65.悲しみを超えて、愛実のピアノ
(悲しみを超えて、愛実のピアノ)
そして、楽しい給食の時間も終わっり、愛実はお昼休みに、少しでもピアノに慣れようと、数人の女の子たちと体育館にやって来た。
すると男の先生が何人かで、ピアノを舞台の上に上げようとしていた。
「先生、ピアノは下に置いてください!」
愛実は、男の先生に声をかけた。
「でも、舞台の方が、みんなによく見えると思って?」
一人の男の先生が言った。
「でも、大変ですから。それなら、体育館の真ん中に置いてください。それで、みんながピアノの回りを囲んでもらえれば、子供たちに近いほうが、よく響きます。その方がいいです……」
「そうですか……?」
愛実の言葉に促されて、先生たちは、ピアノを体育館の真ん中に置いた。
愛実は、ピアノに吸い付けられるようにピアノの前に座った。
前は、あれほど重苦しかったのが、今はウソのように、心がピアノを求めている。
愛実は、心の中を渦巻く音たちを静めるように、大きく深呼吸をした。そして、愛実は、ゆっくりソナタ『月光』を弾きだした。
「弾けるっ! 弾けるわ―!」
愛実は、心の思うままに、ピアノが響いてくれる。
そのことが、こんなに素晴らしいことだとは思っても見なかった。
しばらくして、愛実は演奏を止めて、もう一度大きく背伸びと深呼吸した。
愛実は、甦った音たちで渦巻く心と焦る体を落ち付かせた。
心と体、香奈に最後に言った言葉を、今度は自分に言い聞かせていた。
そして、愛実は心の歌声、そのままに鍵盤を叩きつづけて、演奏は最高調に達していた。
「アミちゃん……」と、不意にみゆき先生が愛実の肩を叩いた。
愛実は、ドキッとしてピアノをやめた。
「あっ、みゆき先生っ!」
愛実は、その懐かしい顔に微笑んで答えた。
「ピアノ、もう大丈夫のようねっ!」
「先生も、知ってたんですか?」と言いながら、愛実は回りの状況の変化に驚いた。
「あれ―、いつの間にみんな来たんですか?」
愛実は一瞬、背筋をピーンと伸ばして緊張した。
愛実が、ピアノに夢中になって弾いている間に、生徒たちはピアノを遠まわしにするように入場していた。
「アミちゃん、凄いわよ! 入り口の外まではみんな、がやがやと騒いでやってきたのよ。でも、アミちゃんのピアノを聴くや否や、誰に言われたわけでもなく、しーんとして黙って入ってくるの……。それに、物音を立てないように気を使って、静かに歩いているみたいなのよ。私、こんな生徒たち見たの、始めてよー!」
愛実はもう一度、生徒たちを見まわした。
「ね―え、凄いでしょう。待っている間でも、この通り、ず―とアミちゃんのピアノを聴き入っていたのよ。きっと、演奏に圧倒されて声も出ないんじゃ―ないかしら……」
「先生、ひど―い……」
「そ―よ。いつもは、いくら言っても静かにならない子達なんだから。やれば出来るのに、悔しいわっ!」
「先生、押さえて押さえて……」
「ま―いいわっ、アミちゃんなんか話してあげて……?」
「え―、私がですか?」
愛実は、もう一度生徒たちを見まわした。
生徒たちは、子供心でも愛実のただならぬ演奏に畏敬の念を自然に抱いたのかも知れない。
愛実は、その瞳に吸い寄せられるように話し始めた。
「みなさん、はじめまして。古賀愛実と言います……」
愛実は、香奈ちゃんのこと、ピアノが大好きなこと、まだ中学三年生であること。
愛実は香奈に話すように、生徒たちにも心安く話しかけた。
そして、愛実の蘇ったピアノの演奏は、生徒たちの気持ちを奮い起こさせた。
「やはり、グランドピアノでしょうかねー、前にもまして心に響くようですよ……」
校長先生が近くにいたみゆき先生に、その感動を話した。
「いえっ、きっと、今の彼女なら、ピアノは関係ないでしょう。音楽が生きているんですよ。生きて私たちに語りかけてくる。この前に聴いた演奏とは別人のような音の広がりを感じます!」
愛実の演奏は、トイレ休憩を交えて、あっという間の二時間で終わった。
そして、なかなか離れない子供たちのなか、更に一時間愛実は、リクエストに答えながら弾き語りをしたり、みんなと合唱したりと、時間の過ぎるのを忘れて子供たちと楽しい一時を過ごした。
そして、生徒たちが全員で見送るなか、愛実と静子は学校を後にした。
愛実は、民宿への帰り道、温かな風が二人の間を吹き抜ける。
ここは伊豆の海なんだと、今になって気づかされる……
「アミちゃん、今日はありがとう。大変な思いをさせちゃったわねっ!」
「いいえ、私、来てよかった。もっと早く来ればよかったと思っています……」
「そう言ってもらえば、叔母さんも気がらくだわ。今日、泊まって行く?」
「泊まって行きたいのは山々ですけど、レイにも正美ちゃんにも、みんなに心配かけちゃったから、早く帰って報告したいんです……」
「そ―ねー、明日も学校、あるしね……」
静子は、寂しそうにうなずいた。
「近いうちに、またレイや正美ちゃんを連れて、必ず来ますから……」
愛実は、静子の寂しい気持ちが、痛いほどわかっていた。
愛実は、民宿に着いてから、荷物を取るやいなや、帰りのバス停に向かった。
民宿を出て間もなく、武君が息を弾ませて駆けて来た。
「アミね―ちゃん、もう帰るのー! ピアノ聴いてもらいたかったのにっ!」
「ごめんねー、急いで帰らなければならないの。すぐまた来るから、必ず来るから……」
「きっとだよっ!」
「約束するっ! それまでに一曲でもいいから、自分の自信を持って弾ける曲を作っておくことっ!」
「そんな、まだ弾けないよ―」
「それなら、今日から練習よ! 今度、おねーちゃんが来るときまでに必ずよ!」
「うんっ、わかった!」
「よしっ、偉いぞ―! それと、香奈ちゃんにも、必ず毎日、聴かせてあげるのよ―」
「……、……」
武は、大きくうなずいた。
「じゃ―、見送りはいらないわ。香奈ちゃんのところに行って練習よっ!」
武は、何か不満そうに愛実を見つめていた。
そして、愛実は後ろ髪を引かれる思いで振り帰り、バス停に急いだ。
バス停から見える伊豆の海は、午後の日差しを浴びて、キラキラと光っていた。




