
隙あらば脱走を試みる子供だったので、悪態をつく乳母や家庭教師などに、引っ張って連れ戻されることは多々あったけれど。
クロヴィスの曾祖父は、優秀な聴き手だったという。
当時の国王を狙った暗殺組織を、古竜の歌を解いたことをきっかけに摘発した曾祖父は、王と国を救ったとして伯爵位を授けられた。
一族で『大』魔法使いの称号を得ているのは、クロヴィスと曾祖父だけである。
その曾祖父の息子である祖父は、魔法の才には恵まれなかったが、領地の運営手腕で高く評価された。そうして成した財産で、慈善事業にも貢献した。
(問題はあいつだ)
父、スティーヴン。
曾祖父のような魔力も、祖父のような実務能力も、努力する気もない男。
偉大な肉親と比較されることを嫌忌し、賭けごとや怪しい事業への投資で成果を出そうとした。
資金はすべて親の財産頼り。問題を起こしても彼らの虎の威を借る。その繰り返し。
父の最大にして唯一の功績は、大金持ちの娘を嫁にしたことだろう。
クロヴィスの母ジーンとの結婚がなければ、財産を食い潰し、とうに破産していた。
父にも同情の余地はあるのかもしれない。
だが憐れんでやる気はまったくない。
なぜなら父は、満たされぬ承認欲求と傷ついた自尊心を、子供で晴らそうとしたからだ。
愚鈍なくせに見栄っ張りで、己を高く見せたがる彼は、優秀な跡継ぎが生まれることを熱望した。
子供の栄誉が、親の格を上げると妄信して。
しかしいざ現実に、幼少のみぎりから古竜の歌を解き、何をやらせても優秀な、クロヴィスという息子が生まれると――
父は、息子を虐待した。
周囲の評価は「さすが、あの曾祖父と祖父の血を引く子」であって、当然だが父親の評価が上がるわけではない。
むしろ「十やそこらの息子と比べてすら劣る」と嘲笑したのが現実だ。
それでも父は悪あがきして、
「自分が一流の教育を施したからこそ、息子は優秀なのだ」
そう主張し始めた。
一般教養、魔法学、剣術、馬術、舞踏に楽器演奏。朝から晩まで、各分野の教師たちを息子に張りつかせて。
そんなことをせずともクロヴィスは、とうに各分野に秀でていたというのに。
クロヴィスは早々に、父の病的な他者評価への妄執に嫌気がさしていた。
彼自身は父の真逆で、他人の思惑より自分自身が求めることに――竜と、竜の歌に関する研究に、すべての時間を費やしたかった。
子供とはいえ納得いかないことは拒否したし、説教してきた教師と口論したことも数知れない。
すると彼らは幼い生徒にやり込められた悔しさから、「ご子息は人間性に大変問題がある」と父に告げ口するのだ。
父からは幾度も体罰を受けた。
ものごころつく前からずっと。
「親に恥をかかせる、出来損ないの不孝者」
そう声を荒らげて、気がふれたように打擲を始めると、母が泣いて止めようと決して止めない。
――母は泣くだけで、身を挺してまで息子を庇う気はないことを、父もわかっていたのだろう。
クロヴィスの躰には未だ鞭の痕が残る。
さらには食事抜きで監禁されるのも、いつものことだった。
クロヴィスは、自分の性格に難があることは自覚していた。大人たちの目にはさぞ、反抗的で生意気と映ったろう。
だがそれを暴力の理由にするのは許せない。
だから、自分の身は自分で守ると決めた。
独学で竜や魔法について研究し、躰を鍛え。
浅い教養で威張り散らす教師が来ようものなら、より高い教養で追い払い。
理不尽な武術訓練を強いる教師は、魔法で吹っ飛ばした。
その頃には身長もぐんぐん伸びて、十二のときには――そう、今のラピスの年には、父の身長を超えていた。
閉じ込められても扉を破壊する腕力がついたし、食事を抜かれれば両親の食卓もクロスごと引っ繰り返して、彼らの食事も抜いてやった。
おかげで虐待されることはなくなった。
卑怯者たちは弱者しか標的にしないのだ。
反撃できない相手を選んで暴力を振るう、そんな父や教師たちを、改めて軽蔑した。
両親がクロヴィスに、化け物でも見るような目を向けるようになった頃。
気づけば周囲も、クロヴィスを恐れるようになっていた。
無理もない、と今ならわかる。
クロヴィスの家は一応は上流の家柄で、そういう家庭の多くは、家長が絶対の権力者である。妻たちの仕事は、優雅に美しく在ること。
基本、教育も育児も人任せで、家長が選んだ乳母や教師には大きな権限が与えられ、躾けと称して子供を打とうがひどい言葉で傷つけようが、「立派な人物になるための教育です」で許されるのが常。
ましてクロヴィスの父は自ら息子を虐待していたのだから、雇われた教師らが主に倣うのも、当然と言えば当然だった。
だがクロヴィスはそうした『常識』をぶち壊し、ついでに必要ならば皿でも扉でも壁でも壊してやった。
好きでやっていたわけでは断じてないが、毒には毒を。暴力をふるう権利があると思っている者たちには力で対抗して、何が悪い?
ドラコニア・アカデミーへの入学が決まったのを機に、クロヴィスは家を出た。
以来、一度も帰っていない。
貴重な古竜の歌を次々集めて、報奨金で学生のうちから莫大な財を得たから、生活に困ったこともない。
しかしアカデミーで、ひと嫌いに拍車がかかった。
アカデミーはクロヴィスが期待していたような場所ではなかった。
そこは歌など解けぬ者が我が物顔でのさばり、権力に固執し、聴き手の能力を搾取する場所であり、あらゆる欲と束縛の権化だった。
彼は全力で抗った。
結果としてアカデミーでも彼への罵詈雑言が増殖したけれど、痛くもかゆくもなかった。
――くだらない世の中だ。
理解する努力より批判する手軽さを好み、それが正しいと思い込んでいる者があまりに多い。
やがて決定的な事件が起こって、クロヴィスはアカデミーとも王族とも袂を分かつことになったのだが。
後悔はまったくない。
ようやく自由に、望むまま竜を追い、歌を解き、研究する生活を得たのだから。
……けれど。
『お師匠様は、どうしてそんなに親切で優しいのでしょう』
クロヴィスは、寝椅子ですやすやと可愛らしい寝息をたてる子供を見つめた。
暖炉の炎が金の巻毛と桃色の頬を、ちろちろと照らしている。
小さな手で何か抱いていると思ったら、雑記帳だ。落描きでもしろと半端な紙を綴じて作ってやったら、大喜びしていたのだ。
しわにならないよう、そっとよけてやると……
『アカネズミは冬の前に、ブナの実を何千個も集める』
と書いてある。森でクロヴィスが教えたことだ。
ふっ、と笑いがこぼれて、刺々しい過去の記憶が霧散した。
――まさか自分に、子供を引き取って面倒を見る日が来ようとは思わなかった。
竜の歌に導かれ、ブルフェルト街を訪れたけれど。
誰かと暮らすなんてわずらわしいことは、断固拒否する性格だったのに。
子供など大嫌いだ。
うるさくて礼儀知らずで、何も知らないくせにわかったような生意気を言う。実力もないくせに自己主張の塊。野猿くらいの認識だった。
ラピスに会うまでは。
ラピスの声は、ちっともうるさいと思わない。
彼が笑うと、こちらまで楽しくなる。
竜たちと心を通わせ、この年で易々と歌を解くラピス。
苺鈴草などよりよほど貴重な存在なのに、彼の周りの誰ひとりとして気づいていなかった。
ラピス自身が隠していたとはいえ、あのまま行けばこの稀有な存在は、無残に踏み散らされていただろう。
――昔、竜の勉強がしたかった。
もっともっと知りたかった。
けれど阻まれてばかりいた。
あの頃、自分の気持ちを理解し、あと押ししてくれる存在がいたら。そしたらどれほど、救われただろう。
そう思いながら、クロヴィスはラピスの髪を撫でる。
ラピスは、自分とは違う。
この子はひどい目に遭っても、優しさを忘れない。いっそ歯がゆいほど、相手を責めない。
優しさですべてが通用するほど甘い世の中ではないが、ならば全力で守ってやればいい。その上で――
「お前には、選ばせるべきかもしれないな」
ぐっすり眠る顔に囁く。
今、この世界に起こっている異変。
じきに必ず訪れる、変化のとき。
この子が何を選ぶにせよ、決して邪魔も強要もすまい。




